れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

21世紀の仏教徒:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』

私のなかの仏教ブームのひとつの到達点ともいえる著作に出会いました。それが『池上彰と考える、仏教って何ですか?』。

さすが池上彰氏、仏教のはじまりから日本でどのように発展したか、現代の仏教が世界でどのように存在しているかを大変わかりやすく解説した良著でした。池上さんの本を読んだことはあまりなかったんですが、優れた教育者だなぁって感じがしました。こういう先生に社会科教わりたかったです。

 

しかしながら、今回私がこの本を読んで感銘を受けたのは、前半の歴史解説部分ではなく、池上さんがインドのダラムサラに赴き、チベット仏教の高僧やダライ・ラマ14世と対談した模様を収めた後半部分です。

この本を読むまで、チベット仏教って日本の仏教より厳しい修行をしてそうだなぁとかぼんやりしたイメージしかなかったのですが、中国共産党に弾圧されたチベット亡命政権とも直結しているんですね。現在戦争中のウクライナとロシアのことも想起され、非常に示唆に富む内容でした。

 

***

 

そもそも何故自分が仏教に興味を持つようになったかというと、今抱えている生きづらさを仏教ならどうにかできるんじゃないかと考えたからです。

仏教は、どうして生きづらいのかという問いに一つの解答案を提示してくれた気がします。

日本に限った話ではなく、物質的な向上を図ることで幸せが得られるのだと勘違いしてきた人がたくさんいるようです。

(中略)

外面的に見て、快適だと思われる条件をすべて整えたとしても、心の平和を得ることはできないのです。これは皆さんご自身の体験に即して考えても、きっと理解していただけるでしょう。

自身の心の中によい変化をもたらさなければ、心の平和を確立することはできませんし、本当の意味で幸せになることはできないということです。  

 

池上彰池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社 2012.8.5)

上記は池上さんがダライ・ラマ14世に会う前にお話ししてくださった高僧の言葉です。

 

幸せになるかどうかは置いといて、心の平和は何より欲しいです。

物質的な向上…私にとっては洋服とかコスメとか美味しい物とかお酒とかですかね。デジタルガジェットなんかもそうかな。

「新製品!」「期間限定!」などに色めきだっているうちは、まだまだ物質的価値観から抜け出せていないわけで、そういう価値観で生きていると、心の平和は一向にやってこないんですね。  

 

この物質的価値観って20世紀的価値観とも言えると思うんですけど、

なんだかんだいって私を含む多くの一般人は、いまだにここから抜け出すことができていないのではと思いました。

この価値観って中毒性が凄くて、デトックスが難しい上に禁断症状やリバウンドも起こりそうな感じがします。  

 

価値観=ものの考え方とも言えます。ダライ・ラマ14世も上記と同じことを言っていました。

このような大惨事が起きてしまい、多くの困難や苦しみに直面したとき、大きな違いをもたらすのは何かというと、私たちのものの考え方にあります。

普段から物質的な発展だけを追い求め、外面的な幸せを得ることだけを考えていたとしたら、内面的なことをあまり考えずに過ごしていたとしたら、このような惨事が起きたとき、すべての望みを失ってしまいます。

しかし、日頃からどのようなものの考え方をするべきかについて考え、心を訓練していれば、逆境に立たされた場合でも、心の中では希望や勇気を失わずにいることができるのです。  

 

(同上)

この取材が行われたのは東日本大震災の少し後だったようで、ここで言われている大惨事とは震災のことです。  

残念なことに2020年代も、新型コロナウイルスパンデミックやらロシアによるウクライナ侵攻やら大惨事が続いていて、「物質的な発展だけを追い求め」ていた私は、文字通りすべての望みを失った気がしていました。  

面白く感じていた海外旅行に行けなくなって、体調を崩して好物の辛いものも食べられないしコーヒーやお酒や炭酸飲料も飲めなくなって、ただでさえゴミみたいな毎日だと思っていたのに、もう何に楽しみを見出せばいいのか全然わかんないって感じでした。  

この本を読んで、自分がいかに物質的な幸福だけを追い求めていたか、それに縛られていたのかを痛感しました。そしてそれこそが、自分が生きづらいと感じる原因の大きな一因なのだということにも思い至りました。  

 

***  

 

この、物質的幸福を追い求めてしまう心のはたらきが煩悩です。『サンピエンス全史』で言われていたところの“渇愛”でもあります。

仏教ではこれら煩悩を滅する修行がおこなわれているわけですが、その修行は単に信仰や祈りや瞑想だけではないと法王は言います。

仏教は、私たち人間が持っている様々な感情について、つまり、心という精神世界について、大変深い考察と探究をしています。私たちの心とはどういうものなのか、感情がどのような働きをしているのかを正しく理解することは、問題や困難に直面したとき、自分の破壊的な感情を克服するために大変役に立つのです。自分の感情をどのように扱うべきかを知っていると、たとえ破壊的な感情が起きても、それに取り組み、克服する手段を心得ているからです。  

 

(同上)

ここでいう「破壊的な感情」もすなわち煩悩です。法王はこれらを踏まえて全人類が仏教の心理学を勉強した方がいいと話していました。  

 

“仏教の心理学”というのが私にとってはパワーワードでした。

確かにこれだけ心のはたらきについて体型立てて対処法がまとまっている仏教は、いち宗教というにはあまりに理論的かつ実践的すぎるくらいです。

私が(そして池上さんもそうだと書いていましたが)他の宗教よりも仏教を信仰しようと思えるのは、他の宗教の世界観や現実社会の最新の理論や技術も受け入れる寛容さと、科学的センスを兼ね備えているからなのだと理解しました。  

 

ちなみに、チベット仏教における僧侶の昇進試験は論理学ごりごりの問答実技試験なのだそうです。知らなかった。

そんなロジカルシンキングの猛者たちの頂点にいるのがダライ・ラマ法王なわけですね。確かに、法王の言葉は平易でなおかつ理路整然としていて、読んでいて終始気持ちがいいなと感じました。  

日本も(だいぶ日本仕様になっているとはいえ)仏教国なんだから、教育現場でもっと論理学ごりごりやればいいのに。高校数学あたりでちょろっと触るくらいじゃ少なすぎるし遅すぎます。  

 

***  

 

ところで、この本をとてもタイムリーに感じたのが、チベットという国が置かれている状況についての記述です。

ダライ・ラマ法王が国家元首を務めていたチベットという国は、一九五十年代、圧倒的な軍事力を持つ中国の手に落ちました。

一九五九年、法王がインドに亡命した後のチベットでは着々と中国化が進められ、信仰の自由や人権が脅かされているため、チベット人たちが今も抗議活動を続けています。ダライ・ラマ法王は、自ら世界中を飛び回って国際社会にチベットの問題を訴えるという「非暴力」の戦いを貫いています。

中国という強大な国を相手に、一見勝ち目のなさそうに思える戦いを、よくぞ半世紀以上にわたって続けてこられたものです。  

 

(同上)

仏教は一貫して無用な殺生をしてはいけない、利他の精神を持ちなさいという考え方なので、いまのウクライナのように武力で対抗するということはしないんですね。抗議の焼身自殺はすることがありますが。

結果として亡命政権になったけれど、国を取り戻せる見通しは(少なくとも中国共産党があるかぎり)無さそうに見えます。  

 

ダライ・ラマ14世はこの戦いの本質を「真実の力」だと言っていて、例にもれず極めて正しいと感じる理論を展開するんですが、圧倒的暴力の前でその「真実の力」がどれだけ現実を動かせるのかはやっぱり疑問でした。

別にチベットも武力で対抗すべきだとは思いません。むしろ亡命して助かる命が多いのなら、つらくても国を離れるべきなのかもしれないとも思います。(西欧諸国は最初はゼレンスキー大統領にもそれを求めていたのではないかと)  

 

でも一方で、「プライドも体面も捨てたら 残るもんなんて何にもない それ捨てたら死んだも同然やろ」という『来世は他人がいい』の吉乃みたいな考え方も共感できなくもないんですよね。まあ国土とか故郷とか資源とか矜持に執着しているという意味で、この気持ちも煩悩と言われればそうなんですけど。  

 

ひどいのは侵攻している中国でありロシアであり暴力であるはずなのに、その力があまりに強大すぎて、現状を変える対抗手段を考えると結局暴力しかないんですよね。この本を読んで私はそう思い至りました。

話し合い、言葉の力、コミュニケーションで暴力を解決するのってやっぱり無理なんですかね…。  

 

かろうじて救いがあるのは、そんな苦しい状況にある法王が極めてポジティブであることです。さすが仏教の修行を極めているトップ、心の平和レベルが凡人とは違います。

私はいつも正直に真実を語り、慈悲深い態度を維持していますから、悲しんだり、後悔したりする理由は何もありません。それが楽観的でいられる主な理由です。さらに、私はひとりの仏教僧であり、家族もありません。自分ひとりのことだけを考えていればよく、家族のことを心配する必要もありませんから、皆さんよりもずっとシンプルなのです。

家族がいて、子供、孫、曾孫などがいたら、心配の種がたくさんあって、考えなければならないこともたくさんでてきますからね笑。  

 

(同上) 

カッコいい〜〜〜〜〜私だって家族も友人も恋人も居なくてシンプルなはずなのに、全然楽観的になれません。 真実を語り慈悲深い態度を維持できるよう、修行に励めということでしょうか…。  

 

***  

 

先ほども書いたように、この本の発行から10年が経った現在、世界情勢も日本社会もより困難を極めていると思います。

これから新たな冷戦時代に突入しそうだし、それによってインフレも進みそうだし、そもそも円安も進んでて海外旅行も高くついてるし、国内は超高齢化社会のシルバー民主主義が向こう30年は続きそうだし所得もやっぱり上がらなそう。

21世紀になってすぐ、「物質的価値観の時代は終わった」的な言論が出回るようになっていましたが、そう言いながらもみんな休みの日はショッピングしてたし、旅行先ではお土産たくさん買い込んで、毎年買い換えてるスマートフォンで写真撮りまくってたんですよね。なかなかモノの中毒性から抜けられなかったんです。  

 

でも、この先本当に物質的価値観が終焉を迎えるかもしれないと思います。

しかも、こちらが終わりにしたいと思っていなくても、大きな力によってその価値観を剥奪されてしまうような変化が訪れるんじゃないかと。正直結構怖いです。

全体的に見れば、アメリカの生活スタイルや、西洋の工業国の生活スタイルは消費過多なので、これには真剣に取り組まなければなりません。私たち人間は、持っているもので満足するという実践をしなければならないと思います。

すべての人たちが、生きていくために必要なものや設備を得る権利を持っていますが、贅沢品はどうしても必要なものではありません。世界では何百万人もの人たちが貧困と飢えに苦しんでいることを考えると、あまりに贅沢な暮らしをすることはよいことではありません。

しかし、すでに述べたとおり、科学技術がなくては生活の向上を図ることはできません。  

 

(同上) 

贅沢って慣れてしまうもので、慣れると依存してしまうものです。

この先、薬物中毒者が苦しみながら薬を抜くように、社会的要因や経済的理由から”贅沢抜き“を強いられるような未来が訪れるかもしれないと思います。

もしそういう未来がやってきたとき、仏教って(仏教の心理学って)有用なんじゃないでしょうか。  

 

ダライ・ラマ14世は話の中で幾度も勉強することの重要性を説いていました。

現代において必要とされている知識や教養(そこに仏教の心理学も含まれる)を正しく備えた上で、ひとりの人間として、他人を思いやる気持ちを持っていなければならないというのが法王の持論で、その姿勢を「21世紀の仏教徒」と表現していました。  

 

私はなかば救いを求めて仏教について調べていたわけですが、最終的に「21世紀の仏教徒になれ(よく勉強して人に優しくしなさい、それが修行だ)」という結論に落ち着きました。法王すごい。

悟りは遠いけれど、視界がひらけた感じがしました。思考が一段クリアになったというか。

心がぐちゃぐちゃになってしまったとき、思考が迷子になってしまったときに、この本の対談部分だけでも読むと良い薬になると思います。おわり。