れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

拘りと幸せ:『自転しながら公転する』

やーっぱり面白かったです、山本文緒『自転しながら公転する』。

茨城の実家にUターンしてアウトレットモールのアパレル店員として働くワーキングプアーの独身アラサー・都と、飲食店で働く中卒フリーター・貫一のラブストーリーです。

恋愛や仕事や家族といった普遍的な人間関係の悩みに加え、現代日本を取り巻く労働環境や福祉の問題など、読者である私たちの誰もが他人事とは思えない身近な社会問題を、豊かな物語性と独自の鋭い目線で描き切った長編小説でした。

 

以下、印象的だった文章。

何かに拘れば拘るほど、人は心が狭くなっていく。

幸せに拘れば拘るほど、人は寛容さを失くしていく。

 

山本文緒『自転しながら公転する』新潮社 2020.9.25)

これは都が、幼馴染の友人・そよかに「お洒落な人は狭量だ」と言われたことを思い出した時の独白です。

都は昔から着飾ることが大好きで、就職先も一貫してアパレル業界です。

そして友人でも恋人でも、相手の身なりを無意識のうちに値踏みする癖があります。

 

お洒落な人は、きっとみんな大なり小なりこういう癖があるのでしょうね。

だからなのかもしれませんが、私はお洒落な人と対峙すると、少し居心地が悪いと感じる時があります。

自分のファッションセンスに拘りもなければ自信もないし、だからと言ってそれによって不当なジャッジを受けたくない気持ちがあるせいでしょう。

 

それと同時に、私が拘っている部分(言葉の使い方や整合性、音楽やアニメや漫画の好み)に大きな齟齬がある人に対しては、やはり私も狭量になってしまう時があります。

音楽の好みなどはあくまでただの嗜好の問題ですが、会話の論理が食い違うと言い争いに発展することがあります。

つい最近もプライベートでそういうことがあって、私は自分が思っている以上に理屈っぽいのだなと再認識したところでした。

自分が快適に過ごせなくなる拘りだったら捨てたいですが、そもそも見過ごせないことだから拘っているのですよね。難儀なものです。

 

でも心配するとは、束縛することと紙一重なのだ。

 

(同上)

これは都の母・桃枝が、都に対して考えを巡らせているときの記述です。

自身が重い更年期障害に悩まされ、夫(都の父)も癌を患い、今後の将来設計を考え直して、ローンを抱えていた一軒家の自宅を売却することに決めた桃枝。

桃枝の看病をするという名目で実家に戻ってきた都に対し、改めて自立を促すことにした桃枝の複雑な心中が丁寧に描かれていました。

 

心配って、確かに束縛の親戚みたいなものですよね。

恋人に心配されると少し嬉しい時もあったりしますが、親からの心配というのはどこか疎ましく感じるのは、それが束縛とほとんど同じ種類のものだからです。

自分が誰かを心配してしまう時は、この台詞を思い出したいものです。

 

この人がいなくなっても生きていける! と天啓を受けたようにはっきり思った。それどころか、この先、気の合う人に巡り会わなかったら別にひとりでいい、気の合わない人と不安を解消するためだけに一緒になる必要なんか全然ないと初めて感じた。今まで自分は何がそんなに恐かったのだろうと不思議な気分にすらなった。

 

(同上)

こちらは都と貫一が熱海に温泉旅行に行き、そこで同棲に関する話をしているうちに言い争いになった時に、都がふと気づいた時の描写でした。

こういうことってあるよな〜と思いました。感情に突き動かされて、考えるよりも先に口からわーっと言いたいことを言った時、ふと自分の中にあった答えを見つけ出すということが。

 

都が両親の健康問題やお金のこと、貫一との将来や自分の仕事や収入のことについて不安で仕方なくてもがいていたのは、全て自分一人の力で生きていける自信がないことに起因していたのです。

これはこの小説のテーマの中でも特に重要な要素です。

自分ひとりが満足に生きていけるだけの経済力を身につけること。

厳しく感じる読者もいるのはわかっていても、作者である山本先生はそれを繰り返し発信しているのだと感じました。

 

***

 

物語の終盤、旅行先の熱海で貫一の携帯に一本の電話がかかってくるところから、事態は急降下します。

若かりし頃の貫一が非常に世話になったという旧友の父親が危篤状態であるという知らせを受け、貫一は気が動転し、夜中だけど茨城に戻ると言い出します。

心配した都は同行することに。高速道路を降りた後も気が急いていたためスピードを出しすぎていた貫一の運転に、都が不安をあらわにした時、後ろからパトカーに呼び止められてしまいます。

そこで発覚した貫一の免許失効と無免許運転の事実。

二人は警察に連れて行かれ、都は初めての取調べに疲労困憊となります。

 

それっきり連絡を取ることなく月日が流れますが、どうしても貫一を忘れられない都の身の回りに次々といろんなことが起き、最終的に都はもう一度貫一に会いにいくため、彼が働く立ち食い寿司屋へ赴きました。

都が通された席の横で談笑している会社員風の三人連れが、酔った勢いで面白いことを言っていました。

「とてもじゃないけど、百歳までお金もたないよね。年金だけじゃ足りないって」

「だからさあ!」と上司は酔ってろれつが回らなくなった口調で大きく言った。

「明日死んでも悔いがないように、百歳まで生きても大丈夫なように、どっちも頑張らないといけないんだよ!」

その台詞に都は思わず男性を見た。

「そんなこと言うけど難しいって。明日死ぬかもしれないって思ったら、ウニだの大トロなどもっと食べちゃえって気になるけど、百歳まで生きちゃうかもしれないなら、そんな値段もコレステロール値も高いもん食べてる場合じゃないって思うわ」

「その矛盾を受け入れてこその大人だ!」

「でかい声で言えばいいってもんじゃないってば」

そこで三人はどっと笑った。

 

(同上)

ほーんと、このバランスって難しいですよね。超高齢化社会の日本にいるからこそ余計にそう思える気がしました。

死ぬのも怖いんですけど、百歳まで”生きちゃう”のもやっぱり怖いです。

 

もし科学技術がもっと進化して、老いる心配がなくなって、無機的な肉体が手に入ったら怖くないのでしょうかね。

それとも、やっぱり意識が存在し続けることに耐えられないのかなぁ。

 

そして、この三人の会話を受けた、本編最後の一文が、涙を誘う名文でした。

ラストオーダーの時間になり、都の前にやってきた貫一。

久々に会った都たちは、静かに言葉を交わします。

都は彼に触れようと手を伸ばした。明日死んでも百年生きても、触れたいのは彼だけだった。

 

(同上)

もう、この一文を読んだだけで涙が出ます。

生老病死とか、お金の不安とか、ごたごたした現実問題は尽きないけれど、最後にはここに行き着くんですね。

陳腐な表現で申し訳ないですが、やっぱり愛だ、って思えました。

ラブストーリーはだからついつい読んじゃうんですよね。

 

単行本の発行にあたり書き下ろしたというプロローグとエピローグは、読者によっては蛇足だと言う人もいると、前に『ダ・ヴィンチ』のインタビュー記事で読んだ記憶があります。

確かにそう言えなくもない印象もありますが、エピローグの終盤の都の台詞もなかなかいいので、これはこれでよかったんじゃないかと思いました。

「別にそんなに幸せになろうとしなくていいのよ。幸せにならなきゃって思い詰めると、ちょっとの不幸が許せなくなる。少しくらい不幸でいい。思い通りにはならないものよ」

 

(同上)

最初に触れた拘りの一節に通じますね。

以前ここにも書いたように、私は”ハッピーアレルギー”のきらいがあるので、この台詞には共感できます。

でも、「ちょっとの不幸」って言うのもなかなか難しいんですよね。

不幸って底がないので、ちょっとどころじゃ済まないのが現実の怖いところでもあります。

 

***

 

あー、それにしてもやっぱりとても面白かったです。

もう山本先生の新作が永久に読めないことが、本当に本当に悲しいです。

私はこれからもきっとずっと、繰り返し山本作品を読み続けていくだろうと、改めて思いました。おわり。