れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

生きるのほんとしんどいんですけど:『推し、燃ゆ』

コロナ禍のせいか加齢のせいか、最近本当にすべてが煩わしくて生きているのがつらいなぁと思います。

振り返れば日記を書き始めた10代の頃から、生きているのがつらいとはずっと書き続けている気がします。

20年弱、つらいつらいと言い続けながら生き延びているわけですが、さすがに気力が擦り切れて自分一人で耐えるのがしんどいなかで、『推し、燃ゆ』読みました。

30分のアニメすら集中して観るのが苦しくなっている昨今、サクッと読める平易な文章が有難かったです。 なおかつ、軽く読めるのに思考に刺さるパンチがあって、エンタメとしてもめちゃめちゃよかったです。

 

物語のあらすじは以下。

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を”解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。

 

河出書房新社作品ページより)

推し活動の描写もとても活き活きとしていて興味深かったですが、私が共感した(驚嘆もした)のは、主人公のあかり(女子高生)の訴える生きづらさについてでした。

 

あかりには生真面目な姉と母がおり、海外に単身赴任している父親もたぶんそこそこいい会社のサラリーマンだと思います。

家族のメンバーはみんな、普通に勉強ができて、普通に社会生活が送れている人たちなんですね。

ところが、あかりは幼いころからあまり記憶力がよくなかったようで、母や姉が期待するような成績を取ることができませんでした。学校に入っても、周りのクラスメートたちのように上手く振舞えないのです。

なんとか高校生になり、推し活動のために始めた居酒屋でのバイトでも、あかりは仕事をいつまでも覚えられず四苦八苦している様子が描かれます。

 

あかりが苦しむ様子を見ていて思い出したのは、先日ニュースサイトで見た、空港のトイレで新生児を殺した女子大生の事件でした。 

news.nifty.com

あかりが境界知能なのかどうかはわかりませんが、学校の勉強についていけなかったり、仕事の工程を覚えられなかったりすることが、どのように生きづらさにつながるのかよくイメージできました。

 

私は学校生活で苦労した経験はあまりない(どちらかというと優遇されていたように思う)のですが、社会人になってからの生活はあかりに通ずる部分を感じます。

みんなが何を大事にしているのか分からないし、何が世の中で必要とされているのか分からないし、何が売れるのかもわからないし、何に価値があるとされているのかわかならい。そしてそれを知りたいとも思えない。

自分の肉体を維持するために睡眠をとり、食事をとり、排泄して身の回りを清掃・洗濯しているだけでこんなに一苦労なのに、そのうえどうして勤労しなければならないのか、本当に理解に苦しむといった感じです。

 

この世に生きている誰だって、自分で生まれてきたくて生まれたわけじゃないのに、どうしてそう当たり前のように生きていくことができているのか、不思議でたまらないのです。

 

***

 

昔から、家にいるのもしんどいし、かといって行きたいところがあるわけでもなく、電車に乗ってから行き先を考えることが多いんですが、 その理由をとても明快に解説した一節が印象的でした。

自分で自分を支配するのには気力がいる。電車やエスカレーターに乗るように歌に乗っかって移動させられたほうがずっと楽。午後、電車の座席に座っている人たちがどこか呑気で、のどかに映ることがあるけど、あれはきっと「移動している」っていう安心感に包まれてるからだと思う。自分から動かなくたって自分はちゃんと動いているっていう安堵、だから心やすらかに携帯いじったり、寝たり、できる。(中略)あれがもし自分の家のソファだったら、自分の体温とにおいの染みた毛布の中だったなら、ゲームしてもうたた寝しても、日が翳っていくのにかかった時間のぶんだけ心のなかに黒っぽい焦りがつのっていく。何もしないでいることが何かをするよりつらいということが、あるのだと思う。

 

(宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社 2020.9.11) 

なんて的確な表現。本当にその通りで、ものすごく腑に落ちました。

昔から電車にぼーっと乗って流れる景色を眺めるのが大好きなのですが、つまるところまさに「移動している」という安心感があるのだと思います。 なんなら、ずーっと移動していたいと願うこともよくあります。

止まらないキャンピングカーみたいな、移動し続ける部屋の中で、流れる車窓の景色と暮らしていくのもいいなぁと妄想したことが何回もあります。

たぶん途中下車したくなると思いますけど。

 

なんていうか、自分の面倒を自分で見るのがほんとに疲れるんですよね。

「自分で自分を支配する気力」がマジでもう1ミリもないんです。

そういう、自走することの疲労を忘れさせてくれるのが、あかりにとっての推しだったのかもしれません。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

 

(同上)

勝手に期待して勝手に絶望したり、過度に依存して実生活に支障をきたしたりしなければ、推し活動ってとても健康的だし尊いものだなぁと思いました。

あかりは家族から「アイドルの追っかけはできるのに就職活動はできないのか」的な嫌味を言われていましたが、そんなのできないに決まってるじゃんて感じですよね。

仕事に打ち込むのも推しにのめり込むのも、金銭を得られるか否かという点以外では似たり寄ったりなのに、仕事というのはその一点があるためにみんなが推奨し、称賛するんですよね。

稼げること・働けることは素直にすごいと思うし羨ましくもあるけど、働けないだけでこんなに生きづらい必要ある???とも思います。

あかりの父が「働かないと生きていけない」という趣旨のことをあかりに説教して、あかりが「なら死ぬ」と返した場面がありましたが、ごく普通の素直な反応だと思うんですよね。

自分はろくに働けないと思うし、働きたいとも思えない、それで生きていけないならおとなしく死にます、って感じ。

問題なのは、苦しまずに(痛みなく)死ぬ方法があんまり思い浮かばないってことですかね。

 

***

 

物語の最後、あかりは推しがいなくなった現実のなかで、這いつくばって生きていく決意をして終わりますが、あんまり明るい終わり方ではないように思いました。

読後感は、あかりへの共感と、救いのない結末があいまって、暗くもなく明るくもなくという印象でした。

生きづらい、息苦しい、しんどい、そう感じる現代日本社会の空気を見事に精緻に描写した現代文学でした。おわり。