れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

不幸を刻み、染み付かせて:『かか』

ここ数日、いろんなものへの興味が萎んでいく感じがしています。

寒さのせいでしょうか。

アニメを観るのも面倒くさく、音楽を聴いても心が動かなくて、寒くて散歩に出るのも億劫で、自炊する気力もなくて冷凍餃子ばっかり食べたりしてます。

こんな状態になる少し前に読んだのが、宇佐見りん『かか』。

『推し、燃ゆ』で有名な若手作家さんのデビュー作です。

独特の西っぽい語り口調で綴られた文体はなかなか読みづらかったですが、心情描写はとても巧みで圧巻でした。

 

あらすじは以下。

19歳の浪人生うーちゃんは、大好きな母親=かかのことで切実に悩んでいる。かかは離婚を機に徐々に心を病み、酒を飲んでは暴れることを繰り返すようになった。鍵をかけたちいさなSNSの空間だけが、うーちゃんの心をなぐさめる。 

脆い母、身勝手な父、女性に生まれたこと、血縁で繋がる家族という単位……自分を縛るすべてが恨めしく、縛られる自分が何より歯がゆいうーちゃん。彼女はある無謀な祈りを抱え、熊野へと旅立つ――。 

未開の感性が生み出す、勢いと魅力溢れる語り。  痛切な愛と自立を描き切った、20歳のデビュー小説。

 

河出書房新社作品ページ より)

この作品の中で、共感というのかはわからないですが、一番感情移入しやすかったのは“かか”、つまり主人公の母親です。

かかは離婚を機に徐々に心を病んでいったふうですが、彼女は物心ついたときから不幸をべったり身に纏っていたんじゃないかと思います。

次女であるかかは、母親に“おまえはかわいい長女のおまけとして産んだ”といった趣旨のことを幼い頃に言われており、それがずっと心に染み付いているんです。自分は受けるべき愛情をあらかじめ欠いた存在であると。

きっと人生で嬉しかったことや楽しかったこともそれなりにあるでしょうが、“自分はおまけとして生まれたにすぎないのだ、愛されていないのだ”という呪いは彼女の心の根底にずっしり根を下ろしています。

 

DV夫との間に子供が生まれ、浮気されて別れて、自分を“おまけ”と断言し長女の忘れ形見の孫娘ばかり可愛がる親と同居せざるを得なかったかか。

たぶんもともと精神的に強くなかった上に、離婚のストレスが追い討ちをかけたんでしょう。

彼女が不幸のスパイラルに沈んでいく様子を的確に表現した下記の一節がとても好きです。

かかは、ととの浮気したときんことをなんども繰り返し自分のなかでなぞるうちに深い溝にしてしまい、何を考えていてもそこにたどり着くようになっていました。おそらく誰にもあるでしょう、つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。

 

(宇佐見りん『かか』河出書房新社 2019.11.30)

不幸に浸り、不幸を出涸らしになってもなお飲み続ける悲劇のヒロイン的言動を秀逸に表現していて感嘆しました。

 

かかははたして幸せになりたいとか思うんでしょうかね。愛されたいのかな。愛されれば幸せなんでしょうか。

私自身、自分は幸せになりたいのかどうかつくづく疑問に思っています。

そもそも、すでに自分の幸せな状態というのがうまく思い浮かべられないんですよね。愛とか言われても「誰から?」って感じですし。

美味しいものを食べたときとか、ライヴチケットの抽選に当たったときとか、素敵な接客を受けたときとか、面白い本や漫画や映画やアニメに出逢ったときとか、嬉しいし幸運だと思いますが、それが“幸せな状態”なのかと問われると…?

 

幸せが手に入らないから、認知的不協和から逃れるために「私は別に幸せなんてもとめてない」とか合理化してるだけだとも考えられます。

手に入らないどころか、それが一体どんな形をしているかもわからないわけですしね。

かかもそうなのかなぁと思いました。

きっと今更夫が振り向いても、母親に「おまえはおまけなんかなじゃない、ちゃんと我が子として愛している」とか言われても、かかは何にも救われなさそう。

もはや誰が何を言っても、何を祈っても救われなくて、死ぬまで不幸と二人三脚するんじゃないでしょうか。

 

かかの娘である主人公のうーちゃんは、かかを真摯に愛しているようですが、そんなことはかかの心に一ミリも響いてないみたいで、それもまた興味深いと思いました。

私は子供を持たないので想像しかできないですが、自分が産んだ子供に愛されたら、はたして嬉しく思のでしょうか。「お母さん大好き」とか言われたら喜びますかね?多分喜ばないだろうなー。

子供が親を好きに思う気持ちって、あらかじめプログラムされてるものって思っちゃうんですかね。もちろん世の中には、自分の親を塵ほどにも好きになれない子供もいるかもしれないですが、子供というのは本能的に愛されるために愛すのが大半ですよね。親に愛されないと育ててもらえないかもしれないので、生命の危機なわけです。

そういうどう考えても弱者である立場の子供に、保護者だからというただそれだけで愛されたところで、全然嬉しくないです。

子供が大きくなって弱者でなくなったとして、それでも好きだと言ってもらったとしても、やはり微妙な気分にしかならなさそう。親子って難しいですね。

 

かかは自分が親から愛されず、夫からも結局愛されなくて絶望しかなくて、自分が産んだ娘に愛されたところで何にも救われす、ひたすら自分が作り出した不幸の渦に飲み込まれています。

かかの娘であるうーちゃんも、終生一方通行なかかへの愛情を抱え、的外れな祈りと行動しかできなくて報われないまま。

ああ、なんて不幸なんだろうなぁと思いました。

そして、不幸だからこんなにも心に染みついて、物語として記憶に残るんだなぁと実感しました。おわり。

人間っていいのか?:『サピエンス全史』

昨年末に読んで、別次元に面白かった本が『サピエンス全史』。

世界的ベストセラーですが、私はモデルの大屋夏南さんのYouTubeで初めて知りました。

まず、上巻冒頭からすごい名文で感嘆しました。

ちょっと長いけど、とっても美しいので全部引用したいと思います。

今からおよそ一三十五億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根本を成すこれらの要素の物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから三○万年ほど後に融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがてその原子が結合して分子ができた。原始と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ三八億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ七万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成し始めた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。

 

(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)ーー文明の構造と人類の幸福』柴田裕之 訳 河出書房新社 2016.9.30)

壮大でありながら文学的でもあり、素晴らしい文章だなぁと読むたびに思います。訳者の方の技術とセンスもずば抜けて高いですね。まさに歴史に残る名文だと思います。

この導入で一気に惹き込まれて、かなりボリュームのある本にもかかわらず、読み進めるのが全く苦じゃありませんでした。

 

概要としては、神がかって俯瞰的な目線で人類の歩んできた歴史を記述し、さまざまな角度から解明されていない問題や未来の課題を検証している本です。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだときにも似たような感覚になるのですが、この『サピエンス全史』を読むと、思考が整理整頓され、視点が浮世の一段上に移る感じがします。

あるいは、価値観のステージが一段下(ベース・根底に近い層)に移行するとも言えます。伝わりますかね…。

日常生活で使っている「いい/悪い」「望ましい/望ましくない」といった価値基準の一段下、「そもそも“価値がある”とはどういうことか」というレベルの目線になるんです。狭義の意味での哲学的次元。

その次元に思考がいくと、狭まっていた視野が広がり、イライラしたりモヤモヤしたりしていたささいなじしょうから一定の距離が取れて、少し冷静な気持ちになれます。

そういった意味では、心の清涼剤ともいえる本でした。

 

***

 

上巻では、神話の力で人類がよりパワーを持ち、人工的な本能のネットワーク「文化」を構築していく様が記述されています。

特に印象的だったのは、「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」という経験則。

男性同士でセックスを楽しむのも女性が子供を産んだり産まなかったりするのも、生物学的には可能で、可能なものは全て自然なものである、というのが生物学的作用。

一方で、男性同士のセックスを禁止したり、女性に子供を産むことを強いたりするのは一部の文化、すなわち文化的作用なんですね。

文化的に断罪する人々は「それはヒトとして不自然だ」などとあたかも生物学的視点であるかのような主張をするけれど、本来不自然なことというのはそもそもなし得ないこと(男性が光合成する、女性が光速より速く移動するなど=不可能なこと)なので、禁止する必要がないわけです。

つまり何かを禁止したり制限したりするというのは、必ず文化的な作用が存在していて、それが多くの人にとって救いになったり障害になったりするってことなんですね。

 

こうしてあらためて言われると当たり前のように感じるけれど、たとえば中学時代、わけわからん校則だらけ(ルーズソックスは履くなとか派手なブラジャーはつけるなとか)のような世界にいたとき、反発や反抗はしてもここまで原理的に考えてはいなかったなーと思いました。

そもそもそういう原理的なことを考えさせる教育方針だったら、そんなわけわからん校則なんて存在しなかったかもしれませんね。

 

***

 

下巻では、仏教についての記述が刺さりました。

著者のユヴァル・ノア・ハラリさんはユダヤ人らしいですが、仏教徒であるはずの私より仏教の理解が遥かに深い。

下記の解説を読んで、あらためて私ってつくづく仏教徒だなと思いました。

ブッダとは「悟りを開いた人」を意味する。(中略)彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではEがつねにmc二乗と等しいのとまったく同じで、つねにどこでも正しい。仏教徒とは、この法則を信じ、それらを自らの全活動の支えとしている人々だ。一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。 仏教は神々の存在を否定しない(中略)が、苦しみは渇愛から生じるという法則には何の影響力も持たない。もし、ある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。   

 

(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(下)――文明の構造と人類の幸福』柴田裕之 訳 河出書房新社 2016.9.30)  >  

 

この一節を読んでから、ことあるごとに自分の中の「渇愛」に目を向けるようになりました。そして「あー、悟りたいなぁー」とまた渇愛するという(だめじゃん)。

また、神という存在の考え方についても、認識をあらたにしました。そうそう、神への信仰はあんまり重要じゃないんですよね。  

 

あとは、最後からあとがきにかけても秀逸だなぁ〜と感じました。

物理学や化学などの自然科学を駆使し続けた結果、前人未到の新世界が到来するかもしれない近未来。

ほかの植物も動物も、自分たちの欲望すらも思うがままに制御できるかもしれない中で、人々は何を望むようになるのか、そもそも「何を望みたいのか」が問われるかもしれないと言います。

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

 

(同上)

欲望の全てが叶っても、人間ってまだ何かを望むんでしょうかね。やっぱり欲望に果てはないのか。満足って一時的でしかないものなんですかね。

そう考えると、つくづく渇愛から逃れて悟りたいと思ってしまいます(またここに帰るのか…)。

 

そんなわけで個人的にはさっさと悟りたいんですが、一方で人間のどうしようもなさにワクワクしてしまう悪趣味な自分もいます。

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。 自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

 

(「あとがき――神になった動物」同上)

神であるかはさておき、「自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な」状態の人って、すでに現代に沢山いるんじゃないかと思いました。私自身ももしかしたらこの状態にいるのかもしれません。  

自分の楽しみ、自分の快楽、それらを求めて苦しみ、手に入れて一旦は満足しつつも決して望みは尽きずにまた新たな楽しみや快楽を追い求める。

それらを追い求めながらも、自分の本当の目的が何で、自分の欲望の正体が何なのか理解しきれておらず、絶えず不満が募る。

人間って、なんて阿呆でどうしようもないんでしょう。

でも、そのどうしようもなさがあったから、今の数々の文化が生まれてきたのかもしれません。  

 

さて、このどうしようもなさのループから脱出する方法はあるのでしょうか。それが悟りなんでしょうか。

少なくとも、宇宙とか地球上の生物たちの歴史とか、そういう壮大なスケールの話に思いを馳せると、日常の些事とか自分の人生とかがめちゃくちゃちっぽけでとるに足らないどうでもいいことのように思えて、少し気が楽になるので、本書はいい薬でした。おわり。

雰囲気映画、雰囲気小説、雰囲気アニメの存在意義

映画『ドライブ・マイ・カー』を観ました。

原作は村上春樹『女のいない男たち』に収録されている短編?で、私はこの本を2年前くらいに読んだことがあります。が、そこまで強い印象は残ってなくて、覚えている感想は「全然女いたやんけ」ってことだけでした。

「女のいない男」と聞いて私が思い浮かべていたのは、彼女いない歴=年齢で素人童貞、みたいな男性像だったのですが、実際作品の中の男性たちは全然そんなことなくて、どちらかというと「かつては女がいて(しかも複数だったりする)、今はいない」だけだった記憶です。


そんなわけで、原作が既読にもかかわらず特に心に残っていなくて、でも映画作品としてはカンヌで賞獲ったりいろんな文化人が褒め称えたりしているようなので、もしかして面白いのかも、と期待して劇場へ行きました。


観た感想を率直にいうと「やっぱようわからんかったわ」。これです。

音楽はよかったです。常温の心地いい感じ。

映像も好きな雰囲気でした。柔らかで、日常を愛おしく美しく映し出す感じが好印象でした。

脚本が???だったのかな。もともと村上作品の語り口調も独特だし、全体的に台詞が説明過多というか、この人何言ってるのかなって場面がかなり多かったです。まあもともとのストーリー自体も私からすれば???だったのかもしれません。


でも、そんな「ようわからん」かった内容でも、鑑賞後の余韻は不思議と悪くなくて、強烈に感動したことはないんですが、ふんわり記憶に残る感じがしました。

俗にいう「雰囲気アニメ」に近いものがあります。

私が雰囲気アニメと聞いて真っ先に思い浮かべるのは『空の境界』シリーズ。

私はこのアニメ作品の物語について正直ほとんど理解できていないし、だから他人にも説明できないのですが、劇場版が公開されると映画館に足を運ぶくらいには好きです。

別に心に残る名シーンや台詞があるわけでもなく、キャラクターの熱烈なファンであるわけでもないし、登場人物たちが何と対峙しているのかもよくわかっていないのですが、不思議と観ていて惹き込まれて、その世界観に浸れるのです。


私はこのブログで、自分の感情や思考に深く影響を与えたと思える作品を通して、自分の内面を見直す作業をしてきました。

けれど思い返すと、激しく感動したわけではないけれど、なんだったら作品タイトルもうろ覚えだったりするけど、ふとしたときに思い出す物語というものもあって、そういう小さなかけらも案外自分の思考に影響を及ぼしているのかもしれないと思い至りました。

さらに、この「なんとなく好きな感じ」「なんとなく心に引っかかる感じ」というのは、微弱であるぶん言語化するのがさらに難しいです。


私は来月32歳になるのですが、年々日々の記憶の抜け落ちが著しいなーと感じています。

このブログも含めて、20年近く日記を書き続けていますが、読み返さないと数日前や数ヶ月前に何をしていたか全然思い出せなかったりするのです。

特にコロナ禍のこの2年くらいは、旅行にもほとんど行っていないし、コンサートやお祭りなどのイベントごとからも遠のいているので、だらだら似たような日常を送っていると本当に印象的なことが少なくて、記憶に残らないみたいです。


いまここに存在している私の視点、意識、perspectiveの中には、私の記憶が内包されています。なかば記憶に準拠しているともいえるくらいです。

だから記憶が増えないと(もしくは変化しないと)私の視点や意識やperspectiveも変化しない・更新されないわけで、それらが更新されないということは、文化的に・社会的に・形而上学的に(?)生きていないのと等しいと思うのです。

ただ有機物である肉体が生存維持しているだけでは、私は生きているとは感じられないのだということに気づきました。気づいたというか、多分昔からそういう思想ではあったと思いますが、改めて認識しました。


ほんのわずかに・少しでも思ったこと、考えたこと、気づいたことがあったら、今まで以上にまめに記録しておきたい。映画『ドライブ・マイ・カー』は、そう思ったきっかけになりました。おわり。

平家物語とタルムード金言集のあいだで

アニメ『平家物語』を観ました。
映像もドラマも非常に美しくてとても感動した反面、良くも悪くも“日本人的価値観”を強く感じて、しみじみ考えてしまいました。
ここで私のいう“日本人的価値観”とは、恥の文化や有終の美と呼ばれる類のものです。

終盤どんどん追い込まれていく平家一族。かつての栄華のときを思い返してはやるせない思いでいっぱいです。
壇ノ浦の戦いにてついに打つ手なしとなった彼らは、次々と自ら海に沈んでいくんですね。
もし平家のみんながユダヤ教徒だったら、絶対こんなことにはならないだろうなと思いました。なぜそんなことを思ったかというと、昨年末にこの本を読んだからです。
確かにユダヤ教徒は、過去に想像を絶する迫害に遭って「死んだ方がマシ」とすら思える仕打ちを受けても、最後まで諦めなかったんだなと想像できました。まあ、そもそもユダヤ教徒のストイックさがあったら「驕れるものも久しからず」なんて状態にはならなかったかもしれませんが。

もし私が平家の人間だったら、やっぱり自死したり出家したりすると思います。矜持の問題ではなく、単純に痛みや苦しみに耐えられないし、かといって打開策を発想する自信もないからで、ひたすら逃げの思考というか、むしろ思考停止の結果です。
現代の日本人ならどういう人が多数派なんですかね。勝手な印象ですが、欧米人だったら自死も出家もしなくて、どうにか逃げのびる手段を考えたり作戦練ったりしてそう。

もうひとつ考えたのは、この物語自体の印象・読後感も、人種や宗教の違いで大きく異なるのだろうかということです。
ラストの平家一族が次々海に沈んでいく場面や、清経が最期の笛を吹いて船から飛び降りる場面や、敦盛が清経にした約束を思い返しながら敵に斬られるところなど、私は胸が締め付けられて切なさや儚さを感じて感動したのですが、この感動ももしかしたらものすごく“日本人的”なのかなぁと思いました。
この「儚さ偏愛主義」ともいえる嗜好って、万国共通してあるのでしょうか?私はどうにも日本人のDNAを実感してしまったのです。
というのも、感動している一方で「なんか自己陶酔してるよなー」と妙に白けた気持ちも頭の片隅にあるんですよね。散り際に美学なんて求めてどうする、みたいな。
最後の最後まで「いやだー死にたくないー!」「頼朝の野郎〜ぜってー許さねぇー!」とかジタバタしている方が人間らしく感じられて共感できちゃうかもしれません。儚さは感じないかもしれないけど。

極限まで追い込まれたときに、
プライドをもって自死を選ぶのも、
さっさと苦しみから逃れたくて死んだり出家したりするのも、
最期まで足掻いてジタバタするのも、
決して諦めず問題解決しようとするのも、
心の在り方としてはどれが正解でも間違いでもないんですよね。その人の人生の問題であって、本人の気持ち次第。
けれど、民族とか種族の思考パターン・傾向としてそれらが積み重なると、国益や市場競争、種の繁栄・絶滅にも関わってくるのではないかと思えたのでした。

***

しかし、あらためて平家物語の冒頭文(「祇園精舎の鐘の声〜ひとえに風の前の塵に同じ」までの一連)って美しいですよね。中学の頃に暗記させられた記憶があるのですが、今思うとなぜこれを暗記する必要があるんですかね。
国語の授業で習ったけど、国語というより日本人的価値観の情操教育という方がしっくりきます。
ということは、儚さ偏愛主義も学校教育で育まれたのかしら。なんか嫌だわ。おわり。

『地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門』

あけましておめでとうございます(もう15日ですが)。

昨年末から今年にかけて面白い本に立て続けに出逢い、いろんな思いが帰省ラッシュ東名高速道路くらいの大渋滞を起こしています。

少しずつ噛み締めていきたい、そんな正月。

面白い本渋滞のわりと先頭の方に読んだのが、木下斉『地元がヤバい…と思ったら読む 凡人のための地域再生入門』でした。

社会派っぽいタイトルですが、小説仕立てになっており、物語としても楽しめました。

 

主人公は三十路を過ぎた独身サラリーマン・瀬戸淳。淳は高校卒業とともに上京し、そのまま東京で働いており、出身は東京から少し離れた地方都市です。

淳の実家は商売をしており、父の他界後母がひとりで切り盛りしていましたが、母が店をたたむ決断をしたことから、店仕舞いの手伝い等で淳はこまめに地元に出入りするようになります。

そんな折に偶然再会した高校の同級生・佐田が、地元でさまざまなビジネスを立ち上げ地域を盛り上げていることを知り、本当に畳んでいいのか迷っていた実家の家屋をビジネスに活かせるかもしれないと考えた淳は、佐田と2人で新たな会社を立ち上げることに。しかし事業を進める中で様々な問題や思惑にぶち当たり・・・といったストーリーです。

 

私も淳の地元と似たような東京から少し離れた地方都市出身なので、衰退していく地元のもの哀しい感じや、田舎にありがちな保守的で閉鎖的な村社会と事なかれ主義な様子などを読んでは「めっちゃわかるわ〜」と共感しきりでした。

私は28歳までほぼ地元で過ごしており、地元の企業で働いてきた経験があります。なかでもマスコミで働いていたときは、他の民間企業よりも"官"との繋がりが濃くて、役所や商工会議所などのイヤ〜な部分もたくさん見てきたので、補助金関係の話は特に「ほんそれ(本当にそれな、その通りだな)感」が一入でした。

 

淳は最終的に東京の会社を辞めて、佐田と立ち上げた事業を軌道に乗せて地元で再び暮らすようになります。なんだかんだ思い入れもあったのかもしれません。

私は28年暮らした地元に対して、大嫌いとは言わないまでも、そこまで好きでもないと思っています。

在来線で東京へ日帰りできるくらいの距離感ですが、考え方や人間関係のあり方はどちらかというと保守的で村社会的な地域でした。他所者には好奇と偏見まみれの目が向けられるし、家父長制と男尊女卑も甚だしくてセクハラも横行してるしで、若くて時代に沿った考えの人々は都会へ流出してしまって、都会への憧れはあるけど飛び出す勇気はない人たちだけが踏みとどまっているような、そんな閉塞感で満ちた街。それが私の地元であり、もしかしたら淳の地元や、他の日本の地方都市も似たようなものなんじゃないかとも思います。

 

何か決定的にイヤなことがあって地元を出たわけではないですが、あのままずっといるのはやっぱり耐えられなかっただろうなと感じます。

その一方で、地元のことを思い返すことがままあります。コロナ禍で数年地元の地を踏みしめていないせいもあるかもしれません。

 

この数年でしみじみ感じるのが、「私は地元に胃袋掴まれてるなー」ということです。

東京にも美味しいお店はたくさんあります。でもまず値段が数段高いし、「これじゃないと!」という決め手に欠ける味が多いのです。

私の地元はローカルグルメが多彩で、安くて美味しい店がいっぱいあります。全国的に有名な老舗カフェや、全国メディアでも取り上げられるレベルのパン屋やレストランもあったりして、とにかく食のレベルが高いです。

その背景には、東京と近いという地理的要因も関係していると思います。

県民は東京が近い分、都会で流行っているグルメにも精通しています。その上で、家賃は東京より圧倒的に安いし、人口や交通量は少なくて自然豊かで空気も水も数段美味いので、いい素材が東京より安く容易に手に入る土壌があります。

だからこそ東京に負けないレベルの味を、東京よりはるかに安く、かつ広くて清潔な店内で提供することが可能なのです。

 

地元を離れてもうすぐ4年が経とうとしていますが、いまだに「〇〇の麻婆豆腐が食べたい」「△△でアフタヌーンティーしたいなぁ」「××の薬膳スープ飲みたい」など、熱望する"あの店のあの味"が多々あります。

また、年に数回ハハが思いついたように地元の果物や特産品を送ってくれる時があるのですが、それを食すたびに「やっぱり地元の食材はレベルが高いな〜」と感じます。

もちろん東京にもそれらは流通しているわけですが、値段が数段上がってしまうし鮮度も落ちます。

 

けれど一方で、今住んでいる街が自分の生まれ故郷だったら、もっと華やかな青春時代を過ごせたんじゃないかと考えを巡らせることもたくさんあります。

様々な展覧会や展示会があちこちの美術館で開催され、マイナーなアーティストの追加公演が急遽開催されたりするライブハウスがあちこちにあり、水は決して綺麗ではないけれど港もビーチも存在する海辺があり、貴重な資料も閲覧できる充実した図書館も書店も山ほどある。街を歩くたびに感じる、都会ならではの文化レベルの高さや街の多様性を目の当たりにするたび、「生まれ変わったらこの街の子供になりたい」とすら感じます。

 

47都道府県やいくつかの海外を旅行して分かったことの一つに、自分は自然豊かな田舎よりも都会の方がはるかに好きだということがあります。

確かに海や川や山のダイナミックな自然も魅力的ではありますが、それらはたまに遭遇するくらいで十分で、長い時間暮らすには静かすぎるし退屈すぎるのでした。

たとえ空気や水が汚くて、謎の湿疹が現れたり精神状態に支障をきたしたりしたとしても、夜真っ暗になって人がいるのかいないのかわからない静かな田舎よりは、夜中でもバンバン車が走ってて明るくてやかましい都会の方が私は好きです。

田舎で生まれ育ったのに、何故そうなったんですかね・・・。

ハハの昔話によると、私は幼児の頃従兄弟の家に行く途中、帰宅ラッシュの京王線新宿駅の人混みを見て目を爛々とさせ「楽しいね」と興奮していたそうです。そして身動きできない橋本行きの満員電車で立ったまま爆睡していたそうです。なんじゃそりゃ。

一人っ子だから人がたくさんいるのが珍しくて楽しかったのでしょうか。とにかく、幼い頃から過疎地よりは密集地帯の方が好きだったみたいです。

 

そんなこんなで、基本的には都会が好きだし今暮らしている首都圏の生活は十分素晴らしいと感じてはいるのですが、胃袋掴まれてる故郷の田舎のこともなんだかんだで気に留めてはいる、そういう状態です。

 

***

 

最近感じることの一つに「大人が考えをあらためるのって、よっぽどのことがない限り難しい」というのがあります。

私は現在31歳ですが、すでに今の時点で新しいことや未知の概念を吸収する力がかなり落ちてきているのを感じるんですよね。

転職も死ぬほど面倒くさいし、引っ越しもしんどい。新しいアイドルグループのメンバーはみんな同じ顔に見えるし、知らないカタカナ用語を調べる気力すら湧かないことがままあります。

これくらい変化に順応しづらくなった大人が、田舎は都会の比じゃないくらいの割合でいるのです。

さらに悪いことに、たとえ自分の年齢が若くても、周囲の先輩や上司が変化できない大人ばっかりだと、自分の変化許容性もかなり早い段階でストップしてしまうんですよね。前の職場の同い年の同僚がまさにそれでした。

「お前は大正か昭和の生まれなのか?」とつっこみたくなるほど全時代的な価値観を持っていた同世代のその同僚は、新卒からずっと半官半民みたいなメディア企業で市場原理とは遠く離れた価値世界で働いてきた人でした。私は彼に出会ったことで、先進的になるか前時代的になるかは、年齢の問題ではなく身を置く環境の問題なのだと気づきました。

 

地方にも頭の柔らかい若い思考を持った人は存在するし、そういう人が頑張って地域を盛り上げているのは私の地元も例外ではないです。

けれど、そうして頑張っている人たちの足を引っ張る土着の人々もたくさんいるのも事実です。

この本の帯にもあるように、補助金絡みのきな臭い事案もいくつもあります。私も過去にいくつも虚しいプロジェクトに携わってきました。

 

ムカつくことや受け入れ難いこともたくさんあるけど、なんだかんだ言って、やっぱり地元には元気でいてほしいと思います。

人間は楽しい思い出のある土地にどうしても愛着を抱いてしまうものです。

文化度が低くて港も浜辺もない街だとしても、地元にはどうしても揺るぎない青春の思い出がいくつもあるわけで、自分の人生から切り離すことはできないんですよね。そんな自分の一部とも言える街なわけですから、どうせなら活気にあふれていてほしいです。

 

まずは、市場原理とかけ離れた、わけわからん政治的事情やそれに付随した補助金ビジネスはマジで無くなって欲しいと、この本を読んで改めて思いました。

この国には、税金払うのが馬鹿馬鹿しく思えるようなアホみたいな補助金事業が掃いて捨てるほどありすぎます。

前の会社も、そうした補助金ビジネスで一時的に潤って、でもそれはどうしても一過性なのでその後の立て直しができなくてずっと苦しい状態でした。おそらく今はコロナ禍でさらに酷いかもしれません。

大震災とかパンデミックとか一極集中とか、補助金大義名分はいくつもありますが、マーケットの原理とかけ離れた大金っていうのは、最終的には毒にしかならないですね。補助金を受けた側はそれに依存した体制になってしまうし、元々マーケットのニーズがあったわけではない事業だから持続性もない。

 

今の会社はそういうのとは無縁だと思ってたんですが、このコロナ禍でまたいろんな種類の補助金ビジネスが立ち上がってるみたいで、どうもそこに一枚噛んでるみたいなんですよね〜・・・ほんと、関わらない方がいいのに。こちらもきな臭くなってきました。

自分の地元との距離感や、中央集権や既得権益との関わり方について、改めて問題提起をしてくれる良書でした。おわり。

私にとっての山本文緒(4):『ばにらさま』

山本文緒作品についてつらつら書いてきましたが、一旦ここで終わります。

 

山本先生の訃報を聞いてから、最後に出版された短編集『ばにらさま』を買いました。

発売は今年の9月ですが、収録されている作品は5〜10年以上前のものです。

文藝春秋の作品ページに概要が載ってました。

冴えない僕の初めての恋人は、バニラアイスみたいに白くて冷たい

日常の風景が一転! 思わず二度読み!

痛くて、切なくて、引きずり込まれる……。

6つの物語が照らしだす光と闇

島清恋愛文学賞本屋大賞ノミネート『自転しながら公転する』の山本文緒最新作! 

伝説の直木賞受賞さく『プラナリア』に匹敵るす吸引力! これぞ短編の醍醐味!

 

ばにらさま  僕の初めての恋人は、バニラアイスみたいに白くて冷たい……。

わたしは大丈夫 夫と娘とともに爪に火をともすような倹約生活を送る私。

菓子苑 舞子は、浮き沈みの激しい胡桃に翻弄されるも、彼女を放って置けない。

バヨリン心中 余命短い祖母が語る、ヴァイオリンとポーランド人の青年をめぐる若き日の恋。

20×20  主婦から作家となった私。仕事場のマンションの隣人たちとの日々。

子供おばさん 中学の同級生の葬儀に出席した夕子。遺族から形見として託されたのは。

 

文藝春秋BOOKS 作品ページより)

やっぱり面白いなぁ、としみじみ思いました。山本文緒の小説は、いつどれを読んでも本当に面白い。

作品ページの作者メッセージに「どの作品にも「え?!」と驚いて頂けるような仕掛けを用意しました」とあるように、山本文緒作品はどれもプロットが作り込まれていて、読者の心情誘導がとても計算されているんですよね。楽しませよう、伝えようという作者の熱意を猛烈に感じる物語設計がなされているのです。

『ばにらさま』にはそんな山本節とも言える緻密な展開がてんこ盛りなのと同時に、本意でない人生を生きる人間の苦悩や見栄や葛藤をまざまざと突きつけられました。

それは自分の内面を暴かれる感覚でもあります。

 

***

 

表題作の「ばにらさま」こと主人公の彼女・瑞希は、30歳を目前にひかえた独身派遣OLです。

主人公の広志は浮いた話のなかった新人サラリーマンでしたが、突然瑞希に告白され、2人は付き合うことになりました。

瑞希は華奢で色白でおしゃれで体温の冷たい女です。瑞希から告白したものの、これといって情熱的な感じでもなく、お互い一定の距離感を保ったまま関係が続いていました。

2人のデートや職場の描写と、瑞希の日記らしい文章が交互に書かれており、終盤その日記(ブログ)を広志が読んでいてなおかつ瑞希に黙っていることが読者に判明します。

彼女は誰もが読めるインターネット上に心情を綴って、誰かが心を寄せてくれるのを無意識に期待している。でも誰かが読むことを意識しているからこそ本音は曖昧にされ演技が抜けきっていなかった。そこが一番痛かった。

(中略)

そんなにも不安なのか。こんなモテた例しのない半人前の男にしがみつかなければならないほど、彼女の目に見えている世界は厳しいのか。契約が更新されないかもしれないと上司に嫌味を言われただけで、好きでもない男に抱かれようとするのか。すき焼き鍋だって買ったばかりのものだった。霜降り牛とその細くて冷たい体で、将来の食い扶持を確保しようという気なのか。

 

山本文緒「ばにらさま」『ばにらさま』文藝春秋 2021.9.20)

長年インターネット上に日記を書き続けている身としては、瑞希の境遇は他人事とは思えませんでした。

私も十分痛々しいかもしれない。いや、確実に痛々しい。

でも、これからもネットに日記をつけることはやめないだろうなぁと思います。中学時代からあちこちで書いてますが、もはやネット上に心情を吐露することは私にとってライフラインというか、精神衛生のために欠かせない行為になっている気さえします。

 

このブログ以外にも私の日記はネット上にあって、ものによってはもっと乱暴なことが書いてあったり、ただの愚痴しか書いてなかったりします。

このブログに関しては、自分を省みることが中心テーマなので、己の過去についてかなり詳細に書いてきました。

おまけに取り上げてきた作品タイトルによっては、検索上位に引っかかるエントリもあるので、リアルに私を知っている人間がこのブログを発見する可能性はそこそこあるんじゃないかと思います。

幸い今のところ「これ書いてるのお前か?」と聞かれたことはないですが、広志みたいに黙って読んでる知人がいないとも限りません。

それによって不都合が生ずることもあるかもしれないけど、多分誰かにここがバレても今更書くのをやめることもないです。

むしろクソ長い自己紹介ツールとして機能するレベル。

私の暗さ、安直さと短絡さに狭い視野と、何もかもがこのブログから読み取れるんじゃないかと思います。それを他人が読んでももちろんつまらないので、”心を寄せてくれる”なんてことも勿論ありません。が、書いてる私自身は読み返すのがめちゃくちゃ面白いんです。

瑞希も本当はそうなんじゃないかという気がしました。

 

***

 

「そんなにも不安なのか」と広志は言っているけど、そりゃ不安ですよね。

瑞希みたいに、本当はこんなはずじゃなかったという感じの人生を歩む人間はもれなく不安なんじゃないでしょうか。私だって不安です。

でも仮に、広志みたいな正社員で土地持ちで将来有望そうな男性と結婚して専業主婦になれたとして、それで不安が消えるのかどうかは、実際なってみないと本当にわからないですね。

結婚したらしたで、また違う「こんなはずじゃなかった」事態が起こるかもしれないですし。

 

2話目の「わたしは大丈夫」の主人公も、最初は夢に向かって堅実に頑張っていたのに、ひょんな恋愛で道を踏み外し、思い描いていた未来とは全然違った人生を歩むことになってしまいました。

私は一人で大丈夫だったし、これからも大丈夫。だって一人でやっていくしかないのだ。男手が身近にあってもなくても、恋愛があってもなくても、生きていかねばならないことに変わりはない。背が低くたって電球は脚立に乗って自分で取り換えるし、重い荷物も自分で持って歩ける。

「人をあてにすると癖になっちゃうから」

 

山本文緒「わたしは大丈夫」同上)

確かに大丈夫といえば大丈夫でした。でも、いつ大丈夫じゃなくなる時が来るかわからない。結局はどれだけ頑張っても、生きている限り、未来がわからない限り不安が消えることはないんですね。

 

不安や本意じゃない人生、思い通りにならない自分に対する疲れと諦め。

そういった人間のどうしようもなさと、それでも生きていく中で起こりうる物語と心の機微。

自分ひとりでは掬いきれない感情や思想を、山本文緒という小説家が的確に表現し提示し続けてくれたのだと思います。

素晴らしい作品の数々に出会えて、本当によかったです。心の底から感謝を伝えたいです。

まだ読んでいない山本作品が数冊あるので、この先大事に大事に、読んでいこうと思います。おわり。

私にとっての山本文緒(3):『みんないってしまう』

間が空きましたが前回のつづき。

 

自分の人生にもっとも影響を与えた本を1冊だけ選ぶとするなら、私は山本文緒『みんないってしまう』を挙げます。

はじめてこの作品を読んだのは高校3年生の終わりのことです。

高校生の頃の私は、これまで何度かここでも書いてきましたが、生まれてきたことがとにかく嫌で、生きているのがしんどかったです。

生きていることに希望が何もなかったので、進路についても真面目に考える気が起きず、周囲の勧めるまま、センター試験の結果を踏まえて「もしかしたら受かるかもしれない」レベルの国立大学の理学部数学科を受験しました。

将来の夢なんてなかったけれど、数学の先生に高校3年間惚れ続けていたので、数学の成績がとても良かったのです。

前期試験で受けたのは関西の大学で、ちょっとした旅行気分でしたが、試験は普通に解きました。ただ、受験当日初めて訪れたその大学の校舎や周辺の街並みを見て「ここに通うのは嫌だなぁ」とぼんやり思いました。

卒業式を終え、合格発表当日、自宅のPCで合否を確認すると、なんと合格していました。

当時の担任に電話で合格したことを告げるととても驚かれたのを覚えています。合格はしたけど入学はしないことを告げるとさらに驚かれました。

 

後期試験では別の大学の理学部数学科を申し込んでいましたが、そこに受かる確率は前期より低い見込みでした。

クラスメイトと面白半分で受験した近隣のFラン大学に、学費や入学金など全額免除の特待生で合格していたので、もうそこでいいやという気持ちでした。

けれども、これまで色々世話になった先生たちや親戚たちの期待や、自分の見栄や、将来本当はどうしたいのか分からない気持ちなどいろんな考えや感情がごちゃ混ぜになって、どうしたものかと悶々としていました。

 

その日の高校は、入試準備のため部活動が全て休みになっていて、前期試験で落ちて後期にかける受験生たちが勉強に励めるようにだけ解放されていました。

私は勉強する気はほとんどなかったけれど、家にいても埒があかないので気晴らしに学校に行きました。

シーンとした校舎。教室にはほとんど誰もいませんでした。

よく晴れた、春を待つ陽気の日でした。今まで見たどんな日よりも静かな学校をふらふら歩き回り、それまでよく利用していた図書室に入りました。

図書室にも誰もいませんでした。机にノートや問題集を出してみたけど全く開く気にならず、窓を開けてベランダに出てぼーっとしていました。

 

誰もいない校庭。青い空。静寂。

私これからどうするんだろう。あとどれくらい生き延びなければならないのだろう。

まだ若い肉体。でももう何の可能性も残されてない気がする。

虚無。

 

室内に戻って本棚をざっと見ていると、文庫の棚にあった『みんないってしまう』に目が止まりました。

山本文緒の本だ。でもまだ読んでなかったなぁ。

そう思って暇つぶしに手に取ったオレンジ色のその文庫は、人々が生きていく中でいろんなものを失くしていく、喪失のようなことがテーマの短編集でした。

相変わらず一編一編面白い。そのうちの一作品「ハムスター」の中の一節を読んだ時、衝撃が走りました。

 

***

 

「ハムスター」の主人公・ラン子は、高校中退のフリーターです。

ハハと妹のミキ(高校生)と赤ん坊のスウちゃんの4人家族で暮らしていて、ハハはある男の愛人でありパート勤めもしています。

ハハとラン子は性格のゆるさが似ていて、スウちゃんが近くにいてもスパスパ煙草を吸うし、家賃を踏み倒しても特に何とも思わないズボラさを持ちます。

一方次女のミキはルーズなことが許せない性格で、計画性や世間の常識を重んじるタイプ。学校での成績もトップクラスだそう(でもラン子もミキも同じ県立高校です)。

 

ある日、ミキが修学旅行で家にいない間に飼っていたハムスターが全滅しました。

ミキしか世話をしていなかったので、彼女がいなくなった途端ハムスターたちは食べ物がなくなり共食い争いの果てに滅亡したのです。修学旅行から帰ったミキはその惨状を見てブチギレし、家出してしまいました。

しかし「家出はレジャーのひとつ」くらいに考えているハハもラン子も特に気に留めることもなく放っておく始末。数日後、ミキの担任から学校に保護者呼び出しがかかり、ハハから面倒ごとを押し付けられたラン子は数年ぶりに母校を訪れます。

 

ミキはクラスメイトの家に世話になると言い、話がまとまって帰宅するラン子に声をかけたのは、ラン子が昔世話になった学年主任の木戸先生でした。

ラン子が在学していた頃の教師は転勤、栄転、左遷などでみんなもういないと木戸は言いました。

「先生は?」

「俺か?俺はいつも平均点だからこのままさ。ずっと主任。教頭にはなれない。でもいいんだ。偉くなんかなりたかない」

私は笑った。そうだ。高校に入ってからいつもテストは四十五点だった。それで何も不都合はなかった。ミキが言うところの”人様”には迷惑がかからなかったはずだし、怒らせもしなかった。でもそんなことはどうでもいいことだ。

ミキは将来スウちゃんを引き取りたいと言っていたけれど、それだけは反対しよう。ミキはきっとスウちゃんに九十五点を求めるだろう。私とハハなら、四十五点の人生でよかったよかったと笑ってあげられる。人様に褒められなければ充実しないような、そんな人生を否定してあげられる。

 

山本文緒「ハムスター」『みんないってしまう』角川文庫 H11.6.25)

この文章を読んだ時、本当に驚きました。

テストでいい点を取り続け、JKとしてチヤホヤされ続けているうちに、私の意識もいつしか”九十五点を求める、人様に褒められなければ充実しない”状態になっていたことに気づいたからです。

目が醒めたような気持ちでした。

 

なんで理学部数学科を受験したのか?数学の成績が良くてチヤホヤされて、先生たちに勧められたから、受かったらまた褒めてもらえるかも、喜んでもらえるかもって思ったのかもしれない(実際とても喜ばれました。入学しないと言ったらみんなに反対されたけど)。

いつの間にか勉強が得意になっていて偏差値がちょっと高くなっていたけれど、元々幼い頃から勉強するより漫画やアニメを観ている方が好きだったし、中2までは入れる高校がないと言われるくらい成績も悪かったんです。

両親も叔父や叔母たちも皆高卒だし、東大や早慶に行った親戚なんてだいぶ遠縁の人たちです。

 

先生たちに褒めてもらえたから、親戚たちに喜んでもらえたから、一体何になるというのだろう。

九十五点を目指して、それでどうしたいのだろう?

人様に褒められなければ充実しない人生の、なんと虚しく苦しいことか。

本当に面食らいました。

 

***

 

結局後期試験は受験したけれど予想通り不合格で、浪人してまで進学したい学校も学科もなく、ましてや働きたくもなかったので、予定調和的に特待生で近隣のFラン大学に進学したのでした。

学歴フィルターは通過できないけれど、かろうじて”大卒”条件は満たせるし、特段頑張らなくても4年間トップの成績が保てて、費用が1円もかからなかったのは助かりました。

元々奨学金を借りずに進学するのは国立でも厳しいレベルの経済状況だったので、もしあの時多少無理して国立に進学していたら、その後ふらふらニート生活したり思いつきで転職したりもできなかったかもしれないと思います。進学後すぐにリーマンショックもありましたし、卒業すら危うかったかも。

 

***

 

私は元々の気質はどちらかというとミキタイプなので、放っておくとまた人様の評価を気にしたり、九十五点を目指そうとしたりしてしまう時があります。

疲れたな、こんなはずじゃなかったなと思ったら、今でもこの作品を読み返します。

価値観の物差しをゆるいメモリに調整するために。

 

つづく