れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

絶望したまま生活する:『心臓』

さらっと読めるけど心に傷跡をのこすような漫画に出逢いました。

心臓 (トーチコミックス)

心臓 (トーチコミックス)

 

結構前から気になってたんですが、なんとなくスルーしていた作品。

取引先からAmazonギフト券をもらったので購入してみました。

なぜ気になっていたかというと、作者の名前が”オクダアキコ”で好きな作家の奥田亜希子さんと漢字一文字違いだったので。それだけです。

 

『心臓』は短編集で、特にいいなと思ったのは2話目の「ニューハワイ」と最後の「神様」という話。

 

***

 

「ニューハワイ」は27歳古本屋バイトのなおちゃんの日記調の独白がメインです。

なおちゃんの高校時代からの友人・冬子は、DV彼氏にしょっちゅう暴力を振るわれてなおちゃんに泣きついてきます。

「通報しよう」となおちゃんが言うと、必死に止める冬子。

「私は私のやり方で彼のメンタルを救ってみせる」とニコニコして帰っていく冬子を”一人芝居でもしてるみたいで痛々しい”と評するなおちゃんの、一歩引いた冷めたスタンスが好感持てます。

 

ブックオフっぽい古本屋でのバイトの様子も面白いです。ズレた感じの変な男性客の描写とか。

ある日、年下の女の子バイトと年上の男性バイトが自分の話をしているところを立ち聞きしてしまう場面が特に好きです。

「なおさん?夢でもあるんじゃないっすかね」

「だからってこんなとこ2年もいます?」

「オレ4年」

「だって なおさんもう

27才っすよ」

(中略)

9月15日

陰口に

腹も立たない

私、人生のどの地点から ここまで自分に絶望してるんだろう

 

(奥田亜紀子「ニューハワイ」『心臓』リイド社 2019.7.30)

読みながら私も、自分にいつから絶望してるのか考えてしまいました。

 

実は大学生の頃一瞬だけ、なおちゃんみたいにブックオフでバイトしたことがあります。ブラックで1か月くらいでやめましたけど。

あの頃はもう自分に絶望してた気がする。となると、二十歳の時点でもう絶望してるなぁ。

 

物語はその後、大地震とかいろいろあって、さまざまな心の機微がありつつもなおちゃんと冬子とDV彼氏で熱海旅行に行ったところで終わります。

ざっと説明するとなんじゃそりゃ、と言う感じですが、いい話でした。

 

***

 

「神様」は四時子という女性と彼女の炊飯器やマフラーや靴などの付喪神として振舞う神様の話です。

あまり笑わない四時子には、学生時代に交通事故に遭って以来寝たきりの双子の妹・五時子がいます。

また、サトという彼氏もいて、サトは四時子を本気で好きで、結婚したいと思っています。

サトが本当にいい彼氏で、自分と結婚したがっていることもわかっている四時子ですが、五時子のことを言い訳にして自分が幸せになることを避け続けるんです。

「私 幸せはこれ以上要らない

・・・五時子が死んじゃう気がして」

 

(奥田亜紀子「神様」『心臓』リイド社 2019.7.30)

「ニューハワイ」も「神様」も、他の短編も、この作品に出てくる主人公たちはみんな自分や自分の人生に絶望しているんですね。

そしてそういう”自分や自分の人生に絶望している人”に強く惹かれる私自身に気づきました。

惹かれるというか、ひたすらに共感する感じ。

 

「幸せはこれ以上要らない」なんていうほど幸せではないんですが、この絶望を脱ぎ捨てられるイメージが全く湧かないです。

今までもこれからも、この絶望を背負って生き延びるしかないんだという諦念。

絶望したまま生活する疲労感と、その中で見出すあるかないかの小さな幸せ(熱海旅行に行くとか、面白い漫画に出逢うとか)をかき集めて記憶する作業。

そういう絶望人生にすごく共感して、なんとなく励まされ安心するのだなぁと思いました。

 

生身の人間が生きるろくでもない感じを、とても軽やかに表現した良作漫画でした。終わり。

『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』

村上春樹海辺のカフカ』が本当に好きなんですが、紙の本を所有するのがイヤで図書館に借りに行きました。

その時ついでに手にしたエッセイが面白かったです。

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2012/07/09
  • メディア: ハードカバー
 

世界的にも有名な作家である村上さんが、文章について述べた下記の記述。めちゃめちゃ説得力あります。

僕にはとてもそこまで英雄的なできそうにないけど、でも文章を書くときには、できるだけ読者に対して親切になろうと、ない知恵をしぼり、力を尽くしています。エッセイであれ小説であれ、文章にとって親切心はすごく大事な要素だ。少しでも相手が読みやすく、そして理解しやすい文章を書くこと。

村上春樹『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』マガジンハウス 2012.7.9)

冬の河川に不時着し、救助のロープを女性に譲り続けて亡くなった銀行監査官・ウィリアムズさんの話から親切心について語った一説です。

村上さんの文章はbot化されるくらい特徴的な小気味いい文体で、私は好きです。あの文体を書く時、そういう心持ちなのか〜と感心しました。

時間もかかるし、手間もかかる。いくぶんの才能も必要だ。適当なところで「もういいや」と投げ出したくなることもある。

そんなとき僕はウィリアムズさんのことを考える。猛吹雪の中、ポトマック川の氷混じりの水に浸かりながら、まわりの女性に「お先にどうぞ」と言い続ける親切心に比べれば、机の前で腕組みして正しい言葉を探すくらい、大したことじゃないよなと思う。

(同上)

 

プレゼントについての話から文体について言及していた下記も得心です。

考えてみたら衣服というのは、小説家にとっての文体に似ているかもしれない。他人にどう思われようと、批判されようと、そんなことはどうでもいい。「これが自分の言葉で、これが自分の文体だ」と確信できるものを用いることで初めて、心にあるものを具体的なかたちにできる。どんなに美しい言葉も、洒落た言い回しも、自分の感覚や生き方にそぐわなければ、あまり現実の役には立たない。

(同上)

私はライティングの仕事をメインでやっているわけではないですが、これまで仕事で文章を書いて世に出したことはあるし、こうしてブログも10代の頃からずっと書いています。世の中を文章書く人と書かない人に二分するとしたら、書く人側に入ると思います。

けれど、自分の言葉とか自分の文体とかを意識したことはあまりなかったなぁと思い至りました。

 

仕事は別ですが、自分のブログは未来の自分が読者だと思って書いてます。私は自分の昔の日記を読むのがかなり好きです。

昔のエントリを読むと、すごく共感できる他人が書いた文章みたいで面白いのです。

今の自分と同じ考えのこともあれば、全然違っていることもあり、本当に別人が書いてるみたいに感じる時があります。それが楽しい。

ただ、仕事で文章を書くようになってから、少し読みやすさに注意することが増えました。自分の日記でさえも。

だからそれ以前の日記を読むと、ちょっと直したくなる時があります。面倒なのでそのままにしてますが。誤字脱字も補完して読めれば放っておいちゃいます。

 

自分の文体って、文章書く人はみんな意識してるんですかね?

文体とは違いますが、私の文章は強いて言えば一文がめちゃめちゃ長くなりがちです。駄目な文ですね・・・読みづらいです。英語の長文問題で、無理矢理直訳したみたいな日本語を書きがちです。

でも、自分だけにはすごくよく伝わることもあって、多分辞めることはないと思います。私のために書いているものに関しては、ですが。仕事では気をつけようっと。

 

***

 

村上さんの、生活に対するスタンスのようなものにもとても共感しました。

小説家になってよかったなと思うのは、日々通勤しなくていいことと、会議がないことだ。この二つがないだけで、人生の時間は大幅に節約できる。世間には通勤と会議がなにより好きだという人もひょっとしておられるのかもしれないが、僕はそうではない。

(同上)

テレワークといろんな画策のおかげで、最近の私も通勤と会議は結構減らせたかも。

 

僕が人に何か忠告を与える、というようなことはまずない。もともと「なるべく余計な口出しはするまい」という方針で生きているせいもあるけど、もうひとつには、これまで僕が何か助言をして、それで良い結果がもたらされた例をひとつとして思い出せないからだ。

(同上)

結婚を勧めた2組のカップルがどちらも離婚したエピソードは声出して笑いました。が、思えば私も自分の助言で好転した事象を一つも思い出せません。

さらに悪いことに私は結構お節介な質で、思ったことはわりとすぐ口出ししてしまうことがあります。「なるべく余計な口出しはするまい」。年取れば取るほど気をつけなきゃなーと思いました。年寄りって説教くさくなりがちですからね。

 

墓碑銘について考える話で引用された下記は、正確にはトルーマン・カポーティ『最後のドアを閉じろ』の作中の言葉だそう。

でも墓碑銘なんてなくても、もちろん全然かまわない。ゆっくり寝かせてもらえれば、それでいい。ただ自前の文章でなくてよければ、これがいいんじゃないかと思うものはある。

「何ひとつ思うな。ただ風を思え」

(同上)

英語では「Think of nothing things, think of wind」で、村上さんの最初の本『風の歌を聴け』のタイトルもここからつけたそうです。へぇ〜って感じでした。カポーティの本って、大学生の時に何か読んでピンとこなかった記憶しかないんですが、確かにこの一文はいいなぁと思いました。気分が波風立ってる時に脳内で唱えるようになりました。

 

あと最後に笑ったのが下記。

テレビにも一度も出演したことはない。僕はバスに乗ったり、あてもなく散歩をしたり、近所の店で大根とネギを買ったり、ごく普通に日常生活を送っている人間なので、道を歩いていて声をかけられたりすると面倒だ。だいたい「ねえねえ、お母さん、見てごらんよ。村上春樹がテレビに出てるわよ。ずいぶん面白い顔してるわねえ」なんてこと言われたくないですよね。どんな顔をしてようが僕の勝手だ。

(同上)

確かに!どんな顔してようが本人の勝手ですね。

でも私はテレビで村上さんの顔を見た記憶があります。海外の何かの席でスピーチしたニュースの時かな。卵と壁の話?でしたっけ?スピーチの内容は全然覚えてないのに村上さんの顔は結構覚えている気がします。やっぱり視覚情報って強いなぁ。

 

そんなわけで、尊敬するストーリーテラーの日常的な思考が想像以上に面白く、勉強になりました。おわり。

調子が悪くても:『夢も見ずに眠った。』

最近精神的に調子が悪いです。

仕事でミスが続き、いつも時間に追われている心地がしてイライラし、何をしても楽しくない。

季節の変わり目だし、このご時世だし、不調の原因を考え出したらキリがないですね。きっと同じような方は世の中にたくさんいるだろうと想像したところで、自分の辛さは何も変わりません。

 

思えば10代の終わりくらいからずっと、出口の見えないトンネルが続いている感じです。

死ぬまでずっとこんなんだったらとっとと死んだほうがいいかもなぁと思わないこともないような、決定的ではない不愉快がずっと横たわっています。

 

病んだって誰も助けてくれないし、なんとか自分を鼓舞して生き延びる以外手はないことは重々承知。なんですが、それでも人の心が沈んでいく描写を読むと共感できすぎて思考を引っ張られるのでした。

夢も見ずに眠った。

夢も見ずに眠った。

  • 作者:絲山秋子
  • 発売日: 2019/01/26
  • メディア: 単行本
 

絲山秋子さんの小説は、日本の地方都市の描写が実に豊かで好きです。

この『夢も見ずに眠った。』も、なかなか旅行しにくい情勢の中、物語の中だけでも旅したいと思って手に取りました。

 

主人公の沙和子と高之は熊谷に暮らす夫婦です。

就職氷河期を乗り越え立派なキャリアウーマンとなった沙和子。婿入りした高之は非正規雇用で職を転々としていました。彼は結婚を機に沙和子の実家の敷地に地元・中延から引っ越してきたのです。

二人は大学の同級生でした。

 

沙和子はどちらかというと真面目な性格で、高之は飄々としておおらかな感じです。

二人は全然似ていないですが、私はそれぞれに強く共感できる部分がありました。

 

物語の序盤で、沙和子の札幌への栄転が決まります。

高之は熊谷に残ることを選択して、二人は単身赴任という形の別居状態に。

沙和子の引っ越しの日、空港で高之と別れた後に沙和子が高之のことを思う場面がとてもいいなと思いました。

あのひとは、自分のためにしか動けないのだ。

まったく、それでいい。

ひとの身になって考える、ということが苦手なのだ。そしてそんなことをしたら、いつも間違いのもとだから、自分のために生きた方がいいのだ。

絲山秋子『夢も見ずに眠った。』河出書房新社 2019.1.30)

私も自分のためにしか動けないです。多分。

ひとの身になって考えるって、お客様視点とかそういうことはするかもしれないですが、結局それも想像の域を出ないし、つまるところ自分のためでしかない。

確かに下手に”ひとの身になって”考えたりしたら、かえって間違えそうです。

 

沙和子が札幌に行って数か月経った頃、彼女は知人の結婚式に出席するため京都へやってきました。せっかく本州に来たならと、高之は車で滋賀へ向かい沙和子と小旅行することにします。

久々に会った二人ですが、高之の様子がなんだかおかしいのです。基本的に穏やかでつまらないことで突っかかったりしない彼が、どうも機嫌が悪そうで、ドライブの目的地にも気づくことができず立て続けに通り過ぎてしまいます。

具合の悪そうな高之を見た沙和子は、職場で何人か見た鬱病患者を連想します。心配する沙和子の問いかけに高之も自身の不調を自覚し、二人は旅行を切り上げて熊谷に戻りました。

 

病院で中程度の鬱病と診断された高之。なぜ自分が鬱病になったのか、心当たりが思いつかず混乱する高之は、非正規雇用で休職もできず職を失うことになってしまいます。

薬局を出てひとまず落ち着きたかった二人は、熊谷の”雪くま”を食べられる菓子屋に入りました。

向かい合ってかき氷を食べている時の、高之の心理描写が読んでて非常に辛かったです。

溶けかけた氷をスプーンで集めながら、高之は、なんでもないことが楽しい日々なんてもう二度と来ないのではないか、と思っていた。旅行の計画に夢中になった。本を読むのが好きだった。酒を飲んで笑っていた。新しく興味を持てそうなことを見つけるのが嬉しかった。でも、なにがどう楽しかったのか、思い出せないのだ。二度とそんな日は来ないと思うのだ。

(同上)

精神的に本当に参ると、こういう気持ちになりますよね。もう二度となにも楽しめないような気持ち。このままつらい沼に永遠に足を取られ続ける絶望感。

楽しかったと思う昔を思い出して、さらにしんどい気分になって・・・負のループです。

 

思えば社会人になってからいつも、働き続けるうちにだんだんと、そういう負のサイクルに嵌ってしまう気がします。

高之と同じで、何か決定的に嫌なことがあったわけでもないのに、無意識の我慢や自己欺瞞がいつしか大きな歪みを生んでいて、気づいた時には抜け出せなくなっているのです。

なんとか自力で抜け出すために退職して、数か月ニートしながら旅行したり読書にふけったりして心の平穏を取り戻し、再就職してまた・・・の繰り返しでここまで来ているようです。

 

今の職場でも、もう嵌りかけてるかも。はぁ。また繰り返すのも嫌だなぁ。何より旅行が満足にできない世の中になっちゃったのが痛いです。

 

***

 

高之は沙和子の両親の支えや通院を経て徐々に回復しますが、離れて暮らすうちに二人は夫婦の形を保つことが難しくなり、離婚します。

仲違いしたわけではない極めて円満な離婚でしたが、ちょっとしたことで互いの不在を認識する高之たち。

わざわざそんなくだらないことを聞いてくれる相手がほしいわけでもなかったが、自分の生活の色のなさは、そういうことなのだと思った。途中で使うのをやめてしまったスケジュール帳のような白い日々に彼は飽きていた。

(同上)

このスケジュール帳の例えにとても共感しました。秀逸、と思いました。

ニートの生活を長いこと続けていると、確かに楽だしいくらでも自分を可愛がるネタはあるのですが、ふとした時にこの日々の白さに心許なさを感じることがあります。

家族や恋人や友人がいたら、そんなこともないのかもしれませんが。

なんなら今も白い日々を送っているような気さえします。うまく言えないですが、このうまく言えない心持ちを実に的確に表現している箇所が、この作品にはたくさんありました。

 

ある日沙和子が血迷って横浜で不倫デートをし、事故にあって足を骨折したところに見舞いにやってきた高之との会話もそういうシーンでした。

沙和子は深いため息をついた。

「私ね、自分がどうしたいのかわかんなくて。誰かに悪いとか、相手の気がそれで済むんならとか、そういうことしか考えてなかった。でも、もうだめみたい」

(中略)

まさかこの年になってこんなことで悩むとは、と思う。

自分さえ我慢すればいいと思って暮らしてきたのだ。母とのわだかまりがあっても問題にしたりやり直したりしなくても済むように。出向先の待遇に満足しなくてもやっていけるように。だが、今までのやり方は失われてしまった。乗り継ぎに失敗したときの列車のように、行ってしまった。沙和子は今、誰もいない駅のホームに佇んでいるような気持ちなのだった。

(同上)

乗り鉄の私にはこの描写もグッときました。行ってしまった列車が脳裏に浮かぶくらいわかりやすいです。

鬱病になるほどではないにせよ、沙和子も溜まりに溜まった自己欺瞞に心の均衡を崩されてしまっていたのでした。

 

今こうして書いているうちに思い出しましたが、アニメ『君が望む永遠』を観て自分に嘘をつくことがどんなによくない結果をもたらすか学んだはずなのになぁ。

人間って自分を騙せずには生きられないんですかね。

少なくとも社会生活を営む上では、大なり小なり自分に嘘をつく必要ってあるのでしょうか。

・・・それにしたって生きづらいなぁ。

 

***

 

この小説は長編で12の章からなっており、それぞれに日付が付いています。

一章は2010年ですが、最終章の十二章は2022年です。

これは作者も意図していなかったと思いますが、2020年に東京オリンピックが開催された旨の描写があって、そこで一気に現実に引き戻されてしまいました。

遠い未来だとSFだと認識して普通に楽しめるのですが、あまりに近い未来がズレているとなんとも咀嚼しづらいフィクション感が出てしまうのだなと驚きました。

それでも、12年の歳月で大人がどう年をとるのか、とても生々しく表現されていました。

寛ちゃんのところでは、娘たちもすっかり成長し、大人と話すことに慣れている様子だった。食べ終わってからはさっと席を立ち、片付けを手伝うと姉は塾へ、妹はジムへ出かけてしまった。寛ちゃんの奥さんが車で送っていった。

寛ちゃんの家の夕方はとても忙しい。

でも、高之の夕方は暇なのだ。

それを寂しいことのように感じた。私たち自身が、暇な夕方みたいな年齢なのだろうかとも思った。

(同上)

このブログを書き始めたのは6年前で、その頃から変わらず私は子供を産むべきではないとずっと思っています。今でもそれは変わりません。

けれども、6年前には”子供を持たない人生”がどういうものなのか、きちんと把握していなかったなとも最近よく考えます。

 

子供や家族がおらず、友人や恋人もおらず、打ち込める仕事も趣味もない独りの大人の人生というのは、果てしなく暇です。

肉体は確実に老いていて少しずつガタがきたり、何かに好奇心を抱くことが以前より格段に難しくなっている。そういう中で余った空洞の時間がある。これは結構しんどいことでした。少なくとも私にとっては。

退屈が好きだと嘯いてた若い頃が嘘みたいに、退屈は苦痛を伴います。忙しいのも嫌なはずなのに、持て余した暇が案外怖くて足がすくむ。

もし子供を産んでいたら、こんな暇とは無縁だっただろう。そう想像してさらに恐怖するのです。

「もし子供を産んでいたら」?冗談じゃない。あんなに生まれてくることの悪を呪ったのに、そんな想像するなんて、と。

しかし、そんな自分にとって禁忌とも言える発想をしてしまうほど、この加齢を伴った時間の空洞は精神的に辛いものなのでした。

 

***

 

暗い話になってしまいましたが、この小説のラストはどちらかというとハッピーエンドです。

何かが決定的にゴールしたような終わりではないのですが、不思議と涙が溢れてきて、しかもその涙が結構複雑な感動なのです。

この言語化できない感情こそが、物語を読む醍醐味だよなぁと改めて思いました。

 

当初の目的通り、旅の思い出もたくさん想起できました。

岡山、広島、島根、鳥取、盛岡、札幌、横浜などなど、行ったことのあるスポットや乗ったことのある路線や駅が次々出てきて面白かったです。

奥多摩や青梅はあまりきちんとみたことがないので、近々行こうと思いました。

 

暇な夕方みたいな年齢を重ねなければならない現実にはほとほと辟易します。が、

適度に旅に出たりしながらやり過ごすしかないんですよね、やっぱり。

仕事でミスが続いても、

時間に追われてイライラしても、

無意味に悲しくなったりしんどくなったりしても、

自分の人生は誰も代わってくれないし、何よりいつかはみんな死ぬので。

「イヤなことっていうのは、ひとつひとつ片付けていくしかないんだ」

いつだったか、一緒に残業していた同僚が苦々しく言った言葉を思い出しながら、重たいレンガを積むようにして日々の仕事をこなしているうちに、年度末の忙しさに呑まれた。

(同上)

真理の言葉だなと思いました。イヤなことっていうのは、ひとつひとつ片付けていくしかない。しんどい度に思い出します。おわり。

ひとに勧めたくなる映画:『恋人たち』

お盆ですが猛暑のニュースにビビって家から出る気が起きない30歳の夏。

暇なときGYAOの無料映画欄をのぞくのですが、今とてもいい映画やってました。橋口亮輔監督作品『恋人たち』。

恋人たち

恋人たち

  • 発売日: 2016/09/07
  • メディア: Prime Video
 

今月30日までGYAOで無料で観られるようです。別にPR案件じゃないですよ。

 

何の前情報もなくたまたま目について再生しただけだったんですが、こんな良作に出会えるなんて何だか嬉しいです。

 

Wikipediaからあらすじを拾ってこようと思ったら、ネタバレどころかストーリーの全てが書いてあって笑ってしまいました。

ストーリーの内容よりも、一つ一つの場面の描写に胸を打たれる映画だと思います。

観た後すごく「いいもの観たなぁ」と感動して、ひとに勧めたくなるんですが、「どういうところが面白いの?」とか聞かれると多分かなり悩む気がします。

 

愛していた妻を通り魔に殺されたアツシの話は本当に辛くて悲しいし、長年の片想いがこじれて色々うまくいかない弁護士の四ノ宮の話もしんどいし、田舎の弁当工場で働く瞳子の話も何だか滑稽で居心地が悪い。

どれもこれも不幸の無数のパターンの中からピックアップされたような話で、現実世界のどこかにありそう。リアルな描写にとても引き込まれました。

 

特に瞳子とアツシの暮らしぶりは、私に新卒時代働いていた食品工場を思い出させました。

何度も転職を繰り返し、今はたまたま東京の高層ビルでOL勤めをしていますが(といってもここ数ヶ月狭い賃貸マンションでテレワークですけど)、私の原体験ってやっぱりあの田舎の工場なんだなって改めて実感しました。

瞳子とその同僚たちが自転車置き場から「お疲れ様です」と言い合って散り散りに帰宅していく様子も、狭い事務所で作業着を着たおじさんや事務のお姉さんたちが馬鹿話で笑い合う様子も、既視感でいっぱいでした。

 

あの頃マーケティングとかブランディングとか、そんなカタカナなことは微塵も気にしなかったし、考えてなかったです。

朝早く起きて、ママチャリで田舎道を走り、おんぼろな畳敷の更衣室で作業着に着替えて、おばちゃんおじちゃんたちと腰痛いとか暑いねとか寒いねとか言い合って、朝から晩まで働いてクタクタになって、帰り道にそうめんとかお酒とか買って、帰って食べて飲んでお風呂に入って眠る。

シンプルで、忙しいけど全く充実していなくて、難しいことは何にもないけど憂鬱な日々。

多分一緒に働いていたおばちゃんたちも色んな不幸を抱えて生きていたんだと思います。当時はそのことにあまり思い至らなかったですが。

 

偏見もあるのを承知で言うと、あの場にいた誰もが何かを諦めていたんだなって感じます。

みんな多分「こんな仕事つまらない」って思ってました。もちろん私も。こんな仕事誰でもできるって。(今の仕事だってそうですけどね)

そして単調な仕事に加えて、単調な生活。単調な家庭。刺激のない田舎の生活と村社会。

車のローンや子どもの学費や親戚づきあいや同僚たちとの人間関係といった面倒で瑣末なこと。

改めて思い出すと、本当に閉鎖的で平坦な生活だと思います。

けれど、みんなそれを受け入れていて、諦めていて、足掻くことなく、変に飾りたてることもしなかったです。

諦めた上で、それぞれがささやかな楽しみを持っていて、無駄に前向きになることも後ろ暗くなることもなく、ただただ生きていました。

 

ブルーカラーとホワイトカラーという言葉がありますよね。近年ではゴールドカラーというのもあるようです。

ゴールドカラー以外は大きな違いはあまりない、どちらもただの労働者だと思います。

ただ、ホワイトカラーはゴールドカラーに比べて虚飾がちょっと多いなと感じました。諦めが足らないというか。

特に都会であればあるほど虚飾具合が過剰になる気がします。きっと都会はその虚しさでお金を回している節があるんじゃないでしょうか。別にそれが悪いとかではなく、それはそれで面白いなと思います。

社会は階層構造で、それぞれの階層にそれぞれのスタンスと不幸があるんだなって。

 

ただ、この『恋人たち』みたいな映画や漫画や小説に出会うたび、きっと私はこれからもあの工場での日々を思い出すし、そこで一緒に働いていたみんなの生活を思い出します。

そしてどんなにオシャレでキレイなところに行ったとしても、私の本質的なところは多分ああいう場所にあるんだろうなと思い返す。

飾りを剥がされるような感じです。

ああ、そうか。この映画は精神的な飾り・虚飾を剥がしにくる作品なんです。だから読後感がいいのかな。

ゴテゴテしてんな〜と思う人に観てほしいかも。おわり。

ルーティーンワークの孤独:『オールドファッションカップケーキ』

私はまったくもっていわゆるparty people略してパリピではない、のですが

今年の夏はフェスもなければ花火大会も縁日もない、そのことに非常に憂鬱になっていて大変気分の晴れない日々を過ごしています。

別に毎年海辺でBBQしていたわけでもキャンプに繰り出していたわけでもないのに、例年たいした夏は過ごしていなかったはずなのに、どうしてこうも落ち込むのか不思議でたまりませんでした。

そんななか、昨日読んだ佐岸左岸『オールドファッションカップケーキ』の中にその答えの一欠片を見たような気がしたので記録しておきたいと思います。

主人公の野末さん39歳独身男性は、おしゃれな平屋の一軒家で慎ましく暮らしていました。

端正な美形で仕事もできて小綺麗な野末さんは、年を重ねるごとに小さくまとまったルーティーンワークな日々を送るサラリーマンです。

柔らかい笑顔と人当たりの良さで職場の信頼も厚いし、女性にもモテるのに、本人の意欲が低いせいでかわり映えのない毎日を送っている野末さん。

他人と深い関係になったり、

新しいことに挑戦したり、

そういうことが面倒になった。

 

その面倒を楽しめないことを

年齢のせいにして、公私共に

ルーティーンワークばかりしている。

(佐岸左岸『オールドファッションカップケーキ』大洋図書 2020.1.4)

そんな憂鬱を抱える野末さんの10歳年下の部下・外川は、憧れの上司・野末さんの憂鬱にいち早く気づきました。

出先の駅で女子高生2人組がおしゃべりしたり自撮りしたりする様子を見て「楽しそう、羨ましい」と呟いた野末さんに、外川はすかさずある提案をします。それは、女の子ごっこという名目で、若い女性に人気のパンケーキ店に行くこと。

 

その日の昼休み、早速パンケーキを食べにカフェに来た2人。女性客ばかりでうろたえる野末さんに、外川は辛辣な指摘をしました。

野末さんが新しい経験や恋愛ごとを面倒に感じるのは、本当は恐怖心の裏返しであると。

「恋愛するのも、

昇進して 新しい仕事を任されるのも、責任が重くなるのも、

こうやってパンケーキ食べるのすら、こわいんでしょう。

 

四十路手前で仕事以外 何も無い自分に気付いて、

でも何をしていいのか 何がしたいのかもわからなくて、

(中略)

わからないまま新しいことをして失敗するのがこわくて、

 

このまま三十代を終えようとしていることがこわくて、

今まで仕事に情熱注いできたことまで後悔してるんでしょう。」

 

(同上)

図星を突かれて反射的に立ち上がった野末さんでしたが、あまりに的を得ていた外川の指摘に落ち込みます。

外川はそんな野末さんを励まし、自分がいかに野末さんを尊敬しているか、どれほど野末さんに元気を取り戻してほしいかを力説しました。外川の真摯な訴えに心打たれた野末さんは、外川の提案を受け入れ、少しずつ変わらなければという意識が芽生えます。

 

それから週末ごとに、野末さんと外川は”女の子ごっこ”による色々な初体験のために、オシャレなカフェやスイーツを求めて連れ立って出かけるようになりました。

生活に新しい楽しみができた野末さんは、目に見えて明るく変化します。

部下たちに「野末さん、なんだが最近元気ですね。何かいいことあったんですか?」と聞かれるほどに。

 

さらには頑なにガラケーを使っていた野末さん、ついにスマホデビューも果たします。

まだ慣れないスマホのカメラと格闘しつつ、いつものように外川とオシャレなカップケーキをつついていた時、野末さんは外川のアンチエージングセラピーが大成功していることに言及しました。

「 女の子だから楽しいとか、若いから楽しいとか、

そういうことじゃなかったかなって。

(中略)

俺には仕事を通して得たものが沢山あるのに、それが見えてなかった。

外川が色んなところに連れてってくれたお陰で

目の前しか見えてなかった脳味噌の老眼が治ったと思う。」

 

(同上)

”脳味噌の老眼”ってとてもいい表現だなぁと思いました。

かわり映えしない日々を送っていると、脳味噌の老眼が起こって色んなことが見えなくなるんですね。

見えるものが少ないと不安になります。自分には何もなく思えて途方にくれるし、何もないまま同じような日々を生き延びなければならない事実に辟易します。

変化のない日々、刺激のない日常に溺れて、生きることがより憂鬱になっていく・・・。

 

ライヴとかフェスとか、夏祭りとか海水浴とかっていうのは、単調な日常に刺激と変化を与える脳味噌の栄養だったんです。

今年の夏の鬱屈とした気分は、その栄養を享受できなかったために起きている栄養失調みたいなものなのだと思い至りました。

 

今年はこの先もこんな調子の栄養不足がつづくのだと思います。

少しでも脳味噌の老眼を防いで精神衛生を保つために、可能な範囲で野末さんたちのように新しいことを生活に取り込みたいです。

行ったことないカフェでも、少し気おくれするニュースポットでも、やったことない習い事でもなんでもいい。

ルーティーンワークで雁字搦めになってろくでも無い考えにとらわれる前に、どうか少しでも明るい方へいきたい、そう強く思いました。

 

***

 

この漫画はストーリーも非常に良いですが、出てくる服や小物や家具一つ一つがとてもおしゃれで見ていて気持ちがいいです。

野末さんの家みたいな部屋で暮らしたいなぁ。おわり。

生まれてくるとこ間違えたねって:『マイ・ブロークン・マリコ』

昨日書店でデザイン技工に関する棚をぼーっと見ていて、そこに『新しいコミックスのデザイン』という本があり、手に取りました。

新しいコミックスのデザイン。

新しいコミックスのデザイン。

  • 発売日: 2020/06/23
  • メディア: 大型本
 

表紙の山本さほさんの絵に惹かれて読んでみると、このブログでも話題にあげた数々の漫画の装丁デザインについて、タイトルのフォントやレイアウトなど事細かに解説されていました。

私は仕事でバナーやポップアップのデザインをするとき、ゲームやアニメのWEBデザインやパッケージデザインからモチーフや配色を考えることがよくあるので、この本もとても勉強になりました。

 

そんなデザイン事例の一つとして載っていた平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』の表紙が、何故か脳裏に焼き付きました。

黄色と水色の配色がすごく良いなと思ったのと同時に、外国っぽい癖のある女性の絵柄と、くわえタバコで遺骨を抱えるシュールなイラストにとても興味をそそられ、早速読んでみることに。

想像以上にいい話で、じんわりと心の栄養になる感じの物語でした。

 

***

 

2人のヒロイン、マリコとシイノは子どもの頃からの友人です。

マリコは泣きぼくろが印象的な可愛らしい女の子で、シイノは少しはすっぱな印象の、制服姿でもいつもタバコを吸っているような子でした。

不思議なバランスでとても仲の良い2人。中学生だったある日、2人は夕方公園で花火をしようという話になりました。

約束の時間を過ぎても公園に来ないマリコを家まで迎えに行くことにしたシイノ。そこでシイノはマリコの壮絶な家庭環境を目の当たりにしました。

 

ゴミだらけの狭いアパートで酒浸りの暴力親父にボコボコにされたマリコが玄関から申し訳なさそうに出てきたときの、苦しく切ない感じ。

私は虐待とか家庭内暴力の話が結構苦手です(得意な人いないと思いますが)。

是枝監督の『誰も知らない』とか観ると、かなりダウナーな気分になって鬱々としたまましばらく立ち直れません。ふみふみこ『愛と呪い』も未だ読み切れていないです。

誰も知らない

誰も知らない

  • 発売日: 2016/05/01
  • メディア: Prime Video
 
愛と呪い 1巻: バンチコミックス

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

 

 

私は児童虐待は受けたことがないし、同級生の中でもそういう人を見たことがありません。身近に事例がないことはいいことだと思います。けれど、実際に見たことのない暴力が確実にこの世に存在していることは、ニュースや本その他いくらでも知ることができて、その不気味さと不条理さ、「なんで?」という強い疑問は心の均衡を崩します。

 

昔食品工場で働いていた頃、休憩時間にテレビのワイドショーで児童虐待で亡くなった女の子のニュースが流れていたときのことを思い出しました。

テレビを見ていたおばちゃんたちが「本当に酷い話だね。生まれてすぐこんな痛い思いばかりさせられて死んじゃって、何のために生まれてきたのかわからないよね」とか、「自分が腹痛めて産んだ子なのに、本当に理解できないね」とか口々に言っていたのを覚えています。

おばちゃんたちはみんな結婚してて子供も成人していて、孫までいる人もいました。普通のまっとうな感じの人が大多数で、腰が痛いとか膝が痛いとかボヤきながらも明るく元気な人たちでした。

 

まだ若かった新社会人の私は、そういうまっとうな意見を素直に受け取る能力がありませんでした。

「何のために生まれてきたかなんて、虐待されててもされてなくても関係なくわからないじゃん」と思っていたし、いくら自分が腹を痛めて産んだって、必ずしも可愛がれるとは限らない、所詮自分以外は他人だと考えていました。

今回この『マイ・ブロークン・マリコ』を読んで、おばちゃんたちが言っていたのはそんな分析哲学みたいな問いじゃなく、もっと原始的なレベルの話だったんだなとやっと気づくことができた気がしました。

 

***

 

実の父親に子供の頃から立て続けに殴られ蹴られ、挙句高校生になったら強姦までされて、精神的に壊れるしかなかったマリコ

それでも何とか生き延びられたのは、シイノが唯一の心の拠り所として存在してくれていたからだと思います。

「お前が悪い」と言われ理不尽な仕打ちを受けづつけ、学習性無力感で動けないマリコのかわりに、シイノが全力で怒ってくれる。それだけがマリコの救いでした。

けれどシイノはただの友人であり、いつか恋人を作って自分の存在が薄れてしまうかもしれないという恐怖を、マリコはきっと死の最後の瞬間まで拭えなかったと思います。

 

いつ自殺したっておかしくないくらいの不幸にボコボコにされていたマリコが、どんなきっかけで我慢の閾値を超えて自殺に至ったのか、真相は描かれていません。

事実だけを並べるとひたすら悲惨な話なのですが、主人公のシイノのパワフルさが物語全体を強い力で救っていて、読後感は良いです。良いというか、辛くならない。

マリコの遺骨を忌々しい実家と父親からもぎ取り、抱きかかえながら海へ旅するというプロットも素敵だし、シイノをはじめとし登場人物や数々の出来事や回想シーンがきちんとカタルシスとして機能していて、本当によく練られた作品だなぁと読み返すたびに感嘆します。

 

作中にも出てきますが、「生まれてくるとこ間違えた」という事態は本当にこの世に腐る程あると思います。

どうしても生まれる側は生まれる世界や環境を選べない。

どうしても救えない不幸がこの世にはあると思います。

間違えたねって受け入れるのも悪いことじゃないと思います。それで死にたくなって死んでも仕方ない。

でも、もし生き延びるなら、何かしら救われる意味づけがないとつらい。

救いと希望が同じものか違うものかわからないけれど、そういうものがないと、人は生きられないなと感じました。おわり。

夏の黎明:AAAMYYY「Leeloo」

AAAMYYYはここ数ヶ月気になっているアーティストです。

私が彼女を知ったのは結構遅くて、今年の1月にTENDREのライヴでキーボードとコーラスをやっているのを観てからでした。

ステージ上のAAAMYYYは独特の声と舞台映えする白い肌が印象的でした。

ライヴの後調べてYouTubeを観たりInstagramを見たりしました。

その後ラジオでShin Sakiuraとのフィーチャリング曲が流れたり、アニメ『BNA』のEDで毎週聴いたりするうちにますますハマりました。

 

そんなAAAMYYYが今月リリースした新曲「Leeloo」が、かなり不思議な迫力で心に響いたので記録しておきたいと思います。


AAAMYYY // Leeloo

最初にラジオからイントロが流れてきた時、夢から醒めたような冷たさと、郷愁みたいな懐かしい淋しさがありました。

それから歌い出しの「8月の〜夜は短〜し〜」がピタッとハマって、最初に感じた淋しさは、夏休みの夜にひとりで歩いてる時に感じる感覚に近いのだと分かりました。

 

夏のむわっとした蒸し暑い夜に近所のコンビニに行った帰りや、友人と夏祭りに行って別れたあと帰路につくときの、あのなんともいえない刹那の感覚を見事に音楽に昇華させた感じがしました。

日本には春夏秋冬と大きく4つの季節がありますが、「同じ夏は二度と来ない」という言い方は”夏”以外あまりハマらない気がするんですよね。

私は暑いのがとても苦手ですが、それでも夏という季節が一際特別な概念であるとは長年感じていました。それが何故なのかなかなか言語化できませんでしたが、その一つの答えをこの曲に教えてもらった感じです。

 

サビの幻想的で開放的な音の広がりも素晴らしく、歌詞も皮肉っぽい諦念があって絶妙にマッチしています。

愛と言えば許されるし

懺悔すればそれでおしまい

この言葉すごいパワーだなと感心しました。

少し乱暴にも思える割り切った雰囲気が、特に今年のような抑圧的で息苦しい夏に本当によく合っていると思います。

 

10代の頃にこの曲があったらどんな気持ちになっただろうと想像したりしました。

連想喚起力がある曲なので、いろんな人に聴いてほしくて、他人がどう感じたか知りたくなる、そんな歌でした。おわり。

 

***

 

Amazonの方が価格高い?なんでだろ。

Leeloo

Leeloo

  • AAAMYYY
  • エレクトロニック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

Leeloo

Leeloo

  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: MP3 ダウンロード