れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

『はやく老人になりたいと彼女はいう』

先月から出張で内陸の地方都市に滞在しています。

人口30万人ほどのこの街は電車の本数も商業施設も娯楽施設も少なくて周りは見渡す限り山ばかり、気温がいつまでも低く桜もいっこうに咲きません。

駅のホームに立つと、あまりの静寂に不安な気持ちになるほど、とにかく何もない退屈な街です。

そんな退屈な街にも必ずある安上がりな娯楽が図書館で、2ヶ月しか滞在しないにもかかわらず、利用者カードを作り適当に3冊借りてきました。

そのうちの1冊がなんだかよかったので記録しておきたいと思います。

はやく老人になりたいと彼女はいう

はやく老人になりたいと彼女はいう

 

 

小学生の男の子・和馬は、夏休みに昔住んでいた母・麻里子の地元の夏祭りに親子2人で来ていて、そこで麻里子の遠い昔の恋人・敬吾とその娘・美優に偶然会います。

和馬と美優はたまたま同い年で、麻里子と敬吾も久々の再開で少し話したい気分だったので、子供たちと大人たちで別れ祭りを楽しむことになりました。

麻里子たちがチューハイ片手にのんびり昔話や近況報告をしあっている間、和馬たちは地元の小学生たちと山へ肝試しに行くことになり、途中で美優が体調を崩したせいで和馬と美優は森の中で集団からはぐれ迷子になってしまいます。

そんな森の中にいきなりおばあさんが現れるのですが、このおばあさんは昔和馬がよく行っていた駄菓子屋のおばあさんで、少しボケも入ってそうなおばあさんは死んだ夫の墓を掘り起こしに行くと話して森の奥へ進んで行きます。

和馬たちはおばあさんの後をついて行き、子供達がいなくなったことに気づき顔面蒼白の麻里子たちも森に捜索に出向き、そこですったもんだあり・・・という、一夏の祭の夜に田舎の森の中で起こる群像劇です。

 

物語の概要としては大きなドラマもなく非常にさっぱりしていて、時系列も短いのですが、この作品はとにかく言葉のセンスが非常によく、要所要所の”言い得て妙”とも言えるとても巧みな表現が印象的でした。

 

例えば和馬が昔通っていた駄菓子屋について、店のおばあさんと交流し始めた時の描写。

おばあさんと話すようになってから、和馬はいろんな相談をした。学校でいじめられたことや、本当は私立の学校に行くほど家計に余裕がなかったこと、そもそも自分は勉強にむいていないことなども自由に話せた。というのも、おばあさんが数日経てば忘れてしまうのがわかっていたからだ。話だけは覚えていたとしても、誰が言ったことなのかわからなくなる。こう言うとおかしく聞こえるかもしれないけれど、おばあさんは、しわくしゃになったインターネットみたいだった。匿名だからなんだって言える。

「しわくしゃになったインターネット」ってすごくピッタリした表現だなぁと感嘆しました。

 

他にも、麻里子が脳出血で亡くなった父の話を、今の年下の恋人・キヨシくんに話した時にキヨシくんが同じく脳出血で亡くなった自身の叔母の話を引き合いに出して「わかるわかる、そういうのわかるよ」と同情された時に感じた怒りの感情についての描写。

でも、叔母さんは遠すぎる。失礼だけれど、ペットの死と一緒にされたようで、ものすごく腹立たしかった。気安く人の不幸に相乗りするな。私をこれ以上悲しませるなと憤った。

”気安く人の不幸に相乗りする”という言い回しがとても心に残りました。似たようなことって身近によくあるのではないかと思うんですが、同情されるのが腹たつのではなくて、気安く自分の不幸に相乗りされて、相手がタダ乗りしてるような感じが癇に障るんですよね。これはとても慧眼で発見でした。

 

中でも1番深く感銘を受けた言葉が、和馬が行方不明になって不安になった麻里子が、和馬の父親でもある元夫に念のため連絡した時の描写です。

『連絡もらってよかった。一人で大丈夫なんか』

怒られるだろうと思って構えていたのに、彼からの言葉は優しかった。いや、正しい距離さえちゃんと保っていられれば、どんな男女も優しくなれる。

これって、男女に限らず、すべての人間関係に言えることだと思いました。その人同士が互いに一番快適な”正しい距離”を保っていられれば、憎むことも羨むこと疎むこともないのだろうと。

距離というのは時間的にも物理的にも、だと思います。

例えば、職場の同僚たち。今の職場に来てもうすぐ1年が経とうとしてますが、正直あまり好きではない同僚もいるし、馴染めているとも思っていません。でも、先月からしばらく出張で自分の部署を離れて、たまに連絡を取り合ってみると、なんだかみんなが懐かしく思え、あまり煩わしくなく、素直に感謝を伝えられたりしました。

これまで一緒に働いてきた人たちは大概そうで、ずーっと毎週顔を合わせていると、相手の嫌なところがやたら目についたり、逆に自分のこともうるさく指摘されたりして面倒で、互いに優しくなんてなれないものでした。けれど、退職して環境を変えると、たまに思い出す彼らは皆良い人に思え、楽しかった記憶や為になった助言などが思い出されて、しまいには感謝の念までいだいて優しい気持ちになれたりします。

もしかしたら、大概の人と私にとっての「正しい距離」というのは、物理的に100〜200km以上離れていたり、時間的に数ヶ月以上会わないくらいの距離なのかもしれません。

しかし中には、物理的にも時間的にもじゅうぶんに離れているのに、それでも疎ましくて仕方のない存在もいます。

例えば母親です。

もうずっと会ってませんが、母は今も生きていて、たまにLINEなどで連絡をよこしてきますが、私はずっと母に対して優しい気持ちになれません。別に虐待されてたわけでもないし、言葉の暴力を受けた覚えもないし、ネグレクトもされてないし、極めて一般的な我が子を愛する母親だと思います。

でも、私は昔からどうしても母を人間として好きではなくて、実家を出て一人暮らしをするようになり多少は疎ましい気持ちが軽減されたとはいえ、やはり感謝の念をいだいたり優しい気持ちになったりすることはできません。

いつか一番遠い場所、つまり死別でもしたら、やっと好きになったりできるのでしょうか。大変不謹慎ではありますが、そんなことまで考えてしまいました。

 

***

 

この本を手に取ったのは『はやく老人になりたいと彼女はいう』というタイトルがとても良いと感じたからです。

タイトルの”彼女”とは麻里子のことで、恋愛や家族やいろんな人間関係によって感情が揺さぶられることに疲れた麻里子は、若さによる強迫観念や思い込みからはやく脱して、穏やかに達観してすべてをどうでもよくなりたいと考えるようになっています。

 

私も10代の頃から「はやく老人になりたい願望」を持っていますが、三十路間近になった今になって考えると、果たしてこのまま生き延びたとしてそんな理想の老人になれるのだろうかという疑念はあります。

29歳になった今、わりとすでにどうでもいいことは多く、こだわりや執着も昔に比べて随分減りましたが、時折やっぱりなくならない弱さや不安が顔を出すし、達観するには知らないことも多いです。きっとまだいろんな人や物事との正しい距離を図りかねているのだと思います。おわり。