れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

疲れるけど避けられないフェミニズム

先日書店の雑誌コーナーで『Numero TOKYO 2023年3月号』をちらっと読んだんです。

それで後ろの方に「バービーのモヤモヤ相談室 」という、お笑い芸人のバービーさんの連載があって、それを読んだ時に脳にガツンとくるものがあったのでメモしとこうと思います。

 

雑誌の読者からのお悩み相談コーナーという、よくある読み物なんですが、今回の悩みは育児中の主婦からのものでした。

まだ小さい子供がいて、家事と育児で毎日疲れているけど、夫がとにかくセックスしたがりな人で、子供の前でも求めてくるし、避妊もしてくれないという相談でした。

産後は妊娠しやすい?とのことで、すでに2回中絶しているんだけど、どんなに回数を減らしてほしいと言っても、避妊をしてほしいと言っても、子供の前で盛るのはやめてほしいと言ってもやめてくれないらしい。

それを読んだ私は最初「まったくけしからん夫やな」と思っただけだったんですが、バービーさんの回答は第一声「これは犯罪です」とキッパリ断罪されていて、かなり衝撃でした。

バービーさんの回答に驚いたんじゃないです。明らかに犯罪なのに、そうとすぐに認識できなかった自分の麻痺した感覚にびっくりしたんです。

 

バービーさんのいう通り、両者に同意のないセックスは夫婦間でも性暴力であり犯罪です。だけど、あまりにも「よくある話」なので流してしまった自分がいました。

自分が同意していないのに、結局セックスせざるを得ないという状況が、あまりにも日常的にありすぎて、それが異常であり糾弾すべき事象であるという事実を忘れてしまっていたんですね。

自分が傷つけられたら腹が立って報復するのに、他人の被害に鈍感になっていた自分に本当に驚きました。

そして、女性が日常的に被害を被っている状況に慣れすぎて、刷り込まれすぎて、問題を正しく認識しきれていない事実に改めて絶望しました。自分も女性なのにこんななんで、男性の場合さらに認識できてないんだよなぁとか思ったり。

 

先日高野ひと深ジーンブライド』を読んだ時も同じような絶望と疲労を感じました。

女に生まれてきただけで、なんでこんなにサバイバルせなあかんのや、と、ほんと絶望しかない気分になる漫画ではあります。

冒頭の雑誌でバービーさんも言及していたけど、自分が傷つけられている、損なわれていることに気がつくことは苦しみを伴います。「気づきたくなかった」というのも不思議ではないくらい。

けど、やっぱり一度気づいてしまうと無視するわけにはいかないんですよ。気づかなかった頃には戻れない。無自覚なままでは無垢でいられないように、鈍感なままでは尊厳を保てないんです。

 

だから、韓国や日本で日々出版されているフェミニズム文学に対して、「読むのつらいなー」と感じる気持ちもあるんですが、やはりそれらは今まさに必要なものだな、とも思いました。

私たちは長きにわたって刷り込まれ、洗脳され、麻痺させられている現実に気づいて、自分たちが軽視され、侮辱され、踏み躙られていることにもっと正しく怒った方がいい。

それはBlack Lives Matterとかとも一緒で、ひたすら抗議しないといつまでも被害の連鎖が続くからなんですよね。

今かろうじて私たちが選挙権を持って社会的労働ができているのは、先人たちが抗議し続けて戦ってきたからです。私は別に娘もいないし、子供たちの未来についてそんなに思うところがあるわけではないけど、それでもやはりこの先もずっと(私が死んだ後の世界でも)女性たちが延々こんな理不尽な思いをし続ける世界は勘弁してくれよと思います。なんでか知らんけど、そう思ってしまう。

 

だから、つらいししんどいけど、自分が傷つけられている現実を正しく見つめようと思います。そしてできる限りの手段でそれに抗います。自分と、同じ時代やこれからの時代を生きる女性たちが少しでもマシな未来を手にできるように。おわり。

喪失と子育て:『わたし、今日から「おひとりさま」』

あけましておめでとうございます。

ぼやぼやしているうちに新年になってしまいましたが、昨年末に読んで印象深かった漫画について記録しておこうと思います。年末のうちに書いとけという感じですが。

装丁デザインとあらすじをさらっとみて、なんとなく読んでみたんですが、結構泣きました。

 

田舎で高校卒業と同時に結婚・出産し、愛する夫と利発な娘と暮らしていた専業主婦の主人公・泉は、ある日夫に離婚を言い渡され、娘は父についていくといい、三十路を過ぎて社会人経験ゼロのままバツイチの独り身になるところから物語は始まります。

利発な娘・ミチちゃんの勧めにより東京に出てきた泉は、高校時代の親友で現在は売れっ子ヘアメイクアップアーティストの独身貴族・じゅりちゃんの家に転がり込むことに。なんとかありついた家事代行サービスの仕事で出会ったイケメンのヒモくんに若干ときめいたりしながら、泉の東京ライフは一見順調そうでした。

 

泉は毎週土曜日には地元の喫茶店で愛娘・ミチちゃんとの近況報告会をしていたのですが…。

ここで大事なネタバレがあるので、読みたくない方は閉じてください。

 

じゅりちゃんは街中で偶然再会した泉との共通の友人から、泉の真実を告げられます。

実は、ミチちゃんは事故で死んでしまっていたのです。

愛娘の死を受け入れられず、いつまでも朝食を3人分作ったり、毎朝もういない娘に笑いかけたりする泉に耐えきれなくなったので、泉の夫は離婚を言い渡したのでした。

 

泉は本当に正気を失っているわけではなくて、実際には娘の死をきちんと認識しています。でも認めたくなくて、自分を支えるために、脳内で娘を生かし続けていたのです。

生前ミチちゃんが「大きくなったら東京に行ってバリキャリになる」と言っていたのを泉は覚えていて、愛する娘が見るはずだった東京の景色を自分が見に行こうと上京したのでした。

 

ミチちゃんが死んでいたことを知ってからの泉の描写は怖かったですね。ホラーでした。

地元の喫茶店のマスターがまた、優しいんですよね。泉の向かいの席は空席なわけですが、泉の視界の中にはミチちゃんがいるわけです。泉は毎回自分の分のアイスコーヒーと、ミチちゃんのためのクリームソーダをオーダーするんですが、泉が面白おかしく自分の東京生活の近況報告をする前で、静かに溶けてドロドロになっていくクリームソーダが本当に切なかったです。

 

じゅりちゃんはそんな今の泉の状態をまずいと思い、病院に連れて行こうとしたり、なんとか現実を受け入れるよう泉を説得しますが上手くいかず、泉はじゅりちゃんから距離を置くようにヒモくんの家に転がり込みます。

ヒモくんはクズ男ですが実は実業家でもあり、金銭的には大変安定した人間でした。そのうち泉はヒモくんの子供を妊娠してしまいますが、元夫と再会して話し合ったり、ヒモくんとも話し合ったりした結果、シングルマザーとして子供を産む決意をするのでした。

 

泉って一人でいる時はいい加減で奔放でふらふらした頭弱い感じがする女性なのですが、母親になった途端に強くなるんですよね。こういう女の人もいるのかーと勉強になりました。

そして一見無謀にも見える泉のシングルマザー計画や、職場での出産ラッシュを見ていたじゅりちゃんは、自分のキャリアと人生について再考するようになります。

「子供かー」

想像できない

仕事を中断してまで

私が誰かのために生きるなんて

 

(きよね駿『わたし、今日から「おひとりさま」』祥伝社 2022.11.15)

しかしながらじゅりちゃんは子育てしてみたい気持ちもあって、最終的に泉の子供を共に育てるというダブルマザー家庭を提案し、泉もそれを了承します。

 

私も泉とじゅりちゃんみたいなダブルマザーに育てられたかったな。楽しそうです。

私はじゅりちゃんみたいに仕事が好きなわけでも子育てしたいわけでもないですが、彼女みたいな女性は結構いるんじゃないかなーと思いました。

・子供が欲しい

・自分で十分に稼げる仕事をずっと持っていたい

・夫や子供の父親は特段いらない

という働く女性と、

・子供が欲しい

・外で働くのもいいけど仕事に熱中する気は必ずしもない

・夫や子供の父親は特段いらない

という女性同士で築く家庭って、無理やりこさえた旧来型の男女カップル家庭より円満にいく気がします。円満だったらすなわち子供にとってもより良い環境なわけで、つくづく出産まわりの制度改革をもっとフレキシブルにすべきだよなぁと思いました。

 

ま、私の場合は

・子供はいらない

・お金に困らなければ特段働きたくない

・夫もいらない

というないないづくしなので、そもそも関係ないと言えばないんですけどね。

 

物語の終盤、泉がミチちゃんの死を本当の意味で受け入れて、じゅりちゃんと一緒にミチちゃんのお墓参りに行ったシーンは号泣しました。今も思い出すと涙が出てきます。

私が子供はいらないという理由は、今までも散々書いてきたように、自分が生まれてきたくなかったからです。自分がされて嫌なことを誰かにしたくない。ただそれだけです。

でも、もう一つ理由があるとするなら、それは喪失した時に立ち直れる自信がないからです。

 

自分の生んだ子供を必ずしも愛せるとも限りませんが、もし自分が娘を産んで、その子がミチちゃんのように利発で聡明で可愛らしい子であったとして、もう大切で大切で仕方がなかったとき、

彼女が突然事故に遭って死んだり、事件に巻き込まれて殺されたりしたら、私は絶対に正気を保っていられないだろうと思います。そういう点でも泉は本当に強いです。

 

子供だけではありません。恋人でも友人でも家族でも、もしくはペットでも、または生き物でさえない何かだとしても、私はかけがえのないものを持つことを心の底から恐怖しています。それを失った時、自分を支えられる自信がないからです。

 

昨年は、私にしては珍しく他人との交流が若干盛んでした。結果的には疲れただけで、もう懲り懲りって感じですが、もしかけがえのない誰かに出会ってしまったら、こんなもんじゃ済まないのだろうなと思いました。

誰とも親しくならず、誰とも心通わない人生を味気ないという人もいるでしょう。私もそう思いますが、今はむしろそうありたいです。

私は自分の人生に意味なんかいらないし、後悔なんてあってもなくても構わないし、唯一の願いは苦しまずにコロリと死ぬこと、それだけです。

あんな、身を引きちぎられるような耐え難い喪失を味わうくらいなら、初めから大切なものなんてほしくないなと、この漫画を読んで再認識しました。

 

2023年を心穏やかにやり過ごせますように。おわり。

命と尊厳は数値化できない:『ガヨとカルマンテスの日々』

今年も何度か映画館でいろんな映画を観た気がするのですが、ぱっと思い出せるほど記憶に残っていないんですよね。

そんななかかなりインパクトがあって、2日連続で映画館に足を運ぶほど惹きつけられた作品が『ガヨとカルマンテスの日々』でした。

初見の日はお酒も入っていたので大感動してしまい泣きました。

「もう一度観たい!」と思ってその場で次の日のチケットを取って、翌日も映画館に行きました。2日目は素面だったのでそれほど感動はなかったですが、印象深い場面や台詞のメモを取りながら観ました。メモしながら映画を観たのは初めてでした。

映画館の中って真っ暗なので、手元は見えず感覚で書いてたんですが、まあまあ読解可能な感じでした。

 

あらすじは以下。

米国国家財政破綻後の世界。為政者の喧伝装置となったマスコミによってテロ容疑を着せられたマルラは、余儀なく逃亡生活を送り、精神安定剤を片時も離せない日々を送っていた。一方、ルイスは移住資金捻出のため、闘鶏に人生を賭け、一発逆転を夢みる。

 

prime video 商品ページより)

メモをもとに思ったことを書いていきます。

 

・砂糖や貧困を野放しにする社会

砂糖の中毒性はいまでは広く知られていますが、なかなかやめられないのも事実。私もたぶん砂糖中毒です。

www.shinjuku-stress.com

おまけに砂糖をたっぷり使った飲料メーカーや製菓会社は多くのマスメディアの巨大スポンサーでもあるので、おそらくこれらが規制を受けることは今後も日本ではないんじゃないかなと思います。

このように、人々の健康に有害であることがわかっていても、自由経済に組み込まれているがために野放しにされているものはいろいろあって、そういうものは大抵高所得者よりも貧困層のあいだで大量に消費されるんですね。

ギャンブルでもアルコールでも、低所得者ほど中毒になりやすいのは世界共通です。

酒を飲むのもタバコを吸うのもコーラを飲むのも個人の自由、と言えなくもないですが、それに依存しては、せっかく手にしていたはずの自由も溶けて消えてしまう。

では、国民の健康を守るためにそれを規制できるのでしょうか?それとも、中毒者を増やして不健康経済を回したほうが税収は上がるのでしょうか(医療費も上がると思うけど)?国家はどちらの選択をするのが望ましいんでしょうね。

個人としては、有害物質からは距離を置いたほうがいいんでしょうが、これも人間の欲望システム的に結構難しいんですよね。ケーキを一口食べたらもう、美味しくて笑顔になっちゃいますもん。

 

・この国の威張った奴らが嫌い

主人公のマルラを助けた看板屋のおじいさんが言った言葉で、すごく共感したのでメモしました。

ニュースで見る政治家のおじいさん達も、いままで学校や職場で出会ってきた中年男性達も、どうしてああもいけ好かないやつらばかりなのだろうと思っていましたが、その一つの答えを発見した気がしました。そうそう、なんでかみんな無駄に威張ってるんですよ。私もこの国の威張ったやつらが嫌いです。

 

・本物は広告しない

これもどうかな~とちょっと思いましたが、でもやっぱりそうかもと思い直した一言でした。

いいものを作っても上手に宣伝しなければ売れないとも考えていましたが、これだけインターネットで世界が繋がっていると、大事なのは宣伝の仕方ではなく、如何に最初の1人に届けられるかだけかもしれません。

昨今は、よさそうなものでも、広告を見て白けてしまうことが増えてきました。なんなら、その広告に加担しているいわゆる"インフルエンサー"にも白けてしまったりします。

 

ソーシャルメディアはコカインより中毒性がある

本当かどうか調べてないですけど、まあその可能性もあるなと思った言葉でした。

先月か先々月くらいに、LINEでたまに話すアメリカ人看護師が、心の安定のためにはソーシャルメディアは全部やめるべきだと言っていたのを思い出しました。人は意識的にも無意識的にも他人と自分を比べてしまうもので、それが精神的不調のトリガーなのだと。仰る通り。

 

・この国に産業があるか?大国の保護下、庇護下/成長こそ第一?

この映画はアメリカが財政破綻した後のキューバというのが舞台なんですが、今の日本を重ねることもできる世界観でした。自国で産業が育っていないことって、本当に未来を暗くしますね。国を開いて大国の庇護下に入ったところで、それはまるで生殺与奪の権を明け渡してしまうようなものです。

さらに、産業を起こしたとして、各企業がひたすら成長を追い求めた結果が今の環境問題や奴隷問題なわけで、なんとかしなければならない一方これよりうまく行っている新しい仕組みがまだないのも事実。今が本当に時代の転換点だなと感じました。

 

・人は誰でも前向きだし後ろ向き、真面目だし破天荒、人はどちらかに決めつけたがる

これは最近の私の信条になりました。本当そうだな、と思いました。

その日の健康状態や環境の変化、起こった出来事や人との出会いによって人の性格特性は常に変化します。もちろんある程度考え方の癖や傾向はありますが、一つの側面に決めつけるのはやはり乱暴ですよね。決めつければ色んな判断が楽になるので、気持ちはわかりますけどね。あらためて気をつけようと思いました。

 

・人は自分の物語を探してる、だがそんなものはない、時間が過ぎるだけ

自分探しとかしてる人に伝えたい言葉でした。笑

 

・やることがなきゃ地獄?彷徨い続けるのは苦しい?

私の人生は基本的に何にもやることがないんですけど、この苦しさはそれとは関係があるのかないのか。正直よくわからないけど、気になったトピックでした。

 

・体も心も動かない年齢

最近本当にフットワークが重くなっているのを実感したので、この言葉はずしんときました。もちろん60歳でも80歳でも元気な人はいますが、相当意識して気をつけないと、まじで体も心も動かなくなります。まあ、動じないという側面もあるかもしれませんが。

 

・その縁を信じるか無視するか、運命や縁を感じるか、気づくか

私は相変わらず孤独な人生を送っており、今まで特に運命や縁を感じたことはないのですが、そういうのってあるんですかね。私が気づかなかっただけ?それとも本当に存在してない?うーん。

 

・人は目先のお金のために生きてるんじゃない

うーーん確かにそうあるべき?と思いつつも、結果的に目先のお金のために生きてるような人っていっぱいいる気がしました。私は誰のためにも何かのためにも生きてるつもりはなくて、ただ死ぬ時の痛みが怖くて念のために生きてるだけなんですが、イコール目先のお金のために生きてると言えなくもない?

 

・人の命や尊厳は数値化できない

これは初見で見たとき一番印象に残った言葉でした。この映画を見てから「尊厳」というものについて考えるようになりました。私はそれを「人間として扱われる権利」みたいなニュアンスで考えています。まだまとまってないですけどね。

 

・民主主義をマスコミが書き換えている、資本家のしもべ

・ビルの高さ、軍事力 ≠ 豊かさ

・情報操作、分断

・権力は虚構

・人種や資産の違い

・自由の名を借りた奪い合い

終盤は明確な新自由主義へのアンチテーゼになっていきます。現代社会に感じる違和感をガンガン炙り出していくような感じでした。

豊かさとは何なのかを自分の頭で考えていかないと、勝手に煽動されて特定の価値観を植え付けられてしまうなぁと思いました。多分、人々のマインドを悪質な方に変えるのって、想像以上に簡単なんですよね。善良にするのは難しいのに。

 

・誇り高く高貴な人で国であろう

「誇り」というものも最近気になるワード上位です。

先日とあるパリ在住の日本人YouTuberさんが「自分の仕事に誇りを持って働いているウェイターさんがいるレストランは感じがいい」というようなことを言っていて、誇りを持つってそういうことなのかと思ったんですよ。

ところが先日、旅先の図書館でたまたま読んだ中島義道氏の新書に「誇りを持つということは、他者を見下すことと紙一重」みたいな言説があって、それも納得いく話で、必ずしもいいものでもないなとも感じました。

まあいずれにせよ、私が自分や自分の仕事に誇りを持つことは未来永劫なさそうですが。

 

・視聴率、テレビは本当もそうじゃないことも、ソーシャルメディアは都合の良いことだけ

・本当のことは自分で探しにいくしかない

まさにそうだなぁと。ここ数年本当にフットワークが重くなって、旅行にいきたい気持ちが萎んで、他人のvlogで満足してしまう体質になっちゃってるんですが、所詮自分の目で見たものではないですから、結局なんの血肉にもならないんですよね。

本当に知りたいことは、自分が動いて見にいくしかないんだ、と当たり前のことを再認識したのでした。

 

・権利とは生命、自由、幸福の追求

・小さな幸せを大切にすること

幸福の追求…幸せになりたいわけじゃないと言っても、あんまり信じてもらえないですが、幸福を追求すること自体が苦しく感じます。幸福に限らず、何かを求めることそれ自体が苦痛。

不幸になりたいわけでもないんですが、なんかもう勝手に幸せを感じたり不幸になったりするんですよね。

しかも幸福ってつまるところセロトニンとかそういう物質的世界に言い換えが可能なわけで、それを生命とか自由とかと同列に並べるとだいぶ違和感はあります。

でも、寒空の下一口食べた、温めたチョコレートチャンクスコーンが想像以上に美味しかった時、幸せを感じたんですよね。つまるところ幸せなんてその程度で、不幸の無数のバラエティ性に比べたら本当に小さなもので、それを大切にすることは生きやすさに繋がるのかも?

 

・民主社会主義、自由と信仰

新自由主義批判の末に行き着いた新たなアイディア「民主社会主義」。

社会主義がそのままではあまりうまくいかないことは歴史が証明していると思いますが、資本主義の"自由の名を借りた奪い合い"の末に今色んな問題が起こっているのを見ると、大衆に好き勝手やらせるよりは、マイルドな社会主義の方がありなのかも?とか思っちゃいますよね。マイルドな、というのが詰めようとすると大変そうですが。

そして信仰。政教分離というものも、つまるところ新自由主義が力技で信仰をねじ曲げた結果ですよね。そして金銭的豊かさが手に入ると、いつの間にか"消費教"とも言える、新自由主義の信者になってしまうという…。

 

***

 

つらつらと書いてきましたが全然まとまらないですね。でも、いくつも思考の種を手に入れたような気持ちになる映画でした。

そしてカリブ海の陽気な雰囲気が見ていて楽しい映画でもありました。あー暖かいところに行きたい。おわり。

煮詰めた悲劇:『少年のアビス』

寒くなってくると初期のRadioheadを聴いたり自殺志願者の掲示板を見たり、なぜか暗いものに惹かれるんですよね。いや、年中惹かれてますけど。

そんなおり、漫画『少年のアビス』を読みました。暗い、けど、めっちゃ面白いです。

あらすじは以下。

高校生の黒瀬令児は、看護助手の母、引きこもりの兄、認知症の祖母との4人で何もない地方の町で暮らしていた。苦労している母親の手助けをするために、大学に進学せずに就職することを希望していた令児は、自分の住む町を出たいと心の底では願いつつも半ば諦めて、自分が町に縛られていることを理解しながら漠然と日々を過ごしていた。

しかし、ある日ふとしたきっかけで、令児の好きなアイドルグループ「アクリル」のメンバーの青江ナギと知り合い、親しくなる。令児は身の上の話をしながら、ナギからの頼みで町を案内するが、彼女は町の自殺の名所である「情死ヶ淵」を話題に出し、「私たちも今から心中しようか」と持ちかける。

Wikipediaより)

閉塞感たっぷりの田舎で、これだけ逃げ場がなかったら、死にたくなるのは全然不思議ではないです。

でもそんな中で、殺しても死ななそうなくらい、仄暗い情熱を感じさせる登場人物がいます。

それが主人公・令児の母・夕子です。

物語が進むにつれ、彼女にどんどん魅了されていきました。

 

夕子も令児と同じく生まれた時からこの閉鎖的な町で生きていますが、彼女は女性であり、また、とても美しい少女でした。

そして令児と同じく(もしくはそれ以上に)家庭環境に恵まれず、思春期を迎え一際可憐になった夕子は、親の命令で母の勤めるスナックの2階で売春させられていました。

けれども、夕子からはあまり悲壮感は感じないんですよね。彼女はつとめて明るく、ボーイフレンドに「この町で結婚して子供を産む」と宣言しているんです。

 

なんで?????????????って到底理解できないんですが、でも彼女は本当にこの町で生き続けて、宣言通り令児という子供を産んで育てたのです。そして夕子が令児に向ける感情は、親の愛情というにはかなり歪で、しかし非常に強力な執念を感じるものです。

令児に降りかかる不幸も、彼の幼なじみたちや担任教師などの周囲の人間たちが直面する悲劇も、全ては連なりあい、絡まり合っているようで、この狭い町のなかで数々の思惑や憎しみや悲しみや不幸がグツグツと煮詰まっているような、そんな物語だと思いました。

 

***

 

私は地元の街を出て、4年が過ぎました。まだそんなもんか、って感じですが、遠い昔のようにも思います。

今も在来線で日帰りできるくらい近いと言えば近いんですけどね。

私の地元も内陸のど田舎ですが、令児たちの町と違って東京が案外近い関東平野に位置していたので、令児の幼馴染のチャコちゃんのような「とにかく東京に出たい!!」みたいな強い気持ちが生まれにくかったです。電車ですぐ遊びにいける場所だったので。

でもその半端な距離感が、かえってフットワークを重くさせたのかもしれないとも思います。なんとなくここは嫌だけど、かといってすごく逃げたい場所があるわけでもないような。

 

それに、夕子の生き様を読んだら、詰まるところ同じ場所で生き続けようが、遠くへ逃げようが、一生自分は自分でしかいられないし、それと人生の幸・不幸は別の問題だとも感じました。

むしろ、「この町で一生生きていく」と腹を決めた人間の迫力に気圧されたとも言えます。

だって、それって自分から退路を断つ行為ですよね。

私のように、中途半端に逃げたいのかそうでもないのかわからないフラフラした人間には到底想像できないような、強い精神力がないとできない決断です。

夕子のようになりたいわけではないですが、やはり彼女はすごいな、と尊敬の念すら抱きました。

 

***

 

もう一つこの漫画を読んで強く感じたのは、人間関係のダイナミックさです。

この狭い町でこれだけ多彩な悲劇が折り重なるのは、登場人物それぞれが関わり合い、傷つけあうからに他なりません。

一人でひっそりと生きていれば、同じく不幸に見舞われるとしても、ここまで複雑怪奇な悲劇は起きないと思います。

なのにこの漫画の登場人物は、みんな誰かに干渉し、干渉され、言葉を交わし、感情や劣情を互いにぶつけ合っています。だから次々と悲惨な状況になって、それが全然終わらない。

当人たちは非常に苦しいでしょうし、自分だったら絶対御免被りたいですが、でもだからこそ物語として極めて面白いのです。

 

そして、それは時に不可抗力であることもわかります。

夕子のあの可憐な少女時代を見たら、恋に落ちない青少年はいないと思えます。

関わったらまずいと本能的に感じたとしても、抗えない魅力を持つ人間というのが世の中には確実に存在するんですね。そしてまた悲劇が起きる・・・人間って本当に面白いなぁと思いました。

 

でも翻って、やっぱり私は一人で静かに生きたいとも思いました。

最近仕事でもそれ以外でも他人と話す機会が重なって、私の精神のバランスは完全に破壊されていると感じます。

一人で退屈ながら穏やかな日々を過ごしていたのに、一体どうやったらその頃の状態に戻れるのか、皆目見当がつきません。

毎日不眠で自律神経もズタズタです(これは元からかも)・・・。

別に大きな幸せなんていらないので、小さく穏やかに過ごしたい、ダイナミックな人間模様は物語の中だけでいいと強く思ったのでした。おわり。

拘りと幸せ:『自転しながら公転する』

やーっぱり面白かったです、山本文緒『自転しながら公転する』。

茨城の実家にUターンしてアウトレットモールのアパレル店員として働くワーキングプアーの独身アラサー・都と、飲食店で働く中卒フリーター・貫一のラブストーリーです。

恋愛や仕事や家族といった普遍的な人間関係の悩みに加え、現代日本を取り巻く労働環境や福祉の問題など、読者である私たちの誰もが他人事とは思えない身近な社会問題を、豊かな物語性と独自の鋭い目線で描き切った長編小説でした。

 

以下、印象的だった文章。

何かに拘れば拘るほど、人は心が狭くなっていく。

幸せに拘れば拘るほど、人は寛容さを失くしていく。

 

山本文緒『自転しながら公転する』新潮社 2020.9.25)

これは都が、幼馴染の友人・そよかに「お洒落な人は狭量だ」と言われたことを思い出した時の独白です。

都は昔から着飾ることが大好きで、就職先も一貫してアパレル業界です。

そして友人でも恋人でも、相手の身なりを無意識のうちに値踏みする癖があります。

 

お洒落な人は、きっとみんな大なり小なりこういう癖があるのでしょうね。

だからなのかもしれませんが、私はお洒落な人と対峙すると、少し居心地が悪いと感じる時があります。

自分のファッションセンスに拘りもなければ自信もないし、だからと言ってそれによって不当なジャッジを受けたくない気持ちがあるせいでしょう。

 

それと同時に、私が拘っている部分(言葉の使い方や整合性、音楽やアニメや漫画の好み)に大きな齟齬がある人に対しては、やはり私も狭量になってしまう時があります。

音楽の好みなどはあくまでただの嗜好の問題ですが、会話の論理が食い違うと言い争いに発展することがあります。

つい最近もプライベートでそういうことがあって、私は自分が思っている以上に理屈っぽいのだなと再認識したところでした。

自分が快適に過ごせなくなる拘りだったら捨てたいですが、そもそも見過ごせないことだから拘っているのですよね。難儀なものです。

 

でも心配するとは、束縛することと紙一重なのだ。

 

(同上)

これは都の母・桃枝が、都に対して考えを巡らせているときの記述です。

自身が重い更年期障害に悩まされ、夫(都の父)も癌を患い、今後の将来設計を考え直して、ローンを抱えていた一軒家の自宅を売却することに決めた桃枝。

桃枝の看病をするという名目で実家に戻ってきた都に対し、改めて自立を促すことにした桃枝の複雑な心中が丁寧に描かれていました。

 

心配って、確かに束縛の親戚みたいなものですよね。

恋人に心配されると少し嬉しい時もあったりしますが、親からの心配というのはどこか疎ましく感じるのは、それが束縛とほとんど同じ種類のものだからです。

自分が誰かを心配してしまう時は、この台詞を思い出したいものです。

 

この人がいなくなっても生きていける! と天啓を受けたようにはっきり思った。それどころか、この先、気の合う人に巡り会わなかったら別にひとりでいい、気の合わない人と不安を解消するためだけに一緒になる必要なんか全然ないと初めて感じた。今まで自分は何がそんなに恐かったのだろうと不思議な気分にすらなった。

 

(同上)

こちらは都と貫一が熱海に温泉旅行に行き、そこで同棲に関する話をしているうちに言い争いになった時に、都がふと気づいた時の描写でした。

こういうことってあるよな〜と思いました。感情に突き動かされて、考えるよりも先に口からわーっと言いたいことを言った時、ふと自分の中にあった答えを見つけ出すということが。

 

都が両親の健康問題やお金のこと、貫一との将来や自分の仕事や収入のことについて不安で仕方なくてもがいていたのは、全て自分一人の力で生きていける自信がないことに起因していたのです。

これはこの小説のテーマの中でも特に重要な要素です。

自分ひとりが満足に生きていけるだけの経済力を身につけること。

厳しく感じる読者もいるのはわかっていても、作者である山本先生はそれを繰り返し発信しているのだと感じました。

 

***

 

物語の終盤、旅行先の熱海で貫一の携帯に一本の電話がかかってくるところから、事態は急降下します。

若かりし頃の貫一が非常に世話になったという旧友の父親が危篤状態であるという知らせを受け、貫一は気が動転し、夜中だけど茨城に戻ると言い出します。

心配した都は同行することに。高速道路を降りた後も気が急いていたためスピードを出しすぎていた貫一の運転に、都が不安をあらわにした時、後ろからパトカーに呼び止められてしまいます。

そこで発覚した貫一の免許失効と無免許運転の事実。

二人は警察に連れて行かれ、都は初めての取調べに疲労困憊となります。

 

それっきり連絡を取ることなく月日が流れますが、どうしても貫一を忘れられない都の身の回りに次々といろんなことが起き、最終的に都はもう一度貫一に会いにいくため、彼が働く立ち食い寿司屋へ赴きました。

都が通された席の横で談笑している会社員風の三人連れが、酔った勢いで面白いことを言っていました。

「とてもじゃないけど、百歳までお金もたないよね。年金だけじゃ足りないって」

「だからさあ!」と上司は酔ってろれつが回らなくなった口調で大きく言った。

「明日死んでも悔いがないように、百歳まで生きても大丈夫なように、どっちも頑張らないといけないんだよ!」

その台詞に都は思わず男性を見た。

「そんなこと言うけど難しいって。明日死ぬかもしれないって思ったら、ウニだの大トロなどもっと食べちゃえって気になるけど、百歳まで生きちゃうかもしれないなら、そんな値段もコレステロール値も高いもん食べてる場合じゃないって思うわ」

「その矛盾を受け入れてこその大人だ!」

「でかい声で言えばいいってもんじゃないってば」

そこで三人はどっと笑った。

 

(同上)

ほーんと、このバランスって難しいですよね。超高齢化社会の日本にいるからこそ余計にそう思える気がしました。

死ぬのも怖いんですけど、百歳まで”生きちゃう”のもやっぱり怖いです。

 

もし科学技術がもっと進化して、老いる心配がなくなって、無機的な肉体が手に入ったら怖くないのでしょうかね。

それとも、やっぱり意識が存在し続けることに耐えられないのかなぁ。

 

そして、この三人の会話を受けた、本編最後の一文が、涙を誘う名文でした。

ラストオーダーの時間になり、都の前にやってきた貫一。

久々に会った都たちは、静かに言葉を交わします。

都は彼に触れようと手を伸ばした。明日死んでも百年生きても、触れたいのは彼だけだった。

 

(同上)

もう、この一文を読んだだけで涙が出ます。

生老病死とか、お金の不安とか、ごたごたした現実問題は尽きないけれど、最後にはここに行き着くんですね。

陳腐な表現で申し訳ないですが、やっぱり愛だ、って思えました。

ラブストーリーはだからついつい読んじゃうんですよね。

 

単行本の発行にあたり書き下ろしたというプロローグとエピローグは、読者によっては蛇足だと言う人もいると、前に『ダ・ヴィンチ』のインタビュー記事で読んだ記憶があります。

確かにそう言えなくもない印象もありますが、エピローグの終盤の都の台詞もなかなかいいので、これはこれでよかったんじゃないかと思いました。

「別にそんなに幸せになろうとしなくていいのよ。幸せにならなきゃって思い詰めると、ちょっとの不幸が許せなくなる。少しくらい不幸でいい。思い通りにはならないものよ」

 

(同上)

最初に触れた拘りの一節に通じますね。

以前ここにも書いたように、私は”ハッピーアレルギー”のきらいがあるので、この台詞には共感できます。

でも、「ちょっとの不幸」って言うのもなかなか難しいんですよね。

不幸って底がないので、ちょっとどころじゃ済まないのが現実の怖いところでもあります。

 

***

 

あー、それにしてもやっぱりとても面白かったです。

もう山本先生の新作が永久に読めないことが、本当に本当に悲しいです。

私はこれからもきっとずっと、繰り返し山本作品を読み続けていくだろうと、改めて思いました。おわり。

無敵の人予備軍の苦悩と:『正欲』

すこぶる面白かったです、朝井リョウ『正欲』。

正欲

正欲

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人間ではなく"水"に欲情する特殊性癖をもつアラサーサラリーマン佐々木佳道と、彼の中学の同級生・桐生夏月。

夏月は三十路を過ぎても独身のまま岡山の実家で暮らし続けており、佳道は中3で関東に転校してそのまま関東で暮らしていました。

佳道たちと同じ特殊性癖を持つイケメン大学生・諸橋大也は横浜の実家から金沢八景の大学に通っています。

大也と同じ大学の同級生で、ヘテロセクシャルだけど男性潔癖症気味の神戸八重子も実家暮らしで、隣の部屋にいる兄はエリート街道から外れた引きこもり。

横浜で検事として働く寺井啓喜と、その息子で不登校児童の泰希。

泰希は、不登校児のためのNPOの催しで同い年の彰良と出会い、ともにYouTuber活動を始めます。

全くつながりのなかった登場人物たちが、それぞれの性的嗜好差別意識やトラウマや社会の圧力と対峙しながら、だんだん一つの結末へと近づいていく過程に夢中になりました。

文字通りページをめくる手が止まらず一気読み。ああ面白かった。

 

そして読み終わった後も思考を掴まれたまま、ずっと反芻しています。

以下、思ったことをざっくり記録します。

 

1.自分と同じ宗教(≒価値観)の人に出会うことの意味

この地球に生きている人は皆、宗教が違う。佳道はそう思う。

(中略)無宗教と言われる日本人だって、それぞれが宗教を持っている。それは豚ひき肉を見ておいしそうと思うのか食べてはならない神聖な動物だと思うのかと同じように、例えばある歌を聴いて共感するのか反発するのか、子供の泣き声を聞いてうるさいと苛立つのか元気でいいねと目を細めるのか、そういう日常の小さな場面で出来上がっていく。

そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。(中略)それは、生きていてほしいという思いを飛び越えたところにある、その人が自殺を選ぶような世界では困る、という自己都合だ。

体内の宗教が同じ人の死は、当人の死のみに収束しない。

 

朝井リョウ『正欲』新潮社 2021.3.25)

自分が共感を抱いていた人が自殺した時ショックなのはこういう理由からか~と納得しました。だからつらく感じるのかと。

上記の意味での同じ宗教の人に出会えたら、それだけでだいぶ幸運ですよね。

逆に、同じ宗教の人に出会えないことがより人を孤独に追い込み、追い詰められた人は明日に希望を抱くことができなくなって、現世につなぎとめるものが無くなって、自殺を選んだり、もしくは"無敵の人"とか呼ばれて無差別殺人事件とか銃乱射事件とかを起こしてしまう。

 

また、自分の信じる宗教が社会の中で少数派のとき、

・世間の多数派の人に必死に言い訳や弁明をして理解や共存を得ようとするか、

・世界を恨んでひっそりと誤魔化しながら生きていくか、

どちらかしなければならないんですね。

しかも自分の宗教が少数派の中でもあまりにもマイノリティな場合、説明を受け入れてもらえる確率はゼロに近いほど低いわけで、そうなると口を閉ざすしかなくなり、全てをあきらめるしかなくなります。佳道たちが長年そうしてきたように。

彼らの学習性無力感の力はすさまじく、完全に抵抗をあきらめ、一切を話すのを諦めてしまうのです。

人って本当に絶望していると、もう戦うのを完全に辞めるんですね。

 

佳道と夏月は大人になって再会して、互いに生き延びるために手を組むことにして結婚しました。

けれどこれって、佳道が男性で夏月が女性だったから、社会が多数派と認めている男女の夫婦像がつくれたわけですよね。上手く擬態できたわけです。

もし2人が男性同士、もしくは女性同士だった場合、手を組むことはできて孤独からは救われたとしても、多数派に擬態して生きていくことにはさらにハードルが課されてしまっただろうと思いました。

 

2.性的嗜好は人間の根幹的なものであるということ

私は性的嗜好について他人と詳しく語り合う経験があまりなかったので、性的嗜好なんてひとぞれぞれのもんだよね、くらいの重さでしか考えていませんでした。

けれども、性的嗜好というのは恋愛したりセックスやオナニーをするときだけ顔を出すものではなくて、 その人の人生哲学、ひいては先ほど書いた意味での宗教の根幹をなす、思考形態に根付くものなんですね。

 

私はヘテロセクシャルで、多少のフェティシズムはあるかもしれませんが、同人誌でカバーするのが難しいほどの特殊性癖はありません。

レズビアンでもゲイでもなんでも、当人たちと同じ解析度で物事を見ることは難しいかもしれませんが、想像することはできます。

佳道たちのように、人間以外のものに欲情するというのは、なかなかイメージが難しかったです。

彼らの欲情する対象は水でしたが、それが玩具でも車でもカバンでも、それがどういう感覚なのかは想像しにくいですが、特段不快に思う気持ちはありません。

 

一方で、小児性愛は、イメージできますが生理的嫌悪を抱いてしまいます。なんていうか、理解してはいけないように思えてしまうのです。

たとえば、社会の在り方や政治についての意見、コミュニケーション上大切にしていることや時間の使い方、生活のあらゆることでものすごく考え方が一致している人がいたとしますよね。

「この人とは、価値観が合う。信じてる宗教が限りなく同じみたい」

そう思っていたところで、もし相手が同性愛者だと知っても、特に考えは大きく変わらないと思います。 無機物に欲情する場合でも、価値観が似ている部分が多いことは揺らがないと思います。

でも小児性愛者だとわかったら、私は知る前と同じ距離感を保てない気がします。

これまで気が合うと思っていた思考回路が自分と大きく異なるロジックなのかもしれないことに思い至り、根底が覆されたような気持ちになるかもしれません。

 

そう、まさに根底。

 

三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲にまつわる嗜好というのは、ただの好みのタイプではなくて、その人の人生哲学の根幹そのものなんだということに、この本を読んで思い至りました。

 

それを踏まえた上で、今の社会観念で「病的、治療が必要」とされる性癖って、よく考えると危険と隣り合わせだなと思いました。性癖そのものではなく、その性癖を「治療すべき」と断じることが。

小児性愛が”障害”で”治療すべきこと”で、年の近い異性や同性を愛することは”障害ではないこと”で、水や無機物に欲情することは”異常なこと”?

この線引き、判断基準が、実は非常に人為的で時代や状況によって流動的なことに気付くと、ほんと怖いなと。

もしかしたら私が今普通のふりして生活できているのは、本当にたまたま、時代に恵まれただけなのだと。

もう少し前に生まれてたら、もしくはまたさらに時代が変わったら、私は自分ではどうしようもない脳の働きに”異常”の烙印を押され、望んでもいない治療を施されていたかもしれないのですね。

自分の思考の根幹をなすものを無理やり矯正される恐怖は尋常ではないです。

 

3.「自分だけ?」という不安に突き動かされること

自分だけかもしれない。きっと自分だけだ。そんな思いは、いつだって人の口を閉ざす。

 

(同上) 

先日、街中を歩いていたときに、街頭の巨大スクリーンでとある大事件の報道を見かけたんですね。

結構ビックリする内容で、すぐさまスマートフォンを取り出してTwitterを開くと、案の定そのニュースでもちきりでした。

ショッキングな内容であることは重々承知なんですが、なぜか私はワクワクした気持ちになってしまい、ちょっと笑い出してしまうほどでした。

自分と同じような人がいるのではないかと思い、検索をかけてみましたが、1つのtweetも引っかかりませんでした。

その時考えた可能性は以下でした。

  1. こんなニュースでワクワクした気持ちになる私の頭がおかしくて、同じような人なんて存在していない
  2. 私と同じような人は存在しているかもしれないが、SNS上でそんなこと言うと絶対叩かれるから誰も書いていない

どちらにせよ、同じ反応をする人には出会えなくて、少し残念な気持ちになりましたし、自分の感受性に疑念を持ってしまう気持ちも生まれました。

 

今思い返すと、何故自分と同じような人がいないかTwitterで検索したのかというと、「自分だけ?」という不安に突き動かされた結果だったんですね。

確かに不謹慎かもしれないけど、こういう大事件にワクワクする人も一定数いるだろう(≒私はそこまで少数派ではないだろう)と不安に思って、検索して、全然同じような人がいなくて不安が確信に変わって寂しくなったんです。

別に私は自分をとりたてて多数派だとは考えていなかったんですが、無自覚で実は数の力に乗っかって自分を護りたいと思っていたのです。 そのことに今回気づきました。

 

4.理解を示そうとする厚かまし

物語の終盤の山場の一つに、大也の家のまえで八重子と大也が言い合いになるシーンがあります。

ゼミの合宿の日、体調不良と嘘をついて佳道たち水フェチのオフ会に繰り出そうと意気揚々と家を出た大也は、何故か自分の家を知っていてわざわざ訪ねてきた八重子に恐怖と嫌悪を感じます。

そしてそれまで八重子に対して感じていた苛立ちが閾値を超え、八重子に本音をぶちまけます。

「私は理解者ですみたいな顔で近づいてくる奴が一番ムカつくんだよ。自分に正直に生きたいとかこっちは思ってないから、そもそも」

(中略)

「異性の目線が怖いとか恋愛が苦手とか……お前らみたいな、世間に応援されるってわかってて傷晒してる奴見ると、その瘡蓋にナイフでも突き立ててやりたくなる」

(中略)

「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

(中略)

「お前らが大好きな”多様性”って、使えばそれっぽくなる魔法の言葉じゃねえんだよ」

 

(同上)

もー「わかる〜わかりみが深すぎる〜」と一行一行読むたびに唸ってしまった大也の言い分。名台詞の嵐です。

「自分はあくまで理解する側だって思ってる奴らが一番嫌いだ」

(中略)

「お前らがやってるのは、こういうことだよ」

(中略)

「どんな人間だって自由に生きられる世界を!ただしマジでヤバい奴は除く」

(中略)

「差別はダメ!でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」

 

(同上)

大也がこれだけ言葉を尽くしても、八重子はまだ真意を取り違えていて、「それでも私は理解したいって思う」などと火に油を注ぐ発言をします。「諸橋君がどんな人間でも、私は拒絶しない」とかね。読んでるこっちまでイライラしました。

「拒絶しないって何だよ。関係ねえんだよお前が拒絶するかどうかなんて。何でお前らは常に自分が誰かを受け入れる側っていう前提なんだよ。お前らの言う理解って結局、我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物か確かめさせてねってことだろ」

 

(同上)

「おっしゃる通り!」と思わず膝を打ちました。

結局自分と違う宗教の人を理解すると言うことは、自分の持つ文脈のなかで整合性を取ろうとするだけであって、真に相手と同じ目線を共有したり、感覚を腹落ちさせることではないんですね。

 

大也の大正論でこのまま終わるかと思っていましたが、その後の八重子の言い分にも少し共感したのが自分でもびっくりでした。

「さっき俺たちの気持ちがわかるかとか言ってたけど、そっちだってわかんないでしょ?選択肢はあるのに上手くできない人間の辛さ、わかんないでしょ?

(中略)

不幸だからって何してもいいわけじゃないよ。同意がなかったらキスだってセックスだって犯罪だもん。別にあんたたちだけが特別不自由なわけじゃない」

(中略)

「私のお兄ちゃんは引き籠って気持ち悪いAVばっか観てるけど(中略)それでも現実で誰かを無理やりどうこうしようとはしない。異性愛者だって誰だってみんな歯ぁ食い縛って、色んな欲望を満たせない自分とどうにか折り合いつけて生きてんの!」

 

(同上)

八重子の言い分もわかるけど、ちょっと論点がズレてて、大也とはついに噛み合わない感じでした。

2人は最終的には「誰が何をどう思うかは、誰にも操れない」という共通見解で一致したものの、根本的に人間を好きになる通常世界で生きている八重子とそうでない大也は話し合ったところで永遠に平行線のまま、諦めて早く切り上げたい大也と、執拗に話し合ってより良い社会について考えたいという熱苦しい八重子の問答は終わりました。

 

八重子みたいに、より良い社会の実現に向けて、SDGsダイバーシティだなんだとアクションを起こしている人は現代社会にたくさんいますよね。企業もそういう取り組みをすることでイメージアップを狙ったりしています。

いつまでも昭和や平成みたいな固定観念ガチガチの社会よりは、少しでも間口を広げようとする社会の方が幾らか生きやすいだろうと思うので、別に反対する気持ちはありません。

けれども時折なぜか感じる厚かましさ、巧妙に隠されていても透けて見える上から目線。

それはつまるところ彼らが、大也の言うように「自分はあくまで理解する側だ」と思っているからなんですね。たとえ本人が自分はマイノリティ側だと思っていても、それを利用して自分は理解があると思わせようとする。意識的に、あるいは無意識的に。

 

理解を示されたって、そんなの結局のところ気休めです。

別に理解されなくてもいいので、ただ「自分の想像力の範囲を遥かに超えた領域が存在する」と言うことだけ、記憶に留めていてもらえたらいいと思いました。

人間の脳は時により早く省エネに情報処理するため、さまざまなバイアスを通して物事を見ます。だから狭い前提で話を進めてしまうことも、想像力の範囲で判断してしまうことも仕方のないことだと思います。

ただ、一呼吸おいて一歩下がった目線を、どこかで思い出したい。

今話していること、今前提にしていることの一段外側の世界の存在を、忘れないようにしたいと思いました。

 

5.繋がりと孤独と”無敵の人”

この本の中で一番好きなシーンは、飲み会から帰宅した夏月が、佳道に一度セックスを経験してみたいと頼んで、服を着たまま夏月のベッドで正常位体験する場面です。

「なんか人間って、ずっとセックスの話してるよね」

「わかる」マジで、と、佳道は付け足す。

「今日も皆の話聞きながら、中学とか高校のときとかに同級生がしてた話とほとんど同じだなって思ってた」

「うわー、わかるわ」

佳道は思わず笑ってしまう。人間はずっと、セックスの話をしている。その存在に気づいてからは、何歳になっても永遠に。

 

(同上)

「人間はずっとセックスの話をしている」っていうの、『亜獣譚』のツユボネも同じようなこと言っていたなと思いました。

 

佳道は夏月の突飛な依頼の真意を理解し、2人はあれこれ試行錯誤しながら、服越しに互いの性器をあてがいます。

そこには何の欲情も感動もなく、ただただ奇妙なおかしみだけがあります。

「何これ」

天井を見上げたまま、夏月が呟く。

「私いま、死んだカエルみたいじゃない?」

佳道は思わず吹き出しそうになる。

「これが、皆のしてることなの?」

脚を抱えたまま、夏月が言う。

「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」

 

(同上)

私も読んでて笑ってしまいました。「ほんとだよね」って感じ。

わりと多くの人が、夏月と同じことを一度は思ったことがあるのではないかとも思いました。

けれども、変なのーと思いつつも、痛みや快感や、コミュニケーションとしての有効性や煩わしさやお金や悪意や、いろんなものが絡み付いてくるうちに、この最初の純粋なおかしみはどこかに消えて無くなってしまったのかもしれません。

 

佳道はあってるのかよくわからない”セックス”の動きを体験して、これまで同級生や会社の人々など多くの他人が、執拗に自分と違う人間を確かめようとするのは、ひとえに不安だったからだと言うことに思い至ります。

佳道や夏月たちのように、初めから自分が極めてマイノリティだとわかっている人は、多くのマジョリティが抱える不安を認識していなかったと。だから自分の迷いを誰かと確かめ合う必要がなく、誰かにわかってもらうことも、誰かをわかることも、端から諦めていたと。

 

佳道たちは人間に欲情しない(できない)ので、性器を押し当てあったところで興奮もしないし、勃ちもしないし濡れもしません。

2人の間には恋愛感情はないけれど、互いに根底の部分が同じであることで、互いが自分の一部であるような気持ちが芽生えたのだと思います。

2人はもう孤独ではないのです。

劣情にかられて激しく抱き合うわけでもなく、ただ静かに、2人が文字通り体を重ねる場面は、文学史に残したいくらいの名場面だと思いました。

「どうしよう」

重なった二つの身体の境目が、どんどんなくなっていく。

「私もう、ひとりで生きてた時間に戻れないかも」

これまで過ごしてきた時間も、飼い慣らすしかなかった寂しさも、恨みも僻みも何もかもが、一瞬、ひとつに混ざったような気がした。

 

(同上)

言葉にするとチープに聞こえるかもしれませんが、やっぱり孤独ってつらくて、自分の望む形で分かり合える他人と一緒にいられることって、心の安寧に必要不可欠なんですね。

夏月たちのように、お互いに「いなくならないで」と言い合える誰かに出会えることは、この上ない幸運なんです。

 

そして、その幸運にありつけない人(私もその一人ですが)は、飼い慣らすしかない寂しさ・恨み・僻みを抱えながら、なんとか踏み外さないように日々をやり過ごすしかありません。

その中で、それら負の感情が自分のキャパシティを超え溢れ出したとき、人は何もかも消してしまって構わないというような”無敵の人”状態となり、無差別殺人をしてみたり、銃を乱射してみたり、公園の水道に車で突っ込んだり、あるいは自死したりするのでしょう。

 

秋葉原通り魔事件が起こったとき、私はまだ10代で、孤独に対する理解が浅かったので、容疑者の男性がただただ頭のおかしい奴だとしか思えませんでした。

似たような事件が起こるたび、人間の中には一定数理解できない凶悪な奴がいるんだなーくらいの認識しかできていませんでした。

 

けれども、今では、似たような事件が起こると他人事とは思えません。

被害者になる心配じゃありません。加害者になる不安です。

自分もいつ、踏み外すかわからない。

いま何とか耐えている孤独に、いつか耐えられなくなる日が来るかもしれない。

そうなったとき、今の自分では想像もつかないような、絶望的で猟奇的な感情が湧き起こるかもしれない。

その時私は自分が何をしでかすかわかりません。

「自分は彼らのようにはならないだろう」とは到底思えません。

 

”繋がり”と言葉にすると、途端に胡散臭く押し付けがましい印象すら感じたりしますが、やはり人間社会で生きていく上で重要なものなんだな、と感じました。

でも、私はそれを手にすることができません。

会社の同僚とは仕事の話以外したくないし、マッチングアプリや婚活サービスに登録して出会いを探しにいくこともしたくない。

孤独は確かにつらいけど、それを散らすための努力はしたくないんです。

家族とも、もう話したいことはありません。祖父母も両親も親戚も、誰にも会いたくないし、誰の話も聞きたくないし、自分の話もしたくないです。

ただただ、自分と皆の寿命が尽きるのを待つだけです。

 

孤独が人を凶悪に変える恐ろしいものだということはわかります。

ひとりで日々を生き延びるのは本当に不安で怖いです。

でも、私は自分が他人と繋がりを築けるような性格をしていないことを、もうすでに知っています。

私にとって誰かと繋がるということは、もはや自分の根底を否定することとほぼ同義なのではないかとすら思います。

もしかしたら”治療”が必要なのかもしれません。

けれどもそれは、小児性愛者に大人の異性に欲情するよう矯正したり、水に欲情する人に人間に欲情するよう矯正するのと同じレベルのことです。

そんな治療をされることと、このまま孤独に飲み込まれる不安を抱えて生き続けること、その恐怖の天秤のバランスの上で、日々を何とか生き延びているのでした。おわり。

終活で身辺整理:展示のチケットその4

前回からの続き。

2021年

ファッションインジャパン

ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会。

これはちきりんさんのVoicyで気になって仕事帰りに行きました。

ファッション系の展示は何度か行ったことがありますが、平成のギャル文化が展示されてたのは面白かったし懐かしかったです。あー私の青春時代ももはや歴史に沈んでいくのねって感じでした。

 

酒井駒子展

「みみをすますように 酒井駒子」展。こちらは『ブルーピリオド』エントリでも触れましたね。

すごく静かで静謐な絵で素晴らしかったです。絵本作家さんなので子供の絵が多かったですが、彼女の描くおばあさんの絵の迫力がすごかったです。

横須賀美術館はMOA美術館をうんと縮小したような感じですが、海辺の美術館ってやっぱりいいですね。

 

STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展示

STEPS AHEAD: Recent Acquisitions 新収蔵作品展示。アーティゾン美術館ですね。

先述の『ブルーピリオド』エントリで言及してたのでなんの展示かわかりましたが、このチケット(そもそもこれはチケットなのか?)ではやはり何を観たのか分からないです。

抽象画が多かった印象ですね。アーティゾン美術館の無機質で現代的な雰囲気も好きでした。

 

2022年〜

木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり

2022年、今年ですね。木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり。

恥ずかしながら『美しい彼』を読んで初めて木村伊兵衛を知ったので、彼の印象は完全にBLです(関係ないのに!)。

写真は正直何がどうすごいのかわかりませんでした。普通の写真。パリが物珍しかったのか。

今年からフィルムカメラで写真を撮るようになった矢先に目黒を散歩してたらたまたま見つけた展示でした。

 

シダネルとマルタン展 - SOMPO美術館

シダネルとマルタン展。会社帰りにSOMPO美術館に行きました。

Cocomiさんのinstagramで見かけて気になったんですよね。

マルタン「野原を行く少女」が特にいいなと思いました。

なんとなく自分の好きな印象派の絵の傾向がありますね。華やかな色彩のが好きです。

 

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以上、2022年8月初旬時点での身辺整理・展示チケット編でした。

アートって言葉がないので、よっぽどインパクトがないと記憶に残りづらいですね。

展示そのものよりも美術館や博物館の建物としての記憶の方が強いのも面白かったです。もはや旅の記憶ということでしょうか。

 

もちろん旅先でのアトラクションやお城や神社仏閣、庭園などの入場券も同じようにとってあります。これも身辺整理したいと思っていますが、アートの展示よりは思い入れが強そうなので時間がかかりそうですね。やりますけど。

 

今後はアート展示で紙のチケットを手に入れた際には、仕舞っておかずにすぐに写真に撮ってアップしてしまおうと思います。おわり。