れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

『なぎさ』

面白い小説を読みたいとき、期待を裏切らない作家が山本文緒大先生。

『なぎさ』を読みました。やっぱり、すごく面白かったです。

なぎさ (角川文庫)

なぎさ (角川文庫)

 

本を手に取りパラパラ目を通すと、目についたのは久里浜の描写でした。

実在する土地をここまで詳細に取り上げた山本作品は珍しいかもと思ったのと、久里浜は私にとってまあまあ馴染みのある土地でもあったので、興味を持ちました。

 

主人公の冬乃は30代の専業主婦です。

彼女が現在夫と二人暮らしをしている街が久里浜で、彼女たちの出身地は長野の須坂なのですが、

この土地のチョイスがとても絶妙だと思いました。登場人物の性格に強い説得力を与えたように感じます。

 

冬乃はそれなりに感情豊かではあるけれど、少し控えめで弱気な印象もあったし、夫の佐々井くんにいたっては本当に辛抱強くて穏やかな我慢の人です。

冬乃たちのような人間は、温暖で海が近い土地ではなかなか育たないと思います。

 

私は須坂の近くに2か月くらい出張で暮らしていたことがあります(この頃です)。

それまで海の近くの平野で暮らしていたので、大きな山々に囲まれ、東京の桜が散ってもいつまでも寒々しい長野はどこか閉塞感や圧迫感があったのを覚えています。

それでいて、私も海なし県の出身なので、どことなく懐かしい気持ちもしていました。

 

海が遠く山が近い内陸は、夏は盆地で熱が溜まって灼熱地獄になったり、でも夕立が毎日のようにきて夜は涼しくなったりします。冬は体の芯まで刺すような厳しい寒さと強い北風、そして美しい星空があります。

聳え立つ山々に行き場を塞がれているような錯覚と、村社会甚だしい田舎の人々の古い価値観、そして気温差の激しい独特の気象条件の中で生きていると、なぜか変化を避けて辛抱強く耐え凌ぐタイプの人格が出来上がりやすい気がします。

 

一方で久里浜のある三浦半島は、三方を海に囲まれています。

須坂を通る長野電鉄は終点の湯田中で行き止まりですが、久里浜を通る京急電鉄三崎口でやはり行き止まり。

神奈川の海沿いの街の中で、三浦半島の街だけが他と感じが違うなぁと常々思っていたのですが、それはこの行き止まり感が海のない内陸に通づる部分があるからかもしれないと、今回『なぎさ』を読んで思い至りました。

 

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東京で暮らしていた冬乃の妹・菫が、自宅でボヤを起こし住む場所を失って、冬乃の家を訪ねてくるところから物語は始まります。

ずいぶん久しぶりに会った姉妹の様子や、佐々井くんと菫の注意深い会話描写などから、過去に彼らには何か重大な出来事があったことを印象付けられます。

菫が突然久里浜のスナック跡地で一緒にカフェをやってほしいと言い出したり、そこに菫の友人だという謎の大男・モリが登場したりと、慎ましくもパッとしなかった冬乃の生活は次々と変化し、過去の謎とあいまって続きがどんどん気になり読む手が止まりませんでした。

 

実に多彩な登場人物たちとそれぞれの生き方が、いろんなテーマを内包していて考えることがいっぱいある作品でした。

手持ちの付箋が2枚しかなくて、その2枚のうちの1枚を貼った箇所が、菫が軌道に乗った「なぎさカフェ」をフランチャイズ元に売りに出すことを冬乃に告げ、口論になった場面です。

「何かをはじめる時、おねえちゃんは終わる時のことを考えないの?」

急にそんなことを言われて私は怪訝に思い、眉をひそめた。

「なんのこと? 私は何かはじめる時はできる限り続けていく覚悟でやるよ。だから簡単にははじめないし」

「人の気持ちは変化するものじゃないの。人の命はいつか終わるんだし」

「詭弁を言わないで」

菫は言い返してこなかった。怯えは消え、表情からは何も読み取れない。

 

山本文緒『なぎさ』角川書店 2013.10.20)

私はなんでも終わる時のことばかり考えていると、菫のセリフを読んで気づきました。

冬乃のように、できる限り続けようなどとは、人付き合いでも仕事でも住む場所でも考えないなぁと。

 

多分生まれつきではないと思います。が、仕事は新卒入社の時から転職を前提に考えていたなと今思い出しました。どの職場でも、自分がいつ突然消えても業務が回るよう、資料や手順書をいつも整理して準備してあります。

仕事を転々とするので自ずと住む場所も転居が前提となり、そのために持ち物を少なくするよう努めています。

人付き合いはそもそもはじめることすらなくなりました。連絡を取り合ったりして続いている人付き合いは皆無、その場限りの間柄ばかりです。

 

冬乃みたいな人と、菫や私のような人では、どちらの方が多数派なのだろうと考えました。たぶん時代的に菫派の方が多いだろうと思います。

続けることに対する価値観が、この数十年でとても変わった気がします。

それがいいことかどうかは分かりませんが。

 

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もう一箇所付箋を貼った場面は、カフェの売却が決まり、その前に冬乃の久里浜での知り合いのおじいさん・所さんの奥さんがパーティーを開くシーン。

所さんは冬乃が「くりはま花の国」でよく会い話をするようになったおじいさんで、冬乃が苦しい時に相談に乗ってくれる頼れる他人です。

カフェを切り盛りしていたのに結果的に追い出される形になった冬乃を心配した所さんに、冬乃はこの数ヶ月で自分の心持ちに起こった変化を語りました。

「私、ちょっと前まで自分は何もできない人間だって思ってたんです。今でも私なんかにできることはすごく少ないって思いますけど、でも今まで自己評価が低すぎたと思うんです。何にもできない、働く自信がないってただ嘆いて、できないんだからしょうがないってどこかで開き直ってたところもあったと思います。自己評価が低すぎるのって、高すぎるのと同じくらい鼻もちならないのかもって最近気が付いたんです」

 

(同上)

以前はネットカフェの狭い個室で求職サイトを見てはどんよりした気持ちになっていた冬乃。

それが菫に巻き込まれながらも一つのお店を切り盛りするようになって、ブラック会社にぺしゃんこにされた夫を支えたい気持ちも強く持って、確実に成長したことがわかるセリフです。

「自己評価が低すぎるのは高すぎるのと同じくらい鼻もちならない」・・・身に沁みる言葉でした。

 

働くことはいつまで経っても好きになれないけど、働いていると冬乃のように自信を持てることがあるのも事実です。

逆に、働かないで自信をつけるのって結構難しいかもしれないと思いました。

別にただのバイトだって、誰かの手伝いの雑用だっていいのです。

私は転職するたびに、新卒で働いていた工場のおばちゃんに「ここでこれだけ頑張れたんだから、どこ行ったってやっていけるよ」と言われたことを思い出します。別におばちゃんも何の気なしに放った一言だと思いますが、10年近く経った今でも心の支えになっています。

 

続けようが終わろうが、やったことは消えないし、確かにあった過去の時間は人が覚えている限り存在します。

そしてその過去の時間が楽しかった思い出になるのか、今につながる自信になるのか、後悔や足枷になるのかは、自分の捉え方や心持ち次第なのかもしれません。おわり。

 

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くりはま花の国に行ってみました。ポピーが綺麗でいいところでした。

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