れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

同性を愛することと自身を慈しむこと:『生のみ生のままで』

最近私がひたすらに考えているテーマが「いかにして自分を慈しむか」なんですが、

先日読んだ綿矢りさ『生のみ生のままで』は予想外の角度からこのテーマに一石投じる良作でした。

綿矢りさといえば私の世代にとってはもはやレジェンド作家であり、このブログでも度々感想を書いていますが、この作品もやはりとても面白くてなおかつ心に残る物語でした。

 

物語序盤、主人公の南里逢衣と荘田彩夏は同い年で二十代半ば、夏休みにそれぞれの彼氏に連れられて赴いた秋田の寂れたリゾート施設で出会います。

逢衣は正社員の携帯ショップ店員で、彩夏はブレイク寸前の女優でした。

逢衣に一目惚れした彩夏はしかし持ち前のプライドの高さで出逢った当初は逢衣にツンケンした態度をとっており、逢衣も彩夏の鼻持ちならない態度に内心憤りを感じていました。

しかしダブルデートで海に行った帰りに起きた激しい嵐と雷鳴の中を二人で凌いだ体験などから、二人はだんだん意気投合し、東京に戻ってからも友人としてつきあいづつける仲になりました。

逢衣が職場で毎週末やってくる粘着クレーマーに困っている所に、”西池袋のカナエ”というキャラクターに扮した彩夏がやってきて撃退する場面はめちゃくちゃ爆笑しました。ここだけでもまずは必読です。

 

二人で飲み歩いたりカラオケに行ったり、友達として仲を深めていった逢衣と彩夏でしたが、彩夏が彼氏の琢磨と別れ、逢衣が彼氏の颯と両親に挨拶に行き式場見学をした話をするところから二人の関係は一気に変わりだします。

逢衣の結婚間近な近況報告を受けて、彩夏は自分を保てなくなり、寝室で塞ぎ込んでしまいました。心配した逢衣が近づくと、彩夏は急に激しい情欲を逢衣にぶつけます。

友達だと思っていた彩夏にいきなり性愛の意を打ち明けられた逢衣は混乱し拒絶しますが、その後自分の中で彩夏の存在がどんどん大きくなるのを止められず、ついに逢衣は颯と別れ彩夏と付き合う選択をします。

 

このあいだの、彩夏と逢衣の葛藤はなかなか興味深かったです。彩夏も逢衣ももともと男性としか付き合ったことがなかったけれど、出逢った一瞬で彩夏は逢衣に恋に落ちたし、逢衣も彩夏の想いに何度も拒絶しながらも通じていくんです。この、異性愛しか知らなかった二人が、違和感を抱えつつ同性に惹かれていく過程というのは、私にとっては想像の域を出ないけれどもリアリティがちゃんとあって、きちんと心に迫ってきました。

 

この物語は長編で、単行本は上下巻に別れています。上巻の中でいちばん印象深かったのは、逢衣と彩夏が付き合い始めて同棲し、家庭用脱毛器で互いのアンダーヘアを脱毛し合うところです。

本当はサロンで全身脱毛したかった逢衣ですが、密室でほぼ全裸での施術となる脱毛に対して、エステティシャンに彩夏が嫉妬してしまうという理由から「互いに家で脱毛し合う」という結論に至った、という経緯が新鮮で面白かったです。

私の勤める会社では家庭用脱毛器の販売もしており、「こういうニーズもあったのか!」と目からウロコでした。

また、逢衣たちが互いのアンダーヘアを痛がったりじゃれ合ったりしながら脱毛し合う様子に、どこか”自尊心の筋トレ”としての美容を感じるところがあったのも興味深かったです。

 

異性である彼氏のために”キレイになりたい”と思うのと、同性である彼女のために”キレイでありたい”と思うことの間に、心の在り方の違いを感じました。

女性の感じる「可愛い・美人」と男性の感じるそれには明らかな違いがあり、同性パートナーである彼女のために美しくあろうとする姿勢は、翻って自分自身が美しいと感じる自分であろうとする気持ちにより直結している気がします。

「彼のために頑張るワタシ」には感情移入しづらいけれど、「彼女のために頑張るワタシ」には共感できるというか・・・私は別に同性愛者でも彼女持ちでもないんですが。同性である彼女を愛するという行為の中には、女性として自分を愛するということも内在している節があるなと思ったんです。実際の同性愛の方は全然違うかもしれませんが、少なくともこの物語を読んだヘテロの私はそう感じたという。

そしてそのことが、今の私にとってはとても尊く映ったんです。とても。

 

***

 

上巻の終盤、彩夏の後輩が隠し撮りを週刊誌にリークしてしまい、逢衣たちの仲は引き裂かれてしまいます。

芸能人としてまさに花開こうという時期の彩夏の将来を案じて身を引いた逢衣は、今は辛くともいつかまた一緒になれるという望みを捨てずに日々自己研鑽します。彩夏のツテで就いた出版社の契約社員の職に死に物狂いでくらいつき努力して正社員になり、筋トレや美容も欠かさず、いつか彩夏にまた会える日に備えて己を磨き続けました。

彩夏も極限まで仕事をこなし、一躍トップスターにのぼり詰めました。

 

人気絶頂だった彩夏が体調を崩し突然の芸能界引退を発表したのは、二人が別れてから7年の月日が経った頃でした。

彩夏の身を案じ手紙を書いた逢衣でしたが、彩夏からの返答は一切来ず、連絡を取り持ってくれたかつての彩夏のマネージャー伝いで「会うつもりはない」と言われた逢衣のもとに、彩夏の母親から連絡がきます。

もともと家族仲の良くなかった彩夏と母親でしたが、彩夏の病気による自暴自棄に手が負えなくなった母親から、逢衣は彩夏を託されます。

 

彩夏の母親から、彩夏の数少ない持ち物だというバスケットを渡された逢衣。彩夏の母親と別れてからその中を覗くと、そこには昔の逢衣と彩夏の写真がたくさん入っていました。

この場面でかなり泣きました。熱い熱いラブストーリーの中で、登場人物たちの苦しみというのは大きな山場で、ここはまさにその感情の波のピークでした。

もともとあまり写真を撮る習慣がなかった逢衣たちの、数少ないいくつかの記録。逢衣が自宅で料理している様子を彩夏が撮ったものや二人の自撮り、たまたま同じ招待状が届いて二人で赴いたパーティーでスナップされたツーショットなど、数種類の写真がそれぞれ何枚も何十枚も複製されてカゴに入っていました。

まだまだ一緒に過ごす時間はたくさんあるから、これから撮っていけばいいと呑気に構えていたのもある。こうなると分かっていたら、私は彩夏の一挙手一投足にシャッターを切っただろう。だから彩夏は同じ写真を何枚も複製するしかなかったのだろうか。

手に取ってつぶさに眺めたかったが、手がこわばり上手く動かせなくて、結局しゃがんでバスケットの中身を眺めていると、涙がぽたぽたと写真の上に落ちた。会えなくなれば思い出は増えない。何度も何度も擦り切れるまでかつての思い出を温め直すしかない。同じだけ孤独な年月を過ごした私には、彩夏の行為の意味が分かりすぎるほど分かる。

綿矢りさ『生のみ生のままで<下>』集英社 2019.6.30)

逢いたい人に逢えない苦しみというのを味わったことが私は本当になくて、それなのに(それだから?)私はこの手の悲しみになぜかとても弱くてすぐ泣いてしまいます。

 

”会えなくなれば思い出は増えない”というのも、とても重い言葉だと思いました。特に昨今の世界情勢では、オンライン会議ツールなど様々な工夫はできるものの、人に会うという行為のハードルがとても高い状況ですので、余計にそう感じるのかもしれません。

 

***

 

7年ぶりに目の前に現れた逢衣に、あなたとの縁はもう切れたと言わんばかりの冷たい態度で当たった彩夏にもめげず、逢衣はかつて二人で住んでいたマンションの一室を借り上げ、そこで彩夏とまた一緒に暮らしながら彼女の看病をします。

もともと高かったプライドを病に捻じ曲げられ気難しくなっていた彩夏を、根気強く支えながらひっそりと欲情する逢衣の様子が丹念に描かれていました。

 

いつか彩夏が元気になった時にまた愛し合えるよう身体を鍛えたり美容に気を使ったりする逢衣の様子も、だんだん病状が快方に向かい自分の美貌を取り戻そうと自分を磨く彩夏の様子も、互いへの愛と自分への愛が溢れているように感じてとても美しいなと思いました。

 

美容の尊さを近頃とみに感じている私ですが、健康というのはそれよりもっと手前の次元の話で、美容は健康という基盤がないと成り立たないものなのだと再認識しました。

 

 彼女は客観的に自分を見ているように語ったが、実際はとても怯えていた。あんなにも内側から湧き出てくる自信に裏打ちされて輝いていた人が、今では人目を気にして、ほとんど一歩も外に出られなくなっている。

病気や闘病は美とは違う次元の出来事だ。不本意にも自分の身体が病に蝕まれた場合、これまで享受してきた洗練や調和の取れた美しい世界からは一旦身を引いて、まずは健康に戻る努力から始めなければならない。しかし彩夏はその切り替えがどうしてもうまく行かずに、相変わらずの厳しい美意識で自己を見つめていた。そうなると彼女の基準値を満たせないのは当然で、彼女はどんどん身体と喧嘩して、身体を叱咤し続けて、あげく見放す気持ちにすらなりかけている。

彼女の自分の身体に対する態度には、正直腹が立った。私には彼女の身体しかないというのに、早々に見捨てたり、粗末に扱わないで欲しい。

(同上)

 

***

 

この作品はとても熱量の高いラブストーリーなので、自ずとベッドシーンも丁寧に描かれています。

BLの読みすぎとか同人音声作品の聴きすぎとかが影響して、今の私にとってセックスやエロというのは恋愛や性欲よりもお笑いやコントといったコンテンツに含まれる事象になってしまっています。

けれど逢衣と彩夏のセックスは愛欲の純度が高すぎて、茶化すこともできないほど体当たりで切実なものでした。「セックスって本来こういうものだったな」と正気に戻り、ちょっと反省しました。

生きている限り人間は何かを食べて、夜になれば眠る。生殖だけが目的ではないとほとんどの人が気づいているのに、なぜこの欲だけは”いつかは枯れる”と信じ込まれているのだろう。

いつかは燃えて灰になる。どれだけ息巻いて足掻いても、結局最後は骨しか残らない。今しか動いていない。ものすごく不遇な最期を迎える可能性も否定しきれない。百年後には間違いなく実在しない自分の手、彼女の手、みんなの手。この肉体を故意に苦しめる必要は、一体どこにあるだろうか?命は儚い。ただ愛とか栄光とか幸福とか友情とか、もっと儚いものが身近にありすぎるため忘却しているだけだ。

どんな退屈な毎日の連続でも、同じ場所には留まっていられない。絶えず時間を移動し肉体を衰えさせて確実に死に近づいていく。骨や灰や塵になる、それまでの短いひととき、なんで自分を、もしくは誰かを、むげに攻撃する必要があるだろうか。

(同上)

 私が物心ついてから、おそらく今が一番全世界的に命の儚さを感じるご時世だなと感じます。

東日本大震災に被災した時も、もっと個人的な事柄で、小学生の時に車に轢かれそうになった時や10tトラックに営業車で突っ込んだ時も、文字通り”死ぬかと思った”ものです。しかし地球上のどこにも安全地帯が無いことがこれほど明確な今、本当になす術がなく、ちょっとしたきっかけで死んでしまうかもしれないのだなとつくづく思います。

 

流行病があってもなくても、いつか死んでしまうという事実は泰然と全ての人の人生に横たわってるんですよね。だったら、やっぱり限られた時間は、それが数日でも数年でも数十年でも有限であることには変わりがないわけで、その限られた時間のなかで、私はできるだけ私を愛したいし、大切な人ができたらその人のことも愛したいし、誰だか知らない赤の他人でも攻撃するよりはやさしい気持ちで接したいなと、上記の独白を読んであらためて思いました。おわり。