れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

余命を知った後の生活:『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』

山本文緒大先生が最期の時まで書いていた日記が出版されていたのを最近知り、読みました。

人間ドックを毎年受けて、10年以上飲酒も喫煙もしていなくても、いきなり末期癌が発見されたりするんですね。

90歳くらいまで生きるのに充分な貯蓄があったらしい山本先生ですが、58歳で亡くなってしまいました。人生ってまったく計画通りにいかないものだなと思いました。

 

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死期がわかると人生でやり残したと思うことが切実に把握されるんだなと、この本を読んでわかったんですが、私も果たしてそうなるのかな。少し自信がないです。

山本先生は愛する旦那さんや仕事仲間や家族に別れのあいさつ(のような交流)を少しずつしながら余命を過ごしましたが、私はさよならを言いたい人も思い浮かびません。

 

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実は私のハハは昨年乳がんになり、片方の乳房を摘出し、今でも腕があまり動かせないらしいです。

薄情な一人娘の私は見舞いにも行かず何の助けもしませんでしたが、叔母たちがたくさんサポートしてくれて、なんとか日常を過ごしているようでした。

この本を読んでがんの治療というのがいかに過酷なものなのかを知り、私はあらためてハハの強かさを知ったのでした。

 

私はいつまで経っても今ひとつハハを好きになることができないのですが、それとは別に彼女のある種の強さには感服せざるを得ないと思います。それは私が持ち得ない、社交性と忍耐強さです。

 

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この日記の一番最後の記述が、なんだかとても死をリアルに感じる描写でした。人々の声が遠くなる、一番聞きたい人の声だけ聞こえない感じ。

誰一人として自分の最期がどうなるか分からず、誰一人としてそれに抗うことはできないという、当たり前だけど普段忘れていることを突きつけてくる本でした。おわり。

徒労感だけがつのる理由:『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』

大屋夏南さんがYouTubeでまたまた面白い本を紹介されていました。山口周『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』。

私は別にエリートでもなんでもないんですが、読んでいて「わかりみが深すぎる〜」と思う内容があったのでメモしとこうと思います。

 

この本は2017年に出版されたそうなので新しい本ではないですが、2023年現在においても良いこと言ってるなって感じの内容でした。

著者の主張としては、現代社会では

  1. 論理的・理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつあるので、全体を直感的に捉える感性と「真・善・美」が感じられる打ち手を内省的に創出する力が必要
  2. 世界中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつあるため、人の承認欲求や自己実現欲求を刺激するような感性や美意識が重要
  3. システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生しているが故に、内在的に「真・善・美」を判断するための美意識が求められる

という理由で、世界のエリートたちは日々美意識を磨くためにあれこれやってるということでした。

 

特に腹落ち感が高かったのが1に関する話です。というのも、私の今の職務はデータサイエンス界隈に近いんですが、正直上司も同僚もみんなデータ分析に夢見過ぎではと思うことが多かったんですよね。顧客に関するデータはたくさんあって、あとはそれを適切に分析さえすれば現状打開策が見つかるのではみたいな空気があるのですが、そんなたいそうなもん見つからんやろ、となんとなく思っていて。

もし経営における意思決定が徹頭徹尾、論理的かつ理性的に行われるべきなのであれば、それこそ経営コンセプトとビジネスケースを大量に記憶した人工知能にやらせればいい。(中略)しかし、そのような乾いた計算のもとになされる経営から、人をワクワクさせるようなビジョンや、人の創造性を大きく開花させるようなイノベーションが生まれるとは思いません。

 

(山口周『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』光文社新書 2017.7.20)

同業他社も似たり寄ったりなデータを持っているのが普通なわけで、それを極めて科学的に分析すれば、同じような答えになり、その結果同じような施策を打つことになってどんどんレッドオーシャンになるという悪循環・・・。

著者はこの問題を解決する一つのモデルとして、PDCAのPをアート人材が、Dをクラフト人材が、そしてCをサイエンス人材が担うという方法を挙げています。

 

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ビジョンと美意識というテーマの話も興味深かったです。

著者は現代のビジネスパーソンにとって美意識は非常に重要なコンピテンシーとなると言っています。何故なら、ビジョンを打ち出すために美意識は必要不可欠であり、現代の日本企業の苦境の大きな要因は「ビジョンがないから」だと。

ビジョン=これから向かう場所をありありとイメージが湧くように記述したもの、と定義すると、ビジョンがない=行き先が見えない状態であり、行き先が見えないまま走り続けなければならないため、ただ徒労感だけがつのるという・・・あ、まさに私がこれまで働いてきた会社じゃん、て思ってしまいました。ハハハ(無表情)。

いま、我が国の多くの企業がなんとも言えない「閉塞感」のようなものに覆われていますが、最大の原因はこの「行き先が見えないままにただひたすらに死の行軍を求められている」状況にある、というのが私の見立てです。このような状況を打開するには、目指すべきゴール、つまりビジョンを示すことが必要です。

 

(同上)

さらに、人を共感させるような「真・善・美」が全く含まれていないようなビジョンは、ビジョンじゃなくて単なる「目標」であり「命令」でしかないと著者は言い切っています。ほんまや〜とこれも腑に落ちました。

 

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さらにここ数年社内で感じることの一つが「お客様アンケートとりすぎ問題」です。

商品開発もEコマースもマーケティングも、みんなこぞってしょっちゅうお客様アンケートとってるんですけど、それで何かが改善されたり売上アップしたかと言われると「?」な現状。

そんな状態に著者のこの指摘はまさに膝を打つような感じでした。

このような社会において、論理と理性に軸足をおいたサイエンス主導経営は、競争力をやがて喪失していくことになるでしょう。求められるのは、「何がクールなのか?」ということを外側に探していくような知的態度ではなく、むしろ「これがクールなのだ」ということを提案していくような創造的態度での経営ということになります。

 

(同上)

まあ、自分も含めて「これがクールだ」と提案できる人がどれくらいいるか謎ですが、外側に答えを探していくことの限界はだいぶ前から感じています。

 

さらに、さまざまな判断を下す上で、判断基準を会社の外部に持つのではなく内部に持つことの重要性も著者は説いています。

論理的な推論については最善の努力をしつつも、どこかでそれを断ち切り、個人の直感に基づいた意思決定を適宜行っていかなければ、組織の運営は「分析麻痺」という状況に陥ることになります。

そして、この転換、すなわち「論理から直感」という転換は、意思決定基準を「外部から内部」へと転換することに他なりません。

 

(同上)

「分析麻痺」ってシビれる言葉だな〜と思いました。今いる会社もまさにこれかも。

 

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この本がきっかけで著者の山口周さんのVoicyも聴きました。面白かったです。

voicy.jp

たまにちょっと説教くさいというか、憂き世を嘆く感もありますが。「魂の貧しい人々」とか、ディスりが秀逸で笑えます。

 

比喩を含むレトリックがとても上手い人だなぁと感じました。めちゃくちゃ読書家で知識も豊富で話が面白いです。

「デートの前に行きたい場所や食べたいものや観たい映画を細かくアンケートとってくる男」の例えは笑いました。そう、まさに企業の「アンケート取り過ぎ問題」を揶揄したものです。

 

ビジネスパーソンとしても現代を生きる一般人としても、美意識が重要なのはよくわかったんですが、それと同時にめんどくさい、本当に窮屈な世の中だなぁとも思いました。

思考停止して気楽な雑用を決まった時間内でこなして、くだらないバライティを観ながらビール飲んでお風呂入って寝るだけの牧歌的で単調な暮らしでは、もはや生き延びていけないんですかね。自己実現とか、まじめんどくさいんですけど。おわり。

中年女性の安定しない情緒:『エンパイア・オブ・ライト』

最近ホルモンバランスが崩れているのかなんなのか、精神的に不安定で地味に辛い日々を送っています。

今月は誕生月でもあったし、加齢が改めて心身にダメージ与えてるんですかね。なんか毎年今の時期って荒んでいる感じがします。

そんな状態なので、先日観た映画『エンパイア・オブ・ライト』もとても心に残りました。

www.searchlightpictures.jp

監督は以前このブログに書いた『レボリューショナリー・ロード』も手がけたサム・メンデスですが、今回のこの『エンパイア・オブ・ライト』は割と希望のある終わり方だったなぁと思います。

 

あらすじは以下。

厳しい不況と社会不安に揺れる1980年代初頭のイギリス。海辺の町マーゲイトで地元の人々に愛されている映画館・エンパイア劇場で働くヒラリーは、つらい過去のせいで心に闇を抱えていた。そんな彼女の前に、夢を諦めて映画館で働くことを決めた青年スティーヴンが現れる。過酷な現実に道を阻まれてきた彼らは、職場の仲間たちの優しさに守られながら、少しずつ心を通わせていく。前向きに生きるスティーヴンとの交流を通して、生きる希望を見いだしていくヒラリーだったが……。

 

映画.comより)

ヒラリーの心の闇が果たして過去のせいだけなのかはわからないですが、心のバランスが崩れて激昂した時の彼女は本当に怖かったです。私もさらに年を重ねてホルモンバランスや自律神経がもっとガタガタになったら、あんな感じに自分を抑えられなくなってしまうのだろうか・・・怖いです。どうしたらいいんだろう。

 

あと、なんていうか・・・微妙にハイになった中年女性って、見ていてハラハラしますね。ヒラリーが職場の映画館でのプレミア上映の日に急にステージに躍り出たシーンは冷や汗が出ました。何をやらかすかわからない不気味さが巧みに表現されていて、嫌なドキドキ感があり笑えました。

 

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職場の優しい同僚たちとか、もちろんスティーヴンとか、ヒラリーの生活に希望や潤いをくれる周りの人たちがいるおかげで、彼女は前を向けるわけですが、それは諸刃の剣でもあって、失われるとかえって一人でいた時よりダメージが大きくなる気もしました。期待するから絶望が深くなる。

 

でも、最後のヒラリーの受容と諦念が入り混ざったような絶妙な笑顔を見ると、やっぱりそれでも誰かと関わりながら自分の人生を模索する必要があるのかもしれないとも思わされました。

誰かのせいで心が乱れるけど、誰かのおかげで救われることもある。しかし本当は、他人はあくまでただの事象に過ぎなくて、結局は自分がそれをどう捉えるか、どう認識するかが全てなのかもしれない。最近そういうこともよく考えます。

 

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とにかく、情緒不安定な中年女性になることが怖いというのが第一印象の映画でしたが、映像もとても美しいし、うまく言語化できないけれど心に引っかかる何かが得られる作品でした。おわり。

無駄話と有限の人生:『イニシェリン島の精霊』

今年は映画館で映画をたくさん観たいと思っていて、今のところ結構面白い作品に出会えています。

最近観た中で面白かったのが『イニシェリン島の精霊』。

www.searchlightpictures.jp

あらすじは以下。

1923年、アイルランドの小さな孤島イニシェリン島。住民全員が顔見知りのこの島で暮らすパードリックは、長年の友人コルムから絶縁を言い渡されてしまう。理由もわからないまま、妹や風変わりな隣人の力を借りて事態を解決しようとするが、コルムは頑なに彼を拒絶。ついには、これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落とすと宣言する。

 

映画.comより)

小さな島の田舎町で中年男性2人が仲違いしているだけだったはずが、次々と人生について問題提起してくるとてもスリリングな作品でした。

 

パードリックは酪農家で、ロバの糞の話で2時間楽しくおしゃべりができるくらい陽気な男ですが、コルムは音楽家で芸術家なんですね。この2人がどうしてこの年齢になるまで親友だったのかは謎ですが、急にパードリックと絶交して自分の創作活動に専念しようと思ったコルムには一体最初何があったのだろうとも思います。

 

まず印象的だったのは、コルムが「音楽は200年以上残るが、人の優しさは残らない」というようなことを言った場面でした。なるほど確かに、日常生活の中でやり取りされる親切な気持ちというのは、尊いものではありますが、歴史に名を残すものではないですね。

もちろん全ての音楽がモーツァルトやバッハのそれのように未来永劫愛され続けるわけではないですが、芸術や技術や研究結果などの業績は、それを成し遂げた本人が死んだ後も語り継がれます。そしてコルムはそういうものの方が大事で、自分もそれを成し遂げたいと考えているわけです。

一方パードリックにとっては、歴史に残る偉業よりも身近な優しさの方が遥かに大事です。どんなに頭が良くて、どんなに何かの才能があって社会的に成功していても、意地悪な奴はアカンのです。

どちらの考えも個人の自由なわけで、いつまでも2人の信念は平行線のまま、コルムは指を切り落とすし、パードリックはコルムの家に火をつけてしまう。もうめちゃくちゃです。

 

そしてそのメタファーのように、対岸の本島では内戦が起きています。戦時中ではあるものの、本島はイニシェリン島より遥かに都会で先進的なようです。物語の後半、パードリックの聡明な妹は本島に渡り、彼女から都会の生活を満喫していると報告された手紙が届きます。

イニシェリン島はどんな噂もすぐに広まり、全員が顔見知りみたいな小さな島です。村社会特有の、噂好きなおばさんやおじさんたちの窮屈で閉鎖的な悪意の吹き溜まりのような環境から都会に出てきたら、さぞや自由を感じて楽しいでしょう。兄とおかしな元友人の一生終わりそうのない喧嘩に煩わされることもない。パードリックの妹はとても優しい人ですが、でももう故郷には戻らないんじゃないかなーと思いました。

 

有限の人生をどのように過ごしたいのか、この映画は繰り返し問いかけてくるようでした。

・パードリックのように、気心知れた仲間と毎日酒場で楽しくおしゃべりして、のんびり仕事をしながら暮らしていきたいか?

・コルムのように、自分が「これだ」と決めた仕事に打ち込み後世に名を残す業績を上げたり、静かに自分自身と対話しながら己や世界について思索したいか?

・パードリックの妹のように、しがらみから抜け出して自分の好奇心の赴くまま広い世界を見に行きたいか?

・イニシェリン島の老人たちのように、人の噂話や巷のニュースを嗤いながら小さな好奇心と自尊心を保つことだけ考えていたいか?

 

人生はもちろん有限なので、やりたいことが決まっていたり、どんな人生を送りたいか目的や目標がはっきりしているのなら、無駄話する時間なんてないかもしれません。

しかし一方で、そんな目標持ってないよという人もいるだろうし(私もそのタイプ)、もし目標が定まっていても、いつもそれについてばかり考えていたり話しているのも疲れるという人もいるでしょう。

 

私は昨年末くらいから世界中の色んな人と文通できるWebサービスを使っていて、面白い本を読んだ時くらい興味深い話ができる人もいれば、特に面白いわけでもないけどだらだら文通を続けている相手もいます。

どちらかだけでは多分疲れるか、もしくは物足りなく感じると思いますが、それらがいい塩梅でミックスしていることで、数ヶ月楽しく続いており、手紙を書くことはすっかり習慣の一つになりました。

私の文通相手たちは、私との手紙のやり取りをどのように認識しているのだろうと、この映画を観て少し気になりました。それは気軽な無駄話の一種なのか、あるいは自分の人生や世界について考える一つのとっかかりを求めているのか?私にとって、それは共存しています。おわり。

疲れるけど避けられないフェミニズム

先日書店の雑誌コーナーで『Numero TOKYO 2023年3月号』をちらっと読んだんです。

それで後ろの方に「バービーのモヤモヤ相談室 」という、お笑い芸人のバービーさんの連載があって、それを読んだ時に脳にガツンとくるものがあったのでメモしとこうと思います。

 

雑誌の読者からのお悩み相談コーナーという、よくある読み物なんですが、今回の悩みは育児中の主婦からのものでした。

まだ小さい子供がいて、家事と育児で毎日疲れているけど、夫がとにかくセックスしたがりな人で、子供の前でも求めてくるし、避妊もしてくれないという相談でした。

産後は妊娠しやすい?とのことで、すでに2回中絶しているんだけど、どんなに回数を減らしてほしいと言っても、避妊をしてほしいと言っても、子供の前で盛るのはやめてほしいと言ってもやめてくれないらしい。

それを読んだ私は最初「まったくけしからん夫やな」と思っただけだったんですが、バービーさんの回答は第一声「これは犯罪です」とキッパリ断罪されていて、かなり衝撃でした。

バービーさんの回答に驚いたんじゃないです。明らかに犯罪なのに、そうとすぐに認識できなかった自分の麻痺した感覚にびっくりしたんです。

 

バービーさんのいう通り、両者に同意のないセックスは夫婦間でも性暴力であり犯罪です。だけど、あまりにも「よくある話」なので流してしまった自分がいました。

自分が同意していないのに、結局セックスせざるを得ないという状況が、あまりにも日常的にありすぎて、それが異常であり糾弾すべき事象であるという事実を忘れてしまっていたんですね。

自分が傷つけられたら腹が立って報復するのに、他人の被害に鈍感になっていた自分に本当に驚きました。

そして、女性が日常的に被害を被っている状況に慣れすぎて、刷り込まれすぎて、問題を正しく認識しきれていない事実に改めて絶望しました。自分も女性なのにこんななんで、男性の場合さらに認識できてないんだよなぁとか思ったり。

 

先日高野ひと深ジーンブライド』を読んだ時も同じような絶望と疲労を感じました。

女に生まれてきただけで、なんでこんなにサバイバルせなあかんのや、と、ほんと絶望しかない気分になる漫画ではあります。

冒頭の雑誌でバービーさんも言及していたけど、自分が傷つけられている、損なわれていることに気がつくことは苦しみを伴います。「気づきたくなかった」というのも不思議ではないくらい。

けど、やっぱり一度気づいてしまうと無視するわけにはいかないんですよ。気づかなかった頃には戻れない。無自覚なままでは無垢でいられないように、鈍感なままでは尊厳を保てないんです。

 

だから、韓国や日本で日々出版されているフェミニズム文学に対して、「読むのつらいなー」と感じる気持ちもあるんですが、やはりそれらは今まさに必要なものだな、とも思いました。

私たちは長きにわたって刷り込まれ、洗脳され、麻痺させられている現実に気づいて、自分たちが軽視され、侮辱され、踏み躙られていることにもっと正しく怒った方がいい。

それはBlack Lives Matterとかとも一緒で、ひたすら抗議しないといつまでも被害の連鎖が続くからなんですよね。

今かろうじて私たちが選挙権を持って社会的労働ができているのは、先人たちが抗議し続けて戦ってきたからです。私は別に娘もいないし、子供たちの未来についてそんなに思うところがあるわけではないけど、それでもやはりこの先もずっと(私が死んだ後の世界でも)女性たちが延々こんな理不尽な思いをし続ける世界は勘弁してくれよと思います。なんでか知らんけど、そう思ってしまう。

 

だから、つらいししんどいけど、自分が傷つけられている現実を正しく見つめようと思います。そしてできる限りの手段でそれに抗います。自分と、同じ時代やこれからの時代を生きる女性たちが少しでもマシな未来を手にできるように。おわり。

喪失と子育て:『わたし、今日から「おひとりさま」』

あけましておめでとうございます。

ぼやぼやしているうちに新年になってしまいましたが、昨年末に読んで印象深かった漫画について記録しておこうと思います。年末のうちに書いとけという感じですが。

装丁デザインとあらすじをさらっとみて、なんとなく読んでみたんですが、結構泣きました。

 

田舎で高校卒業と同時に結婚・出産し、愛する夫と利発な娘と暮らしていた専業主婦の主人公・泉は、ある日夫に離婚を言い渡され、娘は父についていくといい、三十路を過ぎて社会人経験ゼロのままバツイチの独り身になるところから物語は始まります。

利発な娘・ミチちゃんの勧めにより東京に出てきた泉は、高校時代の親友で現在は売れっ子ヘアメイクアップアーティストの独身貴族・じゅりちゃんの家に転がり込むことに。なんとかありついた家事代行サービスの仕事で出会ったイケメンのヒモくんに若干ときめいたりしながら、泉の東京ライフは一見順調そうでした。

 

泉は毎週土曜日には地元の喫茶店で愛娘・ミチちゃんとの近況報告会をしていたのですが…。

ここで大事なネタバレがあるので、読みたくない方は閉じてください。

 

じゅりちゃんは街中で偶然再会した泉との共通の友人から、泉の真実を告げられます。

実は、ミチちゃんは事故で死んでしまっていたのです。

愛娘の死を受け入れられず、いつまでも朝食を3人分作ったり、毎朝もういない娘に笑いかけたりする泉に耐えきれなくなったので、泉の夫は離婚を言い渡したのでした。

 

泉は本当に正気を失っているわけではなくて、実際には娘の死をきちんと認識しています。でも認めたくなくて、自分を支えるために、脳内で娘を生かし続けていたのです。

生前ミチちゃんが「大きくなったら東京に行ってバリキャリになる」と言っていたのを泉は覚えていて、愛する娘が見るはずだった東京の景色を自分が見に行こうと上京したのでした。

 

ミチちゃんが死んでいたことを知ってからの泉の描写は怖かったですね。ホラーでした。

地元の喫茶店のマスターがまた、優しいんですよね。泉の向かいの席は空席なわけですが、泉の視界の中にはミチちゃんがいるわけです。泉は毎回自分の分のアイスコーヒーと、ミチちゃんのためのクリームソーダをオーダーするんですが、泉が面白おかしく自分の東京生活の近況報告をする前で、静かに溶けてドロドロになっていくクリームソーダが本当に切なかったです。

 

じゅりちゃんはそんな今の泉の状態をまずいと思い、病院に連れて行こうとしたり、なんとか現実を受け入れるよう泉を説得しますが上手くいかず、泉はじゅりちゃんから距離を置くようにヒモくんの家に転がり込みます。

ヒモくんはクズ男ですが実は実業家でもあり、金銭的には大変安定した人間でした。そのうち泉はヒモくんの子供を妊娠してしまいますが、元夫と再会して話し合ったり、ヒモくんとも話し合ったりした結果、シングルマザーとして子供を産む決意をするのでした。

 

泉って一人でいる時はいい加減で奔放でふらふらした頭弱い感じがする女性なのですが、母親になった途端に強くなるんですよね。こういう女の人もいるのかーと勉強になりました。

そして一見無謀にも見える泉のシングルマザー計画や、職場での出産ラッシュを見ていたじゅりちゃんは、自分のキャリアと人生について再考するようになります。

「子供かー」

想像できない

仕事を中断してまで

私が誰かのために生きるなんて

 

(きよね駿『わたし、今日から「おひとりさま」』祥伝社 2022.11.15)

しかしながらじゅりちゃんは子育てしてみたい気持ちもあって、最終的に泉の子供を共に育てるというダブルマザー家庭を提案し、泉もそれを了承します。

 

私も泉とじゅりちゃんみたいなダブルマザーに育てられたかったな。楽しそうです。

私はじゅりちゃんみたいに仕事が好きなわけでも子育てしたいわけでもないですが、彼女みたいな女性は結構いるんじゃないかなーと思いました。

・子供が欲しい

・自分で十分に稼げる仕事をずっと持っていたい

・夫や子供の父親は特段いらない

という働く女性と、

・子供が欲しい

・外で働くのもいいけど仕事に熱中する気は必ずしもない

・夫や子供の父親は特段いらない

という女性同士で築く家庭って、無理やりこさえた旧来型の男女カップル家庭より円満にいく気がします。円満だったらすなわち子供にとってもより良い環境なわけで、つくづく出産まわりの制度改革をもっとフレキシブルにすべきだよなぁと思いました。

 

ま、私の場合は

・子供はいらない

・お金に困らなければ特段働きたくない

・夫もいらない

というないないづくしなので、そもそも関係ないと言えばないんですけどね。

 

物語の終盤、泉がミチちゃんの死を本当の意味で受け入れて、じゅりちゃんと一緒にミチちゃんのお墓参りに行ったシーンは号泣しました。今も思い出すと涙が出てきます。

私が子供はいらないという理由は、今までも散々書いてきたように、自分が生まれてきたくなかったからです。自分がされて嫌なことを誰かにしたくない。ただそれだけです。

でも、もう一つ理由があるとするなら、それは喪失した時に立ち直れる自信がないからです。

 

自分の生んだ子供を必ずしも愛せるとも限りませんが、もし自分が娘を産んで、その子がミチちゃんのように利発で聡明で可愛らしい子であったとして、もう大切で大切で仕方がなかったとき、

彼女が突然事故に遭って死んだり、事件に巻き込まれて殺されたりしたら、私は絶対に正気を保っていられないだろうと思います。そういう点でも泉は本当に強いです。

 

子供だけではありません。恋人でも友人でも家族でも、もしくはペットでも、または生き物でさえない何かだとしても、私はかけがえのないものを持つことを心の底から恐怖しています。それを失った時、自分を支えられる自信がないからです。

 

昨年は、私にしては珍しく他人との交流が若干盛んでした。結果的には疲れただけで、もう懲り懲りって感じですが、もしかけがえのない誰かに出会ってしまったら、こんなもんじゃ済まないのだろうなと思いました。

誰とも親しくならず、誰とも心通わない人生を味気ないという人もいるでしょう。私もそう思いますが、今はむしろそうありたいです。

私は自分の人生に意味なんかいらないし、後悔なんてあってもなくても構わないし、唯一の願いは苦しまずにコロリと死ぬこと、それだけです。

あんな、身を引きちぎられるような耐え難い喪失を味わうくらいなら、初めから大切なものなんてほしくないなと、この漫画を読んで再認識しました。

 

2023年を心穏やかにやり過ごせますように。おわり。

命と尊厳は数値化できない:『ガヨとカルマンテスの日々』

今年も何度か映画館でいろんな映画を観た気がするのですが、ぱっと思い出せるほど記憶に残っていないんですよね。

そんななかかなりインパクトがあって、2日連続で映画館に足を運ぶほど惹きつけられた作品が『ガヨとカルマンテスの日々』でした。

初見の日はお酒も入っていたので大感動してしまい泣きました。

「もう一度観たい!」と思ってその場で次の日のチケットを取って、翌日も映画館に行きました。2日目は素面だったのでそれほど感動はなかったですが、印象深い場面や台詞のメモを取りながら観ました。メモしながら映画を観たのは初めてでした。

映画館の中って真っ暗なので、手元は見えず感覚で書いてたんですが、まあまあ読解可能な感じでした。

 

あらすじは以下。

米国国家財政破綻後の世界。為政者の喧伝装置となったマスコミによってテロ容疑を着せられたマルラは、余儀なく逃亡生活を送り、精神安定剤を片時も離せない日々を送っていた。一方、ルイスは移住資金捻出のため、闘鶏に人生を賭け、一発逆転を夢みる。

 

prime video 商品ページより)

メモをもとに思ったことを書いていきます。

 

・砂糖や貧困を野放しにする社会

砂糖の中毒性はいまでは広く知られていますが、なかなかやめられないのも事実。私もたぶん砂糖中毒です。

www.shinjuku-stress.com

おまけに砂糖をたっぷり使った飲料メーカーや製菓会社は多くのマスメディアの巨大スポンサーでもあるので、おそらくこれらが規制を受けることは今後も日本ではないんじゃないかなと思います。

このように、人々の健康に有害であることがわかっていても、自由経済に組み込まれているがために野放しにされているものはいろいろあって、そういうものは大抵高所得者よりも貧困層のあいだで大量に消費されるんですね。

ギャンブルでもアルコールでも、低所得者ほど中毒になりやすいのは世界共通です。

酒を飲むのもタバコを吸うのもコーラを飲むのも個人の自由、と言えなくもないですが、それに依存しては、せっかく手にしていたはずの自由も溶けて消えてしまう。

では、国民の健康を守るためにそれを規制できるのでしょうか?それとも、中毒者を増やして不健康経済を回したほうが税収は上がるのでしょうか(医療費も上がると思うけど)?国家はどちらの選択をするのが望ましいんでしょうね。

個人としては、有害物質からは距離を置いたほうがいいんでしょうが、これも人間の欲望システム的に結構難しいんですよね。ケーキを一口食べたらもう、美味しくて笑顔になっちゃいますもん。

 

・この国の威張った奴らが嫌い

主人公のマルラを助けた看板屋のおじいさんが言った言葉で、すごく共感したのでメモしました。

ニュースで見る政治家のおじいさん達も、いままで学校や職場で出会ってきた中年男性達も、どうしてああもいけ好かないやつらばかりなのだろうと思っていましたが、その一つの答えを発見した気がしました。そうそう、なんでかみんな無駄に威張ってるんですよ。私もこの国の威張ったやつらが嫌いです。

 

・本物は広告しない

これもどうかな~とちょっと思いましたが、でもやっぱりそうかもと思い直した一言でした。

いいものを作っても上手に宣伝しなければ売れないとも考えていましたが、これだけインターネットで世界が繋がっていると、大事なのは宣伝の仕方ではなく、如何に最初の1人に届けられるかだけかもしれません。

昨今は、よさそうなものでも、広告を見て白けてしまうことが増えてきました。なんなら、その広告に加担しているいわゆる"インフルエンサー"にも白けてしまったりします。

 

ソーシャルメディアはコカインより中毒性がある

本当かどうか調べてないですけど、まあその可能性もあるなと思った言葉でした。

先月か先々月くらいに、LINEでたまに話すアメリカ人看護師が、心の安定のためにはソーシャルメディアは全部やめるべきだと言っていたのを思い出しました。人は意識的にも無意識的にも他人と自分を比べてしまうもので、それが精神的不調のトリガーなのだと。仰る通り。

 

・この国に産業があるか?大国の保護下、庇護下/成長こそ第一?

この映画はアメリカが財政破綻した後のキューバというのが舞台なんですが、今の日本を重ねることもできる世界観でした。自国で産業が育っていないことって、本当に未来を暗くしますね。国を開いて大国の庇護下に入ったところで、それはまるで生殺与奪の権を明け渡してしまうようなものです。

さらに、産業を起こしたとして、各企業がひたすら成長を追い求めた結果が今の環境問題や奴隷問題なわけで、なんとかしなければならない一方これよりうまく行っている新しい仕組みがまだないのも事実。今が本当に時代の転換点だなと感じました。

 

・人は誰でも前向きだし後ろ向き、真面目だし破天荒、人はどちらかに決めつけたがる

これは最近の私の信条になりました。本当そうだな、と思いました。

その日の健康状態や環境の変化、起こった出来事や人との出会いによって人の性格特性は常に変化します。もちろんある程度考え方の癖や傾向はありますが、一つの側面に決めつけるのはやはり乱暴ですよね。決めつければ色んな判断が楽になるので、気持ちはわかりますけどね。あらためて気をつけようと思いました。

 

・人は自分の物語を探してる、だがそんなものはない、時間が過ぎるだけ

自分探しとかしてる人に伝えたい言葉でした。笑

 

・やることがなきゃ地獄?彷徨い続けるのは苦しい?

私の人生は基本的に何にもやることがないんですけど、この苦しさはそれとは関係があるのかないのか。正直よくわからないけど、気になったトピックでした。

 

・体も心も動かない年齢

最近本当にフットワークが重くなっているのを実感したので、この言葉はずしんときました。もちろん60歳でも80歳でも元気な人はいますが、相当意識して気をつけないと、まじで体も心も動かなくなります。まあ、動じないという側面もあるかもしれませんが。

 

・その縁を信じるか無視するか、運命や縁を感じるか、気づくか

私は相変わらず孤独な人生を送っており、今まで特に運命や縁を感じたことはないのですが、そういうのってあるんですかね。私が気づかなかっただけ?それとも本当に存在してない?うーん。

 

・人は目先のお金のために生きてるんじゃない

うーーん確かにそうあるべき?と思いつつも、結果的に目先のお金のために生きてるような人っていっぱいいる気がしました。私は誰のためにも何かのためにも生きてるつもりはなくて、ただ死ぬ時の痛みが怖くて念のために生きてるだけなんですが、イコール目先のお金のために生きてると言えなくもない?

 

・人の命や尊厳は数値化できない

これは初見で見たとき一番印象に残った言葉でした。この映画を見てから「尊厳」というものについて考えるようになりました。私はそれを「人間として扱われる権利」みたいなニュアンスで考えています。まだまとまってないですけどね。

 

・民主主義をマスコミが書き換えている、資本家のしもべ

・ビルの高さ、軍事力 ≠ 豊かさ

・情報操作、分断

・権力は虚構

・人種や資産の違い

・自由の名を借りた奪い合い

終盤は明確な新自由主義へのアンチテーゼになっていきます。現代社会に感じる違和感をガンガン炙り出していくような感じでした。

豊かさとは何なのかを自分の頭で考えていかないと、勝手に煽動されて特定の価値観を植え付けられてしまうなぁと思いました。多分、人々のマインドを悪質な方に変えるのって、想像以上に簡単なんですよね。善良にするのは難しいのに。

 

・誇り高く高貴な人で国であろう

「誇り」というものも最近気になるワード上位です。

先日とあるパリ在住の日本人YouTuberさんが「自分の仕事に誇りを持って働いているウェイターさんがいるレストランは感じがいい」というようなことを言っていて、誇りを持つってそういうことなのかと思ったんですよ。

ところが先日、旅先の図書館でたまたま読んだ中島義道氏の新書に「誇りを持つということは、他者を見下すことと紙一重」みたいな言説があって、それも納得いく話で、必ずしもいいものでもないなとも感じました。

まあいずれにせよ、私が自分や自分の仕事に誇りを持つことは未来永劫なさそうですが。

 

・視聴率、テレビは本当もそうじゃないことも、ソーシャルメディアは都合の良いことだけ

・本当のことは自分で探しにいくしかない

まさにそうだなぁと。ここ数年本当にフットワークが重くなって、旅行にいきたい気持ちが萎んで、他人のvlogで満足してしまう体質になっちゃってるんですが、所詮自分の目で見たものではないですから、結局なんの血肉にもならないんですよね。

本当に知りたいことは、自分が動いて見にいくしかないんだ、と当たり前のことを再認識したのでした。

 

・権利とは生命、自由、幸福の追求

・小さな幸せを大切にすること

幸福の追求…幸せになりたいわけじゃないと言っても、あんまり信じてもらえないですが、幸福を追求すること自体が苦しく感じます。幸福に限らず、何かを求めることそれ自体が苦痛。

不幸になりたいわけでもないんですが、なんかもう勝手に幸せを感じたり不幸になったりするんですよね。

しかも幸福ってつまるところセロトニンとかそういう物質的世界に言い換えが可能なわけで、それを生命とか自由とかと同列に並べるとだいぶ違和感はあります。

でも、寒空の下一口食べた、温めたチョコレートチャンクスコーンが想像以上に美味しかった時、幸せを感じたんですよね。つまるところ幸せなんてその程度で、不幸の無数のバラエティ性に比べたら本当に小さなもので、それを大切にすることは生きやすさに繋がるのかも?

 

・民主社会主義、自由と信仰

新自由主義批判の末に行き着いた新たなアイディア「民主社会主義」。

社会主義がそのままではあまりうまくいかないことは歴史が証明していると思いますが、資本主義の"自由の名を借りた奪い合い"の末に今色んな問題が起こっているのを見ると、大衆に好き勝手やらせるよりは、マイルドな社会主義の方がありなのかも?とか思っちゃいますよね。マイルドな、というのが詰めようとすると大変そうですが。

そして信仰。政教分離というものも、つまるところ新自由主義が力技で信仰をねじ曲げた結果ですよね。そして金銭的豊かさが手に入ると、いつの間にか"消費教"とも言える、新自由主義の信者になってしまうという…。

 

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つらつらと書いてきましたが全然まとまらないですね。でも、いくつも思考の種を手に入れたような気持ちになる映画でした。

そしてカリブ海の陽気な雰囲気が見ていて楽しい映画でもありました。あー暖かいところに行きたい。おわり。