現在放送中のアニメ『バビロン』がめちゃくちゃ面白くて、原作者の野崎まどさんの著作を漁っています。
『know』はバビロンとはまた違った雰囲気で、やはりこれも示唆に富む良作でした。
あらすじは以下。
超情報化対策として、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された2081年の日本・京都。情報庁で働く官僚の御野・連レルは、情報素子のコードのなかに恩師であり現在は行方不明の研究者、道終・常イチが残した暗号を発見する。その“啓示”に誘われた先で待っていたのは、ひとりの少女だった。道終の真意もわからぬまま、御野は「すべてを知る」ため彼女と行動をともにする。それは、世界が変わる4日間の始まりだった——
(背表紙のあらすじより)
私は常々スマートフォンもパソコンも電話も本当に面倒くさいなぁと思っていて、この作品世界のように、直接脳にメールでも動画でも何でも届いてジェスチャーだけで処理できたら楽だろうなと夢想しています。Suicaが体に埋め込めるようになるのはあと何年後なんでしょうね。
世の中の人々みんな脳みそとネットワークが繋がっていて、検索して調べればわかることは”知っていること”と同義である世界。ああ、素敵です。
***
主人公の御野・連レルはエリート官僚で、そんな超情報社会の特権階級を使って好き放題やっているんですが、彼は生まれつき腐れ野郎だったわけではありません。
彼は中学生の夏休みにワークショップで出会った天才大学教授・道終・常イチとの対話によって、将来の道筋を見出しました。道終先生は連レルとの1週間の対話ののちに忽然と失踪してしまいますが、先生に憧れ先生の指し示した道をもっと突き進みたいと思った連レルは勉強して勉強して努力して、「クラス5」と呼ばれるエリート階級まで登りつめたのです。
しかし、大人になってクラス5の権力を手にした連レルが見た世界は、道終先生との対話で夢見たようなどこまでも広がる知識探求の世界ではなく、大人の事情と利権と思惑でドロドロの現実世界でした。
優秀な学生が官僚になって腐った現実を目の当たりにしてねじ曲がっていく構図は、昭和も平成も令和も2081年も変わらない日本の悲しい現実ですね。。
最初にすごくいいなと思ったシーンは、そんな”汚れてしまった”連レルが自宅で脳内麻薬に溺れる場面です。
脳がネットワークに繋がると、薬もデジタルでできるんですねぇ。素晴らしい。
電子葉薬と呼ばれるドラッグを使ってどんな楽しい幻想も描き出せる連レルが見るのは、酒池肉林でも心踊る空想アクションでもなく、14歳の時の自分です。
啓示世界の中で、僕は子供に戻った。
十四歳の体と感覚。十四歳の目線。先生と出会ったあの頃の僕に戻った。
もう忘れてしまって久しい身体感覚が、同じように忘れていた感情を呼び起こす。
”期待”。
現実を知る前の僕が持っていたもの。先生の魅惑的な言葉に僕が感じた気持ち。クラス5の世界に一体何が待っているんだろうと夢見た憧憬の感覚。僕はドラッグを使ってそれを再現し、その快楽の中でただ揺蕩う。
(中略)
啓示装置が虚構のゆりかごを作る。夢の中で僕は夢をみる。もう通り過ぎてしまった未来を、わくわくしながら想像する。
傍点を太字に置換しています。
このくだり、なんて切ないのだろうと胸が締め付けられました。
私も電子葉薬があったら、連レルと同じことをするかもしれません。
13歳とか15歳とか、まだ手のひらにいくらでも可能性がのっかっているようなあの頃の感覚。未来への期待、わくわくしながら将来を想像できる無邪気さ。
もう逆立ちしたって手に入らない感覚です。
私はもうじき三十歳になります。
地獄のように長くて退屈だった20代を振り返るたび、それ以前の10代の記憶がよりキラキラ輝いて見えるのです。
10代の時にあって、20代の時にはなくなっていたもの(いつの間にか擦り切れてなくなってしまったもの)こそ、まさに”期待”です。
社会人になってからの生活は本当に期待できる事象がありませんでした。そしてこの先30代、40代と年を重ねても、きっと何にも期待できないままだと思います。
失われた何十年と言われる不景気の暗い時代に生まれた私でさえ、10代のころは何かに期待していたんですね。若さってそういうことなのかもしれません。
***
やさぐれていた連レルのもとに、ある日アルコーン社という世界トップ企業のCEOが訪ねてきます。
彼らは14年前に失踪した道終先生に共同研究での大事な成果を盗まれ、おまけに蓄積したデータを全て消されたと言います。
久々に先生について話をした連レルは、先生とのやり取りを回想しながら先生の偉業である現代社会を構築するシステムのソースコードを眺めます。
そこである引っ掛かりを覚え、ソースを詳しく解読する中で浮かび上がった一つのメッセージを読み解いた連レルは、暗号の指し示す京都大学近くの喫茶店で、14年ぶりに恩師の道終・常イチと再会するのです。
憧れ焦がれていた恩師との久々の再会に静かに興奮する連レル。
道終先生に連れられた山奥の養護施設で、これまでの14年の真相と先生の講義を聞かされる連レルの感動がとても印象的でした。
「クラウド的な捉え方?」
「今、君がイメージしているので正解だ」
先生はにやりと笑って僕を全肯定してくれた。僕は先生が教えたい事を自分なりに理解したし、先生は僕が何を考えたかを一言で理解してくれた。”意志が伝わる”という事の原始的な喜びが脳内麻薬のように湧き出る。
この一節はとても言い得て妙というか慧眼だと思いました。コミュニケーションが極めて高い成立比率をなした時というのは、麻薬に匹敵する快感なのだという事を如実にあらわしています。
私がこれまでの人生で最も長時間対話した人は、家族以外では学校の先生たちです。
もっとも、家族(特にハハ)は対話の総量こそ多いですが特に意味も奥行きもない内容しかなく、意志や思考のやり取りをしたという意味での対話は、やはり先生たちだけです。
高校の時の学年主任だった国語の先生。
高校3年生とのきの担任の数学の先生。
大学の時一番世話になった哲学の先生。
彼ら(たまたま全員男性なのです)は私の思考経路にいくつもの種子を埋め込んでくれたと思うし、私の言い表したい事象を高い次元で正確に咀嚼してくれたのも彼らだけだと思います。
彼らはしばしば私の言葉選び・言葉遣いを”独特”だと言いました。時には私の表現を気に入ってくれて汎用したりしました。
私はその頃自覚がなかったですが、社会人になってから上司や先輩にたまに同じようなことを言われることがあり、「あの時指摘されたのはこういうことだったのか」と遅ればせなから実感しました。
しかし言葉が”独特”であるということは、そうでない人との間に齟齬を生む要因にもなりうるのでした。
同じ日本語を使っているはずなのに、言いたいことと相手の受け取る内容がズレるのです。逆に相手の言うことも正しく受け取れていない。コミュニケーション成立比率が低いのです。
今となっては「大体の人に私の言葉は伝わらないものだ」と諦め開き直ることができていますが、最初この事実を受け入れるまでは絶望的な気持ちでした。
だからこそ、高い次元で理解が成立する先生たちとの対話がことさら貴重でかけがえのないものだったのだと思えます。
会話を通じて脳が正しく発火してネットワークが構築されていくような、あの感覚。”わかる”ということが高いレベルで実現した時のあの快感、気持ちよさ。
連レルは14年ぶりに先生に会って、その快感を思い出したのでした。
***
道終先生は連レルに14年ぶりの個人講義をした後、娘だというセーラー服の少女・道終・知ルを連レルに託して自殺してしまいます。
道終先生がアルコーン社から持ち逃げした電子葉の進化版・量子葉を0歳で脳に埋めこまれ育った知ルはまさに神とも思しき全知っぷりでした。全ての情報を高速で処理し、ネットワークの穴を駆使してどんな情報も一瞬で取得してしまう知ルは、連レルをお寺や京都御所の地下に連れ回します。
知ルが国宝の曼荼羅を見て、81歳の大僧正と禅問答する場面もとても好きです。
「この真理を得ること、本質を得ることを、密教では”無上正覚”と言う。即ち」大僧正は曼荼羅を眺め続ける知ルの背中に向けて語る。「”悟り”じゃ」
知ルが振り返る。
「悟りとは、なんでしょうか」
「知ることじゃ」
大僧正は迷いなく答えた。
「今まで知らなかったことを知ること。新しいことに気付くこと。それが悟りじゃ。「真理を知る」と言う意味で使われるのは、「真理」とは何かをこの世の誰も知らないからであるの。真理は全ての人間にとって新しい知識である。それを知ることは即ち悟りとなる」
「新しい・・・」
「そう。その言葉を選んだお嬢さんは正しい。その感覚を持ちなさい。新旧。前後。この二点の感覚こそが真理に続く道を作る。知ることで二つに分かれるのじゃ。知る前と知る後。知らなかったと知っている。悟るためにはの、”自分が何を知らないのか”を知らなければならない
『お慕い申し上げます』でも思いましたが、お寺の大僧正さまという人はどうしてこんなに物事を見通した知見を持ってるんですかね。私も大僧正さまみたいに整然とした知識体系を持ちたいです。
しかし、知ルは大僧正の回答を受けて困惑します。彼女は大抵のことは知っているのです。その並外れた量子葉のついた脳で、どんなことも一瞬で知ってしまうのですから。
自分が何を知らないのかわからないという知ルに、大僧正は「覚悟」という言葉について話します。
「<覚>とは読んで字の如く”覚えていること”。すなわち<過去>を指す。それと対照となるのが<悟>。”悟ること”。これは<未来>を指している。まだ知らないもの、悟らなければ知り得ないもの、それが未来じゃ。未来は誰にも知り得ない。つまりお嬢さん。お主の知らないことの一つは、未来じゃ」
(中略)
「とはいえ」
大僧正は、少し言葉を軽くして続ける。
「人は過去の経験から未来を予想する力を持っているからのう。昨日はこうだったからきっと明日はこうだろうと想像できる。過去を知り、未来を見る。そうしてやっと覚悟が決められる、というわけじゃな。するとここで我々はまた一つ悟る。”人には絶対に覚悟できないことがある”」
(中略)
「死んだことのある人間はいない。だから死の先は誰も知らないわけじゃ。僧の儂が言うのはどうかと思うが、天国も地獄も所詮は何もないところからの作り事。経験から予想する未来ではない。我々は死とは何かを知り得ない。だからこそまた、覚悟も決められない。死を永遠に恐れ続ける」
大僧正は屈託のない笑みを浮かべる。
「死ぬ覚悟ができた、などと言う奴はもれなく大嘘つきじゃ」
いや〜目から鱗!でした。「覚悟」と言うよく聞くありふれた言葉を紐解いて、こうして真理を垣間見ることができるなんて。言葉の面白さを実感しました。
そしてこの一件はのちに大きな付箋となって物語の最後に回収されるのです。構成もエキサイティングで素晴らしいと思いました。
***
物語の本筋とはズレますが、最近とても目につくことがあります。
この作品は2081年以降の未来が描かれている、いわばSF作品です。今期のアニメでも近未来SF作品が多く放送されているのですが、人間感情以外で普遍的な存在が一つあります。
それは「コーヒー」です。
知ルと彼女の持つ量子葉はアルコーン社に狙われ、連レルたちは逃亡犯扱いとなってしまいます。道終先生との再会から日々が目まぐるしくなり、ついに職場の情報庁も追われた連レルはほとほと疲れ、職場の優秀な後輩の三縞・歌ウ嬢と彼女がいつも淹れてくれていたコーヒーに想いを馳せます。
三縞君の顔が頭を掠める。彼女のコーヒーを最後に飲んだのはほんの三日前なのに、なんだかもの凄く昔のように思えた。この三日の間に、あまりにも衝撃的な出来事ばかりが続いたから。
先生との再会。知ルとの出会い。先生の死。クラス9。情報庁の追っ手。逃走。
脳はもうずっと悲鳴を上げている。少しでいいから休ませてくれと訴え続けている。
三縞君のコーヒーが飲みたかった。
連レルは劣情とは違った愛情を三縞嬢に抱いていたのです。連レルの三縞嬢を大切に思う気持ちがとても微笑ましく美しいなと思いました。そしてそこに用いられる象徴的な存在であるコーヒー。私は麻薬でさえ脳内で作れる時代にコーヒーがまだ現存していることに、驚きと得心の両方を持ちました。
コーヒー。嗜好品であり、メインの成分としてしばしば言及されるカフェインには効果効能や副作用、いいことと悪いことが両方取り上げられていますよね。
煙草はこの数年で社会的にとても肩身が狭くなったように感じますし、お酒もそのうち煙草みたいな扱いに近づいていくのではないかと思います。
ではコーヒーはどうなのでしょう。
紅茶や緑茶なども同じ存在かもしれないですが、コーヒーはどこかお茶と一線を画す何かを感じるんですよね。なんでだろう、不思議です。
先日Fate/Grand Orderのアニメでロマニとダヴィンチがコーヒーを飲んでいるのを見て、しみじみコーヒーという存在とその未来についても考えてしまいました。
今年の春先に2ヶ月の出張で生活環境が変わった時、私の日記にはこう書いてありました。
出張でわかった自分の好きなもの
・コーヒー
・アニメ
・お酒
・旅行
・ラジオ
物理的に移動して慣れない土地や環境に身をおくと、自分の深層を垣間見れることがありますが、そこで悟った結果がこれだったんですね。
順不同だとは思うものの、コーヒーが真っ先に書いてあるのに驚きです。
毎日飲んでるわけでもないんですが(毎日飲んでるのはむしろお酒です)、なんか欠かせないんでしょうね。単に中毒だと言われればそれまでですが。
***
話を戻します。
この作品を読んで、知的好奇心って生命力そのものだなぁと思いました。
量子葉という世界がひっくり返るような全知全能の情報処理能力を備えた知ルは、それでももっともっと知りたいという強い意志に基づいて連レルを巻き込んで真理に突き進んでいきます。
そして誰も知り得なかった”死”のその先を知るのです・・・。
序盤で”期待”について書きましたが、私が胸に期待を抱いて生きていた頃、毎日新しいことを知るのが楽しくて楽しくて仕方なかったのを思い出しました。
学校に行って授業を受けると、先生が新しい知識を話してくれる。理科室での実験で、図書室で漁った本で、部活動で、友達との会話で、ネットコミュニティで、新しいことを知り、新たにできることが増えていく楽しさ。
それは今だって手に入れようと思えばできることだと思います。むしろ昔より、もっとチャンネルが多い。アクセスできる情報は、10年前よりずっとずっと増えました。
10年前にはあって、今は無いもの。それは「知りたい」という強い気持ちです。
知っても、どうすることもない。空虚な日々しか手元になくて。
私のフィロソフィア、知を愛し求める気持ちは、いつの間にか擦り切れて磨耗してどこかに霧散してしまったのでしょうか。
だからこんなに身体が重くて、うつろで、なんの期待も持てないのでしょうかね。おわり。