れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

生まれてくるとこ間違えたねって:『マイ・ブロークン・マリコ』

昨日書店でデザイン技工に関する棚をぼーっと見ていて、そこに『新しいコミックスのデザイン』という本があり、手に取りました。

新しいコミックスのデザイン。

新しいコミックスのデザイン。

  • 発売日: 2020/06/23
  • メディア: 大型本
 

表紙の山本さほさんの絵に惹かれて読んでみると、このブログでも話題にあげた数々の漫画の装丁デザインについて、タイトルのフォントやレイアウトなど事細かに解説されていました。

私は仕事でバナーやポップアップのデザインをするとき、ゲームやアニメのWEBデザインやパッケージデザインからモチーフや配色を考えることがよくあるので、この本もとても勉強になりました。

 

そんなデザイン事例の一つとして載っていた平庫ワカ『マイ・ブロークン・マリコ』の表紙が、何故か脳裏に焼き付きました。

黄色と水色の配色がすごく良いなと思ったのと同時に、外国っぽい癖のある女性の絵柄と、くわえタバコで遺骨を抱えるシュールなイラストにとても興味をそそられ、早速読んでみることに。

想像以上にいい話で、じんわりと心の栄養になる感じの物語でした。

 

***

 

2人のヒロイン、マリコとシイノは子どもの頃からの友人です。

マリコは泣きぼくろが印象的な可愛らしい女の子で、シイノは少しはすっぱな印象の、制服姿でもいつもタバコを吸っているような子でした。

不思議なバランスでとても仲の良い2人。中学生だったある日、2人は夕方公園で花火をしようという話になりました。

約束の時間を過ぎても公園に来ないマリコを家まで迎えに行くことにしたシイノ。そこでシイノはマリコの壮絶な家庭環境を目の当たりにしました。

 

ゴミだらけの狭いアパートで酒浸りの暴力親父にボコボコにされたマリコが玄関から申し訳なさそうに出てきたときの、苦しく切ない感じ。

私は虐待とか家庭内暴力の話が結構苦手です(得意な人いないと思いますが)。

是枝監督の『誰も知らない』とか観ると、かなりダウナーな気分になって鬱々としたまましばらく立ち直れません。ふみふみこ『愛と呪い』も未だ読み切れていないです。

誰も知らない

誰も知らない

  • 発売日: 2016/05/01
  • メディア: Prime Video
 
愛と呪い 1巻: バンチコミックス

愛と呪い 1巻: バンチコミックス

 

 

私は児童虐待は受けたことがないし、同級生の中でもそういう人を見たことがありません。身近に事例がないことはいいことだと思います。けれど、実際に見たことのない暴力が確実にこの世に存在していることは、ニュースや本その他いくらでも知ることができて、その不気味さと不条理さ、「なんで?」という強い疑問は心の均衡を崩します。

 

昔食品工場で働いていた頃、休憩時間にテレビのワイドショーで児童虐待で亡くなった女の子のニュースが流れていたときのことを思い出しました。

テレビを見ていたおばちゃんたちが「本当に酷い話だね。生まれてすぐこんな痛い思いばかりさせられて死んじゃって、何のために生まれてきたのかわからないよね」とか、「自分が腹痛めて産んだ子なのに、本当に理解できないね」とか口々に言っていたのを覚えています。

おばちゃんたちはみんな結婚してて子供も成人していて、孫までいる人もいました。普通のまっとうな感じの人が大多数で、腰が痛いとか膝が痛いとかボヤきながらも明るく元気な人たちでした。

 

まだ若かった新社会人の私は、そういうまっとうな意見を素直に受け取る能力がありませんでした。

「何のために生まれてきたかなんて、虐待されててもされてなくても関係なくわからないじゃん」と思っていたし、いくら自分が腹を痛めて産んだって、必ずしも可愛がれるとは限らない、所詮自分以外は他人だと考えていました。

今回この『マイ・ブロークン・マリコ』を読んで、おばちゃんたちが言っていたのはそんな分析哲学みたいな問いじゃなく、もっと原始的なレベルの話だったんだなとやっと気づくことができた気がしました。

 

***

 

実の父親に子供の頃から立て続けに殴られ蹴られ、挙句高校生になったら強姦までされて、精神的に壊れるしかなかったマリコ

それでも何とか生き延びられたのは、シイノが唯一の心の拠り所として存在してくれていたからだと思います。

「お前が悪い」と言われ理不尽な仕打ちを受けづつけ、学習性無力感で動けないマリコのかわりに、シイノが全力で怒ってくれる。それだけがマリコの救いでした。

けれどシイノはただの友人であり、いつか恋人を作って自分の存在が薄れてしまうかもしれないという恐怖を、マリコはきっと死の最後の瞬間まで拭えなかったと思います。

 

いつ自殺したっておかしくないくらいの不幸にボコボコにされていたマリコが、どんなきっかけで我慢の閾値を超えて自殺に至ったのか、真相は描かれていません。

事実だけを並べるとひたすら悲惨な話なのですが、主人公のシイノのパワフルさが物語全体を強い力で救っていて、読後感は良いです。良いというか、辛くならない。

マリコの遺骨を忌々しい実家と父親からもぎ取り、抱きかかえながら海へ旅するというプロットも素敵だし、シイノをはじめとし登場人物や数々の出来事や回想シーンがきちんとカタルシスとして機能していて、本当によく練られた作品だなぁと読み返すたびに感嘆します。

 

作中にも出てきますが、「生まれてくるとこ間違えた」という事態は本当にこの世に腐る程あると思います。

どうしても生まれる側は生まれる世界や環境を選べない。

どうしても救えない不幸がこの世にはあると思います。

間違えたねって受け入れるのも悪いことじゃないと思います。それで死にたくなって死んでも仕方ない。

でも、もし生き延びるなら、何かしら救われる意味づけがないとつらい。

救いと希望が同じものか違うものかわからないけれど、そういうものがないと、人は生きられないなと感じました。おわり。

夏の黎明:AAAMYYY「Leeloo」

AAAMYYYはここ数ヶ月気になっているアーティストです。

私が彼女を知ったのは結構遅くて、今年の1月にTENDREのライヴでキーボードとコーラスをやっているのを観てからでした。

ステージ上のAAAMYYYは独特の声と舞台映えする白い肌が印象的でした。

ライヴの後調べてYouTubeを観たりInstagramを見たりしました。

その後ラジオでShin Sakiuraとのフィーチャリング曲が流れたり、アニメ『BNA』のEDで毎週聴いたりするうちにますますハマりました。

 

そんなAAAMYYYが今月リリースした新曲「Leeloo」が、かなり不思議な迫力で心に響いたので記録しておきたいと思います。


AAAMYYY // Leeloo

最初にラジオからイントロが流れてきた時、夢から醒めたような冷たさと、郷愁みたいな懐かしい淋しさがありました。

それから歌い出しの「8月の〜夜は短〜し〜」がピタッとハマって、最初に感じた淋しさは、夏休みの夜にひとりで歩いてる時に感じる感覚に近いのだと分かりました。

 

夏のむわっとした蒸し暑い夜に近所のコンビニに行った帰りや、友人と夏祭りに行って別れたあと帰路につくときの、あのなんともいえない刹那の感覚を見事に音楽に昇華させた感じがしました。

日本には春夏秋冬と大きく4つの季節がありますが、「同じ夏は二度と来ない」という言い方は”夏”以外あまりハマらない気がするんですよね。

私は暑いのがとても苦手ですが、それでも夏という季節が一際特別な概念であるとは長年感じていました。それが何故なのかなかなか言語化できませんでしたが、その一つの答えをこの曲に教えてもらった感じです。

 

サビの幻想的で開放的な音の広がりも素晴らしく、歌詞も皮肉っぽい諦念があって絶妙にマッチしています。

愛と言えば許されるし

懺悔すればそれでおしまい

この言葉すごいパワーだなと感心しました。

少し乱暴にも思える割り切った雰囲気が、特に今年のような抑圧的で息苦しい夏に本当によく合っていると思います。

 

10代の頃にこの曲があったらどんな気持ちになっただろうと想像したりしました。

連想喚起力がある曲なので、いろんな人に聴いてほしくて、他人がどう感じたか知りたくなる、そんな歌でした。おわり。

 

***

 

Amazonの方が価格高い?なんでだろ。

Leeloo

Leeloo

  • AAAMYYY
  • エレクトロニック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

Leeloo

Leeloo

  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

なんだってマーケ:『ぼくは愛を証明しようと思う。』

大学で専攻した心理学は、そこそこ面白かったですがあまり夢中にはなれませんでした。面白かったなーってだけで、卒業したあと生活に役立てることもなかったし、学んだ知識もぼんやりとしか記憶に残っていませんでした。

だからびっくりしたんですが、藤沢数希著『ぼくは愛を証明しようと思う。』の中で、それまで「ふーん」としか思ってなかった理論の数々が活きた知恵として駆使され、次々と結果を出す様子が読んでいてとてもエキサイティングでした。学問って実際きちんとワークしてるところを見ると、こんなに楽しいものだったんだなって。

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎文庫)

  • 作者:藤沢 数希
  • 発売日: 2018/04/10
  • メディア: 文庫
 

物理学のPh.D.だったりトレーダーだったりして現在投資家としても活躍しているゴリゴリの理系の著者が創出した新学問「恋愛工学」。本書はあらゆる科学的手法を恋愛に組み込んだ、この新しい学問の入門書のようです。小説の形態をしていて物語としてもよく作り込まれており、笑って学べるハウツー本って感じでした。芥川龍之介作品のようによく計算されたタイプの物語で、最後の最後まで楽しめます。

 

主人公の渡辺正樹26歳は、東京・田町の特許事務所で働く弁理士の青年です。男子校出身で女性経験は浅く、物語序盤に付き合っている彼女に高額バッグのクリスマスプレゼントを渡した後トンヅラされ、打ちひしがれて冴えない27歳になったところからストーリーが始まります。

渡辺は気晴らしに学生時代の友人と行ったクラブで、仕事で知り合った永沢さんというイケてるおじさん(?おじさんではないかもですがモデルは多分著者だと思う)が美女にモテモテな様子を偶然目撃します。

永沢さんのモテっぷりに衝撃を受けた渡辺は、メールで永沢さんにアポをとり、どうやったら永沢さんのように美女にモテることができるのか、そしてセックスに困らなくなるのかについて教えを請います。こうして永沢さんによる恋愛工学指南が開始されたのでした・・・。

 

最初に成る程と思ったことは、男性にとってのセックスの重要さって計り知れないなということです。生物学的・遺伝子的要因とか色々理由はありますが、なんにせよ女性が渡辺たちのようにセックスのためにこんなに試行錯誤して取り組むことはそうそうないと思います。

なんだかんだ言って、やはり女性というだけでセックスにありつくハードルは全然低いんだなと。よって女性と男性ではモテの定義も成り立ちも全然違うんですね。

ちなみに、この作品で紹介される男性のモテの公式はこちら。

モテ=ヒットレシオ(女が喜んで股を開く確率)×試行回数 (女を誘った回数)

この説明だけ見ると、女性を道具としか見てないとか軽んじてるとか不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。特にこういう文学的なテーマに科学的アプローチを持ち込むとアレルギー反応を起こす人も少なくないと思うので。

 

しかし作者はそこにきちんと予防線を張っていて、私はとても感心しました。本当のところどう考えているかはわかりませんが、随所できちんと女性を人間として立てている記述があります。

「渡辺、ひとつ言っておくことがある」と永沢さんは言った。「お前もふくめて、多くのモテない男が、無視したり、ひどいことを言ったりする若い女のことをビッチと呼ぶ。本当は自分が相手にされないからむかついてるだけなんだが。世の中にビッチなんて存在しないんだ。彼女たちは、じつは、ただシャイだったり自信がなかったりするだけで、心をいったん開いてやれば、一途でとてもやさしかったりするもんだ。だから、これからは誰もビッチと言うんじゃない。わかったな」

確かにそうだな〜と。男性の言う「ビッチ」はつまり負け惜しみってことですね。

同性である女性がビッチと呼ぶことも結構ありますが、これは男性とは使い方が違いますね。

実際、貞操観念低めの女性が過去にレイプ被害にあっている確率が高い傾向はままあって、”心を開けば一途でやさしかったりする”のはあながち嘘でもないです。

 

下記も女性を立てていて、なおかつビジネスないしマーケティングに通ずる部分もあるなと思いました。

「ちょっとナンパができるようになって、何人かの女とセックスできると、すぐに勘違いしてしまう。女をまるで店の棚の上に並ぶ、お前の欲望を叶えるための商品みたいに思いはじめる。ちょっとばかりの労力、テクニック、それとデートのメシ代を払って、女の心を買おうとする」

「女は、自分をよく見せようと化粧をして、着飾っていても、決して売り物なんかじゃないんですね」

「そのとおりだ。そして、売り物なのは俺たちのほうだ。俺たちがショールームに並んでいる商品なんだよ。俺たちは、自分という商品を必死に売ろうとしている。女は、ショールームを眺めて、一番自分の欲望を叶えてくれそうな男を気まぐれに選ぶ。俺たちのような恋多きプレイヤーは、じつのところ、そうやって気まぐれな女に、選んでもらうことを待つ他ないんだよ」

さらに永沢さんは「だから、ときには売らないという選択をしなければいけないときだってある」と言います。絶対に自分を安売りするなと。

女は決して売り物なんかじゃないと書かれていますが、男も女もある側面では売り物だし、同時に買い手でもあると思うんですよね。なんか就職活動とか営業とかと似てるなーって思って読んでました。

調子に乗って勘違いしている男性が気持ち悪いと言われるのは、自分も同時に商品であり品定めされているということをわかっていないからです。変な圧迫面接するブラック企業も同じ。立場の強弱とは別に、それぞれが売り手と同時に買い手でもあり、どちらもそれぞれレビューされうるということを認識していない人は嫌われると思います。コミュニケーションの基本でしょ、とコミュ障の私でもわかる理屈。

 

***

 

渡辺が果敢にナンパにチャレンジしどんどんいい女を手中に収める様は、次々とダンジョンをクリアしてボスを倒していくRPGのゲーム実況を観ているようで実にワクワクしました。永沢さんもよく褒めてますが、渡辺はとにかくガッツがあり、駆け出しの新卒が営業部のホープに成長する様子ととてもよく似ています。

まず女性を喜ばせることを大事にし、理論に裏付けされたテクニックを相手の出方に合わせて駆使して無事セックスにありつくことと、まずお客様に喜んでもらうことを大事にし、フレームワークや戦略戦術を駆使してPDCAを回して業績を出すマーケティングはおそらく本質的に同じなんですよね。

営業マン時代、同じく営業歴が長い同僚が「成績のいい営業ほどよくモテる」と言っていたのを思い出しました。この本を読むと余計にそうだろうなと思えます。

 

また、こと恋愛に関して女性の言うことは全く当てにならないと言うのも、顧客アンケートの結果通りに仕様改善しても業績が上がらないケースが多々あることと似てると思います。

恋愛工学を知れば知るほど、そして、実際にたくさんの女の行動を目の当たりにすればするほど、世間に広まっている恋愛に関する常識は、すべて根本的に間違っていることを確信した。恋愛ドラマやJ-POPの歌詞、それに女の恋愛コラムニストがご親切にも、こうしたら女にモテますよ、と僕たちに教えてくれることの反対をするのが大体において正しかった。

本当にこれです!乙女ゲームの攻略対象なら一途なワンコくんも愛が重いヤンデレも素敵ですが、現実にそんな男性に好かれても多分面倒なだけなのです。一途に自分のことだけを愛してくれる優しい男性はフィクションだから価値があり、実際一緒にいて楽しいのは話が面白くてセックスの上手い、適度な距離感で接してくれる男の人なのです。

 

ティーヴ・ジョブズもお客様アンケートなんて多分当てにせず、もっと潜在的な顧客ニーズを掴もうとしていたはずです。相手の表面的な言葉に踊らされていては、きっと結果を出せないんでしょう。

似ている・・・恋愛もビジネスも、やっぱり市場的で、なんだってマーケティングなんだなぁ。

 

ちょうど先日仕事で女性たちに恋愛と結婚に関するアンケート調査をしたんですが、この本のことを思い出してちゃんちゃらおかしくて笑ってしまいました。女の人って、本当に言ってることとやってることが全然一致しないんですね。私も女なんですが、指摘されるまで気づかなかったです。

女が相手の収入を重視しないわけなかろうて。おわり。

 

***

 

なんと漫画もあるようですね。面白いのかな?表紙凄いけど(笑)

熱い情念:「死ぬのがいいわ」

藤井風のアルバムが本当に本当に良すぎて言葉を失うくらいなんです。

HELP EVER HURT NEVER(初回盤)(2CD)

HELP EVER HURT NEVER(初回盤)(2CD)

  • アーティスト:藤井 風
  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: CD
 

「優しさ」のイントロを初めて聴いたときの時の止まるような感動もとても忘れがたいのですが、最近私の心を掴んで離さないのがアルバムの8曲め、「死ぬのがいいわ」。

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

  • 発売日: 2020/05/20
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

タイトルから強すぎですが、まさにこの「死ぬのがい〜い〜わ〜〜」のサビがとても印象に残りました。

ライナーノーツなど読んでないので詳細はわかりませんが、吉原っぽいイメージが浮かぶ曲です。イントロのメロディが桜を彷彿とさせるような侘び寂びの効いた旋律で、藤井さんのセクシーな歌声とはんなりした西の言葉の歌詞が、どことなく別の時代や世界観を感じさせます。

 

サビの鬼気迫る、ある意味”ヤンデレ”とさえ言えるような執着と執念に満ちた歌詞が、独特のメロディと本当によくマッチしていて、一度聴いたら忘れられないです。

わたしの最後はあなたがいい

あなたとこのままおサラバするより

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

三度の飯よりあんたがいいのよ

あんたとこのままおサラバするよか

死ぬのがいいわ

死ぬのがいいわ

(藤井風「死ぬのがいいわ」『HELP EVERHURT NEVER』2020.5.20)

遊郭ものの乙女系ドラマCDやゲームを想起してしまうオタクの自分・・・。

下記とか。

籠女ノ唄 ~吉原夜話~ 第二話 君影

籠女ノ唄 ~吉原夜話~ 第二話 君影

  • アーティスト:桐生麻都
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: CD
 

 下記とか・・・。

吉原彼岸花 久遠の契り - Switch

吉原彼岸花 久遠の契り - Switch

  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: Video Game
 

強い慕情を歌っているからですかね。

 

もともと特にドラマのない人生を送っている私ですが、昨今の自宅待機ムードでますます外界との接触がなくなって、強い感情を抱く機会が全然ないんです。だからですかね〜この熱烈な情念が逆に癖になってしまって、心地よくすら感じてしまう。

 

あー何かすごいスペクタクルなロマンに滅茶苦茶に翻弄されたいです。おわり。

水は命:『We the Bathers』

素敵なショートフィルムを観ました。

石鹸などで有名なブランド”LUSH”のチャンネルで限定公開されている、水とバスタイムにフォーカスしたショートフィルムです。

『We the Bathers』は、ロンドン在住のフィービー・アーンシュタイン監督が世界12の場所で出会った、水によって解き放たれる人間の感情を主題とした短編ドキュメンタリー映画です。ひそかに観察するような視点で展開する本作品は、あなたを世界中のバスルームへと誘い込みます。 日常が不確かに思える今だからこそ、水で繋がる一人ひとりの暮らしや人生に触れたとき、私たちにもまた明日がくることに感謝の気持ちが持てるかもしれません。本作品が、皆さんの日常に心地よく染み渡ることを願って。

 

とても静かで、力強く、切なく、途方もない願いを抱かせるような、美しく素晴らしい作品だと思いました。

 

日本は水に恵まれていると昔から言われてますね。

小学校でソフトボール部だった時、真夏の太陽の下で汗だくになりながら校庭でボールを投げたりバッドを振って走ったりした後、水道の蛇口からゴクゴク飲んでいた水の味の美味しさといったらなかったです。

幼い頃住んでいた市営住宅では、ベランダや駐車場近くの共用水道のところで子供用のビニールプールに水を貯めて水鉄砲したりして遊びました。小学校低学年の時には水風船が流行って、男子と投げ合ってびしょ濡れになったものでした。

子供の頃は、水は遊びの道具であり、ありふれて特に気にも留めない、生活に溶け込みすぎて意識することもない、空気みたいな存在だったように思います。

 

小学6年生の時、修学旅行で東京のホテルに泊まった時、どうも水が塩素臭い味がする気がしました。今でも飲めなくはないですが美味しくはないと思います。

小樽の街中のトイレを利用した時、ゴールデンウィークの真っ只中でしたが、凍てつくような冷たい水道水にびっくりしました。

ロンドンで泊まったホテルのシャワーは、見た目は綺麗だけれどなんとなくあまり体に良くない感じのにおいがしました。

バンコクのホテルで浴びたシャワーは、ホコリっぽい雑多な外気のにおいがしました。

今住んでいるマンションの水道水はなぜか藻を連想させる独特の風味がして飲み込めず、齢30にして料理で使う水や飲み水などは全て買ってきたミネラルウォーターを使う、欧米のような生活になりました。

 

今は港町に住んでいるので、散歩に出歩くだけで海が見られます。これはとても画期的なことです。

私の故郷は海なし県で、近所に大した川も湖もなく、せいぜい神社の裏手にちょっとした池があるくらいだったので、水辺に対しては焦がれる気持ちが特に強いです。ゴールデンウィークや夏休みの晴天の日には、車で隣県の砂浜に行くのが好きでした。

鉄道が好きになり一人旅するようになってからも、新潟の海のテトラポットの上で昼寝したり、大荒れの日本海をひたすら眺めて北上する五能線に乗ったり、宍道湖や琵琶湖の雄大さに心奪われたりと、水辺の近くにくるとテンションが上がるので好きでした。

今のような気の塞ぎがちな時、私が行きたいと思うのはいつだって親しんだ森林や山に囲まれた盆地ではなく、風が波音を立てる水辺です。

ただ水面やその先の水平線や上空に広がる空を見つめてぼーっとするだけなのに、どうしてああも心穏やかになるのでしょう。水の不思議です。

 

***

 

このショートムービーでは、世界のいろんな場所のいろんな境遇の人たちの入浴シーンが映っています。

エヴァンゲリオン葛城ミサトが「風呂は命の洗濯」と言っていたのを先日また鑑賞したところで、つくづくその通りだなぁと改めて感心しました。

アニメやゲームに夢中になっていたり、疲れていたりすると、入浴って結構面倒に感じるものですが、それでも風呂上がりはやっぱりさっぱりして心も体も軽くなります。

 

思春期の頃、よく半身浴しながら学校の人間関係で思い悩んだり好きな人のことを考えてやきもきしたり、何かとお風呂場で考え込む癖がありました。この頃から今に至るまで、私はどちらかというと長風呂タイプだと思います。

高校の合格発表の後に合格者は中学に集まって学校に報告するという慣習があり、その日の夜お風呂場でものすごく号泣したのを今でもよく覚えています。

無事志望校に合格し、報告しに行った中学の教室で最後に見かけた好きな男の子に、私は結局なんの告白もせずに帰宅しました。

毎日好き好き大騒ぎしていたので、相手の男の子も私に好かれていることはほぼ確実に認識しているんですが、結局最後まで面と向かっては何も言わなかったのです。バレンタインに手作りのお菓子をあげた時も、なんて言ったのか全然覚えてません。

志望校に入学が決まったのに、万事うまく行っているのに、夜ひとりでお風呂に浸かると楽しかったそれまでの生活の様子がわーっと頭の中に浮かんでは消えまた浮かんでは消え、そして気づきました。

もうあの日々はいってしまったんだなぁって。過ぎ去って遠くにいってしまったんだって。

毎日あんなに近くで見つめていたあの子にも、もう会えないんだって。

(同じ町に住んでるのだし会おうと思えば方法はあるのですが)

なんの努力もせず、好きな男の子をただただ盗み見て好き好き騒いでいたあの楽しかった日々は、もう終わってしまったのだ、ということをじわじわと認識してきて、どうしようもなく悲しくて声を殺して大泣きしました。

お風呂にまつわる自分の記憶の中で、一番強く残っている思い出です。

 

水やお湯がそうさせるのか、一糸まとわぬ無防備な姿になるからなのか、あるいはその他の要因もあるのかわかりませんが、

お風呂は自分と対話するのにとても適した空間の一つだと、この映画を観て再認識しました。

 

なんとなく、この作品を観ながら頭の片隅に谷川俊太郎「朝のリレー」が想起されました。

あさ/朝

あさ/朝

 

目覚め、食事、入浴、セックス、眠り、

感染症、政治問題、格差、差別、環境問題、

世界のどこにいても、自分が男でも女でもどんな人種でも職種でも何歳でも、

 

全ての人にそれぞれの生活がありそれぞれの問題があり諦めがある。

 

という、当たり前のことを思い出すいいきっかけになる作品だと思います。詩も映画も。

いい作品に出会えてよかったです。おわり。

私を少し掬い上げてくれるもの

昨年夏に都心勤務になって、都会とお出かけが好きな私は意気揚々としていたものですが、まさか1年も経たずに狭いマンションに缶詰になる日々か来るとは考えてもいませんでした。

在宅勤務は昔からの夢でもあったのでそれはそれでありがたいことなのですが、こんないいお天気のゴールデンウィークに海にもフェスにも旅行にも行けないというのは、やはりつらいものがあります。

 

来る日も来る日も家にこもってインターネットをしていると、10代の頃を思い出します。

今では電車や飛行機に乗って遠くに出かけるのが大好きな私ですが、10代の頃はどちらかというとインドア派の人間でした。

中学でも高校でも、夏休みのような長期休暇に部活がない日は宿題そっちのけで自宅でいつもインターネットをしていました。昔は今みたいに動画サイトが充実していなくて、HTMLを見よう見まねで書いてテキストサイトを作ったり、ブログを書いたりしていました。

大学生になった頃にはアニメがだいぶネット上で見られるようになり、暇さえあれば新しいアニメを貪るように観ていました。

 

あの頃は自粛要請が出されていたわけでもないのに、自発的に自宅にこもっていました。

家から出ようと思えばいつでも出られる、けれど家の中にもっと夢中になれるものがあったので家にいたわけです。

もともと友達もそんなにいないし、一人っ子なので一人で過ごすのは得意だし好きでした。

けれども、今こうして"要請"という形を受けて自宅にこもっていると、だんだんストレスが溜まってくるのを看過できないなぁとも感じ始めました。

 

本格的に全社的に原則在宅勤務になって最初の一週間くらいは、自宅で自分の好きなリズムで働けて化粧もしなくてよくて、時間に余裕が生まれてオンラインヨガなんかもやってみたりして楽しいなと思ってたんですが、やはり旅行に行きたいし電車に乗りたいし、ちょっと足を伸ばして海に散歩に行ったり本屋を物色したり、カラオケに行ったりウィンドウショッピングしたりしたいといった欲が出てきました。

電車が運休しているわけではないので海くらいなら行こうと思えば行けるんですが、その不要不急の外出で例のウイルスに感染してしまったら・・・?と思うと、どうしても外出する気になれませんでした。

 

日に日に前向きな気持ちを保つことが難しくなり、身体の調子も少しおかしくなり、「外に出ない」ということが自分に及ぼす影響をひしひしと感じています。

もともと外向的でなかった私でさえこうなのだから、私よりもっとフットワークが軽く行動的だった方はさぞやしんどいだろうと思います。

 

今日は備忘録として、この静かにしんどい日々に、心の支えになっているコンテンツを記録しておこうと思います。

 

***

 

1)とっくんの料理動画


自分を大蛇丸と信じて止まない一般男性が、焼きそばとビールで優勝する動画です。

昨年末くらいから彼の動画に影響されて自炊することが増えたのですが、これがいまの事態にかなり活きています。

仕事が忙しくて自炊することがめっきり減っていましたが、職種が変わって時間に少し余裕ができた頃に彼の動画を発見しました。

レシピを詳しく解説している動画ではないですが、その料理の大まかさとアニメの声真似の面白さにハマっています。

上記の動画を見て、先日初めて自分で焼きそばを作りました。焼きそばという食べ物自体、外食しかしていないとなかなか想起することが無い食べ物だと思いました。子供の頃は家で食べていたけれど、それはハハが作っていたからであって、焼きそばは好きですがわざわざお店に出向いたりテイクアウトしてまで食べたいものではなかったのです。

外食が難しくなってきた昨今、ハードルの低い簡単な自炊はスキルとして重宝します。もともと料理が嫌いなわけではなかったですが、この動画の登場により自炊が一層面白くなりました。これはクックパッドやレシピ本だけではなし得なかった革命だと思います。

料理は出来上がった品を食べるという楽しみはもちろん、具材を刻んだり炒めたり煮込んだりという工程一つ一つが思考をクリアにするという作用もあり、精神衛生上もとても良いことだと改めて感じました。

 

2)WONKの音楽

以前感想を書いたこともありますが、「音楽聴きたいな」と思った時最近真っ先に頭に浮かぶのはWONKです。


WONK - HEROISM (Official Audio)

震災などで世の中が辛い状況の時、ラジオ局ではよく「元気が出るリクエスト特集」的な企画をやります。

すると大体ドリカムとかZARDとか、応援ソングっぽいものが流れたり、明るいダンスミュージックがリクエストされたりするのですが、私はあんまり直截的な曲だとかえって神経を逆撫でされてしまいます。

 

自宅で一人鬱々としている時、聴きたくなるのはWONKの芳醇な歌声や美しい鍵盤やサックスやフルートの音色、心をフラットにしてくれるドラムやベースのビートです。無理に明るくもなく、逆に暗くもなく、常温で心地よくかつ美しいメロディ。それがいま一番欲しいものなのだと思いました。

 

香取慎吾さんのfeat.曲もとても好きです。

Metropolis (feat. WONK)

Metropolis (feat. WONK)

  • 発売日: 2020/01/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

3)やっぱりアニメ

小説も映画もゲームも良いですが、やはり一番労力をかけず心を震わせられるのはアニメだなぁと改めて思いました。

今期も面白い作品が多く放送されており、本当に心の救いです。放送延期などのニュースもありますが、現場のスタッフの皆様に感謝しながら気長に楽しみたいと思います。

 

特に最近楽しみにしている作品は以下。

 

hamehura-anime.comテンポよしキャラ良しストーリーよしの笑いと萌えが詰まった良作です。

 

booklove-anime.jp一期から観ていましたが、二期は主人公のマインが世界を変えていく様子がより活き活きと描かれていてとても面白いです。ビジネスマンにも役立つ処世術なども描写されていて勉強にもなると思います。

 

kaguya.loveこちらも一期から最高でしたが相変わらず面白いです。原作漫画もおすすめです。

 

singyesterday.comこちらは最近少なかった成人向けの正統派群像劇アニメです。一昔前の時代背景も懐かしさを誘って良いですね。

 

他にも「攻殻機動隊」や「かくしごと」など、楽しみにしているアニメがいくつもあります。

また、エヴァの劇場版など、改めてみかえす昔の傑作ももちろんあります。

辛い時や気持ちが鬱ぎ込む時、一番心の近くにあるコンテンツは、やっぱり私にとってはアニメなのだなぁと、しみじみ思います。

どうか心の平静を保って入られますように。おわり。

同性を愛することと自身を慈しむこと:『生のみ生のままで』

最近私がひたすらに考えているテーマが「いかにして自分を慈しむか」なんですが、

先日読んだ綿矢りさ『生のみ生のままで』は予想外の角度からこのテーマに一石投じる良作でした。

綿矢りさといえば私の世代にとってはもはやレジェンド作家であり、このブログでも度々感想を書いていますが、この作品もやはりとても面白くてなおかつ心に残る物語でした。

 

物語序盤、主人公の南里逢衣と荘田彩夏は同い年で二十代半ば、夏休みにそれぞれの彼氏に連れられて赴いた秋田の寂れたリゾート施設で出会います。

逢衣は正社員の携帯ショップ店員で、彩夏はブレイク寸前の女優でした。

逢衣に一目惚れした彩夏はしかし持ち前のプライドの高さで出逢った当初は逢衣にツンケンした態度をとっており、逢衣も彩夏の鼻持ちならない態度に内心憤りを感じていました。

しかしダブルデートで海に行った帰りに起きた激しい嵐と雷鳴の中を二人で凌いだ体験などから、二人はだんだん意気投合し、東京に戻ってからも友人としてつきあいづつける仲になりました。

逢衣が職場で毎週末やってくる粘着クレーマーに困っている所に、”西池袋のカナエ”というキャラクターに扮した彩夏がやってきて撃退する場面はめちゃくちゃ爆笑しました。ここだけでもまずは必読です。

 

二人で飲み歩いたりカラオケに行ったり、友達として仲を深めていった逢衣と彩夏でしたが、彩夏が彼氏の琢磨と別れ、逢衣が彼氏の颯と両親に挨拶に行き式場見学をした話をするところから二人の関係は一気に変わりだします。

逢衣の結婚間近な近況報告を受けて、彩夏は自分を保てなくなり、寝室で塞ぎ込んでしまいました。心配した逢衣が近づくと、彩夏は急に激しい情欲を逢衣にぶつけます。

友達だと思っていた彩夏にいきなり性愛の意を打ち明けられた逢衣は混乱し拒絶しますが、その後自分の中で彩夏の存在がどんどん大きくなるのを止められず、ついに逢衣は颯と別れ彩夏と付き合う選択をします。

 

このあいだの、彩夏と逢衣の葛藤はなかなか興味深かったです。彩夏も逢衣ももともと男性としか付き合ったことがなかったけれど、出逢った一瞬で彩夏は逢衣に恋に落ちたし、逢衣も彩夏の想いに何度も拒絶しながらも通じていくんです。この、異性愛しか知らなかった二人が、違和感を抱えつつ同性に惹かれていく過程というのは、私にとっては想像の域を出ないけれどもリアリティがちゃんとあって、きちんと心に迫ってきました。

 

この物語は長編で、単行本は上下巻に別れています。上巻の中でいちばん印象深かったのは、逢衣と彩夏が付き合い始めて同棲し、家庭用脱毛器で互いのアンダーヘアを脱毛し合うところです。

本当はサロンで全身脱毛したかった逢衣ですが、密室でほぼ全裸での施術となる脱毛に対して、エステティシャンに彩夏が嫉妬してしまうという理由から「互いに家で脱毛し合う」という結論に至った、という経緯が新鮮で面白かったです。

私の勤める会社では家庭用脱毛器の販売もしており、「こういうニーズもあったのか!」と目からウロコでした。

また、逢衣たちが互いのアンダーヘアを痛がったりじゃれ合ったりしながら脱毛し合う様子に、どこか”自尊心の筋トレ”としての美容を感じるところがあったのも興味深かったです。

 

異性である彼氏のために”キレイになりたい”と思うのと、同性である彼女のために”キレイでありたい”と思うことの間に、心の在り方の違いを感じました。

女性の感じる「可愛い・美人」と男性の感じるそれには明らかな違いがあり、同性パートナーである彼女のために美しくあろうとする姿勢は、翻って自分自身が美しいと感じる自分であろうとする気持ちにより直結している気がします。

「彼のために頑張るワタシ」には感情移入しづらいけれど、「彼女のために頑張るワタシ」には共感できるというか・・・私は別に同性愛者でも彼女持ちでもないんですが。同性である彼女を愛するという行為の中には、女性として自分を愛するということも内在している節があるなと思ったんです。実際の同性愛の方は全然違うかもしれませんが、少なくともこの物語を読んだヘテロの私はそう感じたという。

そしてそのことが、今の私にとってはとても尊く映ったんです。とても。

 

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上巻の終盤、彩夏の後輩が隠し撮りを週刊誌にリークしてしまい、逢衣たちの仲は引き裂かれてしまいます。

芸能人としてまさに花開こうという時期の彩夏の将来を案じて身を引いた逢衣は、今は辛くともいつかまた一緒になれるという望みを捨てずに日々自己研鑽します。彩夏のツテで就いた出版社の契約社員の職に死に物狂いでくらいつき努力して正社員になり、筋トレや美容も欠かさず、いつか彩夏にまた会える日に備えて己を磨き続けました。

彩夏も極限まで仕事をこなし、一躍トップスターにのぼり詰めました。

 

人気絶頂だった彩夏が体調を崩し突然の芸能界引退を発表したのは、二人が別れてから7年の月日が経った頃でした。

彩夏の身を案じ手紙を書いた逢衣でしたが、彩夏からの返答は一切来ず、連絡を取り持ってくれたかつての彩夏のマネージャー伝いで「会うつもりはない」と言われた逢衣のもとに、彩夏の母親から連絡がきます。

もともと家族仲の良くなかった彩夏と母親でしたが、彩夏の病気による自暴自棄に手が負えなくなった母親から、逢衣は彩夏を託されます。

 

彩夏の母親から、彩夏の数少ない持ち物だというバスケットを渡された逢衣。彩夏の母親と別れてからその中を覗くと、そこには昔の逢衣と彩夏の写真がたくさん入っていました。

この場面でかなり泣きました。熱い熱いラブストーリーの中で、登場人物たちの苦しみというのは大きな山場で、ここはまさにその感情の波のピークでした。

もともとあまり写真を撮る習慣がなかった逢衣たちの、数少ないいくつかの記録。逢衣が自宅で料理している様子を彩夏が撮ったものや二人の自撮り、たまたま同じ招待状が届いて二人で赴いたパーティーでスナップされたツーショットなど、数種類の写真がそれぞれ何枚も何十枚も複製されてカゴに入っていました。

まだまだ一緒に過ごす時間はたくさんあるから、これから撮っていけばいいと呑気に構えていたのもある。こうなると分かっていたら、私は彩夏の一挙手一投足にシャッターを切っただろう。だから彩夏は同じ写真を何枚も複製するしかなかったのだろうか。

手に取ってつぶさに眺めたかったが、手がこわばり上手く動かせなくて、結局しゃがんでバスケットの中身を眺めていると、涙がぽたぽたと写真の上に落ちた。会えなくなれば思い出は増えない。何度も何度も擦り切れるまでかつての思い出を温め直すしかない。同じだけ孤独な年月を過ごした私には、彩夏の行為の意味が分かりすぎるほど分かる。

綿矢りさ『生のみ生のままで<下>』集英社 2019.6.30)

逢いたい人に逢えない苦しみというのを味わったことが私は本当になくて、それなのに(それだから?)私はこの手の悲しみになぜかとても弱くてすぐ泣いてしまいます。

 

”会えなくなれば思い出は増えない”というのも、とても重い言葉だと思いました。特に昨今の世界情勢では、オンライン会議ツールなど様々な工夫はできるものの、人に会うという行為のハードルがとても高い状況ですので、余計にそう感じるのかもしれません。

 

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7年ぶりに目の前に現れた逢衣に、あなたとの縁はもう切れたと言わんばかりの冷たい態度で当たった彩夏にもめげず、逢衣はかつて二人で住んでいたマンションの一室を借り上げ、そこで彩夏とまた一緒に暮らしながら彼女の看病をします。

もともと高かったプライドを病に捻じ曲げられ気難しくなっていた彩夏を、根気強く支えながらひっそりと欲情する逢衣の様子が丹念に描かれていました。

 

いつか彩夏が元気になった時にまた愛し合えるよう身体を鍛えたり美容に気を使ったりする逢衣の様子も、だんだん病状が快方に向かい自分の美貌を取り戻そうと自分を磨く彩夏の様子も、互いへの愛と自分への愛が溢れているように感じてとても美しいなと思いました。

 

美容の尊さを近頃とみに感じている私ですが、健康というのはそれよりもっと手前の次元の話で、美容は健康という基盤がないと成り立たないものなのだと再認識しました。

 

 彼女は客観的に自分を見ているように語ったが、実際はとても怯えていた。あんなにも内側から湧き出てくる自信に裏打ちされて輝いていた人が、今では人目を気にして、ほとんど一歩も外に出られなくなっている。

病気や闘病は美とは違う次元の出来事だ。不本意にも自分の身体が病に蝕まれた場合、これまで享受してきた洗練や調和の取れた美しい世界からは一旦身を引いて、まずは健康に戻る努力から始めなければならない。しかし彩夏はその切り替えがどうしてもうまく行かずに、相変わらずの厳しい美意識で自己を見つめていた。そうなると彼女の基準値を満たせないのは当然で、彼女はどんどん身体と喧嘩して、身体を叱咤し続けて、あげく見放す気持ちにすらなりかけている。

彼女の自分の身体に対する態度には、正直腹が立った。私には彼女の身体しかないというのに、早々に見捨てたり、粗末に扱わないで欲しい。

(同上)

 

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この作品はとても熱量の高いラブストーリーなので、自ずとベッドシーンも丁寧に描かれています。

BLの読みすぎとか同人音声作品の聴きすぎとかが影響して、今の私にとってセックスやエロというのは恋愛や性欲よりもお笑いやコントといったコンテンツに含まれる事象になってしまっています。

けれど逢衣と彩夏のセックスは愛欲の純度が高すぎて、茶化すこともできないほど体当たりで切実なものでした。「セックスって本来こういうものだったな」と正気に戻り、ちょっと反省しました。

生きている限り人間は何かを食べて、夜になれば眠る。生殖だけが目的ではないとほとんどの人が気づいているのに、なぜこの欲だけは”いつかは枯れる”と信じ込まれているのだろう。

いつかは燃えて灰になる。どれだけ息巻いて足掻いても、結局最後は骨しか残らない。今しか動いていない。ものすごく不遇な最期を迎える可能性も否定しきれない。百年後には間違いなく実在しない自分の手、彼女の手、みんなの手。この肉体を故意に苦しめる必要は、一体どこにあるだろうか?命は儚い。ただ愛とか栄光とか幸福とか友情とか、もっと儚いものが身近にありすぎるため忘却しているだけだ。

どんな退屈な毎日の連続でも、同じ場所には留まっていられない。絶えず時間を移動し肉体を衰えさせて確実に死に近づいていく。骨や灰や塵になる、それまでの短いひととき、なんで自分を、もしくは誰かを、むげに攻撃する必要があるだろうか。

(同上)

 私が物心ついてから、おそらく今が一番全世界的に命の儚さを感じるご時世だなと感じます。

東日本大震災に被災した時も、もっと個人的な事柄で、小学生の時に車に轢かれそうになった時や10tトラックに営業車で突っ込んだ時も、文字通り”死ぬかと思った”ものです。しかし地球上のどこにも安全地帯が無いことがこれほど明確な今、本当になす術がなく、ちょっとしたきっかけで死んでしまうかもしれないのだなとつくづく思います。

 

流行病があってもなくても、いつか死んでしまうという事実は泰然と全ての人の人生に横たわってるんですよね。だったら、やっぱり限られた時間は、それが数日でも数年でも数十年でも有限であることには変わりがないわけで、その限られた時間のなかで、私はできるだけ私を愛したいし、大切な人ができたらその人のことも愛したいし、誰だか知らない赤の他人でも攻撃するよりはやさしい気持ちで接したいなと、上記の独白を読んであらためて思いました。おわり。