れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

そのスタイルでいこう:『オーラの発表会』

日本の現代文学でギャグ・コメディセンスがピカイチなのが綿矢りさ大先生。

『オーラの発表会』、めちゃめちゃ笑いました。

あらすじは以下。

「人を好きになる気持ちが分からないんです」

 

海松子(みるこ)、大学一年生。

他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手。

趣味は凧揚げ。特技はまわりの人に脳内で(ちょっと失礼な)あだ名をつけること。

友達は「まね師」の萌音(もね)、ひとりだけ。

なのに、幼馴染の同い年男子と、男前の社会人から、 気づけばアプローチを受けていて……。

 

「あんまり群れないから一匹狼系なんだと思ってた」「片井さんておもしろいね」「もし良かったらまた会ってください」「しばらくは彼氏作らないでいて」「順調にやらかしてるね」

――「で、あんたはさ、高校卒業と大学入学の間に、いったい何があったの?」

 

綿矢りさデビュー20周年!

他人の気持ちを読めない女子の、不器用で愛おしい恋愛未満小説。

 

集英社作品サイトより)

海松子は確かに他人の気持ちを読めないけど、他人の気持ちを読める人なんでいないですよね。読めないというより、推し量れないのが海松子なのです。

クラスメイトの口臭から昼間に食べた学食のメニューを言い当てることを特技とするような、結構デリカシーのない変わった女の子ですが、その失礼な感じが実に軽快な文体で面白おかしく描かれていて、声出して笑えます。

 

海松子の父は大学教授で弥生時代などの研究者で、母も歴史が好きで食卓に江戸時代の食事を忠実に再現したメニューを並べる人です。両親もなかなかパンチがある人だなぁと思います。

そんな両親に愛されて育った箱入りの一人娘・海松子ですが、家族にもクラスメイトにも一貫して敬語で話す描写からも「この子なんか不思議な感じ」と印象付けられます。

そんでもって将来の夢が教師で、現在は教育学部に通い、塾講師のアルバイトをしています。

 

これは偏見であることを承知していますが、やっぱり学校の先生になる人(なりたがる人)って変な人多いですよね。

私も教育学部出身ですが、私の専攻は教育学部のくせに教職がメインではない不思議なクラスだったので、周囲にも教員になった人はほぼいません(私ももちろん教育実習すらしていない)。

そのせいか、私の同級生はわりと常識的な人が多かったです。

 

でも、義務教育から大学に至るまで、出会ってきた先生は大体変な人だったなぁと思い出されます。どのように変だったのかを説明しだすと文字数オーバーしそうなくらいキリがないですが、全体的に浮世離れしてたというか、社会と隔絶されてる感じの人が多かったです。

そして、私はそういう変な先生と話すのがとても好きな子供だったので、用もないのに職員室や生徒指導室に入り浸っては、暇な(本当はそんなに暇じゃなかったかもしれない)先生を捕まえてニュースの話とか本の話とか将来の話とかをダラダラし続ける面倒な生徒でした。

 

***

 

海松子はバイト先の塾で中高生から好かれず、小学校低学年のクラスを中心に任されていました。

そんななか、夏期講習の人員不足で久々に中高生にも教えられるとなっていた矢先、複数生徒からの強い要望で授業を外されることになってしまった海松子。

彼女は落ち込み、ある日大学教授である父の授業をこの目で見てみようと思い立ちます。

 

他大学のカリキュラムをネットで調べて大教室の授業に潜り込んだ海松子が目にしたのは、ゲームやおしゃべりや居眠りばかりで全く授業に関心を持たない学生たちの中で、ひたすら淡々と授業を進める父の姿でした。

幼い頃から研究者としての父を誇りに思っていた海松子はショックを受けますが、授業の後に父の研究室に行き、バイト先の出来事と自分の将来について悩んでいることを父に相談します。

父は、学生に迎合しても、要望を聞き出せばキリがないこと、とにかく授業を続行しなければならない責任があること等を訥々と説きました。

思い悩む娘に極めて現実的なアドバイスをした父。それに対して海松子は・・・

頷きながらも、自分の受け持ちの授業なのに、父が街頭のビラ配りの人と同じくらいしか学生には期待していない事実に衝撃を受けた。この人は自分のしたいことしかしていない。私もそのスタイルでいこう。

 

綿矢りさ『オーラの発表会』集英社 2021.8.30)

「そのスタイルでいくんかい」と思わずツッコミを入れてしまいました。あー面白い。

このシーンからも読み取れますが、海松子って人の気持ちは推しはかれないけど、誰かを否定したり非難したりは基本的にしないんですよね。純粋な悪意はないというか。

 

だからクラスメイトや友人の萌音も海松子に対して「こいつほんと失礼だな」「変わってるな」「ムカつくな」と思っても、彼女のことを心の底から嫌ったりはしないんだと思います。

ムカつくけど悪気がないのはわかるし、基本的には自分を肯定してくれて、自分の話を素直に聞いてくれて、思いもよらない形で受け入れてくれる。海松子はそういう子です。

 

***

 

海松子は主人公ですが、変わり者過ぎておまけにちょっとポンコツなため、実際に物語を前に進めていくのは友人の萌音でした。彼女がこれまたすこぶる面白い女の子です。

萌音自身の容姿は地味で特段特徴がないのですが、身近な可愛い子を忠実にトレースするのが非常に上手い子で、大学生になった今ではSNSでの検索力やメイクの技術も舌を巻くレベルに。

萌音に服装やメイクを真似された女子たちはだいたい不愉快な気持ちになり萌音に敵意を向けるようになるのですが、海松子はそのプロ並みのコピー能力を素直し尊敬し、才能であると考えています。

 

この辺の対比も非常に興味深いなと思いました。

同じ「服装やメイクを真似される」という事態に対して、真似されて不愉快になる人と、真似のクオリティに関心し相手を尊敬する人がいるんですね。その差はどこにあるのでしょうか。

私が思い付いたのは「他人への関心の強さ」です。

海松子は他人に全く関心がない訳ではないですが、基本的には父と同じく街頭のビラ配りの人程度にしか興味が持続しません。

だから、自分の服装を真似されても「なんで?」と追及せず、「完成度が高い、すごい」と関心するだけで終わるのです。

 

あらすじにも「他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手」とありますが、私は逆に、他人に興味を抱いたり気持ちを推し量ったりしようとするから、世の中生きづらくなるんじゃないかと、この本を読んで感じました。

最初に書いたように、他人の気持ちを読める人はいません。

推し量ったところで、それが事実とどれくらい合致しているかなんて誰にもわかりません。

勝手に推し量って、勝手に想像して、勝手に気を使った結果ストレスになるんじゃないでしょうか。

そして、自分が勝手に推し量った気になっているだけなのに、それを相手にも無意識のうちに強要していて「どうして私の気持ちがわからないの」と逆ギレして非難めいた気持ちになる。悪循環ですね。

 

***

 

この本の読後感がとても爽やかで軽やかなのは、海松子も萌音も海松子の父も、登場人物がみんな自分勝手に生きていて、それでいてうまく連帯しているからだと思いました。

他人に興味をあまり持てなくても、相手の気持ちを想像する力があまりなくても、相手の存在を素直に肯定し、受け入れられなければ適当に受け流すだけで、本当は十分なのかもしれないと思いました。

人との距離感について、とても示唆に富む良作でした。おわり。