れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

調子が悪くても:『夢も見ずに眠った。』

最近精神的に調子が悪いです。

仕事でミスが続き、いつも時間に追われている心地がしてイライラし、何をしても楽しくない。

季節の変わり目だし、このご時世だし、不調の原因を考え出したらキリがないですね。きっと同じような方は世の中にたくさんいるだろうと想像したところで、自分の辛さは何も変わりません。

 

思えば10代の終わりくらいからずっと、出口の見えないトンネルが続いている感じです。

死ぬまでずっとこんなんだったらとっとと死んだほうがいいかもなぁと思わないこともないような、決定的ではない不愉快がずっと横たわっています。

 

病んだって誰も助けてくれないし、なんとか自分を鼓舞して生き延びる以外手はないことは重々承知。なんですが、それでも人の心が沈んでいく描写を読むと共感できすぎて思考を引っ張られるのでした。

夢も見ずに眠った。

夢も見ずに眠った。

  • 作者:絲山秋子
  • 発売日: 2019/01/26
  • メディア: 単行本
 

絲山秋子さんの小説は、日本の地方都市の描写が実に豊かで好きです。

この『夢も見ずに眠った。』も、なかなか旅行しにくい情勢の中、物語の中だけでも旅したいと思って手に取りました。

 

主人公の沙和子と高之は熊谷に暮らす夫婦です。

就職氷河期を乗り越え立派なキャリアウーマンとなった沙和子。婿入りした高之は非正規雇用で職を転々としていました。彼は結婚を機に沙和子の実家の敷地に地元・中延から引っ越してきたのです。

二人は大学の同級生でした。

 

沙和子はどちらかというと真面目な性格で、高之は飄々としておおらかな感じです。

二人は全然似ていないですが、私はそれぞれに強く共感できる部分がありました。

 

物語の序盤で、沙和子の札幌への栄転が決まります。

高之は熊谷に残ることを選択して、二人は単身赴任という形の別居状態に。

沙和子の引っ越しの日、空港で高之と別れた後に沙和子が高之のことを思う場面がとてもいいなと思いました。

あのひとは、自分のためにしか動けないのだ。

まったく、それでいい。

ひとの身になって考える、ということが苦手なのだ。そしてそんなことをしたら、いつも間違いのもとだから、自分のために生きた方がいいのだ。

絲山秋子『夢も見ずに眠った。』河出書房新社 2019.1.30)

私も自分のためにしか動けないです。多分。

ひとの身になって考えるって、お客様視点とかそういうことはするかもしれないですが、結局それも想像の域を出ないし、つまるところ自分のためでしかない。

確かに下手に”ひとの身になって”考えたりしたら、かえって間違えそうです。

 

沙和子が札幌に行って数か月経った頃、彼女は知人の結婚式に出席するため京都へやってきました。せっかく本州に来たならと、高之は車で滋賀へ向かい沙和子と小旅行することにします。

久々に会った二人ですが、高之の様子がなんだかおかしいのです。基本的に穏やかでつまらないことで突っかかったりしない彼が、どうも機嫌が悪そうで、ドライブの目的地にも気づくことができず立て続けに通り過ぎてしまいます。

具合の悪そうな高之を見た沙和子は、職場で何人か見た鬱病患者を連想します。心配する沙和子の問いかけに高之も自身の不調を自覚し、二人は旅行を切り上げて熊谷に戻りました。

 

病院で中程度の鬱病と診断された高之。なぜ自分が鬱病になったのか、心当たりが思いつかず混乱する高之は、非正規雇用で休職もできず職を失うことになってしまいます。

薬局を出てひとまず落ち着きたかった二人は、熊谷の”雪くま”を食べられる菓子屋に入りました。

向かい合ってかき氷を食べている時の、高之の心理描写が読んでて非常に辛かったです。

溶けかけた氷をスプーンで集めながら、高之は、なんでもないことが楽しい日々なんてもう二度と来ないのではないか、と思っていた。旅行の計画に夢中になった。本を読むのが好きだった。酒を飲んで笑っていた。新しく興味を持てそうなことを見つけるのが嬉しかった。でも、なにがどう楽しかったのか、思い出せないのだ。二度とそんな日は来ないと思うのだ。

(同上)

精神的に本当に参ると、こういう気持ちになりますよね。もう二度となにも楽しめないような気持ち。このままつらい沼に永遠に足を取られ続ける絶望感。

楽しかったと思う昔を思い出して、さらにしんどい気分になって・・・負のループです。

 

思えば社会人になってからいつも、働き続けるうちにだんだんと、そういう負のサイクルに嵌ってしまう気がします。

高之と同じで、何か決定的に嫌なことがあったわけでもないのに、無意識の我慢や自己欺瞞がいつしか大きな歪みを生んでいて、気づいた時には抜け出せなくなっているのです。

なんとか自力で抜け出すために退職して、数か月ニートしながら旅行したり読書にふけったりして心の平穏を取り戻し、再就職してまた・・・の繰り返しでここまで来ているようです。

 

今の職場でも、もう嵌りかけてるかも。はぁ。また繰り返すのも嫌だなぁ。何より旅行が満足にできない世の中になっちゃったのが痛いです。

 

***

 

高之は沙和子の両親の支えや通院を経て徐々に回復しますが、離れて暮らすうちに二人は夫婦の形を保つことが難しくなり、離婚します。

仲違いしたわけではない極めて円満な離婚でしたが、ちょっとしたことで互いの不在を認識する高之たち。

わざわざそんなくだらないことを聞いてくれる相手がほしいわけでもなかったが、自分の生活の色のなさは、そういうことなのだと思った。途中で使うのをやめてしまったスケジュール帳のような白い日々に彼は飽きていた。

(同上)

このスケジュール帳の例えにとても共感しました。秀逸、と思いました。

ニートの生活を長いこと続けていると、確かに楽だしいくらでも自分を可愛がるネタはあるのですが、ふとした時にこの日々の白さに心許なさを感じることがあります。

家族や恋人や友人がいたら、そんなこともないのかもしれませんが。

なんなら今も白い日々を送っているような気さえします。うまく言えないですが、このうまく言えない心持ちを実に的確に表現している箇所が、この作品にはたくさんありました。

 

ある日沙和子が血迷って横浜で不倫デートをし、事故にあって足を骨折したところに見舞いにやってきた高之との会話もそういうシーンでした。

沙和子は深いため息をついた。

「私ね、自分がどうしたいのかわかんなくて。誰かに悪いとか、相手の気がそれで済むんならとか、そういうことしか考えてなかった。でも、もうだめみたい」

(中略)

まさかこの年になってこんなことで悩むとは、と思う。

自分さえ我慢すればいいと思って暮らしてきたのだ。母とのわだかまりがあっても問題にしたりやり直したりしなくても済むように。出向先の待遇に満足しなくてもやっていけるように。だが、今までのやり方は失われてしまった。乗り継ぎに失敗したときの列車のように、行ってしまった。沙和子は今、誰もいない駅のホームに佇んでいるような気持ちなのだった。

(同上)

乗り鉄の私にはこの描写もグッときました。行ってしまった列車が脳裏に浮かぶくらいわかりやすいです。

鬱病になるほどではないにせよ、沙和子も溜まりに溜まった自己欺瞞に心の均衡を崩されてしまっていたのでした。

 

今こうして書いているうちに思い出しましたが、アニメ『君が望む永遠』を観て自分に嘘をつくことがどんなによくない結果をもたらすか学んだはずなのになぁ。

人間って自分を騙せずには生きられないんですかね。

少なくとも社会生活を営む上では、大なり小なり自分に嘘をつく必要ってあるのでしょうか。

・・・それにしたって生きづらいなぁ。

 

***

 

この小説は長編で12の章からなっており、それぞれに日付が付いています。

一章は2010年ですが、最終章の十二章は2022年です。

これは作者も意図していなかったと思いますが、2020年に東京オリンピックが開催された旨の描写があって、そこで一気に現実に引き戻されてしまいました。

遠い未来だとSFだと認識して普通に楽しめるのですが、あまりに近い未来がズレているとなんとも咀嚼しづらいフィクション感が出てしまうのだなと驚きました。

それでも、12年の歳月で大人がどう年をとるのか、とても生々しく表現されていました。

寛ちゃんのところでは、娘たちもすっかり成長し、大人と話すことに慣れている様子だった。食べ終わってからはさっと席を立ち、片付けを手伝うと姉は塾へ、妹はジムへ出かけてしまった。寛ちゃんの奥さんが車で送っていった。

寛ちゃんの家の夕方はとても忙しい。

でも、高之の夕方は暇なのだ。

それを寂しいことのように感じた。私たち自身が、暇な夕方みたいな年齢なのだろうかとも思った。

(同上)

このブログを書き始めたのは6年前で、その頃から変わらず私は子供を産むべきではないとずっと思っています。今でもそれは変わりません。

けれども、6年前には”子供を持たない人生”がどういうものなのか、きちんと把握していなかったなとも最近よく考えます。

 

子供や家族がおらず、友人や恋人もおらず、打ち込める仕事も趣味もない独りの大人の人生というのは、果てしなく暇です。

肉体は確実に老いていて少しずつガタがきたり、何かに好奇心を抱くことが以前より格段に難しくなっている。そういう中で余った空洞の時間がある。これは結構しんどいことでした。少なくとも私にとっては。

退屈が好きだと嘯いてた若い頃が嘘みたいに、退屈は苦痛を伴います。忙しいのも嫌なはずなのに、持て余した暇が案外怖くて足がすくむ。

もし子供を産んでいたら、こんな暇とは無縁だっただろう。そう想像してさらに恐怖するのです。

「もし子供を産んでいたら」?冗談じゃない。あんなに生まれてくることの悪を呪ったのに、そんな想像するなんて、と。

しかし、そんな自分にとって禁忌とも言える発想をしてしまうほど、この加齢を伴った時間の空洞は精神的に辛いものなのでした。

 

***

 

暗い話になってしまいましたが、この小説のラストはどちらかというとハッピーエンドです。

何かが決定的にゴールしたような終わりではないのですが、不思議と涙が溢れてきて、しかもその涙が結構複雑な感動なのです。

この言語化できない感情こそが、物語を読む醍醐味だよなぁと改めて思いました。

 

当初の目的通り、旅の思い出もたくさん想起できました。

岡山、広島、島根、鳥取、盛岡、札幌、横浜などなど、行ったことのあるスポットや乗ったことのある路線や駅が次々出てきて面白かったです。

奥多摩や青梅はあまりきちんとみたことがないので、近々行こうと思いました。

 

暇な夕方みたいな年齢を重ねなければならない現実にはほとほと辟易します。が、

適度に旅に出たりしながらやり過ごすしかないんですよね、やっぱり。

仕事でミスが続いても、

時間に追われてイライラしても、

無意味に悲しくなったりしんどくなったりしても、

自分の人生は誰も代わってくれないし、何よりいつかはみんな死ぬので。

「イヤなことっていうのは、ひとつひとつ片付けていくしかないんだ」

いつだったか、一緒に残業していた同僚が苦々しく言った言葉を思い出しながら、重たいレンガを積むようにして日々の仕事をこなしているうちに、年度末の忙しさに呑まれた。

(同上)

真理の言葉だなと思いました。イヤなことっていうのは、ひとつひとつ片付けていくしかない。しんどい度に思い出します。おわり。