れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

なんだってマーケ:『ぼくは愛を証明しようと思う。』

大学で専攻した心理学は、そこそこ面白かったですがあまり夢中にはなれませんでした。面白かったなーってだけで、卒業したあと生活に役立てることもなかったし、学んだ知識もぼんやりとしか記憶に残っていませんでした。

だからびっくりしたんですが、藤沢数希著『ぼくは愛を証明しようと思う。』の中で、それまで「ふーん」としか思ってなかった理論の数々が活きた知恵として駆使され、次々と結果を出す様子が読んでいてとてもエキサイティングでした。学問って実際きちんとワークしてるところを見ると、こんなに楽しいものだったんだなって。

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

  • 作者:藤沢 数希
  • 発売日: 2018/04/10
  • メディア: 文庫
 

物理学のPh.D.だったりトレーダーだったりして現在投資家としても活躍しているゴリゴリの理系の著者が創出した新学問「恋愛工学」。本書はあらゆる科学的手法を恋愛に組み込んだ、この新しい学問の入門書のようです。小説の形態をしていて物語としてもよく作り込まれており、笑って学べるハウツー本って感じでした。芥川龍之介作品のようによく計算されたタイプの物語で、最後の最後まで楽しめます。

 

主人公の渡辺正樹26歳は、東京・田町の特許事務所で働く弁理士の青年です。男子校出身で女性経験は浅く、物語序盤に付き合っている彼女に高額バッグのクリスマスプレゼントを渡した後トンヅラされ、打ちひしがれて冴えない27歳になったところからストーリーが始まります。

渡辺は気晴らしに学生時代の友人と行ったクラブで、仕事で知り合った永沢さんというイケてるおじさん(?おじさんではないかもですがモデルは多分著者だと思う)が美女にモテモテな様子を偶然目撃します。

永沢さんのモテっぷりに衝撃を受けた渡辺は、メールで永沢さんにアポをとり、どうやったら永沢さんのように美女にモテることができるのか、そしてセックスに困らなくなるのかについて教えを請います。こうして永沢さんによる恋愛工学指南が開始されたのでした・・・。

 

最初に成る程と思ったことは、男性にとってのセックスの重要さって計り知れないなということです。生物学的・遺伝子的要因とか色々理由はありますが、なんにせよ女性が渡辺たちのようにセックスのためにこんなに試行錯誤して取り組むことはそうそうないと思います。

なんだかんだ言って、やはり女性というだけでセックスにありつくハードルは全然低いんだなと。よって女性と男性ではモテの定義も成り立ちも全然違うんですね。

ちなみに、この作品で紹介される男性のモテの公式はこちら。

モテ=ヒットレシオ(女が喜んで股を開く確率)×試行回数 (女を誘った回数)

この説明だけ見ると、女性を道具としか見てないとか軽んじてるとか不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。特にこういう文学的なテーマに科学的アプローチを持ち込むとアレルギー反応を起こす人も少なくないと思うので。

 

しかし作者はそこにきちんと予防線を張っていて、私はとても感心しました。本当のところどう考えているかはわかりませんが、随所できちんと女性を人間として立てている記述があります。

「渡辺、ひとつ言っておくことがある」と永沢さんは言った。「お前もふくめて、多くのモテない男が、無視したり、ひどいことを言ったりする若い女のことをビッチと呼ぶ。本当は自分が相手にされないからむかついてるだけなんだが。世の中にビッチなんて存在しないんだ。彼女たちは、じつは、ただシャイだったり自信がなかったりするだけで、心をいったん開いてやれば、一途でとてもやさしかったりするもんだ。だから、これからは誰もビッチと言うんじゃない。わかったな」

確かにそうだな〜と。男性の言う「ビッチ」はつまり負け惜しみってことですね。

同性である女性がビッチと呼ぶことも結構ありますが、これは男性とは使い方が違いますね。

実際、貞操観念低めの女性が過去にレイプ被害にあっている確率が高い傾向はままあって、”心を開けば一途でやさしかったりする”のはあながち嘘でもないです。

 

下記も女性を立てていて、なおかつビジネスないしマーケティングに通ずる部分もあるなと思いました。

「ちょっとナンパができるようになって、何人かの女とセックスできると、すぐに勘違いしてしまう。女をまるで店の棚の上に並ぶ、お前の欲望を叶えるための商品みたいに思いはじめる。ちょっとばかりの労力、テクニック、それとデートのメシ代を払って、女の心を買おうとする」

「女は、自分をよく見せようと化粧をして、着飾っていても、決して売り物なんかじゃないんですね」

「そのとおりだ。そして、売り物なのは俺たちのほうだ。俺たちがショールームに並んでいる商品なんだよ。俺たちは、自分という商品を必死に売ろうとしている。女は、ショールームを眺めて、一番自分の欲望を叶えてくれそうな男を気まぐれに選ぶ。俺たちのような恋多きプレイヤーは、じつのところ、そうやって気まぐれな女に、選んでもらうことを待つ他ないんだよ」

さらに永沢さんは「だから、ときには売らないという選択をしなければいけないときだってある」と言います。絶対に自分を安売りするなと。

女は決して売り物なんかじゃないと書かれていますが、男も女もある側面では売り物だし、同時に買い手でもあると思うんですよね。なんか就職活動とか営業とかと似てるなーって思って読んでました。

調子に乗って勘違いしている男性が気持ち悪いと言われるのは、自分も同時に商品であり品定めされているということをわかっていないからです。変な圧迫面接するブラック企業も同じ。立場の強弱とは別に、それぞれが売り手と同時に買い手でもあり、どちらもそれぞれレビューされうるということを認識していない人は嫌われると思います。コミュニケーションの基本でしょ、とコミュ障の私でもわかる理屈。

 

***

 

渡辺が果敢にナンパにチャレンジしどんどんいい女を手中に収める様は、次々とダンジョンをクリアしてボスを倒していくRPGのゲーム実況を観ているようで実にワクワクしました。永沢さんもよく褒めてますが、渡辺はとにかくガッツがあり、駆け出しの新卒が営業部のホープに成長する様子ととてもよく似ています。

まず女性を喜ばせることを大事にし、理論に裏付けされたテクニックを相手の出方に合わせて駆使して無事セックスにありつくことと、まずお客様に喜んでもらうことを大事にし、フレームワークや戦略戦術を駆使してPDCAを回して業績を出すマーケティングはおそらく本質的に同じなんですよね。

営業マン時代、同じく営業歴が長い同僚が「成績のいい営業ほどよくモテる」と言っていたのを思い出しました。この本を読むと余計にそうだろうなと思えます。

 

また、こと恋愛に関して女性の言うことは全く当てにならないと言うのも、顧客アンケートの結果通りに仕様改善しても業績が上がらないケースが多々あることと似てると思います。

恋愛工学を知れば知るほど、そして、実際にたくさんの女の行動を目の当たりにすればするほど、世間に広まっている恋愛に関する常識は、すべて根本的に間違っていることを確信した。恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、それに女の恋愛コラムニストがご親切にも、こうしたら女にモテますよ、と僕たちに教えてくれることの反対をするのが大体において正しかった。

本当にこれです!乙女ゲームの攻略対象なら一途なワンコくんも愛が重いヤンデレも素敵ですが、現実にそんな男性に好かれても多分面倒なだけなのです。一途に自分のことだけを愛してくれる優しい男性はフィクションだから価値があり、実際一緒にいて楽しいのは話が面白くてセックスの上手い、適度な距離感で接してくれる男の人なのです。

 

ティーヴ・ジョブズもお客様アンケートなんて多分当てにせず、もっと潜在的な顧客ニーズを掴もうとしていたはずです。相手の表面的な言葉に踊らされていては、きっと結果を出せないんでしょう。

似ている・・・恋愛もビジネスも、やっぱり市場的で、なんだってマーケティングなんだなぁ。

 

ちょうど先日仕事で女性たちに恋愛と結婚に関するアンケート調査をしたんですが、この本のことを思い出してちゃんちゃらおかしくて笑ってしまいました。女の人って、本当に言ってることとやってることが全然一致しないんですね。私も女なんですが、指摘されるまで気づかなかったです。

女が相手の収入を重視しないわけなかろうて。おわり。

 

***

 

なんと漫画もあるようですね。面白いのかな?表紙凄いけど(笑)

熱い情念:「死ぬのがいいわ」

藤井風のアルバムが本当に本当に良すぎて言葉を失うくらいなんです。

HELP EVER HURT NEVER(初回盤)(2CD)

HELP EVER HURT NEVER(初回盤)(2CD)

  • アーティスト:藤井 風
  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: CD
 

「優しさ」のイントロを初めて聴いたときの時の止まるような感動もとても忘れがたいのですが、最近私の心を掴んで離さないのがアルバムの8曲め、「死ぬのがいいわ」。

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

タイトルから強すぎですが、まさにこの「死ぬのがい〜い〜わ〜〜」のサビがとても印象に残りました。

ライナーノーツなど読んでないので詳細はわかりませんが、吉原っぽいイメージが浮かぶ曲です。イントロのメロディが桜を彷彿とさせるような侘び寂びの効いた旋律で、藤井さんのセクシーな歌声とはんなりした西の言葉の歌詞が、どことなく別の時代や世界観を感じさせます。

 

サビの鬼気迫る、ある意味”ヤンデレ”とさえ言えるような執着と執念に満ちた歌詞が、独特のメロディと本当によくマッチしていて、一度聴いたら忘れられないです。

わたしの最後はあなたがいい

あなたとこのままおサラバするより

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

三度の飯よりあんたがいいのよ

あんたとこのままおサラバするよか

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

(藤井風「死ぬのがいいわ」『HELP EVERHURT NEVER』2020.5.20)

遊郭ものの乙女系ドラマCDやゲームを想起してしまうオタクの自分・・・。

下記とか。

籠女ノ唄 ~吉原夜話~ 第二話 君影

籠女ノ唄 ~吉原夜話~ 第二話 君影

  • アーティスト:桐生麻都
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: CD
 

 下記とか・・・。

吉原彼岸花 久遠の契り - Switch

吉原彼岸花 久遠の契り - Switch

  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: Video Game
 

強い慕情を歌っているからですかね。

 

もともと特にドラマのない人生を送っている私ですが、昨今の自宅待機ムードでますます外界との接触がなくなって、強い感情を抱く機会が全然ないんです。だからですかね〜この熱烈な情念が逆に癖になってしまって、心地よくすら感じてしまう。

 

あー何かすごいスペクタクルなロマンに滅茶苦茶に翻弄されたいです。おわり。

水は命:『We the Bathers』

素敵なショートフィルムを観ました。

石鹸などで有名なブランド”LUSH”のチャンネルで限定公開されている、水とバスタイムにフォーカスしたショートフィルムです。

『We the Bathers』は、ロンドン在住のフィービー・アーンシュタイン監督が世界12の場所で出会った、水によって解き放たれる人間の感情を主題とした短編ドキュメンタリー映画です。ひそかに観察するような視点で展開する本作品は、あなたを世界中のバスルームへと誘い込みます。 日常が不確かに思える今だからこそ、水で繋がる一人ひとりの暮らしや人生に触れたとき、私たちにもまた明日がくることに感謝の気持ちが持てるかもしれません。本作品が、皆さんの日常に心地よく染み渡ることを願って。

 

とても静かで、力強く、切なく、途方もない願いを抱かせるような、美しく素晴らしい作品だと思いました。

 

日本は水に恵まれていると昔から言われてますね。

小学校でソフトボール部だった時、真夏の太陽の下で汗だくになりながら校庭でボールを投げたりバッドを振って走ったりした後、水道の蛇口からゴクゴク飲んでいた水の味の美味しさといったらなかったです。

幼い頃住んでいた市営住宅では、ベランダや駐車場近くの共用水道のところで子供用のビニールプールに水を貯めて水鉄砲したりして遊びました。小学校低学年の時には水風船が流行って、男子と投げ合ってびしょ濡れになったものでした。

子供の頃は、水は遊びの道具であり、ありふれて特に気にも留めない、生活に溶け込みすぎて意識することもない、空気みたいな存在だったように思います。

 

小学6年生の時、修学旅行で東京のホテルに泊まった時、どうも水が塩素臭い味がする気がしました。今でも飲めなくはないですが美味しくはないと思います。

小樽の街中のトイレを利用した時、ゴールデンウィークの真っ只中でしたが、凍てつくような冷たい水道水にびっくりしました。

ロンドンで泊まったホテルのシャワーは、見た目は綺麗だけれどなんとなくあまり体に良くない感じのにおいがしました。

バンコクのホテルで浴びたシャワーは、ホコリっぽい雑多な外気のにおいがしました。

今住んでいるマンションの水道水はなぜか藻を連想させる独特の風味がして飲み込めず、齢30にして料理で使う水や飲み水などは全て買ってきたミネラルウォーターを使う、欧米のような生活になりました。

 

今は港町に住んでいるので、散歩に出歩くだけで海が見られます。これはとても画期的なことです。

私の故郷は海なし県で、近所に大した川も湖もなく、せいぜい神社の裏手にちょっとした池があるくらいだったので、水辺に対しては焦がれる気持ちが特に強いです。ゴールデンウィークや夏休みの晴天の日には、車で隣県の砂浜に行くのが好きでした。

鉄道が好きになり一人旅するようになってからも、新潟の海のテトラポットの上で昼寝したり、大荒れの日本海をひたすら眺めて北上する五能線に乗ったり、宍道湖や琵琶湖の雄大さに心奪われたりと、水辺の近くにくるとテンションが上がるので好きでした。

今のような気の塞ぎがちな時、私が行きたいと思うのはいつだって親しんだ森林や山に囲まれた盆地ではなく、風が波音を立てる水辺です。

ただ水面やその先の水平線や上空に広がる空を見つめてぼーっとするだけなのに、どうしてああも心穏やかになるのでしょう。水の不思議です。

 

***

 

このショートムービーでは、世界のいろんな場所のいろんな境遇の人たちの入浴シーンが映っています。

エヴァンゲリオン葛城ミサトが「風呂は命の洗濯」と言っていたのを先日また鑑賞したところで、つくづくその通りだなぁと改めて感心しました。

アニメやゲームに夢中になっていたり、疲れていたりすると、入浴って結構面倒に感じるものですが、それでも風呂上がりはやっぱりさっぱりして心も体も軽くなります。

 

思春期の頃、よく半身浴しながら学校の人間関係で思い悩んだり好きな人のことを考えてやきもきしたり、何かとお風呂場で考え込む癖がありました。この頃から今に至るまで、私はどちらかというと長風呂タイプだと思います。

高校の合格発表の後に合格者は中学に集まって学校に報告するという慣習があり、その日の夜お風呂場でものすごく号泣したのを今でもよく覚えています。

無事志望校に合格し、報告しに行った中学の教室で最後に見かけた好きな男の子に、私は結局なんの告白もせずに帰宅しました。

毎日好き好き大騒ぎしていたので、相手の男の子も私に好かれていることはほぼ確実に認識しているんですが、結局最後まで面と向かっては何も言わなかったのです。バレンタインに手作りのお菓子をあげた時も、なんて言ったのか全然覚えてません。

志望校に入学が決まったのに、万事うまく行っているのに、夜ひとりでお風呂に浸かると楽しかったそれまでの生活の様子がわーっと頭の中に浮かんでは消えまた浮かんでは消え、そして気づきました。

もうあの日々はいってしまったんだなぁって。過ぎ去って遠くにいってしまったんだって。

毎日あんなに近くで見つめていたあの子にも、もう会えないんだって。

(同じ町に住んでるのだし会おうと思えば方法はあるのですが)

なんの努力もせず、好きな男の子をただただ盗み見て好き好き騒いでいたあの楽しかった日々は、もう終わってしまったのだ、ということをじわじわと認識してきて、どうしようもなく悲しくて声を殺して大泣きしました。

お風呂にまつわる自分の記憶の中で、一番強く残っている思い出です。

 

水やお湯がそうさせるのか、一糸まとわぬ無防備な姿になるからなのか、あるいはその他の要因もあるのかわかりませんが、

お風呂は自分と対話するのにとても適した空間の一つだと、この映画を観て再認識しました。

 

なんとなく、この作品を観ながら頭の片隅に谷川俊太郎「朝のリレー」が想起されました。

あさ/朝

あさ/朝

 

目覚め、食事、入浴、セックス、眠り、

感染症、政治問題、格差、差別、環境問題、

世界のどこにいても、自分が男でも女でもどんな人種でも職種でも何歳でも、

 

全ての人にそれぞれの生活がありそれぞれの問題があり諦めがある。

 

という、当たり前のことを思い出すいいきっかけになる作品だと思います。詩も映画も。

いい作品に出会えてよかったです。おわり。

私を少し掬い上げてくれるもの

昨年夏に都心勤務になって、都会とお出かけが好きな私は意気揚々としていたものですが、まさか1年も経たずに狭いマンションに缶詰になる日々か来るとは考えてもいませんでした。

在宅勤務は昔からの夢でもあったのでそれはそれでありがたいことなのですが、こんないいお天気のゴールデンウィークに海にもフェスにも旅行にも行けないというのは、やはりつらいものがあります。

 

来る日も来る日も家にこもってインターネットをしていると、10代の頃を思い出します。

今では電車や飛行機に乗って遠くに出かけるのが大好きな私ですが、10代の頃はどちらかというとインドア派の人間でした。

中学でも高校でも、夏休みのような長期休暇に部活がない日は宿題そっちのけで自宅でいつもインターネットをしていました。昔は今みたいに動画サイトが充実していなくて、HTMLを見よう見まねで書いてテキストサイトを作ったり、ブログを書いたりしていました。

大学生になった頃にはアニメがだいぶネット上で見られるようになり、暇さえあれば新しいアニメを貪るように観ていました。

 

あの頃は自粛要請が出されていたわけでもないのに、自発的に自宅にこもっていました。

家から出ようと思えばいつでも出られる、けれど家の中にもっと夢中になれるものがあったので家にいたわけです。

もともと友達もそんなにいないし、一人っ子なので一人で過ごすのは得意だし好きでした。

けれども、今こうして"要請"という形を受けて自宅にこもっていると、だんだんストレスが溜まってくるのを看過できないなぁとも感じ始めました。

 

本格的に全社的に原則在宅勤務になって最初の一週間くらいは、自宅で自分の好きなリズムで働けて化粧もしなくてよくて、時間に余裕が生まれてオンラインヨガなんかもやってみたりして楽しいなと思ってたんですが、やはり旅行に行きたいし電車に乗りたいし、ちょっと足を伸ばして海に散歩に行ったり本屋を物色したり、カラオケに行ったりウィンドウショッピングしたりしたいといった欲が出てきました。

電車が運休しているわけではないので海くらいなら行こうと思えば行けるんですが、その不要不急の外出で例のウイルスに感染してしまったら・・・?と思うと、どうしても外出する気になれませんでした。

 

日に日に前向きな気持ちを保つことが難しくなり、身体の調子も少しおかしくなり、「外に出ない」ということが自分に及ぼす影響をひしひしと感じています。

もともと外向的でなかった私でさえこうなのだから、私よりもっとフットワークが軽く行動的だった方はさぞやしんどいだろうと思います。

 

今日は備忘録として、この静かにしんどい日々に、心の支えになっているコンテンツを記録しておこうと思います。

 

***

 

1)とっくんの料理動画


自分を大蛇丸と信じて止まない一般男性が、焼きそばとビールで優勝する動画です。

昨年末くらいから彼の動画に影響されて自炊することが増えたのですが、これがいまの事態にかなり活きています。

仕事が忙しくて自炊することがめっきり減っていましたが、職種が変わって時間に少し余裕ができた頃に彼の動画を発見しました。

レシピを詳しく解説している動画ではないですが、その料理の大まかさとアニメの声真似の面白さにハマっています。

上記の動画を見て、先日初めて自分で焼きそばを作りました。焼きそばという食べ物自体、外食しかしていないとなかなか想起することが無い食べ物だと思いました。子供の頃は家で食べていたけれど、それはハハが作っていたからであって、焼きそばは好きですがわざわざお店に出向いたりテイクアウトしてまで食べたいものではなかったのです。

外食が難しくなってきた昨今、ハードルの低い簡単な自炊はスキルとして重宝します。もともと料理が嫌いなわけではなかったですが、この動画の登場により自炊が一層面白くなりました。これはクックパッドやレシピ本だけではなし得なかった革命だと思います。

料理は出来上がった品を食べるという楽しみはもちろん、具材を刻んだり炒めたり煮込んだりという工程一つ一つが思考をクリアにするという作用もあり、精神衛生上もとても良いことだと改めて感じました。

 

2)WONKの音楽

以前感想を書いたこともありますが、「音楽聴きたいな」と思った時最近真っ先に頭に浮かぶのはWONKです。


WONK - HEROISM (Official Audio)

震災などで世の中が辛い状況の時、ラジオ局ではよく「元気が出るリクエスト特集」的な企画をやります。

すると大体ドリカムとかZARDとか、応援ソングっぽいものが流れたり、明るいダンスミュージックがリクエストされたりするのですが、私はあんまり直截的な曲だとかえって神経を逆撫でされてしまいます。

 

自宅で一人鬱々としている時、聴きたくなるのはWONKの芳醇な歌声や美しい鍵盤やサックスやフルートの音色、心をフラットにしてくれるドラムやベースのビートです。無理に明るくもなく、逆に暗くもなく、常温で心地よくかつ美しいメロディ。それがいま一番欲しいものなのだと思いました。

 

香取慎吾さんのfeat.曲もとても好きです。

Metropolis (feat. WONK)

Metropolis (feat. WONK)

  • 発売日: 2020/01/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

3)やっぱりアニメ

小説も映画もゲームも良いですが、やはり一番労力をかけず心を震わせられるのはアニメだなぁと改めて思いました。

今期も面白い作品が多く放送されており、本当に心の救いです。放送延期などのニュースもありますが、現場のスタッフの皆様に感謝しながら気長に楽しみたいと思います。

 

特に最近楽しみにしている作品は以下。

 

hamehura-anime.comテンポよしキャラ良しストーリーよしの笑いと萌えが詰まった良作です。

 

booklove-anime.jp一期から観ていましたが、二期は主人公のマインが世界を変えていく様子がより活き活きと描かれていてとても面白いです。ビジネスマンにも役立つ処世術なども描写されていて勉強にもなると思います。

 

kaguya.loveこちらも一期から最高でしたが相変わらず面白いです。原作漫画もおすすめです。

 

singyesterday.comこちらは最近少なかった成人向けの正統派群像劇アニメです。一昔前の時代背景も懐かしさを誘って良いですね。

 

他にも「攻殻機動隊」や「かくしごと」など、楽しみにしているアニメがいくつもあります。

また、エヴァの劇場版など、改めてみかえす昔の傑作ももちろんあります。

辛い時や気持ちが鬱ぎ込む時、一番心の近くにあるコンテンツは、やっぱり私にとってはアニメなのだなぁと、しみじみ思います。

どうか心の平静を保って入られますように。おわり。

同性を愛することと自身を慈しむこと:『生のみ生のままで』

最近私がひたすらに考えているテーマが「いかにして自分を慈しむか」なんですが、

先日読んだ綿矢りさ『生のみ生のままで』は予想外の角度からこのテーマに一石投じる良作でした。

綿矢りさといえば私の世代にとってはもはやレジェンド作家であり、このブログでも度々感想を書いていますが、この作品もやはりとても面白くてなおかつ心に残る物語でした。

 

物語序盤、主人公の南里逢衣と荘田彩夏は同い年で二十代半ば、夏休みにそれぞれの彼氏に連れられて赴いた秋田の寂れたリゾート施設で出会います。

逢衣は正社員の携帯ショップ店員で、彩夏はブレイク寸前の女優でした。

逢衣に一目惚れした彩夏はしかし持ち前のプライドの高さで出逢った当初は逢衣にツンケンした態度をとっており、逢衣も彩夏の鼻持ちならない態度に内心憤りを感じていました。

しかしダブルデートで海に行った帰りに起きた激しい嵐と雷鳴の中を二人で凌いだ体験などから、二人はだんだん意気投合し、東京に戻ってからも友人としてつきあいづつける仲になりました。

逢衣が職場で毎週末やってくる粘着クレーマーに困っている所に、”西池袋のカナエ”というキャラクターに扮した彩夏がやってきて撃退する場面はめちゃくちゃ爆笑しました。ここだけでもまずは必読です。

 

二人で飲み歩いたりカラオケに行ったり、友達として仲を深めていった逢衣と彩夏でしたが、彩夏が彼氏の琢磨と別れ、逢衣が彼氏の颯と両親に挨拶に行き式場見学をした話をするところから二人の関係は一気に変わりだします。

逢衣の結婚間近な近況報告を受けて、彩夏は自分を保てなくなり、寝室で塞ぎ込んでしまいました。心配した逢衣が近づくと、彩夏は急に激しい情欲を逢衣にぶつけます。

友達だと思っていた彩夏にいきなり性愛の意を打ち明けられた逢衣は混乱し拒絶しますが、その後自分の中で彩夏の存在がどんどん大きくなるのを止められず、ついに逢衣は颯と別れ彩夏と付き合う選択をします。

 

このあいだの、彩夏と逢衣の葛藤はなかなか興味深かったです。彩夏も逢衣ももともと男性としか付き合ったことがなかったけれど、出逢った一瞬で彩夏は逢衣に恋に落ちたし、逢衣も彩夏の想いに何度も拒絶しながらも通じていくんです。この、異性愛しか知らなかった二人が、違和感を抱えつつ同性に惹かれていく過程というのは、私にとっては想像の域を出ないけれどもリアリティがちゃんとあって、きちんと心に迫ってきました。

 

この物語は長編で、単行本は上下巻に別れています。上巻の中でいちばん印象深かったのは、逢衣と彩夏が付き合い始めて同棲し、家庭用脱毛器で互いのアンダーヘアを脱毛し合うところです。

本当はサロンで全身脱毛したかった逢衣ですが、密室でほぼ全裸での施術となる脱毛に対して、エステティシャンに彩夏が嫉妬してしまうという理由から「互いに家で脱毛し合う」という結論に至った、という経緯が新鮮で面白かったです。

私の勤める会社では家庭用脱毛器の販売もしており、「こういうニーズもあったのか!」と目からウロコでした。

また、逢衣たちが互いのアンダーヘアを痛がったりじゃれ合ったりしながら脱毛し合う様子に、どこか”自尊心の筋トレ”としての美容を感じるところがあったのも興味深かったです。

 

異性である彼氏のために”キレイになりたい”と思うのと、同性である彼女のために”キレイでありたい”と思うことの間に、心の在り方の違いを感じました。

女性の感じる「可愛い・美人」と男性の感じるそれには明らかな違いがあり、同性パートナーである彼女のために美しくあろうとする姿勢は、翻って自分自身が美しいと感じる自分であろうとする気持ちにより直結している気がします。

「彼のために頑張るワタシ」には感情移入しづらいけれど、「彼女のために頑張るワタシ」には共感できるというか・・・私は別に同性愛者でも彼女持ちでもないんですが。同性である彼女を愛するという行為の中には、女性として自分を愛するということも内在している節があるなと思ったんです。実際の同性愛の方は全然違うかもしれませんが、少なくともこの物語を読んだヘテロの私はそう感じたという。

そしてそのことが、今の私にとってはとても尊く映ったんです。とても。

 

***

 

上巻の終盤、彩夏の後輩が隠し撮りを週刊誌にリークしてしまい、逢衣たちの仲は引き裂かれてしまいます。

芸能人としてまさに花開こうという時期の彩夏の将来を案じて身を引いた逢衣は、今は辛くともいつかまた一緒になれるという望みを捨てずに日々自己研鑽します。彩夏のツテで就いた出版社の契約社員の職に死に物狂いでくらいつき努力して正社員になり、筋トレや美容も欠かさず、いつか彩夏にまた会える日に備えて己を磨き続けました。

彩夏も極限まで仕事をこなし、一躍トップスターにのぼり詰めました。

 

人気絶頂だった彩夏が体調を崩し突然の芸能界引退を発表したのは、二人が別れてから7年の月日が経った頃でした。

彩夏の身を案じ手紙を書いた逢衣でしたが、彩夏からの返答は一切来ず、連絡を取り持ってくれたかつての彩夏のマネージャー伝いで「会うつもりはない」と言われた逢衣のもとに、彩夏の母親から連絡がきます。

もともと家族仲の良くなかった彩夏と母親でしたが、彩夏の病気による自暴自棄に手が負えなくなった母親から、逢衣は彩夏を託されます。

 

彩夏の母親から、彩夏の数少ない持ち物だというバスケットを渡された逢衣。彩夏の母親と別れてからその中を覗くと、そこには昔の逢衣と彩夏の写真がたくさん入っていました。

この場面でかなり泣きました。熱い熱いラブストーリーの中で、登場人物たちの苦しみというのは大きな山場で、ここはまさにその感情の波のピークでした。

もともとあまり写真を撮る習慣がなかった逢衣たちの、数少ないいくつかの記録。逢衣が自宅で料理している様子を彩夏が撮ったものや二人の自撮り、たまたま同じ招待状が届いて二人で赴いたパーティーでスナップされたツーショットなど、数種類の写真がそれぞれ何枚も何十枚も複製されてカゴに入っていました。

まだまだ一緒に過ごす時間はたくさんあるから、これから撮っていけばいいと呑気に構えていたのもある。こうなると分かっていたら、私は彩夏の一挙手一投足にシャッターを切っただろう。だから彩夏は同じ写真を何枚も複製するしかなかったのだろうか。

手に取ってつぶさに眺めたかったが、手がこわばり上手く動かせなくて、結局しゃがんでバスケットの中身を眺めていると、涙がぽたぽたと写真の上に落ちた。会えなくなれば思い出は増えない。何度も何度も擦り切れるまでかつての思い出を温め直すしかない。同じだけ孤独な年月を過ごした私には、彩夏の行為の意味が分かりすぎるほど分かる。

綿矢りさ『生のみ生のままで<下>』集英社 2019.6.30)

逢いたい人に逢えない苦しみというのを味わったことが私は本当になくて、それなのに(それだから?)私はこの手の悲しみになぜかとても弱くてすぐ泣いてしまいます。

 

”会えなくなれば思い出は増えない”というのも、とても重い言葉だと思いました。特に昨今の世界情勢では、オンライン会議ツールなど様々な工夫はできるものの、人に会うという行為のハードルがとても高い状況ですので、余計にそう感じるのかもしれません。

 

***

 

7年ぶりに目の前に現れた逢衣に、あなたとの縁はもう切れたと言わんばかりの冷たい態度で当たった彩夏にもめげず、逢衣はかつて二人で住んでいたマンションの一室を借り上げ、そこで彩夏とまた一緒に暮らしながら彼女の看病をします。

もともと高かったプライドを病に捻じ曲げられ気難しくなっていた彩夏を、根気強く支えながらひっそりと欲情する逢衣の様子が丹念に描かれていました。

 

いつか彩夏が元気になった時にまた愛し合えるよう身体を鍛えたり美容に気を使ったりする逢衣の様子も、だんだん病状が快方に向かい自分の美貌を取り戻そうと自分を磨く彩夏の様子も、互いへの愛と自分への愛が溢れているように感じてとても美しいなと思いました。

 

美容の尊さを近頃とみに感じている私ですが、健康というのはそれよりもっと手前の次元の話で、美容は健康という基盤がないと成り立たないものなのだと再認識しました。

 

 彼女は客観的に自分を見ているように語ったが、実際はとても怯えていた。あんなにも内側から湧き出てくる自信に裏打ちされて輝いていた人が、今では人目を気にして、ほとんど一歩も外に出られなくなっている。

病気や闘病は美とは違う次元の出来事だ。不本意にも自分の身体が病に蝕まれた場合、これまで享受してきた洗練や調和の取れた美しい世界からは一旦身を引いて、まずは健康に戻る努力から始めなければならない。しかし彩夏はその切り替えがどうしてもうまく行かずに、相変わらずの厳しい美意識で自己を見つめていた。そうなると彼女の基準値を満たせないのは当然で、彼女はどんどん身体と喧嘩して、身体を叱咤し続けて、あげく見放す気持ちにすらなりかけている。

彼女の自分の身体に対する態度には、正直腹が立った。私には彼女の身体しかないというのに、早々に見捨てたり、粗末に扱わないで欲しい。

(同上)

 

***

 

この作品はとても熱量の高いラブストーリーなので、自ずとベッドシーンも丁寧に描かれています。

BLの読みすぎとか同人音声作品の聴きすぎとかが影響して、今の私にとってセックスやエロというのは恋愛や性欲よりもお笑いやコントといったコンテンツに含まれる事象になってしまっています。

けれど逢衣と彩夏のセックスは愛欲の純度が高すぎて、茶化すこともできないほど体当たりで切実なものでした。「セックスって本来こういうものだったな」と正気に戻り、ちょっと反省しました。

生きている限り人間は何かを食べて、夜になれば眠る。生殖だけが目的ではないとほとんどの人が気づいているのに、なぜこの欲だけは”いつかは枯れる”と信じ込まれているのだろう。

いつかは燃えて灰になる。どれだけ息巻いて足掻いても、結局最後は骨しか残らない。今しか動いていない。ものすごく不遇な最期を迎える可能性も否定しきれない。百年後には間違いなく実在しない自分の手、彼女の手、みんなの手。この肉体を故意に苦しめる必要は、一体どこにあるだろうか?命は儚い。ただ愛とか栄光とか幸福とか友情とか、もっと儚いものが身近にありすぎるため忘却しているだけだ。

どんな退屈な毎日の連続でも、同じ場所には留まっていられない。絶えず時間を移動し肉体を衰えさせて確実に死に近づいていく。骨や灰や塵になる、それまでの短いひととき、なんで自分を、もしくは誰かを、むげに攻撃する必要があるだろうか。

(同上)

 私が物心ついてから、おそらく今が一番全世界的に命の儚さを感じるご時世だなと感じます。

東日本大震災に被災した時も、もっと個人的な事柄で、小学生の時に車に轢かれそうになった時や10tトラックに営業車で突っ込んだ時も、文字通り”死ぬかと思った”ものです。しかし地球上のどこにも安全地帯が無いことがこれほど明確な今、本当になす術がなく、ちょっとしたきっかけで死んでしまうかもしれないのだなとつくづく思います。

 

流行病があってもなくても、いつか死んでしまうという事実は泰然と全ての人の人生に横たわってるんですよね。だったら、やっぱり限られた時間は、それが数日でも数年でも数十年でも有限であることには変わりがないわけで、その限られた時間のなかで、私はできるだけ私を愛したいし、大切な人ができたらその人のことも愛したいし、誰だか知らない赤の他人でも攻撃するよりはやさしい気持ちで接したいなと、上記の独白を読んであらためて思いました。おわり。

『美容は自尊心の筋トレ』

多くの日本人に必要と思われる本が長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』です。

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

  • 作者:長田 杏奈
  • 発売日: 2019/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

表紙の感じがぱっと見女性向けですが、男性にも読んでほしいと思いました。

 

美容ライターの著者が”この世に「ブス」なんていない”という全員美人原理主義の立場に立って、自尊心を育てるための美容のHow toから心も持ちようまで幅広くわかりやすく解説しています。

年々難しい文章を読むのが辛くなってきている中、この文章はとにかく読みやすかったです。ものすごい早さで読み終わってしまいました。

さらっと読めるけどとても良いことがたくさん書いてある、というか、いまの私に必要なことが凝縮された本でした。

 

私がこの本を手にとったのは何かの女性誌でオススメされてたのを目にしたからで、多分10代や20代前半の頃に目にしていても気に留めなかったと思います。

昔の私は今以上に自分に厳しくて、激しく高い理想を掲げて自分で自分を追い詰めていました。

当時の日記が今もEvernoteにとってあり、たまに読み返すと「君は何と戦ってるの」ってくらい「〜すべき」「〜してはいけない」の羅列があります。自分でたくさん条件やしがらみを作っていました。

思春期って潔癖なものだし仕方がなかったかなといまは思いますが、その頃の負の遺産が今もなお根深く残っているのです。その負債とは「劣等感」「無能力感」「自己嫌悪」です。

 

何においても「私なんて」「こんなんじゃダメだ」とずっと何かと一人相撲してきた10代〜20代のうちに、自分の価値をどうにも測れないというか評価できなくなってしまい、何に関しても自信が持てない状態がつづいているんですね。

悲観主義には防衛的側面もあるので、それでもいいかなと思っていたんですが、30代に突入していよいよ心身が持たなくなってきました。

この30年、死ぬほど長くて辛かった、ゴミみたいな人生だった、と思っていると、まだ目の前にいつ終わるかわからない人生が続いてるのがしんどくてたまりません。さらに、若い頃と違ってこのままだと自分がどうなるかなんとなくイメージが湧いて、それがまた地獄絵図で、ああだめだ、私はこのままだといよいよまずいことになる、もう生き延びられない、と毎日恐怖と絶望に苛まれて疲労困憊です。

 

私が今一番欲しいもの、それが「自尊心」でした。

「劣等感」「無能力感」「自己嫌悪」のフィルターがかかったヘッドセットを外して捨てて、「自尊心」を手に入れて見える世界を変えないと、いよいよ悲惨な結末を迎えてしまうだろうという恐怖がかつてないほど切実に湧いていました。本当に信じられないほど毎朝起きるのがしんどくて一日が長くて生きるのが辛いのです。

ずーっと欲しかった自尊心、でも何をすれば手に入るのか皆目見当がつかなかったとき、この『美容は自尊心の筋トレ』というタイトルが目に飛び込んできたわけです。

 

美容。

 

このブログでも書いたことがあるとおり、私にとって美容は「好きでもなければ興味も持てないけれど取らないと卒業のための単位が揃わないから渋々履修している教養科目みたいなもの」でした。

まさかこの美容が自尊心の筋トレになるとは!というか、自尊心って筋トレするものなのかと目から鱗でした。

 

何も、高い化粧品を買ったりコールドプレスジュースを飲むのが美容のすべてではなかったのです。そういうものは美容の本質ではなかったのです。

美容というと、たくさんの化粧品を買って、いろいろな手間をかけることのように思われがちだけれど、触れ方をやさしくして物理的な刺激を避けるだけでも、肌は変わる。

(長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』Pヴァイン 2019.7.17)

まずは肌に優しく触れることから始めてみることにしました。手のひら全体を優しく当てるか中指〜小指だけを使うといいらしいです。

 

***

 

著者の掲げる全員美人原理主義という考え方は、はじめはかなり極端に感じたのですが、噛み砕いて考えると「他人にやさしくする」と「自分にやさしくする」が表裏一体となった合理的なものの見方なのだと思いました。

顔立ち、体つき、内面、暮らし方や履歴などが複雑に絡み合って個性となり、紆余曲折を経てスタイルとして醸成される。コンプレックスは個性の種、スタイルのフラグである。もし、あなたを苛むコンプレックスがあるのなら、まずは心ときめく少しでもましなワードに言い換えてほしい。もし誰かが、本当のこと言ってやるよ顔でディスってきたら、その人はそれで自分を保っている or 生計を立てている、もしくは心が貧しく審美眼が未熟でセンスが寒い人なので放っておけばよい。意地悪にピントを合わせず、よきイリュージョンに包まれて暮らそう。

(同上)

コンプレックスをましなキーワードに言い換えるのはなかなか楽ではないですが、意地悪にピントを合わせないことは心がけ一つでできることだと思いました。

また、この一節を読んで思い当たったのですが、自分に非常に厳しかったこれまでの十数年間、私は他人に対しても常に厳しかったです。他人を断罪するのだから、自分も断罪されなければならない=私がこれだけ慎ましくしているのだから他人も同じくらい控えめであるべき、という、冷静に考えればはた迷惑なジャッジを誰彼構わず振り回してきたのです。

他人に向けた厳しい眼差しは翻って自分自身に返ってくるわけで、自分にやさしくしたいなら他人を見る目もやさしくしたほうがいいし、この二つは根本的に同じことなのだと改めて気づきました。

 

妬みや嫉みについても似たような構造が潜んでいます。

比べる気持ちや嫉妬を感じたら、心がザワつく対象を鏡に、自分を研究する。悪感情を自分を磨くチャンスにする。これに尽きる。

(同上)

「羨ましい」という気持ちの根底には「自分もそうなりたい」「自分も欲しい」という欲求が存在します。そこをもっと掘って「なぜ自分はそうなりたいのか?」「なぜ私はそれが欲しいのか?」と自己と対話することで、悪感情を自己研究・研鑽に変えるわけですね。なんていいライフハック、義務教育で教えるべきでは?とまで思いました。(もしかして道徳とかで教えてるのかも、私が覚えていないだけで)

 

自分に向けた矢印と他人に向ける矢印の関係を深く探っていくと、自尊心というものの本質が見えてきます。

自分の大切さやかけがえのなさの根拠を、他人に求めてはいけない。自分が大切な存在かどうか、相手の出方次第で決めるのはやめよう。(中略)酷かもしれないが、どんな日も易きに流れず、自分を大切にしようとする意思の最後のひと葉を守り、尊厳を投げ出さないように抵抗し踏みとどまってほしい。「あなたが期待通りにしてくれないから、私には価値がない」というのは、「私の期待通りにしてくれないから、あなたには価値がない」と背中合わせだ。これは恋愛に限った話ではなく、家族、友人、同僚、袖触れ合う有象無象の人々との関わりにおいても同じこと。自尊心は人間関係の基本だと私は思う。

(同上)

ビジネスの場にいると価値にお金が紐づいてることがほとんどなので、お客様の満足に繋がらない→売上が上がらない→価値がないという場合は往往にしてあると思います。期待される仕事が果たせない→価値がない、とかも、確かにある。

けれど、ビジネスではなく純粋な人間関係、人間存在について言及する場合の価値については、確かに著者の言う通りだと思いました。ここのところ仕事での売上のことばっかり考えてたので、価値と言うものをすごく狭くとらえていたことに気づき反省しました。価値という言葉には、ものすごく幅広い意味が内在しているんでした。

 

***

 

本書の終盤では世の女性像の窮屈さについて悲痛な叫びが満載でした。

私がこれまで美容をどこか毛嫌いしていた原因の大部分はここにあります。悲しいことですが、本来純粋に自尊心の筋トレであるはずの美容が、いらない尾ひれがたくさんついた禍々しいものに感じられるのは、社会に長年深く根ざしている”「女」の呪い”のせいです。

この問題については、二階堂奥歯氏の下記のエントリが私は一番的を射ていると思っています。

oquba.world.coocan.jp

oquba.world.coocan.jp

生物学的に女である現実の人間の子供・女の子と、女の子と良く似た身なりの空想上の妖精のような文学的存在である「少女」。

女の子が成長した現実の成人・女と、「少女」が成長した「女」という概念。

 

観念的存在で現実には存在しない「女」の真似事を身に纏わないととやかく言われる社会生活というのは本当に窮屈です。

その「女」の真似事に美容が多く含まれるので、私はそれがずっとモヤモヤして嫌でした。

男性は勿論、同性である女性にだって「女ならみんな普通キレイになりたいでいたいでしょ・若くありたいでしょ・モテたいでしょ」みたいに言われるのは本当に苦痛です。このご時世そんなこと言われないだろうって思いたいですが、全然言う人いますよね。多分私も仕事上止むに止まれず使ったり、無意識のうちに言っちゃうことあるかもってレベルで、物心つく前から刷り込まれているのです。知らずしらずのうちに。

 自分の「普通」が、地図で行ったらどのあたりにまで通用するもので、データで見たらどのくらいのパーセンテージのものなのか。多様な価値観をすり合わせながら共生するこれからの時代は、自分の中の普通や常識をアップデートし、みだりに他人に押し付けないデリカシーこそ大切だ。

(長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』Pヴァイン 2019.7.17)

 

「女」の呪いの延長上に「若さ」の呪いもそういえばあったなと思いました。

まあ、若さは物理的(肉体的)な自由度が違うし、やっぱり若さ特有の美しさというものはあると思います。何事も遅すぎることはないといいつつ、早いに越したことはないこともいっぱいあります。

けれど、誰しも同じ尺度の時間の流れの世界で生きているので、若さだけに絶対的価値を置くとやはり全員詰んでしまいます。

いくら本人が「人間の価値は年齢ではない」と信じていても、婚活や就職など社会との関わり合いの中で扱いを変えられ、「年齢で価値が下がる」と傷つく場面はすぐにはなくならないだろう。ときには「これが現実なんだ」と心が折れるかもしれない。けれど、社会という大きなものは変えられなくても、自分や他人に向ける眼差しを少しずつ変えることはできるし、まずは自分の意識を変えないとその上に築く現実を変えることはできない。

(同上)

”若さ信奉の呪縛”から自分や他人を解放するのも、つまるところ意志の力ですね。

ネガティヴは感情、ポジティヴは意志。つくづくこれだなぁ。

 

「女」の呪いと若さ信奉の呪縛に対抗する、最後の著者のまくし立てがとても面白かったです。

女を捨てる、女を忘れる、女として見られない、女じゃなくなる。四十路の先を見渡せば、年齢に絡めて「女」か否かを問う脅し文句が、銃弾のように飛び交っている。そういう脅し文句は、美容とも親和性が高い。(中略)年をとってもセックスや恋愛をしているか、生理があって女性ホルモンは分泌されているか、愛し愛され、膣は程よく潤っているかなどで、女の合否を断じたり、焦りを植えつけられたくない。お金を払ったり特定のサービスを受けなければ、女でいられないなんて、そんな軽いものではなく、もっと根源的なものだ。こちとら女の体に生まれたら、ほっといても死ぬまで生物学的には女。以上、と宣言したい。

(同上)

「男を捨てる」「男を忘れる」という表現は(別の意味ならともかく)上記のような意味で使われることは確かにないなぁ、とはたと気づきました。やはりこの「女」幻想問題は根深いですね。

 

***

 

なかなか一日二日で自尊心が芽生えることはないですが、気長にこの本のTipsを実践しながら、少しでも生きづらさが減るといいなと思います。

また、文化的な背景もありますが、日本人は特に自尊心が足りないことが男女ともに多いと常々感じます。自尊心が足りないということはイコール自分にも他人にも厳しいということで、それがこの社会の閉塞感の大きな一因となっていると改めて思い至りました。なので、私と同じように八方塞がり感を抱いている人に一人でも多く読んでほしいです。それで少しでも心持ちが穏やかになったらいいなと思いました。おわり。

子供のいる世界といない世界:『ここは私たちのいない場所』

先日30歳になりました。三十路。まさかこんなに生き延びるとは・・・って感じです。

30歳になってもまだ知らない素敵な作家さんが、物語がたくさんあるものです。

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

  • 作者:白石 一文
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/08/28
  • メディア: 文庫
 

本当になんの気なしに手に取った作品だったのですが、枯れきった今の自分にとても寄り添ってくれる作品でした。

 

主人公は大手食品メーカーで40代にして役員にスピード出世している独身男性・芹澤です。彼は哲学者の父と有名な画家の母の間に生まれ、5歳の時に2つ年下の妹を病気で亡くしています。芹澤にとって妹の死は大人になった今でも心に大きな影響を与える出来事として描写されてるんですが、妹の死に対する芹澤の被害者意識がうざったくて、さらに芹澤自身もかなり自分勝手な性格なので、それがかえって湿っぽくならず物語全体をピリッと乾燥させるいいスパイスになっていました。

 

会社の社長にも気に入られ独身貴族として順風満帆だった芹澤ですが、部下の不祥事に巻き込まれ、周囲が止めるのも聞かず自ら辞職します。

父の遺産もあり、職を失っても金に困らない芹澤が羨ましいったらありゃしなかったです。いいなぁ。私も仕事辞めて料理したり映画観たりしたいです。

 

仕事を辞めた芹澤の日常と、彼の過去がかわるがわる描かれていく中盤、かつて役人に就任した頃「サザエさん症候群」ないし「ブルーマンデー症候群」に罹っていた話が出てきます。仕事の付き合いで行った銀座のクラブで出会った女性・香代子との会話が気になりました。

香代子にどこか心安さをおぼえた芹澤は、最近症状がどんどん酷くなるサザエさん症候群について香代子に相談します。香代子のアドヴァイスは「あの頃に戻りたいな、と思えるような過去を思い出す音楽を聴くこと」でした。そんなことで症状が改善するのかと訝しげな芹澤に、香代子は優しくさとします。

「そんなふうに心が参ってしまったときは自分自身に治してもらうのが一番なのよ。 というか、自分の心は自分にしか治せないの。病気や怪我だって実は同じなんだけど、心は特にそうなのよ。でも芹澤さんの心は弱ってるから、いまの自分に治してもらうわけにはいかないでしょう。だから、過去の自分に会いに行って、その人に治してもらうしかないのよ」

白石一文『ここは私たちのいない場所』新潮文庫 R1.9.1)

この香代子の音楽療法が効くかは別として、「自分の心は自分にしか治せない」というのは真実だなぁとハッとしました。忘れていたわけではないですが、心が沈めば沈むほど、何かに縋りたい、何かに救いを求めたい気持ちが湧き出てしまうので。

香代子の言う通り、自分の心は自分にしか治せないんです。向精神薬も、カウンセラーも、誰かの愛も、自分の心を治すことはできないんです。

過去の自分、と聞いて真っ先に浮かぶのは中学3年生〜高校1年生くらいの自分です。ちょうど今までの人生をフルで考えると折り返し地点の頃。あの頃よく聴いていた音楽といえば、椎名林檎東京事変ショパンレッチリ、ラブサイケデリコとか・・・?確かに最近聴いてないけれど、気が向くとたまに聴くし、聴いたところで別に回復はしないんですけどね。

 

***

 

芹澤が辞職に至った不祥事をおかした部下の妻・珠美はこの作品のメインヒロイン的存在です。別に恋物語ではないんですが。

ニートラップ的に芹澤を貶めたものの、結果的に自分の思うような結果を引き出せなかった珠美は、看護師の母に女手一つで育てられた美人さんです。子供はいらない、働くのが好きではない珠美は土地持ちの次男と結婚し、夫の経済力に寄生して生きていた専業主婦でした。珠美の母・虹子が東京に出てきた際、虹子は娘の悪行を詫びたいと芹澤にアポイントを入れてきます。

新橋の喫茶店で話し合った芹澤と虹子。最後に娘の不始末を謝罪するために、虹子は何かのためにと貯めてきた一千万円を賠償金として芹澤に差し出すんですが、芹澤はそれを突き返します。その時の一言が、三十路独身女性の私には澱のように心の隅に静かに沈み滞留しています。

「だったら、このお金は珠美さんにあげて下さい。一生、誰かの経済力に寄生して生きていくなんて、それほどつまらない人生はありませんからね」

(同上)

誰かの経済力に寄生して生きているのは私のハハです。彼女は離婚してもなお前・夫である父の経済力に寄生して生きています(父だってさほど経済力ないのに)。

ハハの生き様は見ていて虫酸が走り、なおかつ羨ましい気持ちもどこかにあって、その座りの悪さもあって私はハハに会うのが本当に苦痛で嫌いなのでした。

 

見方によっては、今の私は自分の経済力で生きているのかもしれません。家族を持たず、自分で働いて得た給与で暮らしているので。

けれど、この生き方は会社に寄生しているともいえます。好きでもない人たちと、興味のない事柄について話あい、誰でもできるような作業をし、適当に時間を潰しているだけの、人生の切り売りが私の今の就業実態です。婚活もしなければ独立もせず、一番手に入りやすかった会社という寄生先を見つけて、そこでだましだまし生きているだけなのです。

つまらない人生と言われれば、「その通り」としか言いようがない、そんな人生です。

どうせ寄生するのなら、会社なんかよりお金のある男の人の方がいいんですが、それだと男性側にメリットが一つもないんですよね。。

 

***

 

芹澤の大学時代の同級生・奥野が癌で死んでしまうところも示唆に富む描写がたくさんありました。

所属していた映画サークルでマドンナ的存在だった成宮。彼女は告白してくる男子と一回だけ次々デートしてはふるということを繰り返していましたが、そんなモテモテの成宮が恋人に選んだのが奥野でした。

例に漏れずフラれた男のうちの一人となった芹澤の回顧。

 成宮は誰かに好かれるのではなく、誰かを好きになるのを欲していたのだ。そのことに気づいていながら彼女への好意を秘匿できなかった私は未熟だった。

(同上)

全然違うのですが、先日読んだ山田詠美「MENU」に出てきた麻子を思い出しました。なんでだろう。

最近とみに思うんですが、「好かれる」って面倒ですよね。好きな人にすらそんなに好かれたいと思わなくなりました。要は、他人の感情なんてはなから自分の意思でどうこうできるものでもないし測りきれないわけで、そんな制御不能なエネルギーが自分に向けられたらせいぜい振り回されるのがオチです。今の気力のない萎れた心身では。

きっと成宮のように物心ついた時から膨大な好意を向けられてきた人は、凡人より早くその疲労の境地にたどり着くんでしょうね。

 

***

 

珠美の女性に対する優れた洞察と、それを受けた芹澤のイラっとする返し。

「(前略)結局、女同士ていがみ合ってるわけで、そんなの馬鹿みたいだって思ったの。私たち女っていつも仲間割ればかりしてるでしょう。男のことでもお金のことでも子供のことでも、それに仕事のことでもね。結局、小さなことに対する執着が強すぎるのよ。視力のいい人みたいに近くのものが見え過ぎて、遠くを見る習慣が身についていないのかもしれない。(中略)」

「それは当たってると思うね。(中略)女性が仲間割れするのは、男に比べると若い時期に時間がなさすぎるのと、容姿という生まれながらの絶対的格差のせいだろうけど、ただ、きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能だと僕はいつも思うね」

(同上)

女性が”遠くを見る習慣が身についていない”というのは実感として私も頷けます。それに対して芹澤よ。若い時期に時間がなさすぎる?容姿という生まれながらの絶対的格差?そんなもん男性だって一緒じゃないですか。なぜ女性が遠くを見通す習慣がない理由をそこに帰結させるのだ?さらにはこんな支離滅裂な論理に重ねて「きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能」ののたまうこの神経。つくづく憎たらしい男だと思いました。

 

けれど、この憎たらしさこそが芹澤という男のリアリティでもあるのです。独身貴族で達観してて、さらに女性の心情にまで理解があったら、そんなスーパーダーリンは文学にならないんですよ。せいぜいラブコメ漫画のヒーローです。この腹立たしさこそが、実在しそうな大人の男性そのものなのです。

 

***

 

珠美は自分のせいで無職になった芹澤のこれからのことを度々気にかけるのですが、芹澤の返答はいつも要領を得ないのでした。

この数ヵ月、今後の人生設計に思いを馳せても何も考えつかないのだった。やりたくないことは山ほどあって、起業などはその代表選手のようなものだが、さりとてどうしてもやりたいと思うことが何一つ浮かばなかった。

(同上)

芹澤みたいにお金に困らず家族のしがらみもない悠々自適な人でも、やりたいことが何一つ浮かばないと、なんだか死んでるみたいだなと思いました。さっき腹立たしいと言ったばかりの芹澤に、この描写で一気に感情移入してしまいました。

 

***

 

大学の同級生・奥野の葬式の少し後、同じく同級生で南米に単身赴任していた里中が帰国してきて芹澤と二人で飲んだ時の話もすごく良かったです。

芹澤と同じく若くして出世街道に乗っていた里中でしたが、駐在先で勤務中に乗ったセスナが墜落するという事故に遭いました。間一髪で軽傷で済んだ里中でしたが、この時の経験が出世を捨ててでも日本に戻り家族と一緒にいたいと願うきっかけになったと言います。

「ああいうとき、人間は何も考えられないんだって身に沁みて知ったよ。両方ともエンジンが止まってるのが見えて、現に飛行機が地上に向かって落ち始めているっていうのに、自分が死ぬとは思えないんだ。いま起きていることが現実かどうかが分からないって感じだった。(中略)結局、人間は、自分が死ぬのかどうかの判断がつかないまま本当に死んじまうんだよ。今回、俺はそのことを痛感したよ」

(同上)

これもリアリティが強い表現だなぁと感服しました。東日本大震災で揺れまくるマンションのベランダから街を見下ろしたあの瞬間を思い出しました。体験したことない大きな揺れで、マンションが折れるかと思うほどだったあの瞬間、「死ぬかも、人生終わるかも」って本気で頭によぎりましたがどこか現実かどうかわかならい感じもあり、里中の一言一句そのままの実感でした。

そして里中は「出世なんかしてる場合じゃない」と帰国を決意したそうです。ほんと、そうですね。

 

しかし、里中の言い分も理解できるけれど、どこか違和感が残る芹澤は、その後病院の廊下でよその赤ん坊と対峙しながら、違和感の正体を言明します。

二日前、里中は言っていた。自分の人生を取り戻すために日本に帰るのだと。大事な親友を失っても葬式にも駆けつけられないような、妻や子供たちと一緒に暮らすことさえできないようなリオデジャネイロでの独居は、自分の人生にとって無意味だとようやく気づいたのだと。だから彼は、上層部に直談判までして帰国の段取りをつけたのだった。

だが、私自身は、そうやって彼が生きる意味を見出すことのできなかった、まさにその世界でいまも生きているし、これからもずっと生きていかねばならないのだった。

私には妻子もいないし、親友の葬式に出られないことを悔やむ気持ちもなかった。遠隔地にいることを理由に奥野の葬式をパスできた里中が羨ましかったくらいだ。

(同上)

大共感、でした。この、自分自身でさえ生きる意味を見出すことのできない世界で生き続ける孤独。読みやすくわかりやすく心に刺さる、素晴らしい文章だと思いました。

 

芹澤は(そして私もそうだと気づいたんですが)、誰かに頼ったり頼られたり、何かに依存したりされたりするのが嫌な人間なのでした。仕事を辞め、自己を顧みて、いろんな人と対話する中で、彼はその一つの真実を改めて眺めるのです。

人を助けるという行為も一時的なものでなくてはならない。

のべつまくなし特定の人物の手助けをしていれば、結果的にその相手に依存することにつながる。事情がどうであれ、その特定の相手を助け続けなくては自分の気持ちが落ち着かなくなってしまう。まして家族のようなある種の運命共同体に身をゆだねるのは願い下げだった。仮に他人と一緒に生活するとしても、夫婦という単位が限界だと感じている。

人と共に生きても、人間は決して強くはなれない。

ずっとそう考えてきた。

(同上)

これはもはや格言ですね。「人と共に生きても、人間は決して強くはなれない」。一生忘れないようにしたいと思いました。

 

これまで、私の周りの大人たちは、皆家庭を持ちたがったり、もしくは持っていたりする人ばかりでした。私がどんなに子供を持たない決意を表明しても、家族というものに良さを見出せない旨を話しても、「今はそう言っているけどいずれ気が変わるよ」というようなことを必ず言われてきました。

けれど最近、私のような考えを貫いて中年になった人が何人か周りに現れ始めて、私だけが特におかしいわけではなかったのだとどこか安堵しました。

100パーセント同じ考えや論理でないにしても、似たような倫理観や死生観から「一生子供を産まず、家庭を持たない」と決めて独りで生き続けている人がいる。その事実は、自分の面倒をひたすら自分で見なければならない疲れる人生に、小さな飴玉みたいな気安さを添えてくれるのでした。

 

文庫版に添えられた解説は編集者の女性の文章で、彼女もまたそんな一人でした。

多くの親が、子供により無常の喜びと幸せを感じていると同時に、その真逆で、我が子の存在により、すべてを奪われ、苦しみ、最後にはお互いに殺し合うような形で人生を終える親もいる。私は「産まなかった後悔より産んでしまった後悔の方が怖い」と、子供のいる世界に入ることを拒んだのだ。

それは、大人だけの世界で生きていこうと決めたことになる。いずれそれは「老人だけの世界」にもつながるわけだが、覚悟はしていた。

(「解説」中瀬ゆかり 同上)

よく”やらないで後悔するより、やって後悔した方がマシだ”みたいな言説がありますが、出産は真逆ですよね、ほんと。産んでしまった後悔は、ゾッとするほど取り返しがつかない後悔だと思います。産まなかった後悔はありふれているというか、私の場合多分しなくて済みそうですけど。

 

それにしても、大人だけの世界かぁ。確かに、よく考えてなかったけれど、私もいつの間にか大人だけの世界で生きていこうと決めていたみたいです。ほとんど無意識に、なんの躊躇もなく。

でも老人だけの世界に行く前に、消えてなくなりたいとも思うのでした。おわり。