れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

私にとっての山本文緒(3):『みんないってしまう』

間が空きましたが前回のつづき。

 

自分の人生にもっとも影響を与えた本を1冊だけ選ぶとするなら、私は山本文緒『みんないってしまう』を挙げます。

はじめてこの作品を読んだのは高校3年生の終わりのことです。

高校生の頃の私は、これまで何度かここでも書いてきましたが、生まれてきたことがとにかく嫌で、生きているのがしんどかったです。

生きていることに希望が何もなかったので、進路についても真面目に考える気が起きず、周囲の勧めるまま、センター試験の結果を踏まえて「もしかしたら受かるかもしれない」レベルの国立大学の理学部数学科を受験しました。

将来の夢なんてなかったけれど、数学の先生に高校3年間惚れ続けていたので、数学の成績がとても良かったのです。

前期試験で受けたのは関西の大学で、ちょっとした旅行気分でしたが、試験は普通に解きました。ただ、受験当日初めて訪れたその大学の校舎や周辺の街並みを見て「ここに通うのは嫌だなぁ」とぼんやり思いました。

卒業式を終え、合格発表当日、自宅のPCで合否を確認すると、なんと合格していました。

当時の担任に電話で合格したことを告げるととても驚かれたのを覚えています。合格はしたけど入学はしないことを告げるとさらに驚かれました。

 

後期試験では別の大学の理学部数学科を申し込んでいましたが、そこに受かる確率は前期より低い見込みでした。

クラスメイトと面白半分で受験した近隣のFラン大学に、学費や入学金など全額免除の特待生で合格していたので、もうそこでいいやという気持ちでした。

けれども、これまで色々世話になった先生たちや親戚たちの期待や、自分の見栄や、将来本当はどうしたいのか分からない気持ちなどいろんな考えや感情がごちゃ混ぜになって、どうしたものかと悶々としていました。

 

その日の高校は、入試準備のため部活動が全て休みになっていて、前期試験で落ちて後期にかける受験生たちが勉強に励めるようにだけ解放されていました。

私は勉強する気はほとんどなかったけれど、家にいても埒があかないので気晴らしに学校に行きました。

シーンとした校舎。教室にはほとんど誰もいませんでした。

よく晴れた、春を待つ陽気の日でした。今まで見たどんな日よりも静かな学校をふらふら歩き回り、それまでよく利用していた図書室に入りました。

図書室にも誰もいませんでした。机にノートや問題集を出してみたけど全く開く気にならず、窓を開けてベランダに出てぼーっとしていました。

 

誰もいない校庭。青い空。静寂。

私これからどうするんだろう。あとどれくらい生き延びなければならないのだろう。

まだ若い肉体。でももう何の可能性も残されてない気がする。

虚無。

 

室内に戻って本棚をざっと見ていると、文庫の棚にあった『みんないってしまう』に目が止まりました。

山本文緒の本だ。でもまだ読んでなかったなぁ。

そう思って暇つぶしに手に取ったオレンジ色のその文庫は、人々が生きていく中でいろんなものを失くしていく、喪失のようなことがテーマの短編集でした。

相変わらず一編一編面白い。そのうちの一作品「ハムスター」の中の一節を読んだ時、衝撃が走りました。

 

***

 

「ハムスター」の主人公・ラン子は、高校中退のフリーターです。

ハハと妹のミキ(高校生)と赤ん坊のスウちゃんの4人家族で暮らしていて、ハハはある男の愛人でありパート勤めもしています。

ハハとラン子は性格のゆるさが似ていて、スウちゃんが近くにいてもスパスパ煙草を吸うし、家賃を踏み倒しても特に何とも思わないズボラさを持ちます。

一方次女のミキはルーズなことが許せない性格で、計画性や世間の常識を重んじるタイプ。学校での成績もトップクラスだそう(でもラン子もミキも同じ県立高校です)。

 

ある日、ミキが修学旅行で家にいない間に飼っていたハムスターが全滅しました。

ミキしか世話をしていなかったので、彼女がいなくなった途端ハムスターたちは食べ物がなくなり共食い争いの果てに滅亡したのです。修学旅行から帰ったミキはその惨状を見てブチギレし、家出してしまいました。

しかし「家出はレジャーのひとつ」くらいに考えているハハもラン子も特に気に留めることもなく放っておく始末。数日後、ミキの担任から学校に保護者呼び出しがかかり、ハハから面倒ごとを押し付けられたラン子は数年ぶりに母校を訪れます。

 

ミキはクラスメイトの家に世話になると言い、話がまとまって帰宅するラン子に声をかけたのは、ラン子が昔世話になった学年主任の木戸先生でした。

ラン子が在学していた頃の教師は転勤、栄転、左遷などでみんなもういないと木戸は言いました。

「先生は?」

「俺か?俺はいつも平均点だからこのままさ。ずっと主任。教頭にはなれない。でもいいんだ。偉くなんかなりたかない」

私は笑った。そうだ。高校に入ってからいつもテストは四十五点だった。それで何も不都合はなかった。ミキが言うところの”人様”には迷惑がかからなかったはずだし、怒らせもしなかった。でもそんなことはどうでもいいことだ。

ミキは将来スウちゃんを引き取りたいと言っていたけれど、それだけは反対しよう。ミキはきっとスウちゃんに九十五点を求めるだろう。私とハハなら、四十五点の人生でよかったよかったと笑ってあげられる。人様に褒められなければ充実しないような、そんな人生を否定してあげられる。

 

山本文緒「ハムスター」『みんないってしまう』角川文庫 H11.6.25)

この文章を読んだ時、本当に驚きました。

テストでいい点を取り続け、JKとしてチヤホヤされ続けているうちに、私の意識もいつしか”九十五点を求める、人様に褒められなければ充実しない”状態になっていたことに気づいたからです。

目が醒めたような気持ちでした。

 

なんで理学部数学科を受験したのか?数学の成績が良くてチヤホヤされて、先生たちに勧められたから、受かったらまた褒めてもらえるかも、喜んでもらえるかもって思ったのかもしれない(実際とても喜ばれました。入学しないと言ったらみんなに反対されたけど)。

いつの間にか勉強が得意になっていて偏差値がちょっと高くなっていたけれど、元々幼い頃から勉強するより漫画やアニメを観ている方が好きだったし、中2までは入れる高校がないと言われるくらい成績も悪かったんです。

両親も叔父や叔母たちも皆高卒だし、東大や早慶に行った親戚なんてだいぶ遠縁の人たちです。

 

先生たちに褒めてもらえたから、親戚たちに喜んでもらえたから、一体何になるというのだろう。

九十五点を目指して、それでどうしたいのだろう?

人様に褒められなければ充実しない人生の、なんと虚しく苦しいことか。

本当に面食らいました。

 

***

 

結局後期試験は受験したけれど予想通り不合格で、浪人してまで進学したい学校も学科もなく、ましてや働きたくもなかったので、予定調和的に特待生で近隣のFラン大学に進学したのでした。

学歴フィルターは通過できないけれど、かろうじて”大卒”条件は満たせるし、特段頑張らなくても4年間トップの成績が保てて、費用が1円もかからなかったのは助かりました。

元々奨学金を借りずに進学するのは国立でも厳しいレベルの経済状況だったので、もしあの時多少無理して国立に進学していたら、その後ふらふらニート生活したり思いつきで転職したりもできなかったかもしれないと思います。進学後すぐにリーマンショックもありましたし、卒業すら危うかったかも。

 

***

 

私は元々の気質はどちらかというとミキタイプなので、放っておくとまた人様の評価を気にしたり、九十五点を目指そうとしたりしてしまう時があります。

疲れたな、こんなはずじゃなかったなと思ったら、今でもこの作品を読み返します。

価値観の物差しをゆるいメモリに調整するために。

 

つづく

私にとっての山本文緒(2):『ブラック・ティー』

前回からの続きです。

中学時代も何冊か山本文緒作品を読んでいて、なかでも好きだったのが『ブラック・ティー』でした。

こちらは軽犯罪をテーマにした短編集です。

 

一話目に収録されている表題作「ブラック・ティー」は、無職の女性が山手線の忘れ物からお金を抜き取り都心で暮らしている話で、子供心に「働かなくても一人で生きていくこともできるのか」と印象的でした。

彼女は最初から盗人ニートだったわけではありません。学校を出て就職して、華やかな業界で頑張って働いてきた経験もあるし、恋愛もして誕生日に男性から薔薇の花束をもらったことだってあります。

けれど些細な出来事から、少しずつ人生がレールから外れていく。

気がつけば職を失い、たまたま電車で拾った誰かの忘れ物から札束を手にし、今度の家賃が払えると安堵します。そして盗人ニートの道へ進んでいくのです。

社会人になった今読むと、電車に置き去りにされた、かつての栄光を思い出す薔薇の花束を持ち去ってしまう惨めさが、他人事に思えないなぁと感じました。

 

***

 

この本の中で今も昔も一番好きな話が第八話「ニワトリ」です。

主人公はもうすぐ就職を控えた女子大生・江戸川晴子で、のんびり自宅で過ごしていたある日、近所のレンタルビデオ屋の男が怒鳴り込んでくるところから物語は始まります。

晴子が商品を返却し忘れていたのですが、男は罰金を払えと言ってくる。

借りたよりも買った方が安いレベルのその罰金を何故要求されたかといえば、これが初めてではなく、実は晴子は返却忘れの常習犯なのでした。しかもそれを指摘されるまで忘れていたのです。

 

レンタルビデオ屋にボロクソに言われたことの顛末を、同居している妹が帰宅するや否や話すと「ビデオ屋のおじさんの気持ち、分かるな、あたし」という妹。

一体どういうことか晴子が聞くと、妹は晴子のあまりの忘れっぽさを指摘します。

貸したままいつまでも返してもらえない洋服、子供の頃貸したままどこへ消えたかわからないボールペン、高校生の時貸したピンクハウスの鞄、今まで貸したまま返ってきてない累計八万円以上のお小遣い・・・。

妹に言われるまですっかり忘れていたあれやこれやに呆然としつつ謝るしかない晴子に、歩くとすぐ忘れるニワトリのようだと妹は言い放ったのでした。

 

今度は妹にニワトリ呼ばわりされた話を恋人のアパートですると、彼氏も「ニワトリだと思えば、腹も立たないか」と妙に納得した様子。

一体今度は何だと思った晴子に、彼氏は今日が何の日だかわかるかと問います。

その手の話題が元々苦手な晴子は当然答えられず、それは自分たちが付き合い始めた日だという彼氏に「そんなの覚えてるなんて女の子みたい」と内心毒づきましたが、そもそも虫の居処が悪かった彼から別れ話を切り出され、返す言葉もなかった晴子はそのまま帰宅しました。

 

自分は忘れていても、周囲の人間はしっかり覚えていて、腹のうちでは怒っていてもそれを表に出さないことがだんだん怖くなった晴子は、帰宅後自分の本棚や引き出しを捜索します。

すると出てくる出てくる、ずっと前のテストの時に借りたノートやらCDやら本やら・・・さらには誰に借りたのかさえ思い出せない数々のものたち。

忘れたことすら、忘れている。忘却の彼方である。

山本文緒「ニワトリ」『ブラック・ティー』角川文庫 H9.12.25)

もしかして自分の脳には障害があるんじゃないかと途方に暮れたところに妹が帰宅して、晴子の暗い面持ちを訝しみました。

晴子はこれまで返し忘れていたあれこれを謝罪し、彼氏にも振られたことを話すと、妹は「信じられない」と晴子の彼氏への怒りをぶちまけます。

 

一体どういうことかというと、晴子が今まで散々尽くしてきたのにそれを返すこともせずに、向こうから振るなんて信じられない、というのです。

晴子はこれまで何度もご飯を作ってあげたり代返してあげたりと尽くし、彼の駐車違反と罰金まで肩代わりしたこともあったし、彼が麻雀で大負けしたときにも金を貸したりしていたのでした。

付き合ってた本人が忘れているのに、よくそんなに覚えているなと感心した晴子に「忘れる方が異常だ」と言い放つ妹。

するとだんだん神妙な面持ちになった妹は、今度は自分がこれまで黙っていた姉にしたひどい仕打ち(姉のお気に入りだったぬいぐるみやコーヒーカップをダメにしたことや、姉の初めての異性との旅行を親に告げ口したことなど)を懺悔して泣き出しました。

晴子はびっくりしつつもちょうど鳴っていた電話を取ると、昨日自分を振った彼氏が「俺はお前がいなくちゃやっぱり駄目なんだ」とこちらも泣いて謝ってきました。泣いて懺悔する彼らに挟まれ、途方に暮れたところで物語は終わります。このラストがとても好きです。

私はどう対処したらいいか分からなくて、天井を見上げる。

世の中の人は、なんて真面目なんでしょうかね。

(同上)

 

私は(最近はそうでもないかもですが)生まれつき記憶力がいい方で、自分がしたひどいことも、自分がされたひどいこともいつまでも忘れないタイプです。

それって結構しんどいことで、おまけに人間というのは自分に甘いようにできているので、自ずと自分がされたことの方が強く印象に残っており、いつまでも恨みが残っていたりします。

思春期の頃はより白黒はっきりつけたがる性質が強いので、放っておくとゴリゴリの被害者意識でがんじがらめになってしまうことがありました。

そういうときこの話を読んで、人間社会のお互い様な感じを学んだし、普通忘れないようなことすら忘れてしまう晴子のおおらかさにも憧れたし、救われたものです。

晴子の境地には多分生まれ変わってもたどり着けないけれど、何事もほどほどに覚えておいて、ほどほどに忘れたいものだと今はより強く思います。

 

つづく

私にとっての山本文緒(1):『絶対泣かない』

先月作家の山本文緒さんがお亡くなりになりました。享年58歳。

ネットニュースの記事は10月18日発表のものが多いのに、私が訃報を知ったのはなんと昨日、11月13日でした。

11月13日は山本先生のお誕生日で、たまたまinstagramのタイムラインで目に止まった山本先生アカウントの投稿が、故人を偲ぶ感じのテキストだったので「・・・え?まさか」とGoogle検索したら、ひと月前の訃報記事が出てきてびっくりしました。

なんて間抜けな自分。

 

いまだに信じがたくて、でも喪失感と悲しい気持ちがないまぜで、複雑な気持ちです。

別に個人的な繋がりもないし、お会いしたこともない著名人のひとりなんですが、

これまでこのブログでも再三書いたように、山本文緒という作家は私にとっては特別な存在でした。

 

はじめは今年の9月に出た短編集『ばにらさま』について書こうかと思ったんですが、

なぜ自分にとって山本文緒がこうも特別なのか、この機会に振り返って記録しておくことにしました。

 

***

 

私が最初に手に取った山本作品は、短編集『絶対泣かない』です。

今では↑のカバーイラストかもしれませんが、私がはじめて手に取ったときは、薄い黄緑色の美しい装丁の文庫でした。

小学5年生くらいの頃、当時よく入り浸っていた近所の本屋さんの文庫コーナーに山本文緒フェアといった趣の棚が作られていて、そこに並んでいた『絶対泣かない』を本当になんの気なしに手に取りました。

当時の私は漫画はよく読むけれど本(文字だけで、イラストが一切ないもの)を読む習慣は全くありませんでした。なぜそのとき手に取ったのか覚えてないのですが、多分タイトルと装丁デザインに惹かれたのだと思います。

 

『絶対泣かない』はさまざまな職業をテーマにした短編集です。

フラワーデザイナーの話から始まり、体育教師、デパート定員、漫画家などなど15の職業を描いた群像劇は、小学生の私にはまだまだ遠い大人の世界の物語でした。

昔から将来設計が適当な子供だった私は、当時お絵描きと洋服が好きだったので「デザイナーになる」と言ってみたり、ハハが勧めるままよくわからず「薬剤師になる」と言ってみたりブレブレでした。

けれど、この本の中に出てくる「卒業式まで」という話がとても好きで、この物語を読んで以降、しばらくの間「養護教諭(保健室の先生)になる」と言っていました。

 

「卒業式まで」の主人公は、まとまった夏休みが欲しくて、なおかつ短大卒でも学校勤務ができるということで養護教諭を選んだ24歳の女性です。

彼女が勤める高校にはとある3人の問題児たちがいて、彼らはそれぞれの思惑があって保健室の常連でした。

DJのバイトをやっている健司、髪を染めている美衣子、そして成績は常にトップだけれど保健室を仮眠室として常用している水橋早苗。

3人がそれぞれ静かに煙草をふかしながら主人公の淹れるコーヒーを待つシーンが、子供心にかっこよく見えて、自分もいつかこういう養護教諭になろうと思っていました。

読んだ当初は主人公よりも健司たち生徒に感情移入する方が容易かったですが、今では教諭側の主人公の年齢すらゆうに超えてしまいました。でも、今読んでもやっぱりいいなと思う短編です。

そしてこの話に影響を受けたのか、学生時代の私は保健室の愛用者でした。

 

結局養護教諭になることはありませんでしたが、

中学の職業体験実習で花屋を選んだのはきっと「花のような人(フラワーデザイナー)」を読んだからだし、

高校時代に看護体験学習に申し込んだのも「天使をなめるな(看護師)」が影響してるし、

新卒で入った会社を辞めて事務職のOLになろうと思ったのも「アフターファイブ(派遣・ファイリング)」の記憶があったからだし、

その後あえて営業職に就こうと思ったのは「話を聞かせて(営業部員)」を覚えていたためでもあるし、

エステティシャンに転職したときには「女に生まれてきたからには(エステティシャン)」を何度も読み返しました。

 

『絶対泣かない』は私にとって13歳のハローワーク的小説だったのかもしれません。

そしてたまたま手に取ったこの小説が面白かったからこそ、漫画ばかり読んでいた私が文学にも目を向けるようになったのです。これは大きなことです。

のちに書店の同じ棚にあった他の山本作品をさらに何冊も読んで、小説の面白さにハマっていきました。なかでも『チェリーブラッサム』は初めて夜通し読み耽った長編です。

↑ハートの表紙が可愛い。これも多分ジャケ買いでした。なつかしい。

 

つづく

地べた社会の労働者:『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』

ノンフィクションでこんなに面白い本を読んだのは久しぶりかもしれません。

現代英国の労働者階級社会で生きる著者とその家族・友人たち(主にベビー・ブーマー世代のおっさんたち)をユーモアたっぷりに描いたコラム集『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』。

 

EU離脱ブレグジット)の国民投票で若い妻と喧嘩になり、仲違いを治めるために「平和」と刺青するはずが「中和」と彫ってしまった元修理工のレイ、

NHS(英国の国民保健サービス)と労働組合に熱い思いを抱く配送ドライバーのサイモン、

眼光鋭くいつも同じマッドネスファンな格好をしていて、図書館の公共サービスを執念的に利用する大型スーパー店員・スティーヴなどなど、個性豊かで人間くさい登場人物がたくさん出てきます。

 

一つ一つのエピソードは短めで読みやすいテンポで綴られていますが、どの話もとてもドラマティックで非常に物語的な余韻を残すものばかりでした。小説よりも小説っぽいくらいストーリーが精巧で豊かなのに、これが全てノンフィクションで、彼らが自分と同じ現代世界に生きているなんて、すごいとしか言いようがない感じがします。

 

特に好きなエピソードは、NHSで長年看護師として働き、のちに早期退職したローラとその夫・マイケルの話です。

子供を持たなかったローラたち夫妻は、ともに仕事を早期リタイアして旅行をしつつ悠々自適に過ごしていました。

しかしマイケルは膝を悪くして車椅子生活となり、習慣にしていたラグビーができなくなるとぶくぶく太って肥満おやじ化してしまいます。

一方ローラはマイケルのサポートをするうちにますますほっそり若々しくなり、二人は「美女と野獣」と言われた過去を通り越して「娘と要介護の父親」状態に。

著者をはじめ周囲の人間が内心「マイケルのどこがいいの?」と疑問に思っていたけれど、ローラは妖精のように優しく微笑みながらこう話します。

「私が彼を好きなのは、彼ほど私のことを好きな人はいないからよ」

(中略)

「彼と出会うまで、いろんな人と付き合った。でも、彼みたいに無条件に、何があっても、私がどんな顔をしてどんなバカなことをしても私を好きでいてくれる人はいなかった。そこまで好かれたら、好きになり返すしかないもの」

 

ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』筑摩書房 2020.6.5)

著者が「それは詰まるところ自分のことが好きということでは」と指摘すると、ローラは笑って「そうかもしれない」と返します。

けれど、私はこれはまさに愛の究極形なんじゃないかと思いました。

その後の著者の考察がまたいいんですよね。

(前略)不釣り合いとか、似合わないとか言うのはまったく的外れな観察なのだろう。誰かの幸福の前には、すべての既成概念は瓦解する。

 

(同上)

そして一緒に遊びにきたジャズのフェスで、ジェイミー・カラムが「グラン・トリノ」を歌いはじめたとき、熟睡しているマイケルに優しくキスするローラの描写が最高に美しいです。なんて文学的なんだろうと感動しました。

 

***

 

人間ドラマが熱いコラム集ではありますが、どのエピソードからも浮かび上がるのが英国の階級社会と格差、世代間ギャップ、不景気などの社会情勢です。

戦争で負けたことがなくて、私から見ると”なんだかんだ言っても真の先進国”って感じがする英国ですが、どこの国にも何かしら問題はあるんですね。何もかも上手くいく人生がないように、問題のない国というのもやっぱりないんだなと、当たり前のことを再認識しました。

 

かつて上流・中流・労働者の3つに分かれていた階級は、今や職業と収入に加えてソーシャルな側面や文化的側面まで加味し、さらに細分化されていると言います。

さすがだなと思ったのは、どの階級にいても皆それぞれ、政治に対して己のポリシーを持っていて、それをオープンに対話するのが日常になっているところでした。

パブの一角で次の選挙でどの政党を選ぶか悩んだり議論したり、時にはプチ演説したりして(立候補者ではなく投票者が演説するという情熱がすごい)、非常にオープンに自分の考えを話すことができるなんて、成熟した社会だなぁと思いました。

 

我が日本でもつい先日衆議院選挙がありましたね。

SNSではかつてないほどいろんなインフルエンサーが「選挙に行こう!」と声を上げ、選挙割を実施するメーカーやお店も多々出てきていました。

でも、「私はこういう考えで、こういう政策を望んでいるからこの政党に入れる」とか「この公約は絶対反対!だからあの政党には入れない」とか「この問題についてはこういうスタンスなんだけど、どの政党とも考えが違うから迷う・・・」とか、日常会話で話すことはそんなに多くなかったんじゃないかと思います。

相手との距離感にもよるけど、政治について自分の意見を表明することに、(私も含め)多くの日本人がまだまだ抵抗を持っている気がします。考えてみれば家庭内でもあんまり話されてこなかったなぁ。「うちは代々〇〇党に入れてる」という英国人は結構いるらしいです。

 

コロナ禍で社会に対する不満が膨らんだのもあるけど、現代はそもそも未だかつてないほどソーシャルな時代ですよね。だからSDGsとかエシカルとか、ソーシャル・グッドなことがクールとされ、社会問題に関心を持ったりアクションを起こしたりすることがかっこいいとなる。

これからもっと、誰もが政治について話すことが日常的になって、誰もが自分の意見を表明することが当たり前の時代になっていくといいなと思いました。

そういうことができる社会イコール自由な社会、ですからね。

「もう私は自分の国には住めないだろうと思う」とベトナム人の女の子が言っていたのをわたしは思い出していた。

「英国はあまりに自由で、何をしても、どんな格好をしても誰も気にしていないし、何も言われないから好きなように生きられる。でも、ベトナムはそうじゃないから」

 

(同上)

 

***

 

先日選挙が終わって、革新派を推していた若い人たちが絶望の気持ちをtweetしたものをよく見かけました。

昔から自分が投票した人がだいたい落選する私も、毎回それなりにがっかりするものです。

でも、選挙はきっとこの先まだまだ何度もあります。

「まあなー、でも死ぬこたあねえだろ。俺ら、サッチャーの時代も生きてきたし」

と連合いは言う。

そりゃそのとおりだ。英国のおっさんたちは、スウィンギング・ロンドンも、福祉国家の崩壊も、パンク時代も、サッチャー革命も、ブレアの第三の道イラク戦争も、金融危機も大緊縮時代も見てきた、というか、乗り越えてきた。

政情がどうあろうと、時代がどう変わろうと、俺たちはただ生き延びるだけ。

彼らを見ていて感じるのは、そんないぶし銀のようなサバイバル魂だ。

 

(同上)

社会のあり方について考えたい人にも、面白い短編集を読みたい人にもおすすめできる良著でした。おわり。

わかってもらえない苦しさ:『王様ランキング』

久々に声出して号泣したアニメ『王様ランキング』。

1話目から、観るの辛いなぁと感じていたんですが、2話で完全に涙腺崩壊しました。

 

あらすじは以下。

国の豊かさ、抱えている強者どもの数、

そして王様自身がいかに勇者のごとく強いか、

それらを総合的にランキングしたもの、それが〝王様ランキング〟である。

主人公のボッジは、王様ランキング7位のボッス王が統治する王国の

第一王子として生まれた。

ところがボッジは、生まれつき耳が聞こえず、

まともに剣すら振れぬほど非力であり、

家臣はもちろん民衆からも「とても王の器ではない」と蔑まれていた。

そんなボッジにできた初めての友達、カゲ。

カゲとの出会い、そして小さな勇気によって、

ボッジの人生は大きく動きだす———— 。

 

アニメ公式サイトより)

 

耳が聞こえず、口もきけないボッジにも、王になりたい野望はあるし、そのために自分なりに努力もしてきたんですよね。

自分を愛してくれた母や父に報いたい気持ちも当然あります。

義母のヒリングをはじめ、ボッジの生来の素直さやひたむきさに惹かれて彼を慕う人たちも多い。けれど肝心なところで、ボッジの本当の願いや考えは周囲の人間に理解されないんです。

 

伝えたい思いがあるのに、分かってほしい気持ちがあるのに、こんなにも理解してもらうことが難しい。

こんなにも伝えることが難しい。

ボッジやカゲの、「相手にわかってもらえない辛さ」に胸が締め付けられて、すごく惨めで悲しい気持ちになって、それでも立ち向かうボッジたちの強さに心を打たれて嗚咽が止まらなくなりました。

 

アニメの第三話あたりで、ボッジの腹違いの弟・ダイダがはっきりと「兄さん(ボッジ)は惨め」だというんですよね。我々視聴者の気持ちを代弁するように。

ボッジを見ていて感じるいたたまれなさというのは、すごく目を逸らしたくなる感情なんですが、きちんと観察して向き合った方がいい気持ちでもあると思いました。

あの焦ったい感じをどう表現したらしっくりくるのか・・・。

 

ボッジは聾者です。世の中に耳が聞こえない人はたくさんいるし、彼ら・彼女らと対峙しても惨めだなんて感じることはありません。

でも、ボッジが他者に伝えたい強い気持ちがあって、それをなんとか伝えようと言葉にならない声を唸るとき、私はとても胸を抉られるような気持ちになってしまうんですね。

手話で理路整然と話されると、多分そこまで差し迫った感情は起きないと思います。

私は今のところ耳が聞こえて、ボッジの口から漏れ出るその”声にならない叫び”が聞こえて、彼の必死な表情を目で見て、「こんなに伝えたいのに、相手に伝わらないんだ」という悲しい現実に胸を締め付けられてしまう。

そして耳が聞こえて言語を発音できる自分でさえ、本当は相手に伝わってほしい気持ちや願いがあるのに、うまく伝えられない現実に思い至って、その苦しみをボッジやカゲに重ねて共感の涙を流す。そんな感じでしょうか。

 

他人が自分の気持ちを真に理解することなんて、ほとんど不可能だって頭ではわかっています。そんなことはもう三十余年の人生で嫌というほど実感しました。

理解できるはずがないってわかっているのに、それでも自分以外の誰かに、願わくば自分が伝えたい相手に、自分の気持ちを知ってほしい、理解してほしい、「わかるよ、辛かったね、頑張ったね」って認めてほしい。

自分を受け入れてほしい、自分の言葉を聞いてほしいという欲求を、人間はどうにも抑えられないんですね。

このアニメを観るたびに、そういった事実に打ちのめされます。

原作も読もっと。おわり。

いつかは向かう場所:『今日はヒョウ柄を着る日』

前の職場は県職員や銀行・新聞社などの天下り先として機能していたので、還暦を過ぎたじいさんがゴロゴロいました。

ケチなじいさんは偉そうに講釈をたれるだけだけど、そこそこ気前がいいじいさんだと、ちょっとしたことでうな重を奢ってくれたりしました。

新卒で働いていた食品工場も60〜70歳前後の契約社員のおじちゃんおばちゃんが大勢働いていて、そういう人たちと円滑にやっていけるかどうかは機械のメンテナンス以上に重要なことでした。

地元にいたときは、ハハ方の祖父母宅に年に1,2回は顔を出していました。

会うたびに小さく老いていく祖父母と話すと、あらためて人生の有限さを思い知るし、自分もこのまま生き延びるとこんなふうになるのだと、漠然と不安な気持ちにもなったものです。

 

そんなふうに”おじいさん・おばあさん”と話をする機会が、転職して地元を離れて以降ほとんどなくなりました。

今の職場は年上の人もそこまで年上じゃないし、年下の社員の方が大勢います。最年長っぽい社長でさえ、自分の親より全然若い。

そもそも出社する機会もほぼなくなったし、コロナ騒ぎで帰省も全くしておらず、年上の友人もいない(そもそも友人という存在自体いないです)。

おばあさんの年季の入った裸を見ることのできる銭湯にも、もう何ヶ月も行っていない。

 

星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』は、老人と暮らすことで得られる発見や気づきをユーモアあふれる文章で伝えてくれるエッセイでした。

星野さんが独特な目線で下町の実家で両親と暮らす様子を読んでいると、忘れていた「すごく年上の人と話した時の感じ」を少し思い出すことができました。

また、星野さん自身が死生観や宗教などについてとても考え続けている人で、だからこそ加齢に対して抗うでもなく、悲観するわけでもなく、静かな諦念と受容を携えているように見えました。

 

***

 

付箋を貼った箇所その1。

大人とは、物理的にも、また言語的にも、過去や未来を手に入れることなのだと思う。

星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』岩波書店 2017.7.5)

星野さんが新たにスペイン語を学び始め、現在形から学習するものの全然言いたいことが言えなくてやきもきした話からの一節です。

言われてみれば確かに、現在形って動詞も原型だから最初に習うんだけど、日常で使うことってそこまでないかもしれないと、この本を読んでハッとしました。

箇条書きの自己紹介なら今やってることだけつらつら並べればいいけど、面接やお見合いのように会話を伴う自己紹介だと、どうしてもこれまで何をやってきたか(過去形や過去完了形)が必要になりますね。

ときにはこれからどうしたいか(未来形)も必要になる。なるほど〜歳を重ねるってたしかにそういう側面があるなとしみじみ思いました。

 

付箋を貼った箇所その2。

怒る子どもは好きだ。親の顔色を窺って言うなりになり、その場を切り抜けようとする子どもは、あとで自意識をこじらせて面倒な大人になる。そういう大人を山ほど知っている。十歳かそこらの年齢で自我を持っているほうが、よほどガッツがある。

(同上)

これは星野さんが学生時代に家庭教師のバイトをしたお金持ちの小学生の女の子の話です。

三姉妹の真ん中のその子は勉強が全然好きではないのだけど、長女と三女がそれぞれ有名私立中学校と小学校に入学したのもあり、両親は次女をなんとしても長女と同じ中学に入学させたいのでした。

本人は「公立の中学で全然いい」と心の底から思っていて、実際に私立を出た星野さんも必ずしも私立校がいいところだとは限らないと身をもって知っていて。結局星野さんはクビになり、別の家庭教師があてがわれたものの、その子は入試に落ちたのでした。

 

私もある意味で”自意識をこじらせた面倒な大人”ではあると思うけど、怒る子どもでもあったと思います。この服がいいとか、あの曲がいいとか、このヘアゴムは嫌とか、一人っ子なのもあるかもですが、どちらかというとワガママな子どもだった記憶があります。

でも生来の性格が怒りっぽいだけかも?

まあ、親や先生の顔色を窺うというのではないので、「言う通りにやったのに!」みたいな逆恨みは確かにないですね。今思えば、進学先も進路も大人がみんな反対したやつばっかり選んでました。完全にただの自分の失敗ですね(白目)。

 

***

 

付箋を貼ったわけではないけれど、お墓の話も印象深かったです。

星野さんの家はご先祖さまを大事にしているなぁと読んでいて思いました。

私も両親も、もしかしたら祖父母も、お墓参りなんてしばらく行ってないんじゃないかと思います。

ハハ方のお墓なんて一度も行った記憶がないです。聞いた話だと草がいっぱい生えているところ(林か何か?)にあるらしくて、「虫がいっぱいいそうで嫌」とか言って学生の頃ですら行かなかった気がします。

父方のお墓は見晴らしのいい山の上にあって、夏休みに親の帰省について行った際にはお墓参りにも一緒に行きました。でもそれも幼い頃だけで、大人になってからは全く行ってないです。あの場所はわりと好きなので、また行きたいです。

しかし、私の親権はハハが持ってると思うので、このままいくと私はハハ方のお墓に入るのかも。もうどこでもいいですけどね。

 

そうやってお墓にあまり思い入れがないせいが、私は昔墓地そのものが結構好きでした。

小3の冬に転校したのですが、転校前にいた町の大きい公園の裏手に、広大な墓地があることを発見して大興奮したことがありました。

それから気が向くと電車に乗って昔住んでいた町へ行き、その大きな霊園を探検していました。

ある日転校先のクラスメイトの女の子2人を、そのお気に入りの霊園に連れて行きました。自分が初めてこの墓地を発見したときの感動を2人にも味わって欲しいと思ったのですが、2人のリアクションはただただ困惑そのものでした。

今思えば当たり前なんですが、当時の私はなんだか肩透かしを食らったようでした。

その時「自分がすごいと思ったものでも、必ずしも他人もすごいと感じるとは限らない」ということを学びました。

その後も似たようなことが何度もあって、どうやら私の感受性はどちらかというと少数派らしいということもわかりました。

霊園の話を読んで、そんな昔のことを思い出したのでした。

 

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最近では他人と話す機会自体がなかなかなくなってしまったのですが、

うんと年上の人とか、うんと年下の人とかと、それぞれの年代の考えや悩みについておしゃべりしてみたい。そんな気持ちになりました。

ばあちゃん家行きたいなー。おわり。

病気と健康のはざまで:『シュガーレス・ラヴ』

このブログで既に何度も書いていますが山本文緒さんの小説が本当に面白くて大好きです。でも全部読んでるわけではないんですよね。

Amazonであらすじを読んで、ああ未読だなと思ったやつを気まぐれにポチりました。そして期待を裏切らず、やっぱりすこぶる面白かったです。

骨粗鬆症自律神経失調症など、疾患をモチーフにした短編集です。

最初に出版されたのは1997年らしいです(Wiki調べ)。

山本文緒さんの短編集をはじめて読んだのは小学生の頃で、そのころは少し大人の世界を覗くような気持ちで読んでいましたが、31歳独身女性になった2021年の今読むと、だいぶ共感度や感動度が上がるなぁと思いました。発見も多い気がします。

 

平成初期の日本社会を舞台にした短編ばかりですが、どの作品でも不況などによる社会全体の余裕の無さを感じるし、男女格差やセクハラの横行具合が今よりさらにひどいです。

現代だってもちろん解決されるべき問題がまだまだあるけど、確実に時代は変わってきている、少しずつ改善されていると、この小説を読んで実感しました。

 

びっくりしたのが、入口に<携帯電話使用禁止>と紙が貼られたカフェなんかが普通に出てきたこと。「え〜?!そんな時代があったんだ!」ってカルチャーショックでした。確かに私が小学校低学年の頃は、携帯を持っている大人はまだ少数でしたが、そこから数年、小学校高学年になる頃にはプリペイド式のケータイをクラスメイトの何人かが持っているくらいになったんですよね。そう考えると90年代〜2000年代で相当常識って変わったんですね。

 

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では印象的だったことを物語ごとに振り返ります。

最初の「彼女の冷蔵庫」は、若い頃に略奪婚をした主人公の30代女性と、その結婚相手の連れ子の20代OL・未矢の話でした。

バブル崩壊後の不況の中、なんとか希望の転職を叶えた未矢は、入社早々不摂生な生活が祟った骨粗鬆症のせいで足首を骨折・入院し、せっかく頑張って内定を取った転職先を解雇されてしまいます。

殺伐とした血のつながらない親子関係を面倒に思いつつも、主人公は渋々未矢の入院の世話をすることに。

着替えなどを取りに未矢の一人暮らしの部屋に上がると、そこはベッドと服と小さな机だけでぎゅうぎゅうのうさぎ小屋みたいなワンルームでした。

全く使われていないピカピカのミニキッチン、コンビニの袋に入ったままの冷凍食品くらいしか入っていないスカスカの冷蔵庫をみた主人公は、東京砂漠でもがき苦しむ若い娘の苦悩に思い至ります。

そして、自分も20代のころ、娘と同じように社会と戦っていたことを思い出すのでした。

「醜かったり、弱かったり、役に立たないものは葬り去られる運命にある。その原因がなんであろうとも。それが淘汰というものだ。

彼女は決して淘汰されまいと決心したに違いない。

(中略)

 私もやってきたことだ。生半可なことではなかった。生き残るための戦いだ。

しかし私は本当に勝者だろうか。

あの戦いに、どんな意味があったのだろう。

山本文緒「彼女の冷蔵庫」『シュガーレス・ラヴ』角川文庫 H31.4.24.)

原因がなんであろうとも淘汰されてしまう。これが病気の怖さですよね。

未矢の骨粗鬆症は自業自得な部分もゼロではないにしろ、別に骨折したくてしたわけではないです。でも、入社早々骨折して入院した社員を休職扱いにできず解雇してしまう会社も確かにあるだろうなと思いました。

主人公が呈した”淘汰されないための戦い”への疑問は、2021年の今も、これからもしばらく続いていく気がします。

 

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「ご清潔な不倫」は大人になってからアトピー性皮膚炎になってしまったOLと、その上司の男性のラブストーリーでした。

今年に入って頻繁に皮膚科に通っている私はなんだか他人事に思えず、読んでいて辛い部分も多かったです。

皮膚の不調って精神にきますよね。痒さのストレスもあるし、見た目の不快さに追い討ちをかけられたりもする。肌が不調なだけで、人生の全てが悪化しているような感覚になる心情がとてもリアルに描かれていました。

おまけに病気の原因もはっきり分からないのでますます不安に駆られるのです。

「いったい私が何をしたというのだろう」

「何故、私はこんな目にあわなければならないのだろう」

という、病に罹ることの理不尽さ・不条理さと、頑張っても一向に治らないことで蓄積される疲労。どんな病気でも、患い続けるって本当に辛いです。

この物語は、それでも支えてくれる恋人の上司がいるからまだ救いがありますね。救いのない現実もたくさんありますが。

完全に健康であること、完璧に愛しあうことを理想に生きる必要はないのかもしれない。

山本文緒「ご清潔な不倫」同上) 

 

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「月も見ていない」は生理痛、というより月経前症候群が重すぎて別の婦人科系の病気も疑われるレベルのOLが主人公。

彼女は生理前のイライラが酷すぎて、その憂さ晴らしをスタンガンを使った通り魔行為で発散させているヤバい奴です。

彼女は父親に暴力を振るわれていたり会社の上司から粘着質なセクハラを受けていたり他にも問題がたくさんある女性ですが、最後まで救いのない感じでした。

 

私はコロナ禍になってから低容量ピルを服用するようになり、それから生理前の不調や生理痛はかなり無くなりました。今思うと、もっと早く服用すればよかったとも思います。

10代の頃からペースの早い生理不順だったし、1日目〜3日目くらいはいつもお腹が痛かったのに、それを女に生まれてきたための不幸な宿命くらいにしか思ってなくて、体育休めるしいいかと騙し騙し過ごしていました。

私の今の職場は生理の正しい知識を広めるCSRに積極的な会社で、広報の男性上司にとても詳しく生理痛の怖さやピルの有効性を聞いて初めて、自分の生理が重いものであり放っておくべきではないものなのだと気づきました。

 

小学校4年生の時の、あの多目的ホールに女子だけ集められて微妙な雰囲気の中申し訳程度のナプキンをもらった謎の授業の時、生理痛は放っておかずに病院に行って場合によってはピルを飲むべきだと、はっきり教えてほしかったと思いました。

あの頃は股から血が出るようになる、妊娠しうる体になることをなんとなく理解しただけだったけど、この小説くらい生々しい話でなくても、もう少しリアルな症状や対策を教えてほしかったですね。

 

また、この話を含めて作品全体で、「男は馬鹿」だという言葉が何度か出てくることに気づきました。2021年現在でも日本社会は相変わらず女性の地位が低い社会ですが、きっとこの時代はもっと酷かったんでしょう。そして作家の山本さんもそれに対して思うところがきっとたくさんあって、作品の中でそれが爆発した痕跡だと感じました。

 

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「夏の空色」はアルコール依存症になってしまった女子高生・由里の話で、これはとても切なかったです。

幼馴染の咲は可愛くて頭も運動神経も良くて優しいマドンナ的存在。そんな咲が大好きで、咲とずっと一緒にいたくて死に物狂いで勉強してなんとか入った県下一の進学校で、由里は勉強についていけず挫折を味わいます。

母譲りの歯止めの効かなさで朝からビールを飲み、学校に行ってもろくに授業を受けずに屋上でこっそり酒盛りし、ナンパされて仲良くなった三流大学のギャル男の龍一と居酒屋でまた飲んでセックスするという堕落した生活を送る由里。そんな由里がある日悪酔いして龍一に本音を漏らすシーンは思わず泣いてしまいました。

自分の能力の無さを自覚し受け入れた由里は、急に周りを冷静に見渡すことができるようになったこと。そうしてあらためて優秀な同級生たちを見て、こういう人たちがいい大学に入って、いい企業に就職したり官僚になったりして世の中を動かすのだと考え至った独白は、本当に切ないです。何かを諦めるのって、やっぱり楽じゃないなと思いました。

彼らが社会というチェスを指す人で、私や龍一みたいな人間が駒なのだ。頭のいい人たちがお金を沢山使って綿密にマーケティングして、会議に会議を重ねて作った商品を、これってグーじゃんなんて言いながら私達のような人間が買い漁り、そうやってケイザイってやつが発展するのだ。

咲も最高に強いチェスを指せる人だ。私とは違う。

なのにどうして友達になってしまったのだろう。

山本文緒「夏の空色」同上) 

「これってグーじゃん」なんてほんとに言ってたのかなこの時代、ってちょっと笑いましたが泣きました。住む世界が違うとわかっていても咲のことが大好きな由里の気持ちが痛いほど伝わってきて、悲しいけど温かい気持ちになるシーンでとても好きです。

私も駒側の人間なのでとても共感できました。

 

また、由里が一口目のビールを本当に美味しそうに飲むところも好きですね。

最初の一口。天国の一口。

(同上) 

龍一のことを少し馬鹿にしながらも、彼のような人の明るさに救われる気持ちもすごくよくわかるなぁと思いました。

 

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「秤の上の小さな子供」は、この本の中で一番名言の多い物語でした。

大学の同級生同士の柊子と美波がアラサーになって再会して、一緒にプールに遊びに行くのですが、ちょこちょこ学生時代の回想も入ります。

柊子も美波も大学進学を機に上京してきて、二人とも美人でもないし垢抜けない冴えない見た目だったのに、美波にはやたらと男が寄ってくるのです。男子にも柊子にも誰にでも美波は同じトーンで話しかけます。別に媚びているわけではないのです。でも美波だけがひたすらモテる。

美波のあまりのモテっぷりに恐怖すら抱いた柊子はだんだんと美波から離れ、メイクやファッションを勉強し、ダイエットに明け暮れ、なんとか”都会の女の子”になってOL人生を歩んでいきました。

一方の美波は好きなものを好きなだけ食べるので常に太り気味、よく言えばぽっちゃり・悪く言えば肥満です。 服にも興味がないので大学を卒業する頃になってもセンスのない服装のままです。けれど大学のどんな可愛い女子たちよりも美波は男にモテていました。そして誰とでも寝るのです。

そんな美波は現在売れっ子ソープ嬢なのでした。

 

この美波が名言製造機なんですよね。達観してて、真理をスコンと言い当てる人なのです。

プールサイドで二人が食事をするシーンで、昔話をしながら豪快にピザを食べる美波を見ていて、柊子は反対に目の前のリゾットを残してしまいました。

そんな柊子を「可哀相な柊子ちゃん」と楽しそうに笑う美波。

「こんなにも世の中には美味しい食べ物や出来事があるのに、それを食べようとしないで飢えてるなんて」

(中略)

「あなたは好き放題食べる人が許せないんでしょうね。だからわざわざプールなんかに私を連れて来た。断られると思ったでしょう?でも私は平気。私は自分のこと、恥ずかしいなんて思ってないもの」

「そんなつもりじゃ・・・・・・」

「いいのよ。怒ってなんかないの。あなたは可哀相な人。私には許せないことなんかひとつもないの」

山本文緒「秤の上の小さな子供」同上)

許せないことがひとつもない人間に、人は勝つことができないんだとこの場面を読んで気づきました。

許せないことがひとつもない人間は、最初から勝負のフィールドから何段も上の階層にいるのです。適用されるルールが違う。

 

プールを後にした二人は、柊子の家で晩御飯を食べることにします。

普通のOLにしてはやたらといいマンションに住んでる柊子に美波は少し驚き、二人は酒を飲みながら就職活動していた時のことを話しました。

美波は最初は百貨店に就職したのですが、入社してすぐの売り場研修の際に、美波が入るサイズの制服がなく、それで馬鹿馬鹿しくなってさっさとやめてしまったとのこと。そして、服なんてもともと興味はないのだから、服なんて気にしないでいい商売はないかと思っていたら、ソープ嬢が天職だったと明るく話す美波は、ここでまた秀逸な台詞を発します。

「ねえ、本当に面白いわね。もてたかったら痩せろって世の中は女の子を煽ってるじゃない。雑誌でもエステの広告でも。でも、痩せてようと太ってようと美人だろうとブスだろうと、もてない女はもてないの」

(中略)

「世の中には愛されたがってる人ばっかりで、愛してあげられる人はほんの少ししかいないの。貴重がられて当然よ」

(同上) 

生涯モテない村村民の私は美波のこの意見に全面同意だと思いました。

柊子も私も、絶対に美波よりはスリムだし、顔も美波よりは美人かもしれません。服も普通に選べば美波よりはお洒落だと思います。でも絶対に美波よりモテることはありません。

なぜなら誰のことも愛せないからです。もちろん自分のことも。

そして、愛されたいけど上手くいかない。

この後柊子の彼氏がやってきて、3人で飲もうという流れになりますが、柊子は食材を買いに行くと言って外に出てしまいます。そしてそのまま駅のロッカーから荷物を取り出し逃げ出すところで物語は終わります。

柊子の彼氏は厳密には彼氏ではなく「パパ」、柊子は愛人だったのです。

ただのOLに不相応な立派なマンションの家賃は彼が払っていたのでした。

ファッション雑誌を隅から隅まで読んで勉強して、垢抜けたクラスメイトの女子グループになんとか入ることに成功し、いろんな情報源からコミュニケーションスキルも磨こうと切磋琢磨した柊子でしたが、彼女は最後まで年相応の男性とうまく恋愛することができず、かろうじて手に入れられたのが愛人というポジションだったのです。

私から見たら愛人でもまあよかったじゃん、と少し思わなくもないですが、ずっと不倫関係のままでいるしんどさも確かにあるよなぁとも思います。そして結局柊子は逃げることにしたのです。どんなことでも許せる、誰からも愛される美波をあてがって。

 

2021年現在、さらに生涯未婚率は上がっていて、それにはいろんな要因があるんだと思いますが、

えてしてみんな「許せないこと」が多いせいもあるんじゃないかなぁとこの小説を読んで考えました。

私も許せないことがたくさんあります。1年以上前の同僚の不注意をいまだに許せなかったりするくらい、些細なことでも許せない。思い出すと腹が立って、怒りで胸がざわつくことがいくつもあります。

こんなに何にも許せないのに、下手したら自分自身のことも許せないくらいなのに、誰かを愛することなんでできるわけがないです。

おまけに、こんなにしょっちゅうカリカリしている中年を、誰かが愛してくれるはずもありません。

よってこの先も永遠にモテない村村民のままに違いありません。

そして日々、駅で・電車で・デパートで・コンビニで・職場で・街中で・至る所で、「みんなカリカリしてるなぁ、余裕がないなぁ」と感じる場面に遭遇します。

きっと多くの人が私と同じように、ちょっとしたことが許せないんでしょう。

そんな許せない自分に疲れていて、余裕もなくて、余裕がないからさらに誰かを許せない。

生涯未婚にもなるはずだ、と思い至りました。

 

もし美波と柊子が健康診断を受けたら、体脂肪率コレステロール値も、美波の方が悪い可能性が高いと思います。

肥満は糖尿病など生活習慣病も誘発しやすいですし、ソープ嬢をしている美波は性病感染リスクも柊子より高いかもしれません。

でも、美波より柊子の方が健康だとは、一概に言えないですよね。

 

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自律神経失調症の恋人を持つ苦学生が主人公の「過剰愛情失調症」でも、味覚異常に悩まされる嘘つきで見栄っ張りなフードコーディネーターが主人公の表題作「シュガーレス・ラヴ」も、病気になった人の苦悩だけでなく、病人と対峙した”自分はどこも悪くない”と思っている人間の身の程知らずさもよく描いていて、さすが山本文緒大先生!と改めて感嘆してしまうのでした。非常に計算し尽くされた芥川龍之介作品をも彷彿とさせます(山本文緒さんは直木賞作家ですが)。

 

戦争がないことが必ずしも平和ではないように、病気じゃないことが健康であるとは限らないこと。

自分の気持ちを気づかないふりしたり自分に嘘をついたりすると、回り回って健康を損なうこと。

自分はどこも悪くないと思いつめると、知らずしらずのうちに被害者意識を振りかざした加害者になりうること。

どんな人生もえてしてみっともないものだということ。

そういうことを思い出させてくれる、気づかせてくれる、とても優れた短編集でした。おわり。