れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

いつかは向かう場所:『今日はヒョウ柄を着る日』

前の職場は県職員や銀行・新聞社などの天下り先として機能していたので、還暦を過ぎたじいさんがゴロゴロいました。

ケチなじいさんは偉そうに講釈をたれるだけだけど、そこそこ気前がいいじいさんだと、ちょっとしたことでうな重を奢ってくれたりしました。

新卒で働いていた食品工場も60〜70歳前後の契約社員のおじちゃんおばちゃんが大勢働いていて、そういう人たちと円滑にやっていけるかどうかは機械のメンテナンス以上に重要なことでした。

地元にいたときは、ハハ方の祖父母宅に年に1,2回は顔を出していました。

会うたびに小さく老いていく祖父母と話すと、あらためて人生の有限さを思い知るし、自分もこのまま生き延びるとこんなふうになるのだと、漠然と不安な気持ちにもなったものです。

 

そんなふうに”おじいさん・おばあさん”と話をする機会が、転職して地元を離れて以降ほとんどなくなりました。

今の職場は年上の人もそこまで年上じゃないし、年下の社員の方が大勢います。最年長っぽい社長でさえ、自分の親より全然若い。

そもそも出社する機会もほぼなくなったし、コロナ騒ぎで帰省も全くしておらず、年上の友人もいない(そもそも友人という存在自体いないです)。

おばあさんの年季の入った裸を見ることのできる銭湯にも、もう何ヶ月も行っていない。

 

星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』は、老人と暮らすことで得られる発見や気づきをユーモアあふれる文章で伝えてくれるエッセイでした。

星野さんが独特な目線で下町の実家で両親と暮らす様子を読んでいると、忘れていた「すごく年上の人と話した時の感じ」を少し思い出すことができました。

また、星野さん自身が死生観や宗教などについてとても考え続けている人で、だからこそ加齢に対して抗うでもなく、悲観するわけでもなく、静かな諦念と受容を携えているように見えました。

 

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付箋を貼った箇所その1。

大人とは、物理的にも、また言語的にも、過去や未来を手に入れることなのだと思う。

星野博美『今日はヒョウ柄を着る日』岩波書店 2017.7.5)

星野さんが新たにスペイン語を学び始め、現在形から学習するものの全然言いたいことが言えなくてやきもきした話からの一節です。

言われてみれば確かに、現在形って動詞も原型だから最初に習うんだけど、日常で使うことってそこまでないかもしれないと、この本を読んでハッとしました。

箇条書きの自己紹介なら今やってることだけつらつら並べればいいけど、面接やお見合いのように会話を伴う自己紹介だと、どうしてもこれまで何をやってきたか(過去形や過去完了形)が必要になりますね。

ときにはこれからどうしたいか(未来形)も必要になる。なるほど〜歳を重ねるってたしかにそういう側面があるなとしみじみ思いました。

 

付箋を貼った箇所その2。

怒る子どもは好きだ。親の顔色を窺って言うなりになり、その場を切り抜けようとする子どもは、あとで自意識をこじらせて面倒な大人になる。そういう大人を山ほど知っている。十歳かそこらの年齢で自我を持っているほうが、よほどガッツがある。

(同上)

これは星野さんが学生時代に家庭教師のバイトをしたお金持ちの小学生の女の子の話です。

三姉妹の真ん中のその子は勉強が全然好きではないのだけど、長女と三女がそれぞれ有名私立中学校と小学校に入学したのもあり、両親は次女をなんとしても長女と同じ中学に入学させたいのでした。

本人は「公立の中学で全然いい」と心の底から思っていて、実際に私立を出た星野さんも必ずしも私立校がいいところだとは限らないと身をもって知っていて。結局星野さんはクビになり、別の家庭教師があてがわれたものの、その子は入試に落ちたのでした。

 

私もある意味で”自意識をこじらせた面倒な大人”ではあると思うけど、怒る子どもでもあったと思います。この服がいいとか、あの曲がいいとか、このヘアゴムは嫌とか、一人っ子なのもあるかもですが、どちらかというとワガママな子どもだった記憶があります。

でも生来の性格が怒りっぽいだけかも?

まあ、親や先生の顔色を窺うというのではないので、「言う通りにやったのに!」みたいな逆恨みは確かにないですね。今思えば、進学先も進路も大人がみんな反対したやつばっかり選んでました。完全にただの自分の失敗ですね(白目)。

 

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付箋を貼ったわけではないけれど、お墓の話も印象深かったです。

星野さんの家はご先祖さまを大事にしているなぁと読んでいて思いました。

私も両親も、もしかしたら祖父母も、お墓参りなんてしばらく行ってないんじゃないかと思います。

ハハ方のお墓なんて一度も行った記憶がないです。聞いた話だと草がいっぱい生えているところ(林か何か?)にあるらしくて、「虫がいっぱいいそうで嫌」とか言って学生の頃ですら行かなかった気がします。

父方のお墓は見晴らしのいい山の上にあって、夏休みに親の帰省について行った際にはお墓参りにも一緒に行きました。でもそれも幼い頃だけで、大人になってからは全く行ってないです。あの場所はわりと好きなので、また行きたいです。

しかし、私の親権はハハが持ってると思うので、このままいくと私はハハ方のお墓に入るのかも。もうどこでもいいですけどね。

 

そうやってお墓にあまり思い入れがないせいが、私は昔墓地そのものが結構好きでした。

小3の冬に転校したのですが、転校前にいた町の大きい公園の裏手に、広大な墓地があることを発見して大興奮したことがありました。

それから気が向くと電車に乗って昔住んでいた町へ行き、その大きな霊園を探検していました。

ある日転校先のクラスメイトの女の子2人を、そのお気に入りの霊園に連れて行きました。自分が初めてこの墓地を発見したときの感動を2人にも味わって欲しいと思ったのですが、2人のリアクションはただただ困惑そのものでした。

今思えば当たり前なんですが、当時の私はなんだか肩透かしを食らったようでした。

その時「自分がすごいと思ったものでも、必ずしも他人もすごいと感じるとは限らない」ということを学びました。

その後も似たようなことが何度もあって、どうやら私の感受性はどちらかというと少数派らしいということもわかりました。

霊園の話を読んで、そんな昔のことを思い出したのでした。

 

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最近では他人と話す機会自体がなかなかなくなってしまったのですが、

うんと年上の人とか、うんと年下の人とかと、それぞれの年代の考えや悩みについておしゃべりしてみたい。そんな気持ちになりました。

ばあちゃん家行きたいなー。おわり。