れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

人間っていいのか?:『サピエンス全史』

昨年末に読んで、別次元に面白かった本が『サピエンス全史』。

世界的ベストセラーですが、私はモデルの大屋夏南さんのYouTubeで初めて知りました。

まず、上巻冒頭からすごい名文で感嘆しました。

ちょっと長いけど、とっても美しいので全部引用したいと思います。

今からおよそ一三十五億年前、いわゆる「ビッグバン」によって、物質、エネルギー、時間、空間が誕生した。私たちの宇宙の根本を成すこれらの要素の物語を「物理学」という。

物質とエネルギーは、この世に現れてから三○万年ほど後に融合し始め、原子と呼ばれる複雑な構造体を成し、やがてその原子が結合して分子ができた。原始と分子とそれらの相互作用の物語を「化学」という。

およそ三八億年前、地球と呼ばれる惑星の上で特定の分子が結合し、格別大きく入り組んだ構造体、すなわち有機体(生物)を形作った。有機体の物語を「生物学」という。

そしておよそ七万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生き物が、なおさら精巧な構造体、すなわち文化を形成し始めた。そうした人間文化のその後の発展を「歴史」という。

 

(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上)ーー文明の構造と人類の幸福』柴田裕之 訳 河出書房新社 2016.9.30)

壮大でありながら文学的でもあり、素晴らしい文章だなぁと読むたびに思います。訳者の方の技術とセンスもずば抜けて高いですね。まさに歴史に残る名文だと思います。

この導入で一気に惹き込まれて、かなりボリュームのある本にもかかわらず、読み進めるのが全く苦じゃありませんでした。

 

概要としては、神がかって俯瞰的な目線で人類の歩んできた歴史を記述し、さまざまな角度から解明されていない問題や未来の課題を検証している本です。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだときにも似たような感覚になるのですが、この『サピエンス全史』を読むと、思考が整理整頓され、視点が浮世の一段上に移る感じがします。

あるいは、価値観のステージが一段下(ベース・根底に近い層)に移行するとも言えます。伝わりますかね…。

日常生活で使っている「いい/悪い」「望ましい/望ましくない」といった価値基準の一段下、「そもそも“価値がある”とはどういうことか」というレベルの目線になるんです。狭義の意味での哲学的次元。

その次元に思考がいくと、狭まっていた視野が広がり、イライラしたりモヤモヤしたりしていたささいなじしょうから一定の距離が取れて、少し冷静な気持ちになれます。

そういった意味では、心の清涼剤ともいえる本でした。

 

***

 

上巻では、神話の力で人類がよりパワーを持ち、人工的な本能のネットワーク「文化」を構築していく様が記述されています。

特に印象的だったのは、「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」という経験則。

男性同士でセックスを楽しむのも女性が子供を産んだり産まなかったりするのも、生物学的には可能で、可能なものは全て自然なものである、というのが生物学的作用。

一方で、男性同士のセックスを禁止したり、女性に子供を産むことを強いたりするのは一部の文化、すなわち文化的作用なんですね。

文化的に断罪する人々は「それはヒトとして不自然だ」などとあたかも生物学的視点であるかのような主張をするけれど、本来不自然なことというのはそもそもなし得ないこと(男性が光合成する、女性が光速より速く移動するなど=不可能なこと)なので、禁止する必要がないわけです。

つまり何かを禁止したり制限したりするというのは、必ず文化的な作用が存在していて、それが多くの人にとって救いになったり障害になったりするってことなんですね。

 

こうしてあらためて言われると当たり前のように感じるけれど、たとえば中学時代、わけわからん校則だらけ(ルーズソックスは履くなとか派手なブラジャーはつけるなとか)のような世界にいたとき、反発や反抗はしてもここまで原理的に考えてはいなかったなーと思いました。

そもそもそういう原理的なことを考えさせる教育方針だったら、そんなわけわからん校則なんて存在しなかったかもしれませんね。

 

***

 

下巻では、仏教についての記述が刺さりました。

著者のユヴァル・ノア・ハラリさんはユダヤ人らしいですが、仏教徒であるはずの私より仏教の理解が遥かに深い。

下記の解説を読んで、あらためて私ってつくづく仏教徒だなと思いました。

ブッダとは「悟りを開いた人」を意味する。(中略)彼は自分の教えをたった一つの法則に要約した。苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

「ダルマ」として知られるこの法則を、仏教徒は普遍的な自然の法則と見なしている。「苦しみは渇愛から生じる」というこの法則は、現代物理学ではEがつねにmc二乗と等しいのとまったく同じで、つねにどこでも正しい。仏教徒とは、この法則を信じ、それらを自らの全活動の支えとしている人々だ。一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。それに対して、仏教の第一原理は「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。 仏教は神々の存在を否定しない(中略)が、苦しみは渇愛から生じるという法則には何の影響力も持たない。もし、ある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。   

 

(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(下)――文明の構造と人類の幸福』柴田裕之 訳 河出書房新社 2016.9.30)  >  

 

この一節を読んでから、ことあるごとに自分の中の「渇愛」に目を向けるようになりました。そして「あー、悟りたいなぁー」とまた渇愛するという(だめじゃん)。

また、神という存在の考え方についても、認識をあらたにしました。そうそう、神への信仰はあんまり重要じゃないんですよね。  

 

あとは、最後からあとがきにかけても秀逸だなぁ〜と感じました。

物理学や化学などの自然科学を駆使し続けた結果、前人未到の新世界が到来するかもしれない近未来。

ほかの植物も動物も、自分たちの欲望すらも思うがままに制御できるかもしれない中で、人々は何を望むようになるのか、そもそも「何を望みたいのか」が問われるかもしれないと言います。

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

 

(同上)

欲望の全てが叶っても、人間ってまだ何かを望むんでしょうかね。やっぱり欲望に果てはないのか。満足って一時的でしかないものなんですかね。

そう考えると、つくづく渇愛から逃れて悟りたいと思ってしまいます(またここに帰るのか…)。

 

そんなわけで個人的にはさっさと悟りたいんですが、一方で人間のどうしようもなさにワクワクしてしまう悪趣味な自分もいます。

そのうえ、人間には数々の驚くべきことができるものの、私たちは自分の目的が不確かなままで、相変わらず不満に見える。カヌーからガレー船、蒸気船、スペースシャトルへと進歩してきたが、どこへ向かっているのかは誰にもわからない。私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。 自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?

 

(「あとがき――神になった動物」同上)

神であるかはさておき、「自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な」状態の人って、すでに現代に沢山いるんじゃないかと思いました。私自身ももしかしたらこの状態にいるのかもしれません。  

自分の楽しみ、自分の快楽、それらを求めて苦しみ、手に入れて一旦は満足しつつも決して望みは尽きずにまた新たな楽しみや快楽を追い求める。

それらを追い求めながらも、自分の本当の目的が何で、自分の欲望の正体が何なのか理解しきれておらず、絶えず不満が募る。

人間って、なんて阿呆でどうしようもないんでしょう。

でも、そのどうしようもなさがあったから、今の数々の文化が生まれてきたのかもしれません。  

 

さて、このどうしようもなさのループから脱出する方法はあるのでしょうか。それが悟りなんでしょうか。

少なくとも、宇宙とか地球上の生物たちの歴史とか、そういう壮大なスケールの話に思いを馳せると、日常の些事とか自分の人生とかがめちゃくちゃちっぽけでとるに足らないどうでもいいことのように思えて、少し気が楽になるので、本書はいい薬でした。おわり。