れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

平家物語とタルムード金言集のあいだで

アニメ『平家物語』を観ました。
映像もドラマも非常に美しくてとても感動した反面、良くも悪くも“日本人的価値観”を強く感じて、しみじみ考えてしまいました。
ここで私のいう“日本人的価値観”とは、恥の文化や有終の美と呼ばれる類のものです。

終盤どんどん追い込まれていく平家一族。かつての栄華のときを思い返してはやるせない思いでいっぱいです。
壇ノ浦の戦いにてついに打つ手なしとなった彼らは、次々と自ら海に沈んでいくんですね。
もし平家のみんながユダヤ教徒だったら、絶対こんなことにはならないだろうなと思いました。なぜそんなことを思ったかというと、昨年末にこの本を読んだからです。
確かにユダヤ教徒は、過去に想像を絶する迫害に遭って「死んだ方がマシ」とすら思える仕打ちを受けても、最後まで諦めなかったんだなと想像できました。まあ、そもそもユダヤ教徒のストイックさがあったら「驕れるものも久しからず」なんて状態にはならなかったかもしれませんが。

もし私が平家の人間だったら、やっぱり自死したり出家したりすると思います。矜持の問題ではなく、単純に痛みや苦しみに耐えられないし、かといって打開策を発想する自信もないからで、ひたすら逃げの思考というか、むしろ思考停止の結果です。
現代の日本人ならどういう人が多数派なんですかね。勝手な印象ですが、欧米人だったら自死も出家もしなくて、どうにか逃げのびる手段を考えたり作戦練ったりしてそう。

もうひとつ考えたのは、この物語自体の印象・読後感も、人種や宗教の違いで大きく異なるのだろうかということです。
ラストの平家一族が次々海に沈んでいく場面や、清経が最期の笛を吹いて船から飛び降りる場面や、敦盛が清経にした約束を思い返しながら敵に斬られるところなど、私は胸が締め付けられて切なさや儚さを感じて感動したのですが、この感動ももしかしたらものすごく“日本人的”なのかなぁと思いました。
この「儚さ偏愛主義」ともいえる嗜好って、万国共通してあるのでしょうか?私はどうにも日本人のDNAを実感してしまったのです。
というのも、感動している一方で「なんか自己陶酔してるよなー」と妙に白けた気持ちも頭の片隅にあるんですよね。散り際に美学なんて求めてどうする、みたいな。
最後の最後まで「いやだー死にたくないー!」「頼朝の野郎〜ぜってー許さねぇー!」とかジタバタしている方が人間らしく感じられて共感できちゃうかもしれません。儚さは感じないかもしれないけど。

極限まで追い込まれたときに、
プライドをもって自死を選ぶのも、
さっさと苦しみから逃れたくて死んだり出家したりするのも、
最期まで足掻いてジタバタするのも、
決して諦めず問題解決しようとするのも、
心の在り方としてはどれが正解でも間違いでもないんですよね。その人の人生の問題であって、本人の気持ち次第。
けれど、民族とか種族の思考パターン・傾向としてそれらが積み重なると、国益や市場競争、種の繁栄・絶滅にも関わってくるのではないかと思えたのでした。

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しかし、あらためて平家物語の冒頭文(「祇園精舎の鐘の声〜ひとえに風の前の塵に同じ」までの一連)って美しいですよね。中学の頃に暗記させられた記憶があるのですが、今思うとなぜこれを暗記する必要があるんですかね。
国語の授業で習ったけど、国語というより日本人的価値観の情操教育という方がしっくりきます。
ということは、儚さ偏愛主義も学校教育で育まれたのかしら。なんか嫌だわ。おわり。