れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

女性の貧困と性犯罪被害、「一人で大丈夫」であること

美しい彼』で好きになった作家・凪良ゆうさんが2020年本屋大賞を受賞したベストセラー小説『流浪の月』を(今頃)読みました。

小学生女児・家内更紗9歳は、最愛の父を病気で亡くし、夫の死を引き金に色に溺れた母に捨てられ、引き取られた先の伯母の家で従兄に性的虐待されます。

伯母の家に帰りたくない更紗は放課後一人で公園で時間を潰していて、彼女に救いの手を差し伸べたのが19歳の男子大学生・佐伯文。文は更紗を一人暮らしの自宅に招き、そのまま住まわせます。

文も文で問題を抱えている少年で、更紗と文は互いに心の空洞を癒し合い、絆を深めていきました。

彼らは2か月共同生活を送ったのち、ひょんなきっかけで社会の目に見つかり、文は誘拐犯として逮捕され、更紗は伯母の家に戻されるもまたもや襲いかかる性的虐待に反逆し、伯母宅から施設に引き取られることに。

成人した更紗はDV彼氏に粘着されたりすったもんだありつつも、文と再会しまた二人は一緒に生きていくことにするのです。誘拐犯とその被害者という世間の目から逃げながら。

大まかな話の流れはそんな感じなのですが、とにかく読後感が後味悪くてちょっと引きずりました。

 

まず一番強く思ったのは「何にも問題が解決してないじゃん」ということでした。

更紗は「誘拐・性犯罪の被害者」という周囲の勘違い固定観念と地道に戦い続けていたし、読者はみんな文と更紗が世間から誤解されて可哀想なことがわかっています。

でも結局どうしようもなくて、彼らは素性がバレると別の土地に引っ越す、を繰り返す流れ者状態で終わるのです。

例え更紗が「次はどこへ行こうか?」とワクワク話していたとしても、そんなふうに逃げ続けなければならない人生は何だか腑に落ちないなぁと私は思ってしまいました。

私は引っ越しも旅も好きだし、各地を転々と渡り歩いて暮らすことには憧れもあり好ましく感じます。

でも、それが何かから逃げ続けなければならない人生の結果だとしたら、それはしんどいし何か失敗してる気がするのです。

 

もう一つ思ったのは「結局更紗は一人で生きていくことができないってこと?」という疑念です。

更紗は高校を卒業して就職し、育った施設を出ます。犯罪被害者であることその他もろもろ、過去の十字架を背負う更紗はその後もいろいろあり、前職で出会って親密になった年上の彼氏・亮と同棲し、転職後はファミレスのアルバイトとして生活していました。このとき24歳です。

亮が結婚の話をちらつかせて、だんだんと大きくなっていく違和感。そしてついに亮のDV気質が露見し、いよいよ身の安全が危うくなります。

更紗はファミレスでの勤勉な態度と理解ある店長の計らいで、正社員登用の話をもらうのですが、過去の誘拐事件と再会した文との関係、それを面白おかしく後追いするメディアの暴走などによって正社員登用の話を帳消しにされてしまいました。

結果的には文とともに生きていくことにして、それで更紗本人は幸せなんだと思いますが、もし文が病気などで死んだらどうなるのでしょうか?

 

更紗が亮に殴られてボコボコにされた時、相談に乗ってくれたのが更紗のファミレスの同僚・安西さんです。彼女はシングルマザーでDV夫から逃げてきた過去があり、非常に実践的なアドバイスをたくさんくれます。

安西さんもいろんな仕事を渡り歩きながら何とか娘と二人で生きていますが、やはり生活はそれなりに苦しいのです。

コロコロ彼氏を作る安西さん。もちろん単純に恋愛として接してる部分もあるでしょうが、娘ひとりと自分の生活の安定を、未来の旦那さんに求める気持ちもあると思います。

環境に恵まれなかったり、学歴や職歴やスキルが積めない女性の苦境と、そこから脱するための生存戦略として男性に依存してしまう構造が見てとれます。

 

更紗や安西さんをみていて、女性の貧困っていろんな別の不幸を招きやすい構造になっているんだなぁと改めて思いました。

すごく嫌だなぁと思った話が、更紗が亮の地元に連れて行かれ、そこで亮の親戚一族と食事会になり、トイレに立った時の亮の従妹と更紗の会話シーンです。

 「更紗さんも、昔いろいろつらいことがあった人でしょう。前の彼女もね、更紗さんほどじゃないけど、複雑な家庭で育った人だったみたい。亮くんはいつもそういう人を選ぶんだよ。そういう人なら、母親みたいに自分を捨てないと思ってるんじゃないかな」

「そういう人って?」

「いざってとき、逃げる場所がない人」

 

(凪良ゆう『流浪の月』東京創元社 2019,8,30)

とても嫌な話じゃないですか。あらかじめ「逃げる場所がない」人間を嗅ぎつけて、支配しようとするDV犯の陰湿な習性・・・ゾッとしました。

 

もう一つ嫌な気分になったのは、更紗が従兄に性的虐待されるシーンです。単純にすごく気持ち悪いしつらかった。

性的虐待については、最近もう一つ記憶に残った作品があります。それは田村由美『ミステリと言う勿れ』第8巻。

天然パーマのよく喋る東大生・久能整くんがコナンくんばりにいろんな事件に巻き込まれて真相を解明していく物語で、整くんがとあるきっかけで仲良くなった入院中の女性・ライカさんの過去について描かれているのがこの8巻でした。

イカさんは実は、千夜子さんという虐待(性的虐待も含む)を受けて解離性同一性障害(多重人格)になった女性のもう一つの人格だったのです。

イカさんの素性と過去を知った整くんは、性暴力の被害者を、被害から生き抜いた人という意味を込めて「サバイバー」と呼ぶことがあるという話を実例を交えてしました。

イカさんと千夜子さんは、ともに戦ってつらい日々を生き延びたサバイバーなのだと。

 

確かにそうなんですけど、サバイバルしたくてしたわけじゃないし、讃えられてもなぁって少し思ってしまいました。

イカさんみたいな症例や、性的虐待を取り巻く問題について知りたくていろいろネットで調べてみたんですが、読めば読むほど心が重くなってひたすらにしんどかったです。

暗い気持ちになるとわかっているのに、時たまこうしてひどい事件や判例を読み漁ってしまうことってありませんか。この心理って何なんでしょう・・・。

 

性的虐待や性犯罪の記事、そして小説の中の更紗の描写を読んで改めて思ったことは、性犯罪の被害というのは、他の犯罪の被害にあった時よりも、もっと被害者が語りづらいのだということです。

そもそも犯罪の被害に遭ったとき、人間は自分が傷つけられた現実を直視するのがとても苦痛です。

振り込め詐欺にあったり、ひったくりにあったり、どんな犯罪でも自分が被害にあったことを認めて第三者に語るのは大きなストレスを伴います。これは自分の実感もそうですし、心理学を専攻していた大学時代に研究から学んだことでもあります。

でも今回、性犯罪はそれに輪をかけて語りにくいのだと知りました。

小学生だった更紗は文から離されて警察に保護されたとき、自分を侮辱し汚そうとしたのは文ではなく従兄の孝弘なのだと何度も弁明しようとしました。

でも言えなかった。言おうとすると体が強ばり声が出せないのです。

大人になってからも、自分に哀れみの目を向ける周囲の人に何とか事実を伝えようとします。でも言えない。彼氏にも本当のことを知ってほしくて言おうと試みました。でも言えなかった。

自分がされた本当に恐ろしいことを、知ってほしいのに知られるのが怖い。

この、性被害にあったことを言い出せない心の動きって根が深い問題なんですね。

 

わからない人には「なんで?」って感じだとも思うんですよね。想像しづらいというか。

かくいう私も「言ったほうがいいじゃん!訴えたほうがいいじゃん!」て思う気持ちもある。

しかし、言えない気持ちにも身に覚えがあるのです。

 

私は更紗やライカさんみたいに、トラウマになるほどの性犯罪の被害歴はないです。

けれど、嫌な思いをしたことは何度かあります。

なかでもあまり口に出して言いたくないのは、小学生時代の記憶です。

子供だったし、充分な性教育を受けておらず知識がなかったというのもあります。

親戚のおじさんからとある身体的接触を受けたとき、言葉にできないけれど何か決定的に自分が損なわれた嫌な感触がありました。体が強ばり、冷や汗が出て、うまく声が出せなかった。

私が被害に遭う瞬間を見ていたハハや叔母さんたちが一瞬で顔色を変えたとき、「あ、私は今何かとてもよくないことをされたのだ」と認識し、鳥肌が立ちました。

ハハたちはそのおじさんを個別に呼び出しいろいろと厳重注意したらしいですが、その後そのおじさんとは親戚の集まりがあっても、今に至るまで一言も口をきいていないし目も合わせません。

それは裏を返せば今もあの時の嫌な気持ちを引きずっているということでもあり、多分この先もなくならないと思います。なんなら今こうして書いている間も結構嫌な気分になってます。書くけど。

今になって振り返ると、ハハたちには間をおいておじさんを注意するより、私が被害にあったその場ですぐ大声をあげて欲しかったかもしれないと思いました。

されたこと自体が嫌なんですけど、時間をおくとますます気持ち悪さがへばりつく感じがする。

デリケートな問題だからそっとしようと思ったのかもしれないけど、私は逆に騒ぎ立ててほしかった。今ではそう思います。

 

先日2ちゃんねる創業者のひろゆき氏のYouTubeをみていたとき、猥褻行為に遭ったら直ちに警察に行けという話を聞きました。

猥褻行為を受けた直後というのは、自分の体や現場や持ち物に、犯人の物的証拠(DNA鑑定に使えるものとか)が残っていることが多々あり、それを確実に提出したほうがいいとのことでした。確かに。

被害にあっただけで死ぬほど苦痛だし、時には本当にそのまま死んでしまいたいと思うこともあります。でも、もしその後も生きるつもりで、自分を貶めた犯人を許したくないなら、つらくても届け出たほうがいいと感じました。

警察とかその後の周囲の人間からセカンドレイプにあうのもめちゃくちゃ嫌ですけどね。マジで頼みますよほんと。自分も気をつけないと無意識に傷つけてしまうことがあるかもしれないです。

 

***

 

話が散漫になってしまいました。

私が今回『流浪の月』をはじめ、関連トピックを読んで学んだことは下記です。 

  • DV男とはまず物理的に徹底的に距離を取るべし
  • DV男(支配欲が強い人)は執着心が強く粘着質である
  • 性犯罪被害にあったら直ちに警察に行って立件すべし
  • 性犯罪被害の精神的・身体的ダメージから回復するには長い時間がかかる。被害を言語化すること、言葉にして話すことにはとてつもない苦痛が伴う

 

そして再認識した問題意識は下記です。

  • 「一人じゃない」は解決になっていない。「一人でも大丈夫」なほうが私はいい。そのためにはどうしたらいいか?
  • 男性に頼らず自立して生きることが困難な女性=女性の貧困の根深い構造的問題から抜け出すにはどうしたらいいか?

 

私は大した学歴もなければ能力もスキルもないし、立派な職歴もありません。

28歳の時、DV被害にあったわけでもつらい過去から逃げたかったわけでもないですが、地元を離れて生活したいと思いました。

そんななか出会ったのが今の会社です。

未経験者でも大丈夫で、家賃補助も引っ越し費用も出してもらえて、充分な給与と待遇(もちろん正社員)が得られました。しかも面接もスマートフォンだけで済みました。交通費もスーツ代も証明写真代もいらなかったです。

仕事は接客業でサービス業なので、体力的・気力的にきつい部分もありました。

けれど、同僚も上司もお客様も全員女性だったので、異性にまつわる嫌な思いは全くありませんでした。

同僚には高卒の人もブラック企業出身の人もフリーターしかなったことがなかった人もたくさんいました。

今は転属して社宅も出ていますが、この会社に入ったおかげで地元から離れて一人で暮らすことができています。

だから今の仕事がものすごくつまらなくても、多少理不尽に思うことがあっても、この会社には本当に感謝しています。

 

今の会社は別に女性の貧困を救うNPOでもなんでもないので、女性を全員救えるわけではないです。採用基準もいろいろあるはずです。

けれど「今いる環境を抜け出したい」「彼氏や夫の経済力に頼らず自分の力で生き延びたい」と考える若い女性にとって、有効な機会を提供していることは間違いないと思います。

 

見方によっては今の私の状態は、依存しているのが男性ではなく会社であるだけかもしれません。

何にも依存せず生き延びられたらそれは素晴らしいですが、今の私にはその術がわからないです。

 

私のハハは多少の資格や職歴はあるけれど、結婚や出産を経て結局ワーキングプアとなり、今でも自分が大嫌いな私の父親に依存することで生活を成り立たせています。ハハも女性の貧困を体現しているのかも。(でも彼女には助け合える姉妹としっかりした実家があるんだよなぁ。私にはそれがない。)

ハハがいろいろと我慢して、私はここまで育ったのかもしれないとも思います。私も我慢したと思うけど。

私が言うのもお門違いかもしれないですが、本当はハハにも「一人で大丈夫」な人になってほしかった。

 

愛する人に出会えたり、支え合える生涯の盟友がいたり、あたたかい家族がいたりする「一人じゃない」人生もとても素敵だと思います。そういう人生も経験してみたかったです。

でも、一人じゃないのは素敵だけど、それは私のゴールにはなり得ないのだとはっきり認識しました。

幸せとか不幸とかそういう尺度じゃない。ただ単純に「一人で大丈夫」でありたい。そう強く思ったのでした。おわり。

 

***

 

【目を通した関連トピック】

toyokeizai.net

www3.nhk.or.jp

toyokeizai.net

www.bbc.com

子供が性犯罪に遭ってしまった時、知識とメンタルの持ちようは大事だと思います。下記はすごく参考になりました。私も被害に遭う前に読みたかったです。

 

『なぎさ』

面白い小説を読みたいとき、期待を裏切らない作家が山本文緒大先生。

『なぎさ』を読みました。やっぱり、すごく面白かったです。

なぎさ (角川文庫)

なぎさ (角川文庫)

 

本を手に取りパラパラ目を通すと、目についたのは久里浜の描写でした。

実在する土地をここまで詳細に取り上げた山本作品は珍しいかもと思ったのと、久里浜は私にとってまあまあ馴染みのある土地でもあったので、興味を持ちました。

 

主人公の冬乃は30代の専業主婦です。

彼女が現在夫と二人暮らしをしている街が久里浜で、彼女たちの出身地は長野の須坂なのですが、

この土地のチョイスがとても絶妙だと思いました。登場人物の性格に強い説得力を与えたように感じます。

 

冬乃はそれなりに感情豊かではあるけれど、少し控えめで弱気な印象もあったし、夫の佐々井くんにいたっては本当に辛抱強くて穏やかな我慢の人です。

冬乃たちのような人間は、温暖で海が近い土地ではなかなか育たないと思います。

 

私は須坂の近くに2か月くらい出張で暮らしていたことがあります(この頃です)。

それまで海の近くの平野で暮らしていたので、大きな山々に囲まれ、東京の桜が散ってもいつまでも寒々しい長野はどこか閉塞感や圧迫感があったのを覚えています。

それでいて、私も海なし県の出身なので、どことなく懐かしい気持ちもしていました。

 

海が遠く山が近い内陸は、夏は盆地で熱が溜まって灼熱地獄になったり、でも夕立が毎日のようにきて夜は涼しくなったりします。冬は体の芯まで刺すような厳しい寒さと強い北風、そして美しい星空があります。

聳え立つ山々に行き場を塞がれているような錯覚と、村社会甚だしい田舎の人々の古い価値観、そして気温差の激しい独特の気象条件の中で生きていると、なぜか変化を避けて辛抱強く耐え凌ぐタイプの人格が出来上がりやすい気がします。

 

一方で久里浜のある三浦半島は、三方を海に囲まれています。

須坂を通る長野電鉄は終点の湯田中で行き止まりですが、久里浜を通る京急電鉄三崎口でやはり行き止まり。

神奈川の海沿いの街の中で、三浦半島の街だけが他と感じが違うなぁと常々思っていたのですが、それはこの行き止まり感が海のない内陸に通づる部分があるからかもしれないと、今回『なぎさ』を読んで思い至りました。

 

@@@

 

東京で暮らしていた冬乃の妹・菫が、自宅でボヤを起こし住む場所を失って、冬乃の家を訪ねてくるところから物語は始まります。

ずいぶん久しぶりに会った姉妹の様子や、佐々井くんと菫の注意深い会話描写などから、過去に彼らには何か重大な出来事があったことを印象付けられます。

菫が突然久里浜のスナック跡地で一緒にカフェをやってほしいと言い出したり、そこに菫の友人だという謎の大男・モリが登場したりと、慎ましくもパッとしなかった冬乃の生活は次々と変化し、過去の謎とあいまって続きがどんどん気になり読む手が止まりませんでした。

 

実に多彩な登場人物たちとそれぞれの生き方が、いろんなテーマを内包していて考えることがいっぱいある作品でした。

手持ちの付箋が2枚しかなくて、その2枚のうちの1枚を貼った箇所が、菫が軌道に乗った「なぎさカフェ」をフランチャイズ元に売りに出すことを冬乃に告げ、口論になった場面です。

「何かをはじめる時、おねえちゃんは終わる時のことを考えないの?」

急にそんなことを言われて私は怪訝に思い、眉をひそめた。

「なんのこと? 私は何かはじめる時はできる限り続けていく覚悟でやるよ。だから簡単にははじめないし」

「人の気持ちは変化するものじゃないの。人の命はいつか終わるんだし」

「詭弁を言わないで」

菫は言い返してこなかった。怯えは消え、表情からは何も読み取れない。

 

山本文緒『なぎさ』角川書店 2013.10.20)

私はなんでも終わる時のことばかり考えていると、菫のセリフを読んで気づきました。

冬乃のように、できる限り続けようなどとは、人付き合いでも仕事でも住む場所でも考えないなぁと。

 

多分生まれつきではないと思います。が、仕事は新卒入社の時から転職を前提に考えていたなと今思い出しました。どの職場でも、自分がいつ突然消えても業務が回るよう、資料や手順書をいつも整理して準備してあります。

仕事を転々とするので自ずと住む場所も転居が前提となり、そのために持ち物を少なくするよう努めています。

人付き合いはそもそもはじめることすらなくなりました。連絡を取り合ったりして続いている人付き合いは皆無、その場限りの間柄ばかりです。

 

冬乃みたいな人と、菫や私のような人では、どちらの方が多数派なのだろうと考えました。たぶん時代的に菫派の方が多いだろうと思います。

続けることに対する価値観が、この数十年でとても変わった気がします。

それがいいことかどうかは分かりませんが。

 

@@@

 

もう一箇所付箋を貼った場面は、カフェの売却が決まり、その前に冬乃の久里浜での知り合いのおじいさん・所さんの奥さんがパーティーを開くシーン。

所さんは冬乃が「くりはま花の国」でよく会い話をするようになったおじいさんで、冬乃が苦しい時に相談に乗ってくれる頼れる他人です。

カフェを切り盛りしていたのに結果的に追い出される形になった冬乃を心配した所さんに、冬乃はこの数ヶ月で自分の心持ちに起こった変化を語りました。

「私、ちょっと前まで自分は何もできない人間だって思ってたんです。今でも私なんかにできることはすごく少ないって思いますけど、でも今まで自己評価が低すぎたと思うんです。何にもできない、働く自信がないってただ嘆いて、できないんだからしょうがないってどこかで開き直ってたところもあったと思います。自己評価が低すぎるのって、高すぎるのと同じくらい鼻もちならないのかもって最近気が付いたんです」

 

(同上)

以前はネットカフェの狭い個室で求職サイトを見てはどんよりした気持ちになっていた冬乃。

それが菫に巻き込まれながらも一つのお店を切り盛りするようになって、ブラック会社にぺしゃんこにされた夫を支えたい気持ちも強く持って、確実に成長したことがわかるセリフです。

「自己評価が低すぎるのは高すぎるのと同じくらい鼻もちならない」・・・身に沁みる言葉でした。

 

働くことはいつまで経っても好きになれないけど、働いていると冬乃のように自信を持てることがあるのも事実です。

逆に、働かないで自信をつけるのって結構難しいかもしれないと思いました。

別にただのバイトだって、誰かの手伝いの雑用だっていいのです。

私は転職するたびに、新卒で働いていた工場のおばちゃんに「ここでこれだけ頑張れたんだから、どこ行ったってやっていけるよ」と言われたことを思い出します。別におばちゃんも何の気なしに放った一言だと思いますが、10年近く経った今でも心の支えになっています。

 

続けようが終わろうが、やったことは消えないし、確かにあった過去の時間は人が覚えている限り存在します。

そしてその過去の時間が楽しかった思い出になるのか、今につながる自信になるのか、後悔や足枷になるのかは、自分の捉え方や心持ち次第なのかもしれません。おわり。

 

@@@

 

くりはま花の国に行ってみました。ポピーが綺麗でいいところでした。

f:id:letshangout:20210515192015j:plain

 

自分を守るために:『1%の努力』

ひろゆき『1%の努力』、何かがすごく役に立ったわけではないけど、色々と思うところがあった書籍でした。

1%の努力

1%の努力

 

帯にあるような「頭のいい生き方」については、正直どの辺が頭がいいのかよくわかりませんでしたが。

 

ひろゆき氏が幼い頃暮らしていた低所得者層の団地の話や、サービス業のバイトの人たちのモラルが案外そうでもない話などを読んでいると、

是枝監督の映画『空気人形』とかジョージ朝倉の漫画『ハッピーエンド』とかを観たり読んだりした時の、独特の落ち着きを感じました。

空気人形

空気人形

  • 発売日: 2016/05/01
  • メディア: Prime Video
 
新装版 ハッピーエンド

新装版 ハッピーエンド

 

あらかじめ諦められている生活を見ると落ち着くのです。上記2作品以外にも、そういった意味で好きな作品はたくさんあります。

 

インスタグラマーやan・anのグラビアみたいなおしゃれな生活も素敵だとは思うけど、知恵と苦労がないとそういう生活が手に入らないのであれば、多分それは身の丈に合っていないんですよね。

確かに人は努力できるけど、たくさん努力しないと手に入らないようなものは、そもそも手に入れる必要が本当にあるのか、一度よく考えたほうがいい。

あらかじめ諦められている生活を心地よく感じるのは、無理がないからなんだと思いました。

 

若い頃は、自分の学力やセンスやその他もろもろ、自分が持っているものは自分の力で獲得してきたような気になっていました。

けれど大人になって、旅行したり仕事したりしていろんな環境やそこで暮らす人々を目にしたら、自力で獲得してきたと思っていたことは、大体環境や時の運のおかげであったことがよくわかりました。

それによって自分の無力さを感じたわけではなく、そもそも「自分の力で」とか「環境や時代のおかげで」とか、何かに原因や理由をつける必要って本当はそんなにないよなぁと思ったのです。そして人間はなんでも理由を見出したくなる習性なので、このことは案外忘れがちだとも感じました。

 

今回この『1%の努力』を読んで、付箋を貼った箇所が1つだけあります。それが下記。

遺伝子や環境がどうだったのか。

一歩引いてみて、自分だけのせいにせず、「1%の努力」で変えられる部分はどこなのかを考えてみるのだ。(中略)

100%遺伝子のせいにして、親を恨みながらコンプレックス解消しか考えなかったよしよう。

整形をして顔を変えれば、一瞬の安らぎは得られるかもしれない。

けれど、すぐに顔の他の部分が気になってくる。頭の良し悪しや身体能力まで親のせいにするはめになってしまう。

顔の整形よりも、考え方を整形したほうがたくさんの人を救える。

ひろゆき『1%の努力』ダイヤモンド社 2020.3.4)

「考え方を整形」という言い回しがいいなと思いました。

美容業界で働いていると、つくづくキリがないなと辟易することが多いんですよね。

なのですごく納得できる発想でした。

考え方を整形することも決して簡単ではないと思いますが、顔やらなんやらの整形地獄・美容地獄に陥って終わりのない(時に無駄とも思える)努力を続けるよりは、考え方をなんとか整形して、諦めのついた人生を歩むほうが確かに楽だと思います。

 

@@@

 

もう一つ考えたのは、自分より不幸な人や恵まれない環境を見て(自分が考える最悪を想定して)幸せのハードルを下げることについて。

この本では、若い時に貧乏暮らしをしといたほうがいいとか、底辺と思えるようなバイトをしたほうがいいとかいった話が出てきます。

年をとってから生活水準をいきなり下げるのは非常にストレスがかかるため、若いうちにあらかじめ最低水準の生活を経験しておいて、何かあった時すぐにレベルを下げられるようにしておいたほうがいいといった理論です。

 

上を見てもキリがないですが下を見てもキリがないんですよね。不幸の多様性といったらもう・・・それが文学とかエンターテイメントの礎にもなるんですけど。

下を見て自分の幸せのハードルを下げることって、どことなく抵抗ありませんか?同情なのかプライドなのか、何が主な要因なのか自分でもはっきりしないですが、なーんか嫌だな、と思ってしまう。

でも、やっぱりそれも仕方のないことかもしれない、時にそういうことも必要なのかもしれないと感じました。

下を見て安心しないと自分の心が壊れてしまう、そういう危機的状況がいつ訪れるか、誰にもわからないんですよね。

 

とくに今の日本社会は、失われたうん10年の不景気、地震や大雨などの大震災、さらにこの感染症での長期的な抑圧などなどで、本当にみんな疲れてるなぁと感じるのです。

疲れると余裕がなくなって、余裕がなくなるといろんなことに厳しく当たってしまいます。

みんなが狭量になってギスギスして生きづらくなるくらいなら、切なくても時には下を見て安心することで、多少の余裕を取り戻してもらったほうがいいかなって思いました。

豊かじゃない社会の必要悪ってところでしょうか。

 

@@@

 

元気があればガシガシ頑張る生活もいいかもしれないです。が、多分しばらく(もしかしたらこの先一生?)そんなエネルギーは湧いてこなそうなので、

こういった連想を喚起してくれるという意味では、読んで良かったかもしれない一冊でした。おわり。

忘れられない:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

大事なことなので最初に書きますが、このブログは全ての記事がネタバレだらけです。

私自身がネタバレを全然気にしない性質なので。

でも、この映画はできれば前情報無しで観た方がいいなと思いました。

それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』です。

www.evangelion.co.jp

一昨日の夕方、仕事を早めに切り上げて劇場へ走りました。

今も読後感というか、じんわり感情の波が広がりつづけている感じです。

 

10代の頃テレビシリーズと劇場版を一気見して精神をやられて、

20代で新劇場版を追いつづけて、

31歳になった今年ついに完結。

長い間話を追っていた作品が完結すると、待っていたはずなのに物寂しくなりますね。嬉しいと悲しいが混ざる。

 

エヴァンゲリオンって、全体を通して話が簡単じゃないと思います。

子どもの頃は自分が子どもだから理解しきれないのかと思ってたけど、大人になっても明快に理解できてる感じはしないです。だから他人にもうまく説明できない。

そういう意味で”雰囲気アニメ”とか言われてしまうこともあるかもしれませんが、その雰囲気・空気感が圧倒的に群を抜いて秀逸だと思います。

 

テレビシリーズは(主にアスカのくだりが)精神的に追い込まれる感じで、本当に辛くてちょっとしたトラウマでしたが、

新劇場版シリーズは最後まで観ると、救われたような心持ちになりました。

 

終盤の、マイナス宇宙でミサトさんやゲンドウやアスカやカヲルくんやレイが、それぞれ本当のこと・本当の気持ちを語って解放されていくところ、本当に良かったなぁ。

魂の浄化ってこういうことなのかな〜とか思いました。

私も消えてなくなるときはあんな感じの穏やかな気持ちになりたいです。

解放が一種の浄化なら、拘束や束縛は汚染なのかな。対義語辞典的に・・・

 

そしてラストシーンからエンディングの流れもほんっっっっとうに素晴らしかったです。

始まりから怒涛の展開続きで、全ての登場人物のエピソードが濃いんですが、それを踏まえた上でとても軽やかなラストでした。

エヴァのない世界、大人になったシンジとマリ、田舎の懐かしい景色。

でももちろん忘れたわけじゃない、むしろ”忘れられない”です。

シンジにとって忘れられないであろう人、忘れられないに違いないことの記憶が、エンドロールでぐわーっと思い出されて、エンディングテーマがこれ以外あり得ないくらいガシッとハマりました。


宇多田ヒカル『One Last Kiss』

 

今もずっとこの曲聴いてます。

One Last Kiss

One Last Kiss

  • 発売日: 2021/03/09
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

ジャケットもいい・・・

 

「忘れられない」って、苦しいこともあるけど

「忘れたくない」と思える誰かがいたり、思い出があったりするのって、やっぱり救いだと思いました。

私は基本的にいつも過去に生きてる人間なので、忘れたくない過去と忘れたい過去をぐるぐる思い出したり煮詰めたりして自家中毒を起こしてしまうタイプです。が、

それでも

忘れたくないことがあってよかった。素直にそう思いました。

 

ま、年とって全部忘れて死んじゃうかもしれないですけど。

「忘れたくない」「忘れられない」と思って、いろんなものを遺す人間の願いや祈りのようなものを尊く感じます。

そういう気持ちになる映画でした。おわり。

現世に希望のない人に:『無職転生 ~異世界行ったら本気だす』

今月31歳になります。

他人が病気や事故で31歳で亡くなったら「まだ若かったのに」と思いますが、

自分が31年生き延びたことを振り返ると「なんて長い人生だろう」と感じます。

コロナ禍で自宅に引きこもっているせいなのか、仕事がつまらないからなのか、

もしくは理由なんてそもそもないのかもしれませんが、

日々生き延びるのは本当にしんどいです。

 

今期観ているアニメの中で、毎週楽しみにしているのが『無職転生異世界行ったら本気だす』。

第1話 無職転生

第1話 無職転生

  • メディア: Prime Video
 

今や数え切れないくらい使い古された設定”異世界転生もの”。

タイトルだけで切ってしまう人もいるかもしれません。

 

私は過去に、タイトルのラノベ臭で嫌厭して面白い作品を観るのが遅れた経験があるので、どんなに惹かれないタイトルでも必ず1話は目を通すようにしています。

原作は未読ですが、アニメ『無職転生異世界行ったら本気だす』はまず序盤の杉田智和さんの独白演技が本当に素晴らしくて、一瞬で物語に引き込まれました。

 

あらすじは以下。

「俺は、この異世界で本気だす!」

34歳・童貞・無職の引きこもりニート男。

両親の葬儀の日に家を追い出された瞬間、トラックに轢かれ命を落としてしまう。

目覚めると、なんと剣と魔法の異世界で赤ん坊に生まれ変わっていた!

ゴミクズのように生きてきた男は、少年・ルーデウスとして異世界で本気をだして生きていく事を誓うー!

ルーデウスを待ち受けるのは、ロリっ子魔術師、エルフ耳のボクっ子幼馴染、凶暴ツンデレお嬢様、

そのほかの様々な人間との出会い。そして過酷な冒険と戦い。

新しい人生が動き出す! 「人生やり直し」ファンタジー、開幕!

 

公式サイトより)

前世の男の人生って、本当に救いようがない感じだったんですよね。

アニメの中でも度々描写がありますが、思春期に学校でひどいいじめに遭い、外に出るのが怖くなって引きこもりになり、そのままキモオタニート一直線。20年近く人と会話することがなく、ただ食べるだけの生活で肥えて見た目も不潔で、もちろん社会人経験もないまま30代半ばに差し掛かっていました。

人生何歳からだって何者かになれるのかもしれないですけど、この当時の主人公が社会復帰する手立てって本当にあったのかな?と疑問に思います。

彼は前世で何か希望を抱くことが果たして可能だったのだろうか?と。

 

前世でひたすら絶望しかなかった彼が、その絶望と恐怖の記憶を抱えたまま、剣や魔法が活躍する異世界で新しい生を受けます。

世界の成り立ちは違うかもしれないけれど、父がいて母がいて、なんとメイドまでいて、前世と同じように家族とか集落とかの人の営みが存在している新しい世界。そんな異世界で、彼はルーデウスという少年として、前世とは比べ物にならないくらい豊かな人生を歩むんです。

 

もし仮に生まれ変わった世界が異世界じゃなくて、同じ地球上の似たような時代だったとしても、彼は異世界と同じように前を向いて生きていくことができたのかなぁと考えました。

異世界では、魔法の能力の成長が人より早かったルーデウス。これは見方によっては才能・ギフトの類です。

そういうギフトがあったから、前世より上手くいったのかも?

例えば前世でも、もし外見がもう少し整っていたら、もしくは頭がよかったら、何かちょっとした才能があったなら。あんな悲惨ないじめに遭うこともなく、いくらかマシな人生を送っていたのかも?

そう考えると、生まれた時の環境・スペックで、ある程度そのさきの人生の豊かさは決まってしまうということになります。

確かにそれも一つの真実ではあるかなーとも思いますが、どこかそれだけで納得できない気持ちもあります。

***

第2話で、魔法の試験のために家の門の外に出るところがちょっとしたカタルシスで泣きました。

前世の悲惨ないじめの記憶がこびりついているルーデウスは、ずっと家の外に出るのが怖くてたまりませんでした。

外には自分を嘲笑する奴ら、攻撃してくる奴らが大勢いると、本能に刻み込まれていたのです。

怯えているルーデウスを、馬を怖がっていると勘違いした家庭教師のロキシーは笑って「私がいるから大丈夫です」と言って、ルーデウスを抱っこして馬に乗りました。

恐怖でぎゅっと目を閉じ固くなっていたルーデウスですが、町の人が皆明るく自分たちに挨拶してくるのを目の当たりにして、この新しい世界では理不尽に自分を攻撃してくる人間はいないのだと気づきます。

トラウマを克服し、一気に世界が開けたシーンは観ていてじ〜んとしてしまいました。

そしてこの、外の世界に連れ出してくれた瞬間から、ロキシーはルーデウスの恩人になりました。

***

現世に希望がなくて、来世での明るい未来を夢想するのって、人間の本能なのかもしれないなぁと思いました。

すごく悲しい本能ですけどね。

内戦地区とかで、テロの鉄砲玉として自爆する人たちは「ここで自爆すれば救われて、来世で幸せになれる」みたいな教えを受けているという話を、どこかで聞いたことがあります。

現世では何の望みもなくて、失うものがないから、死んで来世で幸せになろうとする。

本能というか、自己防衛ですかね。

 

異世界転生もののライトノベルや漫画や小説やアニメやゲームがこれだけ溢れる現代って、やっぱりみんな結構生きづらい世の中なんだなとも思いました。

コメディものも結構多いので、今まであまり気にしたことがなかったです。きっと物語を作る人たちの中にも、受け取る側の人の中にも、「こんな辛い人生すっ飛ばして、異世界で生まれ変わって楽しい人生送りたい」っていう気持ちがどこかにあるのかもなーと。

 

私は輪廻転生を信じるタイプではないですが、ルーデウスの新しい人生を観ていると、素直にいいなぁ素敵だなぁと感じます。

現世の、今のこの世界は、もうじゅうぶんだなぁって、思います。

別に転生して今よりいい世界で暮らしたいなんて言わないです。

私はもう生まれたくないです、どんな世界でも。

ただただ、私はこの人生もうじゅうぶんだ、とこのアニメを観て思ったのでした。おわり。

集中力と才能:『左ききのエレン』

「明けましておめでとうございます」って年明けていつくらいまで使うんでしょう。

明けましておめでとうございます。

2021年も相変わらず大変な世の中で、ニュースで首都圏の感染者数を耳にするたびに外出するのがますます億劫になります。

 

10代の頃からインドア派だった私はひたすら漫画を読み、アニメを観て、たまに読書もしたり映画を観たりして過ごしていました。

それは30歳になった今でも変わらないのですが、明らかに変化(退化)したことがあります。それは「集中力」です。

少し難しいストーリーだったり、セリフや独白が長い漫画を読むのが昔に比べて辛くなっています。

だんだん面白くなっていくのかもしれなくても、最初の数秒〜数分で心掴まれないアニメは、1話を観終わる前に離脱してしまいます(大人気『鬼滅の刃』でさえ、一度それで離脱しています。再チャレンジして無事26話観終えましたが)。

 

「加齢により集中力が弱くなっている!」と最初は考えていました。

しかしよくよく思い返すと、私はそもそも生まれつきあまり集中力が高くないのかもしれないと気づきました。

大学受験の時、クラスメイトたちが1日7時間とか10時間とか勉強したという話を聞くたびに、どうやったらそんなに長時間勉強できるのか全く見当つきませんでした。

私は得意だった数学でもせいぜい試験時間の2、3時間が限界だったと思います。

 

しかし集中力というのは何も時間だけではないんですね。

2時間しか問題を解けないけど正解率100%の人と、7時間考え続けることができるけど30%しか正解できない人がいたら、私は前者の方が才能がある気がします。

そういった、集中力と才能について非常にわかりやすく解説されている漫画が『左ききのエレン』でした。

昨年末にKindle無料本になっていて、読んでみたらすごく面白かったです。

ジャンプコミックスになっているもう少し絵がきれいなバージョンもあるんですが、私はそちらがどうしても合わず読めませんでした。

上記に添付した原作版は、最初の数巻は絵がお世辞にも綺麗とは言えません。しかし、感情の生っぽさ、キャラクターの生き生きした感じが圧倒的で、ストーリーに引き込まれるのはこの原作版でした(巻数が進む中で絵もだんだん上手くなってます)。

映像化もされてるみたいですがそれも観てません。

 

この漫画は、大手広告代理店で若きデザイナーとして働く朝倉光一と、彼の高校の同級生で絵画の天才・山岸エレンの物語を軸とした、彼らを取り巻く魅力的なキャラクターたちの群像劇です。

 

光一の働く環境はまさに理不尽と葛藤が渦巻くサラリーマン世界そのもので、作品全体を通して格言や名言が散りばめられています。

その中でも最初に感心したのが、3巻で光一の元チームメイトでコピーライターのみっちゃんと、その上司・寺田さんが才能の正体について会話している場面です。

「オレが思うには

才能とは集中力の質だと思うーーー

(中略)

集中力は・・・

「深さ」「長さ」「早さ」 この3つの要素のかけ算だと思う

 

「深さ」は集中力の強度だな

「長さ」は集中力の継続時間・・・

「早さ」は集中に入るまでの瞬発力」

 

(かっぴー『左ききのエレン③』ピースオブケイク 2016.11.3)

「本の受け売りだけど」と寺田さんは言ってましたが、これって実在する誰かの理論なんでしょうかね。なるほど〜と思いました。

 

確かに何かの天才といわれる、いわゆる”プロ”の人たちは、対象に対してこれらの要素が非常に高いレベルで保たれていて、それゆえに集中力が高い。

自分がこれまでまあまあ集中力保てていたなと思う事柄(中高時代の数学、部活動の合唱や吹奏楽、習い事の茶道など)について3つの要素を考えてみると

  • 「深さ」・・・まあまあ深かった(古典とか他のことに比べると)
  • 「長さ」・・・どれも2、3時間が限界
  • 「早さ」・・・これは早かった。すぐに取り組める

という感じでした。

ちなみに今の仕事に関しては

  • 「深さ」・・・基本的に浅い。紐解いたり掘り起こしたりできない。表層だけ
  • 「長さ」・・・2時間もたない。1時間でも厳しいかも
  • 「早さ」・・・遅い。取り組むまでにものすごく自分を甘やかしてご褒美あげないと取り組めない

というわけで、今の仕事に対しての才能は多分あまりないと思われます。

 

勉強や仕事とはかけ離れた部分で、私が一番集中できるのはやはり物語に触れている時だと思いました。漫画でもアニメでもゲームでも、ストーリーに没頭すると上記の3つがグンと上がります。

よく覚えているのは高校生の時に読んだ『DEATH NOTE』、大学時代に観た『デュラララ!!』『コードギアス 反逆のルルーシュ』『HELLSING OVA』、フリーター時代に初めてプレイした乙女ゲーム『華アワセ 蛟編』などです。

  • 「深さ」・・・ご飯食べるのも忘れるレベル。眠らずにぶっ通しでストーリーを追ってしまう。目移りできない
  • 「長さ」・・・ストーリーが完結するまで続く。24時間を超えることも
  • 「早さ」・・・何の助走もいらない。一瞬

まあ物語に没入するのは受け身の動作が多く、基本的には観ているだけなので、そりゃあハードル低いですよね。別に才能とかいらないことなのかもしれません。

 

よく「夢中になれるもの・ことがほしい!」とか、「何かに一所懸命になりたい!」とか昔は考えていましたが、それは言い換えると「高い集中力を発揮できる対象を見つけたい!」ということなのでした。

 

結果的に強く集中できるものにはいまだに出逢えておらず、相変わらず無気力で退屈な人生を送っています。

しかし集中できないなりに、一体「深さ」「長さ」「早さ」のどれがボトルネックなのかということを考えるようになりました。

例えば今の仕事で一番集中力の足を引っ張っているのは「早さ」です。取り組むまでうだうだしていることが多い。夏休みの宿題になかなか手をつけない心情に近いです。

別に改善しなくても、お給料変わらないのでどうでもいいと思っていますが。

”才能”とか”売上”とか”魅力”とか、よく使うけど構成要素が多い事象を因数分解するのって、面白いし役に立つなぁと思いました。おわり。

金はひねくれたシワをのばすアイロン:『パラサイト』

先日、帰宅途中に怖い場面を見ました。

平日夜の帰宅ラッシュだったのか、人の往来が激しい駅の出口付近で

推定40代くらいの女性がうっかり前方を歩いていた年齢不詳の男性の踵を踏んでしまったのです。

するとその踵を踏まれた男性はものすごい勢いで女性を後ろ蹴りしました。

あまりの痛さに叫んだ女性でしたが、蹴った方の男性はイライラした様子で舌打ちをするとそのまま改札を出て行きました。

大柄な男性に蹴飛ばされたショックで女性は少しの間おとなしく歩いていましたが、

やはり許せなかったようで、走って駅員さんにことの顛末を訴えに行きました。

 

その後どうなったのか見届けていないのでわかりませんが、駅員さんも警察ではないし

蹴った男性は早足で姿を消してしまったし

示談というわけもなく、きっと何も清算できなかったのではないかと思います。

 

みんな余裕がないのかもしれないなぁとぼんやり考えました。

ただでさえ自殺者も増えているというこのご時世、不安が渦巻く社会のなかで、ちょっとした刺激にさえ過剰に反応しないと気が済まないのかもしれません。

 

では余裕とはどこから生まれるのか?

それがすべてとは言わないですが、お金によるところは大きいのではないかと、先日観た『パラサイト』を思い出しました。

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/29
  • メディア: Prime Video
 

言わずと知れた名作。アカデミー賞を獲った韓国の映画です。

劇場公開時から観たいなぁと思っていたのにタイミングを逃しつづけ、今頃になって自宅で観ました。

度肝を抜かれる面白さに、通しで2回観ちゃいました。こんなこと初めてです。

 

あまりにも有名な作品ですが、念のためあらすじは以下。

 過去に度々事業に失敗、計画性も仕事もないが楽天的な父キム・ギテク。そんな甲斐性なしの夫に強くあたる母チュンスク。大学受験に落ち続け、若さも能力も持て余している息子ギウ。美大を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もない娘ギジョン… しがない内職で日々を繋ぐ彼らは、“ 半地下住宅”で 暮らす貧しい4人家族だ。

“半地下”の家は、暮らしにくい。窓を開ければ、路上で散布される消毒剤が入ってくる。電波が悪い。Wi-Fiも弱い。水圧が低いからトイレが家の一番高い位置に鎮座している。家族全員、ただただ“普通の暮らし”がしたい。

「僕の代わりに家庭教師をしないか?」受験経験は豊富だが学歴のないギウは、ある時、エリート大学生の友人から留学中の代打を頼まれる。“受験のプロ”のギウが向かった先は、IT企業の社長パク・ドンイク一家が暮らす高台の大豪邸だった——。

パク一家の心を掴んだギウは、続いて妹のギジョンを家庭教師として紹介する。更に、妹のギジョンはある仕掛けをしていき…“半地下住宅”で暮らすキム一家と、“ 高台の豪邸”で暮らすパク一家。この相反する2つの家族が交差した先に、想像を遥かに超える衝撃の光景が広がっていく——。

 

公式サイトより)

ほんっっっっとうに面白かった!!笑えてドキドキして、でも不気味で、最後になんとも言えない感情の涙が出ました。

感動というのでもない、悲しいともちょっと違う。実に不思議な感じでした。

すごくジメジメした作品なんですが、読後感というか、観終わったあとの心地は結構良いのです。ほんと、不思議。

 

冒頭の話に戻りますが、余裕の生成源としてお金の存在が大きいと思ったのは、劇中でキム家の母・チュンスクが放った一言が心に残ったからです。

「奥様は本当に純粋で優しい 金持ちなのに」

「”金持ちなのに”じゃなくて”金持ちだから”だよ 分かってんの?

はっきり言ってーー

この家の金が全部私のものだったら? 私は もっと優しいよ 優しい」

「母さんの言う通り 金持ちは純粋で素直だ 子どももひねくれてない」

「金はシワをのばすアイロンだ ひねくれたシワをピシッと」

「金はシワをのばすアイロン」、なるほど言い得て妙って思いました。

でもシワをのばすためには少額ではダメで、かといって高額でも泡銭ではきっとダメなんでしょう。

 

このシーンは、パク一家がキャンプに出かけて留守にしている晩に、キム一家がパク家の豪邸のリビングで酒盛りしているときの会話です。

同じ家で同じ冷蔵庫や食料庫から食べ物や飲み物を取ってきているのに、両家の食事の様相は全然違うんですよね。

キム家の酒盛りは”食い散らかす”という表現がぴったりの、雑然とした食卓です。酒もとにかく手当たり次第、高い酒でも瓶からラッパ飲み。

キム家は束の間の夢を見るような、その場限りの贅沢なので、さらにそうなってしまうのかもしれません。

まあ、仕事でもないのに洗い物を増やしたくない母の意向もあるのかもですが。

 

キム一家はどんなにパク家に寄生して高い給料を得ても、それを元手に堅実な人生を歩もうとは思わないんです。あればあるだけ金を使い、なくなってもっともっとお金が欲しくなる。

きっとキム家がどんなにパク家に寄生し続けてお金を得ても、パク家のような”天性の余裕”は生まれないんだろうなぁと思いました。

少なからず、騙している後ろめたさもあるでしょうしね。

 

***

 

キム一家がパク家のリビングで食い散らかしている最中、パク家の元家政婦・ムングァンが突然訪ねてきて、キム一家はショッキングな事実にぶち当たります。さらにムングァンに家族総出で詐欺を働いていることがバレて窮地に陥り、パク家にチクられる瀬戸際まで追い詰められるのをなんとか回避したも束の間、今度は荒天のせいでキャンプの中止と帰宅を余儀なくされたパク一家からの電話がきます。

パク家の唐突な帰宅をチームプレーでどうにかやり過ごし、家主たちが寝静まった豪邸から無事脱出したキム家の父と兄妹たち。しかし外は大雨と雷でひどい嵐です。

高台の高級住宅街からいくつもの階段を下り、ずぶ濡れになりながらなんとかたどり着いた自分たちの街は、海抜が低いせいで大洪水になっていました。

慌てて自宅に走るキム一家。半地下のキム家はもうほぼ水に沈みかけていました。

 

どうにか家を守ろう、大事なものを持ち出そうと汚水溢れる自宅を右往左往する父や兄とは別に、諦めの境地になった妹のギジョンは、自宅で一番高い場所にある洋式トイレの上に三角座りし、天井裏に置いていた煙草を取り出し一服します。この、ギジョンの絶望的な喫煙シーンがこの映画の中で一番好きです。

 

つい数時間前まで、高台の豪邸のゴージャスなお風呂に入って、高い酒を飲み、柔らかなソファの上でゴロゴロしていたのに。

一気に天から地へ引き摺り下ろされた感覚だったろうと思います。

ドブ水が氾濫するトイレでなす術なく、もう笑うしかないといった絶望と諦め。かろうじて手元に残った煙草は果たしてうまかったのだろうか・・・うまかったらいいなと思います。

 

この一連の流れを観ていて改めて思ったんですが、酒と煙草って低所得者のためにある気がします。パク家が煙草吸ったり酒をガバガバ飲む場面は全然なかったですが、キム家では酒も煙草も当たり前のように日常に馴染んでいるものとして描かれていました。

それがまた両家の対比を色濃くしているように見えました。

 

***

 

翌日のパク家のパーティーの場面も本当に胸がキュッとなる光景でした。

避難所の体育館ですし詰めの避難生活を余儀なくされたキム家でしたが、急遽ホームパーティーをすることにしたというパク家からそれぞれにお誘いや招集の連絡が入ります。寝不足の彼らは、避難所に寄付された服の山からどうにか身繕いをしパク家へ。

美しい庭で開かれる優雅な宴。仕立てのいい服を着た大人たちと可憐な子どもたち、教養を感じる音楽と高そうな楽器の演奏、ふわふわした犬、テーブルに並べられたご馳走の数々・・・。

窓からそれらを見下ろしたギウがぽつぽつと呟くのです。

「みんな優雅だな

急に集まったのにクールで すごく自然だ

ダヘ 俺は似合う?」

「何が?」

「似合ってるか? ここに」

何をどう偽装しても、絶対に超えられない壁があることをまざまざと感じるシーンです。まさに”住む世界が違う”。

 

身の程を知ることが大切なのはよくわかります。

絶対に超えられないのに壁を登ろうと無駄に足掻くのはみっともないというのもわかる。

けれど、上を見て悔しくて、その悔しさが捻れて卑屈になる気持ちも理解できるし、”ひねくれたシワ”ができてしまうのも仕方がないことだと思うのです。

 

少額の金じゃシワをピシッとはのばせないかもしれない。

泡銭じゃスチームが足らないかも。

それでも、ほんの少しシワがごまかせるだけでも、余裕のある佇まいに近づけるのでしょうか。

それとも本当はお金なんか微塵も関係なくて、温暖な気候と美しい海と甘いフルーツでもあれば、人間はみんな陽気で余裕たっぷりにいられるんでしょうか?

 

***

 

優雅なパーティーで突如大事件が起き、その後キム一家はそれぞれ離れ離れになって、それでもいつかまた一緒に暮らせる未来を思い描くところで物語は終わります。

お金も余裕もないかもしれないけれど、希望はあるから生きていける、そんな終わり方でした。

つまるところ、人が生きていくのに一番必要な心の燃料は「希望」なのだなぁと、今年何回めかの実感をしたのでした。おわり。