前回からの続きです。
中学時代も何冊か山本文緒作品を読んでいて、なかでも好きだったのが『ブラック・ティー』でした。
こちらは軽犯罪をテーマにした短編集です。
一話目に収録されている表題作「ブラック・ティー」は、無職の女性が山手線の忘れ物からお金を抜き取り都心で暮らしている話で、子供心に「働かなくても一人で生きていくこともできるのか」と印象的でした。
彼女は最初から盗人ニートだったわけではありません。学校を出て就職して、華やかな業界で頑張って働いてきた経験もあるし、恋愛もして誕生日に男性から薔薇の花束をもらったことだってあります。
けれど些細な出来事から、少しずつ人生がレールから外れていく。
気がつけば職を失い、たまたま電車で拾った誰かの忘れ物から札束を手にし、今度の家賃が払えると安堵します。そして盗人ニートの道へ進んでいくのです。
社会人になった今読むと、電車に置き去りにされた、かつての栄光を思い出す薔薇の花束を持ち去ってしまう惨めさが、他人事に思えないなぁと感じました。
***
この本の中で今も昔も一番好きな話が第八話「ニワトリ」です。
主人公はもうすぐ就職を控えた女子大生・江戸川晴子で、のんびり自宅で過ごしていたある日、近所のレンタルビデオ屋の男が怒鳴り込んでくるところから物語は始まります。
晴子が商品を返却し忘れていたのですが、男は罰金を払えと言ってくる。
借りたよりも買った方が安いレベルのその罰金を何故要求されたかといえば、これが初めてではなく、実は晴子は返却忘れの常習犯なのでした。しかもそれを指摘されるまで忘れていたのです。
レンタルビデオ屋にボロクソに言われたことの顛末を、同居している妹が帰宅するや否や話すと「ビデオ屋のおじさんの気持ち、分かるな、あたし」という妹。
一体どういうことか晴子が聞くと、妹は晴子のあまりの忘れっぽさを指摘します。
貸したままいつまでも返してもらえない洋服、子供の頃貸したままどこへ消えたかわからないボールペン、高校生の時貸したピンクハウスの鞄、今まで貸したまま返ってきてない累計八万円以上のお小遣い・・・。
妹に言われるまですっかり忘れていたあれやこれやに呆然としつつ謝るしかない晴子に、歩くとすぐ忘れるニワトリのようだと妹は言い放ったのでした。
今度は妹にニワトリ呼ばわりされた話を恋人のアパートですると、彼氏も「ニワトリだと思えば、腹も立たないか」と妙に納得した様子。
一体今度は何だと思った晴子に、彼氏は今日が何の日だかわかるかと問います。
その手の話題が元々苦手な晴子は当然答えられず、それは自分たちが付き合い始めた日だという彼氏に「そんなの覚えてるなんて女の子みたい」と内心毒づきましたが、そもそも虫の居処が悪かった彼から別れ話を切り出され、返す言葉もなかった晴子はそのまま帰宅しました。
自分は忘れていても、周囲の人間はしっかり覚えていて、腹のうちでは怒っていてもそれを表に出さないことがだんだん怖くなった晴子は、帰宅後自分の本棚や引き出しを捜索します。
すると出てくる出てくる、ずっと前のテストの時に借りたノートやらCDやら本やら・・・さらには誰に借りたのかさえ思い出せない数々のものたち。
忘れたことすら、忘れている。忘却の彼方である。
もしかして自分の脳には障害があるんじゃないかと途方に暮れたところに妹が帰宅して、晴子の暗い面持ちを訝しみました。
晴子はこれまで返し忘れていたあれこれを謝罪し、彼氏にも振られたことを話すと、妹は「信じられない」と晴子の彼氏への怒りをぶちまけます。
一体どういうことかというと、晴子が今まで散々尽くしてきたのにそれを返すこともせずに、向こうから振るなんて信じられない、というのです。
晴子はこれまで何度もご飯を作ってあげたり代返してあげたりと尽くし、彼の駐車違反と罰金まで肩代わりしたこともあったし、彼が麻雀で大負けしたときにも金を貸したりしていたのでした。
付き合ってた本人が忘れているのに、よくそんなに覚えているなと感心した晴子に「忘れる方が異常だ」と言い放つ妹。
するとだんだん神妙な面持ちになった妹は、今度は自分がこれまで黙っていた姉にしたひどい仕打ち(姉のお気に入りだったぬいぐるみやコーヒーカップをダメにしたことや、姉の初めての異性との旅行を親に告げ口したことなど)を懺悔して泣き出しました。
晴子はびっくりしつつもちょうど鳴っていた電話を取ると、昨日自分を振った彼氏が「俺はお前がいなくちゃやっぱり駄目なんだ」とこちらも泣いて謝ってきました。泣いて懺悔する彼らに挟まれ、途方に暮れたところで物語は終わります。このラストがとても好きです。
私はどう対処したらいいか分からなくて、天井を見上げる。
世の中の人は、なんて真面目なんでしょうかね。
(同上)
私は(最近はそうでもないかもですが)生まれつき記憶力がいい方で、自分がしたひどいことも、自分がされたひどいこともいつまでも忘れないタイプです。
それって結構しんどいことで、おまけに人間というのは自分に甘いようにできているので、自ずと自分がされたことの方が強く印象に残っており、いつまでも恨みが残っていたりします。
思春期の頃はより白黒はっきりつけたがる性質が強いので、放っておくとゴリゴリの被害者意識でがんじがらめになってしまうことがありました。
そういうときこの話を読んで、人間社会のお互い様な感じを学んだし、普通忘れないようなことすら忘れてしまう晴子のおおらかさにも憧れたし、救われたものです。
晴子の境地には多分生まれ変わってもたどり着けないけれど、何事もほどほどに覚えておいて、ほどほどに忘れたいものだと今はより強く思います。
つづく。