高校生の頃、私はほぼ毎日「生まれてきたくなかったなぁ」と思っていました。
ものごころついたときからチヤホヤされて、普段の生活で死ぬほど厭なことはありませんでした。
勉強もそこそこ好きだし、クラスメイトも先生もみんな優しくていい人たちで、学校へ行くのは毎日それなりに楽しかったです。
家庭はあまり明るいところではありませんでしたが、そこまで酷いところでもなかったように思います。
でも、私はこれからもずっと生き延びていくということが、物凄く恐ろしく、非常に面倒くさいと思っていました。
進路に悩んでいた、というのもあったかもしれません。けれども、どこの大学に行こうかとか、どんな学部へ行って将来何になろうかとか考えるよりも前に、
どうして私はこんなにずっと生きているんだろうとか、
あと何年生き延びるんだろうとか、
どうしてみんな生きているんだろうとか、
どうして人は子供を産むんだろうとか、
そういう、存在そのものに言及するようなことばかり考えていました。
そしてそういう問題は、女子高生がぼんやり悩んでいてもどこにも出口のないものでした。
どうしてそんなに苦しんでいたのか、今となってはよくわからないのですが、私の基本的な信条は、そのころから今に至るまで変わっていないと思います。
それは、「世界がどうあっても、生まれてくることよりは、生まれてこないことの方が常にいい」ということです。
生きていればいいことはあります。世の中には楽しい事や嬉しい事がいっぱいあります。つらい事ももちろんありますが、それだって意味のあることだと思います。
しかし、どんなに素晴らしい出来事が人生に溢れていようと、それによって「生まれてきてよかった」とは、私は決して思わないということです。「生きててよかった」とは思いますが。
もし自分が生まれる前に時間が戻せて、自分で自分が生まれてくることを阻止することができるなら、私はもちろん阻止します。そんなことは物理的にも論理的にも不可能ですが。
このような考えを、非常に優れた構成でエキサイティングに描かれた物語のなかで、登場人物が吐露する場面がありました。私は昨日、その台詞を読みながら、共感して泣きそうになりました。
「自分が親に産まれさせられてしまったことは仕方がない。自分じゃどうにもならなかったんだから。自分じゃ自分が産まれるのをとめることなんてできなかったんだから。でも」
(中略)
「自分が産んであげないことはできる。もう自分で自分を終わりにするの。自分によく似た他人を産んで、自分をリサイクルしようなんてことは一切しないの」
この物語は、2025年の日本の大都市・今池を舞台にした、10代の少年少女たちが絶望の中でサバイバルしていく話です。
物語の中の日本は、今よりもっとずっと絶望的で、今池の街はゴミに溢れ、老人のホームレスがそのなかで蠢き死に絶え、治安も衛生も最悪、仕事も無くて数少ない若者の未来も暗澹たるものです。
主人公の森本聖畝(せいほ)17歳は、力もなく頭脳もそこまで明晰ではない冴えない男子高校生なのですが、たくさんの登場人物の中ではそこそこ常識的でモラルのある人間です。この常識・モラルは、読み手である私たちの考える常識・モラルですが。
そんな聖畝があるきっかけで関わりを持つことになる天才サイバー・ディーラー西原真紀16歳が、聖畝と2人で夕暮れを過ぎて夜になった住宅街を歩く場面で言った台詞が上記です。
真紀はサイバー・ディーラーという「勝ち組」の職を持ち、お金も地位もあって、登場人物の中ではとりわけいい暮らしをしています。でも、それがいつまでも続くわけではないことは分かっているし、家族もガードマンも、「友達になりたい」と言ってきた聖畝でさえ、心から信頼することはできない。お金があるせいで、かえって人間の嫌な部分をたくさん見てきたわけで、そんな人間たちに、そして自分が人間であることにも絶望しています。
けれども彼女は強いので、そこでくよくよ悩んだりはしません。絶望は絶望のまま置いておいて、彼女は偶然つかんだこの国の政府のとある陰謀の情報の先を追い求めてどんどん危険を冒していきます。
そして、物語の真相に近づけば近づくほど、彼女の絶望は深くなっていきます。
「十七年近く、生きてきた。物語にはいっぱいあった。世界が崩壊してしまう話。世界が崩壊した後の話。だけどどうして物語って世界が一気に壊れてしまうのかな。今日の後の明日って突然に壊れてしまうのかな。現実にはそんなことはない。現実はもっとひどい。世界は少しずつ、少しずつ壊れていくのに。みんなが一生懸命生きて、支えているのに一ミリ一ミリ数えるみたいに落ちていくのに。きっとみんな怖いのよ。怖すぎて物語にできないのよ。世界が完全に壊れきるまで一つ一つ少しずつ何かを失って、それでも生き続ければならないなんて。やりきれない。どうして神様ってこんな世界にしてしまったんだろう。こんなになるまで放っておいたんだろう」
もちろん本当は、生き続ければならないなんていうのは幻想で、彼女はここで自ら死ぬことだってできます。でも死なない。彼女は自殺したりはしません。
この物語の世界はほとんど救いようがない世界だけど、不思議と自殺するような人はあまり出てきません。人殺しはいっぱい出てくるんですが。人間って、自分を殺すよりは他人を殺す方が容易いのでしょうか。
あ、話がそれました。
人間は、絶望したり恐怖で打ち震えたりしても、それだけでは死なないんですね。
希望なんてなくても、人間は生き続ける。
それはいいとかよくないとか価値を付加できる類のものではなく、ただの事実でしかないかもしれません。
でも、私は、それはしんどいなぁとずっと思っています。
生まれちゃった。だから生き続けている。この事実がもうつらい。
そのつらさを考えないように感じないように、日常をなんとか面白い事で埋めようとあれこれしている気がします。
私が高校生の頃は、この生まれちゃったという事実にまだケチをつけたい気持ちがありました。20歳になる頃まで、どこかで納得していなかった気がします。親に文句を言ったこともあります。
けれど、大学の哲学や倫理の講義でいろんな話を聴いたり、レポートのためにあらゆる資料を読んだり、精神的に少し病んで薬漬けになったりしながら、だんだん諦めの境地が見えてきました。
生まれちゃったもんは、あきらめるしかないよなぁって。
仕方がないよなーって。
世の中には、「人生は楽しむためにあるのだ」とか「幸せになるために生まれてきたのだ」とかいう言説がありますね。たしかにそういう人もいるだろうし、それはそれで素敵だと思います。皮肉でもなんでもなく、私もそう思えたらいいなと感じます。
しかし、もう長いあいだずーーーーっと心の奥底では同じ気持ちが横たわっています。
「生まれてきたくなかった」
だからって、これから首をくくったり、また大量のメジャートランキライザーをウォッカで喉に流し込んだりはしません。
あきらめていますから。
人が死ぬことも、人並みに悲しいと感じます。この小説の中でも、何人も登場人物が死に、中には非常に残念な死もありました。
死はときに悲しい。淋しい。生きていれば何かいいことがあるかもしれないし。
けど、私には新しい人間の誕生を素直に祝う心はありません。
同級生の中には、子供を産んだ子も何人もいます。もう24歳ですし。
しかし私はどうしても心から「おめでとう」とは言えませんでした。子供を産んだ人にケチをつけるつもりはまったくありません。産みたいから産んだんだろうなぁと思うだけです。
子供は幸せに育てられているかもしれません。私よりも、その子を産んだ同級生のコよりも、楽しい人生を歩むかもしれません。
それでも、思ってしまうのです。
生まれてこない方がよかったのにねって。おわり。
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この記事の関連書籍の紹介です。
Better Never to Have Been: The Harm Of Coming Into Existence
- 作者:Benatar, David
- 発売日: 2008/09/15
- メディア: ペーパーバック
「生まれてこなきゃよかった」ことがもうちょっと論理的・学術的に述べられています。