れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

そのスタイルでいこう:『オーラの発表会』

日本の現代文学でギャグ・コメディセンスがピカイチなのが綿矢りさ大先生。

『オーラの発表会』、めちゃめちゃ笑いました。

あらすじは以下。

「人を好きになる気持ちが分からないんです」

 

海松子(みるこ)、大学一年生。

他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手。

趣味は凧揚げ。特技はまわりの人に脳内で(ちょっと失礼な)あだ名をつけること。

友達は「まね師」の萌音(もね)、ひとりだけ。

なのに、幼馴染の同い年男子と、男前の社会人から、 気づけばアプローチを受けていて……。

 

「あんまり群れないから一匹狼系なんだと思ってた」「片井さんておもしろいね」「もし良かったらまた会ってください」「しばらくは彼氏作らないでいて」「順調にやらかしてるね」

――「で、あんたはさ、高校卒業と大学入学の間に、いったい何があったの?」

 

綿矢りさデビュー20周年!

他人の気持ちを読めない女子の、不器用で愛おしい恋愛未満小説。

 

集英社作品サイトより)

海松子は確かに他人の気持ちを読めないけど、他人の気持ちを読める人なんでいないですよね。読めないというより、推し量れないのが海松子なのです。

クラスメイトの口臭から昼間に食べた学食のメニューを言い当てることを特技とするような、結構デリカシーのない変わった女の子ですが、その失礼な感じが実に軽快な文体で面白おかしく描かれていて、声出して笑えます。

 

海松子の父は大学教授で弥生時代などの研究者で、母も歴史が好きで食卓に江戸時代の食事を忠実に再現したメニューを並べる人です。両親もなかなかパンチがある人だなぁと思います。

そんな両親に愛されて育った箱入りの一人娘・海松子ですが、家族にもクラスメイトにも一貫して敬語で話す描写からも「この子なんか不思議な感じ」と印象付けられます。

そんでもって将来の夢が教師で、現在は教育学部に通い、塾講師のアルバイトをしています。

 

これは偏見であることを承知していますが、やっぱり学校の先生になる人(なりたがる人)って変な人多いですよね。

私も教育学部出身ですが、私の専攻は教育学部のくせに教職がメインではない不思議なクラスだったので、周囲にも教員になった人はほぼいません(私ももちろん教育実習すらしていない)。

そのせいか、私の同級生はわりと常識的な人が多かったです。

 

でも、義務教育から大学に至るまで、出会ってきた先生は大体変な人だったなぁと思い出されます。どのように変だったのかを説明しだすと文字数オーバーしそうなくらいキリがないですが、全体的に浮世離れしてたというか、社会と隔絶されてる感じの人が多かったです。

そして、私はそういう変な先生と話すのがとても好きな子供だったので、用もないのに職員室や生徒指導室に入り浸っては、暇な(本当はそんなに暇じゃなかったかもしれない)先生を捕まえてニュースの話とか本の話とか将来の話とかをダラダラし続ける面倒な生徒でした。

 

***

 

海松子はバイト先の塾で中高生から好かれず、小学校低学年のクラスを中心に任されていました。

そんななか、夏期講習の人員不足で久々に中高生にも教えられるとなっていた矢先、複数生徒からの強い要望で授業を外されることになってしまった海松子。

彼女は落ち込み、ある日大学教授である父の授業をこの目で見てみようと思い立ちます。

 

他大学のカリキュラムをネットで調べて大教室の授業に潜り込んだ海松子が目にしたのは、ゲームやおしゃべりや居眠りばかりで全く授業に関心を持たない学生たちの中で、ひたすら淡々と授業を進める父の姿でした。

幼い頃から研究者としての父を誇りに思っていた海松子はショックを受けますが、授業の後に父の研究室に行き、バイト先の出来事と自分の将来について悩んでいることを父に相談します。

父は、学生に迎合しても、要望を聞き出せばキリがないこと、とにかく授業を続行しなければならない責任があること等を訥々と説きました。

思い悩む娘に極めて現実的なアドバイスをした父。それに対して海松子は・・・

頷きながらも、自分の受け持ちの授業なのに、父が街頭のビラ配りの人と同じくらいしか学生には期待していない事実に衝撃を受けた。この人は自分のしたいことしかしていない。私もそのスタイルでいこう。

 

綿矢りさ『オーラの発表会』集英社 2021.8.30)

「そのスタイルでいくんかい」と思わずツッコミを入れてしまいました。あー面白い。

このシーンからも読み取れますが、海松子って人の気持ちは推しはかれないけど、誰かを否定したり非難したりは基本的にしないんですよね。純粋な悪意はないというか。

 

だからクラスメイトや友人の萌音も海松子に対して「こいつほんと失礼だな」「変わってるな」「ムカつくな」と思っても、彼女のことを心の底から嫌ったりはしないんだと思います。

ムカつくけど悪気がないのはわかるし、基本的には自分を肯定してくれて、自分の話を素直に聞いてくれて、思いもよらない形で受け入れてくれる。海松子はそういう子です。

 

***

 

海松子は主人公ですが、変わり者過ぎておまけにちょっとポンコツなため、実際に物語を前に進めていくのは友人の萌音でした。彼女がこれまたすこぶる面白い女の子です。

萌音自身の容姿は地味で特段特徴がないのですが、身近な可愛い子を忠実にトレースするのが非常に上手い子で、大学生になった今ではSNSでの検索力やメイクの技術も舌を巻くレベルに。

萌音に服装やメイクを真似された女子たちはだいたい不愉快な気持ちになり萌音に敵意を向けるようになるのですが、海松子はそのプロ並みのコピー能力を素直し尊敬し、才能であると考えています。

 

この辺の対比も非常に興味深いなと思いました。

同じ「服装やメイクを真似される」という事態に対して、真似されて不愉快になる人と、真似のクオリティに関心し相手を尊敬する人がいるんですね。その差はどこにあるのでしょうか。

私が思い付いたのは「他人への関心の強さ」です。

海松子は他人に全く関心がない訳ではないですが、基本的には父と同じく街頭のビラ配りの人程度にしか興味が持続しません。

だから、自分の服装を真似されても「なんで?」と追及せず、「完成度が高い、すごい」と関心するだけで終わるのです。

 

あらすじにも「他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手」とありますが、私は逆に、他人に興味を抱いたり気持ちを推し量ったりしようとするから、世の中生きづらくなるんじゃないかと、この本を読んで感じました。

最初に書いたように、他人の気持ちを読める人はいません。

推し量ったところで、それが事実とどれくらい合致しているかなんて誰にもわかりません。

勝手に推し量って、勝手に想像して、勝手に気を使った結果ストレスになるんじゃないでしょうか。

そして、自分が勝手に推し量った気になっているだけなのに、それを相手にも無意識のうちに強要していて「どうして私の気持ちがわからないの」と逆ギレして非難めいた気持ちになる。悪循環ですね。

 

***

 

この本の読後感がとても爽やかで軽やかなのは、海松子も萌音も海松子の父も、登場人物がみんな自分勝手に生きていて、それでいてうまく連帯しているからだと思いました。

他人に興味をあまり持てなくても、相手の気持ちを想像する力があまりなくても、相手の存在を素直に肯定し、受け入れられなければ適当に受け流すだけで、本当は十分なのかもしれないと思いました。

人との距離感について、とても示唆に富む良作でした。おわり。

自尊感情と距離感:『ブランチライン』

このブログで何度か池辺葵さんの漫画について書いていますが、現在連載中の『ブランチライン』もとても印象深い素晴らしい作品だと思います。

あらすじは以下。

4姉妹と母。女たちが抱く罪悪感と宝物。

 

アパレル通販会社で働く4姉妹の末っ子・仁衣。

茶店を営む三女・茉子。

役所勤務の次女・太重。

シングルマザーの長女・イチ。

そして、実家を一人で守る母。

 

今はそれぞれ離れて暮らしているが、

女5人で育てた長女の息子・岳は

皆にとっての宝物だ。

けれど、岳にとっての女たちは、

いつも正義であっただろうかーー?

 

あなたにもきっと、思い当たる感情がある。

だからこそ、この物語はあなたの呼吸をふっと軽くする。

池辺葵が紡ぐ様々な世代の女たちと家族のあり方について。

 

pixivコミック作品サイトより)

池辺さんの作品に出てくる人たちって、みんな他人との距離感が絶妙だなぁと思います。

『ブランチライン』は家族を中心に描かれていますが、こんなバランスの取れた家族って実際どれくらいいるんですかね。というか存在するかなぁ。

 

私は一人っ子で両親も離婚していて、家族というにはだいぶ散り散りになっていますが、

ハハは三姉妹の次女で長男である弟も含め4人兄弟で、彼らの両親(つまり私の祖父母)も健在、つまり現在も家族が機能しています。

還暦間近のハハですが、最近癌がみつかり、現在入院中とのこと。

離れて暮らしていてろくに連絡も寄越さない薄情な一人娘の代わりに、入院の手続きなど面倒を見てくれているのは7歳下の妹(私の叔母)です。

昔から軽口を叩き合っている姉妹たちでしたが、みんなそれなりの高齢者になってあちこち身体にガタがきている中、こまめに連絡を取り合っては助け合っている様子で、私はものすごく助かっています。

 

これだけ書くと、ハハの家族もこの漫画の4姉妹のように、付かず離れず、けれど相手をきちんと尊重している家族のように思えるかもしれません。

しかし、実際はもっと泥臭くて後ろ暗い、恨みとか諦めとか意地の悪い感情もたくさん持ち合わせているよなーと私は考えています。

だから、助け合ってくれてて有難いんだけど、彼らを見ていてもこの漫画を読んだ後のようなほっこりした気持ちには全然ならないです。

 

いったい何が違うのかなぁと考えると違いは明白。

ハハ含め私の親戚一同には無くて、この作品の家族・八条寺家にあるもの、それは『自尊感情』です。

八条寺家には卑屈な人が全然いません。各々バラバラな性格でも、みんな自分を大切にしていて、だから親でも兄弟でも、他人を敬うことも当たり前にできています。

ハハの家族は(そして私もその血を受け継いでしまっている)、祖母を筆頭にみんな自尊感情が低くて卑屈です。彼らが幼い頃の昔話を聞いても、成人してからの思い出話を聞いても、成功体験が全くない。

 

誰も経済的に成功していないのはもちろん、伯母は2回離婚してて叔母も離婚はしていないが自分の旦那が大嫌いな人です。いとこABも子供の頃や若いうちは愛されていたかもしれませんが、いい歳になってもパラサイトなままのいとこAは本気で伯母に恨まれてるようです。

仕事も嫌々するしかなく、暖かな家庭も築くことができなかったハハたちは、憎まれ口を叩き合い傷つけ合いながらも、お互い支え合うしか選択肢がないのかもしれません。

 

それでも、誰もいないよりは100倍マシなのかもしれないですよね。

私がもしハハと同じ状況になったら、助けてくれる兄弟はいないし、もちろん配偶者も子供も友人も恋人もおらず、文字通り一人でどうにかするしかないです。そしてそんなことができるほど、私に気力はすでに無い。

内心気に食わないけれど頼れる血縁者や家族がいた方がいいのか、気に入らない人間に頭を下げるくらいなら孤独でいた方がいいのか。最近流行りの“正解のない問題”ってやつですかね。

まあ、実際選択肢なんてないんですが。

 

***

 

今回この漫画の八条寺家と、ハハの姉妹や家族たちを比較してみて、あらためて自尊感情ってとっても大事なんだなぁと実感しました。

池辺さんの作品世界のように、悪者がいないというか、みんな自分と他人を思いやる気持ちが持てるようになるには、ベースに自尊感情が不可欠だと思います。

自分を大事にしていない人間は、結局のところ他人も大事にできないですね。

ハハは一人娘の私が一番大事だと口では言いますが、言われた私はちっとも嬉しくなく、大事に育ててもらったとも思いません。そもそも大事って何ですかね?

 

なんていうか、自分を大切に思っていない人に、好きだとか大事だとか言われたところで、そもそもズレている気がします。

自尊心のない人に何かしてもらっても、ありがた迷惑だし押し付けがましい感じがします。私に何かしてあげようと思う前に、自分を労れよ、って言いたいです。

 

・・・なんて、書きながらブーメランで全部自分に返ってくるんですけどね。

30年以上卑屈に生きてきて、成功体験を積むことができなかった大人が自尊感情をうまく抱くことって、かなり至難の業ではないでしょうか。

ましてや60年近く生きてきたハハたちも、90年近く生き延びた祖母たちも、今更どうやって自己肯定感を育めばいいのやら。

死ぬまで自分の人生を嘆き、何かを誰かのせいにしたままっていうのも、なかなかつらいものですね。でもそういう人生も確かにあるのです。

 

なんかもう、来世に期待としか言えないですね。笑。

いつものように救いのない結論に落ち着いてしまったので、最後に八条寺家長女の息子・岳の大学院の教授の素晴らしい名言を引用しておこうと思います。

「何億 何十億年かけて風化していく石の寿命に比べて 人間の寿命は短い

生きて死ぬだけで十分なのにねー」

 

池辺葵『ブランチライン 3』祥伝社 2022.1.8)

生きて死ぬだけで十分だと言われて育ったら、卑屈にならずに済んだでしょうか。おわり。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』を観ました

アニメ『輪るピングドラム』が放送されてから10年が経ったそうで、総集編ないしリマスター版とも呼べるような劇場版が公開されました。

penguindrum-movie.jp

総集編的な劇場版アニメは基本的にどんなに好きだった作品でも観ることはないのです。だって初めて観た時以上の感動なんてきっとないと思いますし。

 

しかし、『輪るピングドラム』は今まで観た数々のアニメの中でも特に印象深い作品ですし、気になって見てみたTwitterの人々の感想もおおむね好意的なものだったので、映画館に観に行くことにしました。

 

改めて観てもやっぱり面白いストーリー、魅力的なキャラクター、作り込まれた美しい世界観が本当に秀逸で、観てよかったと思いました。

それと同時に、やはりとても懐かしくて、TVアニメ放送当時のいろんなことを思い出しました。

 

当時の私は大学4年生でした。

卒論をぐだぐだやりながら、就職活動もせずアニメばかり観て本と漫画ばかり読んで、生産的なことは何もしていない学生でした。

塾講師のバイトで受け持っていた男子高校生と、毎週のように『輪るピングドラム』の最新話の感想を言い合ったりして(勉強しろ)、思い返せばささやかながらも幸せだったような気がします。

当時の日記を読み返すと、全然幸せそうなこと言ってないんですけどね。私の日記は結局のところいつもそうです。

幸せそうなことは何も書いてない。それでも、思い返すと幸せだった気がするから不思議です。

 

今回の劇場版(前編)で、冠葉が陽毬に口付ける場面が一番ドキドキしました。

TVアニメ版の第1話を観た時も、エンディングに入る前の陽毬の枕元の冠葉の独白が一番ドキドキしてた気がします。

冠葉の、妹への常軌を逸するほどの熱い愛情は、何度観ても胸に迫るものがあります。なんていうか、真っ赤なラブストーリーって感じ。

きっとTVアニメ版を観ていた21歳の私は、誰かに冠葉くらい強く愛してほしかったんだと思います。若くて飢えてたのだと。

そして32歳の今も、相変わらず飢えているのです。愛や、夢や、希望に。だから同じ物語に同じように心奪われる。

作品を通して、自分の精神の無成熟さを痛感し直すという。苦笑です。

 

きっとないですが、たとえばまたさらに10年後に『輪るピングドラム』に何かの形で触れることがあったら、私はまたTVアニメ版を観ていた大学4年生の夏を思い出すし、さらには都会で一人寂しく暮らしていた32歳の春のことも懐かしく思い出すと思います。

きっと今までと同じように、愛や夢や希望に飢えた薄暗い気持ちで、それでも映画館から出たときに目に映る街の景色を、美しいなぁとか思うのです。

生き延びていたら、の話ですけどね。おわり。

何者かであることと夢と仕事:『Sketchy』

ガールズスケーター漫画『Sketchy』の5巻にうんうん頷きました。

アラサーのレンタルショップ社員・川澄憧子がスケートボードと出会い、それをきっかけに人生が変わっていく様子を描いたヒューマンドラマです。

5巻では憧子が勤めていたレンタルショップの閉店が決まったり、長年付き合った彼氏と別れたり、ずっと練習してたスケボーの技・オーリーができるようになったりと、憧子の感情の振れ幅が結構ありました。
 
印象に残った場面の一つが、憧子が職場の閉店が決まったことを彼氏に話した場面。
「・・・・え なんだ よかったじゃん
これで辞められるじゃん」
・・・・そんな 辞めたいみたいなふうに言わないで」
「うーん・・・・でも 一生続けてく仕事なの?
アコちゃんの代わりになる人沢山いる仕事でしょ?
同級生たちに劣等感感じてるんでしょ?」
「そんなの・・・・っ感じてない!
勝手に決めつけないで!
何者かであることがエライだなんて思わないで
何者じゃなくても私は毎日満足してる・・・・
怜君だって“自己実現の鬼”なんて言ってるけど
理想を語るだけで何も実現してないじゃん!
・・・・
・・・・」
・・・・ごめん 言いすぎた」
 
(マキヒロチ『Sketchy(5)』ヤンマガKCスペシャル 2022.2.18)
自己実現の鬼”とか標榜しちゃう彼氏も痛々しいけど、そんな彼が言うことも結構的を射ていますよね。憧子も図星だったからムキになって言いすぎたんだと思いました。
 
こんなことを言うと元も子もないですが、“代わりになる人沢山いる仕事”じゃない仕事なんて、世の中にありますかね?
『恋物語 ひたぎエンド』で貝木泥舟が言っていたように、かけがえのない・かわりのないものなんかないと私は思っています。
いくら高度だろうがクリエイティブだろうが、自己実現の結晶だろうが、代わりのない仕事なんてないんじゃないですかね。彼氏の怜君は仕事というものを神格化しすぎな気がします。
 
一方で、「何者じゃなくても毎日満足してる」という憧子も本当はそんなに満足してないんですよね。
前述の彼氏と別れた後、定期的に集まる学生時代の同級生同士の女子会にて、憧子が本音を吐露する場面でそれが垣間見れます。
・・・・いや 別れた」
「え!!  いつ?なんで教えてくんなかったかったの!?」
「うーん・・わざわざ報告することでもないし
別れた上に 仕事もなくなった」
「えぇ!? 大丈夫?最悪じゃん!!
彼は置いといて どうすんの仕事!? もう決まってんの!?」
「決まってない やりたい仕事なんかないし
結婚もできないしお金も大してないし
趣味も全然 上達しないし
・・・・みんなといるとボンヤリする やりたいこと欲しい物だらけでさ
中学から一緒なのに 私は みんなと全然違う
呼ばれりゃ行くけどさ 年々 溝が深く感じる」
 
(同上)
共感だわ〜と言いながら読んでました。
憧子はスケートボードという趣味があり、それがこの物語の軸にもなるのでまだ救いがありますが、私にはそんな打ち込める趣味もありません。
それでもってやりたい仕事もなく結婚もできずお金もないわけで、そりゃボンヤリするしかないでしょって感じです。
 
憧子は学生時代から映画を観るのがとても好きだった描写がありました。その流れもあって入社したレンタルショップでしたが、サブスクの波に押されて店舗は閉店、あとには何も残らず、憧子の心にはポッカリ穴が空いたようでした。
でもその後、スケボーでずっとできなかったオーリーという技を決めることができた憧子は、長年得られなかった成功体験と達成感を手にして、人生をあらためて前に進める決意をするのでした。
 
こういう、挑戦したり達成したりできる趣味っていいなぁと思いました。
私の趣味といえばアニメ鑑賞や漫画などの読書、一昔前では乙女ゲームに旅行などでしたが、どれも受身の趣味でこれといった挑戦もないし達成感もないんですよね。
日本全国鉄道乗り潰しをしていた頃は少し挑戦してる感もありましたが、47都道府県を制覇したあとは目標を見失ったような心持ちでした。
 
じゃあ仕事で何か挑戦すればと思われるかもしれませんが、クソつまらんと思ってる仕事にそんな気力はまったく湧きません。
そもそも社会人になって約10年、いかに自分が働くのが嫌いか骨身に染みつづけてきたのです。自分の嫌いなことで達成感を得ようなんてどだい無理な話でしょう。
 
話は飛びますが、先日3年ぶりくらいに叔母に会う機会があり、いとこをはじめ親戚一同の近況報告を受けました。
ワクチン接種による体調不良と仮病を使い仕事をサボりまくったいとこAや、運よくコネ入社できたが仕事がろくにできなくて毎日愚痴ばかり言ってるいとこBなど、みんな私と同じくらい働くの嫌いで笑いました。
私のハハも叔母たちも仕事は必要悪という感じの人たちだったので、その影響をしっかり受け継いでしまったのか、親戚はみんなうだつの上がらないサラリーマンばかりのようです。
 
そんなダメリーマンたちの話を聞いて、私はなんとなくほっとしてしまいました。
私の職場は業績回復の見込みがなく先行きの暗い業界なのに、働いている人たちは皆意識とプライドだけは高くて“やりがい”だの“成長”だのを仕事に求める人たちばかりなんですよね。
そういう、気持ちだけはアツい人たちと仕事をしていると、嫌々仕事をしている自分が悪なのかと思うことがありますが、別に善も悪もないですよね。嫌々でも仕事はしてるんだし。
そりゃあやりがいを持ってキラキラ働くのは素晴らしいことだと思いますが、全ての人がそんなふうに働くことはないし、そんなこと無理だろうと思います。
世の中には私みたいに働くこと自体が好きになれない人間が一定数いるし、それは血液型くらい変えようがないんじゃないかと思いました。
 
***
 
5巻の終盤、憧子はスケボー仲間のアトリエに招かれ、そこで自分の夢を見つけます。
それは、どこか自分の気に入った外国の街でスケボーに乗ること。
新たな夢を見出した憧子の気持ちは少し上向きになりました。
 
私が最後に夢を持っていたのはいつだろうと振り返ると、高1くらいまでだったかなーと思い出されました。その頃は英語か数学の教師になろうと思ってた気がします。
結局その後家庭内のゴタゴタなどがあって夢はなくなり、そのまま今に至ります。
47都道府県全ての鉄道に乗ろうとか、ヨーロッパに行こうとか、地元を離れて暮らそうとか、スモールゴールは叶えてきましたが、憧子の夢のように「それがあるから頑張れる」みたいなレベルの夢や目標はもうずっと持っていません。もう持てる気もしないです。
でも、夢や希望のない人生って本当に生き続けるのがしんどいんですよね。なんかいつも同じこと言ってますね、私。
 
夢ってどうやって見つけるのか、それは結局この漫画を読んでもわかりません。スケボーなんてしたら絶対コケて骨折とかする自信があるのでやりたくないし。
まあそれは置いといて、マキヒロチさんの漫画はどれも現代の等身大の大人を描いた作品で、共感できる部分が多いのでおすすめです。おわり。

21世紀の仏教徒:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』

私のなかの仏教ブームのひとつの到達点ともいえる著作に出会いました。それが『池上彰と考える、仏教って何ですか?』。

さすが池上彰氏、仏教のはじまりから日本でどのように発展したか、現代の仏教が世界でどのように存在しているかを大変わかりやすく解説した良著でした。池上さんの本を読んだことはあまりなかったんですが、優れた教育者だなぁって感じがしました。こういう先生に社会科教わりたかったです。

 

しかしながら、今回私がこの本を読んで感銘を受けたのは、前半の歴史解説部分ではなく、池上さんがインドのダラムサラに赴き、チベット仏教の高僧やダライ・ラマ14世と対談した模様を収めた後半部分です。

この本を読むまで、チベット仏教って日本の仏教より厳しい修行をしてそうだなぁとかぼんやりしたイメージしかなかったのですが、中国共産党に弾圧されたチベット亡命政権とも直結しているんですね。現在戦争中のウクライナとロシアのことも想起され、非常に示唆に富む内容でした。

 

***

 

そもそも何故自分が仏教に興味を持つようになったかというと、今抱えている生きづらさを仏教ならどうにかできるんじゃないかと考えたからです。

仏教は、どうして生きづらいのかという問いに一つの解答案を提示してくれた気がします。

日本に限った話ではなく、物質的な向上を図ることで幸せが得られるのだと勘違いしてきた人がたくさんいるようです。

(中略)

外面的に見て、快適だと思われる条件をすべて整えたとしても、心の平和を得ることはできないのです。これは皆さんご自身の体験に即して考えても、きっと理解していただけるでしょう。

自身の心の中によい変化をもたらさなければ、心の平和を確立することはできませんし、本当の意味で幸せになることはできないということです。  

 

池上彰池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社 2012.8.5)

上記は池上さんがダライ・ラマ14世に会う前にお話ししてくださった高僧の言葉です。

 

幸せになるかどうかは置いといて、心の平和は何より欲しいです。

物質的な向上…私にとっては洋服とかコスメとか美味しい物とかお酒とかですかね。デジタルガジェットなんかもそうかな。

「新製品!」「期間限定!」などに色めきだっているうちは、まだまだ物質的価値観から抜け出せていないわけで、そういう価値観で生きていると、心の平和は一向にやってこないんですね。  

 

この物質的価値観って20世紀的価値観とも言えると思うんですけど、

なんだかんだいって私を含む多くの一般人は、いまだにここから抜け出すことができていないのではと思いました。

この価値観って中毒性が凄くて、デトックスが難しい上に禁断症状やリバウンドも起こりそうな感じがします。  

 

価値観=ものの考え方とも言えます。ダライ・ラマ14世も上記と同じことを言っていました。

このような大惨事が起きてしまい、多くの困難や苦しみに直面したとき、大きな違いをもたらすのは何かというと、私たちのものの考え方にあります。

普段から物質的な発展だけを追い求め、外面的な幸せを得ることだけを考えていたとしたら、内面的なことをあまり考えずに過ごしていたとしたら、このような惨事が起きたとき、すべての望みを失ってしまいます。

しかし、日頃からどのようなものの考え方をするべきかについて考え、心を訓練していれば、逆境に立たされた場合でも、心の中では希望や勇気を失わずにいることができるのです。  

 

(同上)

この取材が行われたのは東日本大震災の少し後だったようで、ここで言われている大惨事とは震災のことです。  

残念なことに2020年代も、新型コロナウイルスパンデミックやらロシアによるウクライナ侵攻やら大惨事が続いていて、「物質的な発展だけを追い求め」ていた私は、文字通りすべての望みを失った気がしていました。  

面白く感じていた海外旅行に行けなくなって、体調を崩して好物の辛いものも食べられないしコーヒーやお酒や炭酸飲料も飲めなくなって、ただでさえゴミみたいな毎日だと思っていたのに、もう何に楽しみを見出せばいいのか全然わかんないって感じでした。  

この本を読んで、自分がいかに物質的な幸福だけを追い求めていたか、それに縛られていたのかを痛感しました。そしてそれこそが、自分が生きづらいと感じる原因の大きな一因なのだということにも思い至りました。  

 

***  

 

この、物質的幸福を追い求めてしまう心のはたらきが煩悩です。『サンピエンス全史』で言われていたところの“渇愛”でもあります。

仏教ではこれら煩悩を滅する修行がおこなわれているわけですが、その修行は単に信仰や祈りや瞑想だけではないと法王は言います。

仏教は、私たち人間が持っている様々な感情について、つまり、心という精神世界について、大変深い考察と探究をしています。私たちの心とはどういうものなのか、感情がどのような働きをしているのかを正しく理解することは、問題や困難に直面したとき、自分の破壊的な感情を克服するために大変役に立つのです。自分の感情をどのように扱うべきかを知っていると、たとえ破壊的な感情が起きても、それに取り組み、克服する手段を心得ているからです。  

 

(同上)

ここでいう「破壊的な感情」もすなわち煩悩です。法王はこれらを踏まえて全人類が仏教の心理学を勉強した方がいいと話していました。  

 

“仏教の心理学”というのが私にとってはパワーワードでした。

確かにこれだけ心のはたらきについて体型立てて対処法がまとまっている仏教は、いち宗教というにはあまりに理論的かつ実践的すぎるくらいです。

私が(そして池上さんもそうだと書いていましたが)他の宗教よりも仏教を信仰しようと思えるのは、他の宗教の世界観や現実社会の最新の理論や技術も受け入れる寛容さと、科学的センスを兼ね備えているからなのだと理解しました。  

 

ちなみに、チベット仏教における僧侶の昇進試験は論理学ごりごりの問答実技試験なのだそうです。知らなかった。

そんなロジカルシンキングの猛者たちの頂点にいるのがダライ・ラマ法王なわけですね。確かに、法王の言葉は平易でなおかつ理路整然としていて、読んでいて終始気持ちがいいなと感じました。  

日本も(だいぶ日本仕様になっているとはいえ)仏教国なんだから、教育現場でもっと論理学ごりごりやればいいのに。高校数学あたりでちょろっと触るくらいじゃ少なすぎるし遅すぎます。  

 

***  

 

ところで、この本をとてもタイムリーに感じたのが、チベットという国が置かれている状況についての記述です。

ダライ・ラマ法王が国家元首を務めていたチベットという国は、一九五十年代、圧倒的な軍事力を持つ中国の手に落ちました。

一九五九年、法王がインドに亡命した後のチベットでは着々と中国化が進められ、信仰の自由や人権が脅かされているため、チベット人たちが今も抗議活動を続けています。ダライ・ラマ法王は、自ら世界中を飛び回って国際社会にチベットの問題を訴えるという「非暴力」の戦いを貫いています。

中国という強大な国を相手に、一見勝ち目のなさそうに思える戦いを、よくぞ半世紀以上にわたって続けてこられたものです。  

 

(同上)

仏教は一貫して無用な殺生をしてはいけない、利他の精神を持ちなさいという考え方なので、いまのウクライナのように武力で対抗するということはしないんですね。抗議の焼身自殺はすることがありますが。

結果として亡命政権になったけれど、国を取り戻せる見通しは(少なくとも中国共産党があるかぎり)無さそうに見えます。  

 

ダライ・ラマ14世はこの戦いの本質を「真実の力」だと言っていて、例にもれず極めて正しいと感じる理論を展開するんですが、圧倒的暴力の前でその「真実の力」がどれだけ現実を動かせるのかはやっぱり疑問でした。

別にチベットも武力で対抗すべきだとは思いません。むしろ亡命して助かる命が多いのなら、つらくても国を離れるべきなのかもしれないとも思います。(西欧諸国は最初はゼレンスキー大統領にもそれを求めていたのではないかと)  

 

でも一方で、「プライドも体面も捨てたら 残るもんなんて何にもない それ捨てたら死んだも同然やろ」という『来世は他人がいい』の吉乃みたいな考え方も共感できなくもないんですよね。まあ国土とか故郷とか資源とか矜持に執着しているという意味で、この気持ちも煩悩と言われればそうなんですけど。  

 

ひどいのは侵攻している中国でありロシアであり暴力であるはずなのに、その力があまりに強大すぎて、現状を変える対抗手段を考えると結局暴力しかないんですよね。この本を読んで私はそう思い至りました。

話し合い、言葉の力、コミュニケーションで暴力を解決するのってやっぱり無理なんですかね…。  

 

かろうじて救いがあるのは、そんな苦しい状況にある法王が極めてポジティブであることです。さすが仏教の修行を極めているトップ、心の平和レベルが凡人とは違います。

私はいつも正直に真実を語り、慈悲深い態度を維持していますから、悲しんだり、後悔したりする理由は何もありません。それが楽観的でいられる主な理由です。さらに、私はひとりの仏教僧であり、家族もありません。自分ひとりのことだけを考えていればよく、家族のことを心配する必要もありませんから、皆さんよりもずっとシンプルなのです。

家族がいて、子供、孫、曾孫などがいたら、心配の種がたくさんあって、考えなければならないこともたくさんでてきますからね笑。  

 

(同上) 

カッコいい〜〜〜〜〜私だって家族も友人も恋人も居なくてシンプルなはずなのに、全然楽観的になれません。 真実を語り慈悲深い態度を維持できるよう、修行に励めということでしょうか…。  

 

***  

 

先ほども書いたように、この本の発行から10年が経った現在、世界情勢も日本社会もより困難を極めていると思います。

これから新たな冷戦時代に突入しそうだし、それによってインフレも進みそうだし、そもそも円安も進んでて海外旅行も高くついてるし、国内は超高齢化社会のシルバー民主主義が向こう30年は続きそうだし所得もやっぱり上がらなそう。

21世紀になってすぐ、「物質的価値観の時代は終わった」的な言論が出回るようになっていましたが、そう言いながらもみんな休みの日はショッピングしてたし、旅行先ではお土産たくさん買い込んで、毎年買い換えてるスマートフォンで写真撮りまくってたんですよね。なかなかモノの中毒性から抜けられなかったんです。  

 

でも、この先本当に物質的価値観が終焉を迎えるかもしれないと思います。

しかも、こちらが終わりにしたいと思っていなくても、大きな力によってその価値観を剥奪されてしまうような変化が訪れるんじゃないかと。正直結構怖いです。

全体的に見れば、アメリカの生活スタイルや、西洋の工業国の生活スタイルは消費過多なので、これには真剣に取り組まなければなりません。私たち人間は、持っているもので満足するという実践をしなければならないと思います。

すべての人たちが、生きていくために必要なものや設備を得る権利を持っていますが、贅沢品はどうしても必要なものではありません。世界では何百万人もの人たちが貧困と飢えに苦しんでいることを考えると、あまりに贅沢な暮らしをすることはよいことではありません。

しかし、すでに述べたとおり、科学技術がなくては生活の向上を図ることはできません。  

 

(同上) 

贅沢って慣れてしまうもので、慣れると依存してしまうものです。

この先、薬物中毒者が苦しみながら薬を抜くように、社会的要因や経済的理由から”贅沢抜き“を強いられるような未来が訪れるかもしれないと思います。

もしそういう未来がやってきたとき、仏教って(仏教の心理学って)有用なんじゃないでしょうか。  

 

ダライ・ラマ14世は話の中で幾度も勉強することの重要性を説いていました。

現代において必要とされている知識や教養(そこに仏教の心理学も含まれる)を正しく備えた上で、ひとりの人間として、他人を思いやる気持ちを持っていなければならないというのが法王の持論で、その姿勢を「21世紀の仏教徒」と表現していました。  

 

私はなかば救いを求めて仏教について調べていたわけですが、最終的に「21世紀の仏教徒になれ(よく勉強して人に優しくしなさい、それが修行だ)」という結論に落ち着きました。法王すごい。

悟りは遠いけれど、視界がひらけた感じがしました。思考が一段クリアになったというか。

心がぐちゃぐちゃになってしまったとき、思考が迷子になってしまったときに、この本の対談部分だけでも読むと良い薬になると思います。おわり。

ほどよく仏教:『気になる仏教語辞典』

『サピエンス全史』を読んでから、何かと仏教に興味が湧き続けていて、書店や図書館で仏教関連の棚を見ては目についたものを手に取り、時には気になったお寺に赴きお参りしたりする生活を2、3か月続けていました。
信仰というよりは、仏教の根源的な考え方(何かを求める心が苦しみを生む的な)に惹かれていました。苦しみから逃れるのは無理でも、苦しみを受け入れ諦めるいい方法を見つけ出せるんじゃないかと。
さまざまな宗派のいろんな住職が、それぞれの切り口から仏教について本を書いていて、なかにはちょっと説教くさかったり自己啓発じみているものもあって、そういう書籍を読んでいるうちにだんだん私の中の仏教熱は冷めていきました。
けれど一冊だけ、読んでいて面白いし温度感がちょうどいいなと思うものがありました。それが『気になる仏教語辞典』です。
ブックデザインや解説イラストが可愛くて、読んでいて楽しかったです。裏表紙にも使われている「天上天下唯我独尊」の暴走族風の絵とか、かわいいです。
多くの住職本と違って、説教くささや上から目線の教えがないので、フラットに仏教について知りたい方におすすめできる一冊。

辞典なので「あ」で始まるものから順番に記述されています。
最初は「愛」なんですけど、おもに渇愛について書かれていて、あまりいいものとして扱われていないんですよね。世間一般的にいいものとされがちな「愛」を、わるいものカテゴリに入れる姿勢が好感持てました(ひねくれてますかね)。
でも最後の単語は「和顔愛語」で、きわめて平和的に終わります。

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仏教のはじまりから日本仏教の各宗派の違い、歴史の授業で聞いたことのある各宗の開祖についてなど、かなり噛み砕いて読みやすく解説されていました。おかげでおおまかに仏教の全体像をイメージすることができました。
日本仏教って、おおもとの仏教からだいぶ独自発展を遂げてる感じがしました。

実際に出家したり修行したりしたら、それなりに戒律や規則があるんだと思いますが、この本のテンションくらいゆるく仏教を取り入れて生活していくのが、多分一番心地いいだろうと思います。
肉も食べるし虫は殺すし、クリスマスもハロウィンもなんとなく祝うけど、お墓参りや厄祓いもするし、ふらっとお寺に行って和むこともある。そういう距離感でいたいなぁと思いました。

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仏教ブーム中に首都圏のいくつかのお寺を回って気づいたことがあります。
ひとつは、現代の日本にも信心深い人はたくさんいるということです。
深大寺築地本願寺も川崎大師も、本堂で手を合わせる人たちが大挙し列を成していました。
正月の初詣じゃなくても、日常的にお寺にお参りに来る人がこんなに多いのかと驚きました。
きっとゴリゴリの仏教徒ではない人が大半だと思いますが、やはりそれぞれ自分の中に仏教徒的な部分があるんでしょうね。私もそうです。
学校教育や家庭教育で仏教徒的信心が育まれてきたのもありますが、私の場合は10代のころに習っていた茶道の影響も大きいのかもしれないと思い至りました。
仏教の教えってそのまま茶道にも適用されてるものが多いんですよね。お稽古のたびに唱和させらていた「ことば」(われわれは、茶道の真の姿を学び〜ってやつ)なんて、まさに仏教的だったんだなと今更気づきました。

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もうひとつの気づきは、大きいお寺の近くには美味しい和菓子屋さんがある確率が非常に高いということ。
おかげで仏教ブームから派生してあんこブームまで到来しました(私の中で)。
逆に言うと、美味しい和菓子を食べたかったら有名なお寺の近くを探すといいと思います。おわり。

生きるのほんとしんどいんですけど:『推し、燃ゆ』

コロナ禍のせいか加齢のせいか、最近本当にすべてが煩わしくて生きているのがつらいなぁと思います。

振り返れば日記を書き始めた10代の頃から、生きているのがつらいとはずっと書き続けている気がします。

20年弱、つらいつらいと言い続けながら生き延びているわけですが、さすがに気力が擦り切れて自分一人で耐えるのがしんどいなかで、『推し、燃ゆ』読みました。

30分のアニメすら集中して観るのが苦しくなっている昨今、サクッと読める平易な文章が有難かったです。 なおかつ、軽く読めるのに思考に刺さるパンチがあって、エンタメとしてもめちゃめちゃよかったです。

 

物語のあらすじは以下。

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。

 

河出書房新社作品ページより)

推し活動の描写もとても活き活きとしていて興味深かったですが、私が共感した(驚嘆もした)のは、主人公のあかり(女子高生)の訴える生きづらさについてでした。

 

あかりには生真面目な姉と母がおり、海外に単身赴任している父親もたぶんそこそこいい会社のサラリーマンだと思います。

家族のメンバーはみんな、普通に勉強ができて、普通に社会生活が送れている人たちなんですね。

ところが、あかりは幼いころからあまり記憶力がよくなかったようで、母や姉が期待するような成績を取ることができませんでした。学校に入っても、周りのクラスメートたちのように上手く振舞えないのです。

なんとか高校生になり、推し活動のために始めた居酒屋でのバイトでも、あかりは仕事をいつまでも覚えられず四苦八苦している様子が描かれます。

 

あかりが苦しむ様子を見ていて思い出したのは、先日ニュースサイトで見た、空港のトイレで新生児を殺した女子大生の事件でした。 

news.nifty.com

あかりが境界知能なのかどうかはわかりませんが、学校の勉強についていけなかったり、仕事の工程を覚えられなかったりすることが、どのように生きづらさにつながるのかよくイメージできました。

 

私は学校生活で苦労した経験はあまりない(どちらかというと優遇されていたように思う)のですが、社会人になってからの生活はあかりに通ずる部分を感じます。

みんなが何を大事にしているのか分からないし、何が世の中で必要とされているのか分からないし、何が売れるのかもわからないし、何に価値があるとされているのかわかならい。そしてそれを知りたいとも思えない。

自分の肉体を維持するために睡眠をとり、食事をとり、排泄して身の回りを清掃・洗濯しているだけでこんなに一苦労なのに、そのうえどうして勤労しなければならないのか、本当に理解に苦しむといった感じです。

 

この世に生きている誰だって、自分で生まれてきたくて生まれたわけじゃないのに、どうしてそう当たり前のように生きていくことができているのか、不思議でたまらないのです。

 

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昔から、家にいるのもしんどいし、かといって行きたいところがあるわけでもなく、電車に乗ってから行き先を考えることが多いんですが、 その理由をとても明快に解説した一節が印象的でした。

自分で自分を支配するのには気力がいる。電車やエスカレーターに乗るように歌に乗っかって移動させられたほうがずっと楽。午後、電車の座席に座っている人たちがどこか呑気で、のどかに映ることがあるけど、あれはきっと「移動している」っていう安心感に包まれてるからだと思う。自分から動かなくたって自分はちゃんと動いているっていう安堵、だから心やすらかに携帯いじったり、寝たり、できる。(中略)あれがもし自分の家のソファだったら、自分の体温とにおいの染みた毛布の中だったなら、ゲームしてもうたた寝しても、日が翳っていくのにかかった時間のぶんだけ心のなかに黒っぽい焦りがつのっていく。何もしないでいることが何かをするよりつらいということが、あるのだと思う。

 

(宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社 2020.9.11) 

なんて的確な表現。本当にその通りで、ものすごく腑に落ちました。

昔から電車にぼーっと乗って流れる景色を眺めるのが大好きなのですが、つまるところまさに「移動している」という安心感があるのだと思います。 なんなら、ずーっと移動していたいと願うこともよくあります。

止まらないキャンピングカーみたいな、移動し続ける部屋の中で、流れる車窓の景色と暮らしていくのもいいなぁと妄想したことが何回もあります。

たぶん途中下車したくなると思いますけど。

 

なんていうか、自分の面倒を自分で見るのがほんとに疲れるんですよね。

「自分で自分を支配する気力」がマジでもう1ミリもないんです。

そういう、自走することの疲労を忘れさせてくれるのが、あかりにとっての推しだったのかもしれません。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

 

(同上)

勝手に期待して勝手に絶望したり、過度に依存して実生活に支障をきたしたりしなければ、推し活動ってとても健康的だし尊いものだなぁと思いました。

あかりは家族から「アイドルの追っかけはできるのに就職活動はできないのか」的な嫌味を言われていましたが、そんなのできないに決まってるじゃんて感じですよね。

仕事に打ち込むのも推しにのめり込むのも、金銭を得られるか否かという点以外では似たり寄ったりなのに、仕事というのはその一点があるためにみんなが推奨し、称賛するんですよね。

稼げること・働けることは素直にすごいと思うし羨ましくもあるけど、働けないだけでこんなに生きづらい必要ある???とも思います。

あかりの父が「働かないと生きていけない」という趣旨のことをあかりに説教して、あかりが「なら死ぬ」と返した場面がありましたが、ごく普通の素直な反応だと思うんですよね。

自分はろくに働けないと思うし、働きたいとも思えない、それで生きていけないならおとなしく死にます、って感じ。

問題なのは、苦しまずに(痛みなく)死ぬ方法があんまり思い浮かばないってことですかね。

 

***

 

物語の最後、あかりは推しがいなくなった現実のなかで、這いつくばって生きていく決意をして終わりますが、あんまり明るい終わり方ではないように思いました。

読後感は、あかりへの共感と、救いのない結末があいまって、暗くもなく明るくもなくという印象でした。

生きづらい、息苦しい、しんどい、そう感じる現代日本社会の空気を見事に精緻に描写した現代文学でした。おわり。