れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

もう一人の私、もうひとつの人生:『ブルーもしくはブルー』

山本文緒さんの作品は本当にどれも暴力的なまでの面白さだと感服しました。

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

 

ドッペルゲンガーのお話で、ファンタジーと称されていますが、全然ファンタジーという言葉がしっくりこないくらいリアルで怖くて切なくて夢中になりました。

 

主人公の佐々木蒼子は、愛はないけど金はある夫と結婚六年目の子なし主婦です。

東京のウォーターフロントのいいマンションに住んで、働かなくても夫の稼ぎで好き勝手できて、気まぐれでやったデパートのアルバイト先で出会った恋人・牧原と不倫していました。

物語は蒼子と牧原がサイパン旅行から帰国する飛行機の中から始まります。

優しいけど気弱で劣等感の強い牧原に蒼子は愛想をつかしており、二人は別れ話をしていました。

そんな折、関東上空に台風がある影響で、飛行機は急遽福岡に着陸するというアナウンスが。

次の日仕事があるのにと文句たらたらの牧原をよそに、蒼子は福岡という土地に意識を持っていかれます。

なぜなら、今の夫・佐々木と結婚する前に、本気で結婚を考えていたかつての恋人・河見がいるのが福岡だからです。

 

佐々木との満たされない結婚生活の中で、蒼子は「もしあの時佐々木ではなく河見を選んでいたら」という後悔をずっと持っていました。

九州男児であか抜けない板前の河見。彼は佐々木のような高給取りでもないし、都会的なスマートさとは対極の無骨で不器用な男でしたが、蒼子をとても愛していました。

後ろめたくも二股をかけながら、最終的に佐々木との洗練された結婚を選んだ蒼子。

体調を崩した父の面倒を見るため地元の福岡に帰った河見とはそれっきりでした。

 

福岡で飛行機を降りた蒼子は牧原と別れ、初めて来た九州の地方都市に一泊することにしました。

会えるはずがないと思いながらも街ゆく人を目で追ってしまう蒼子は、なんと本当に河見を見つけてしまいました。

河見の隣には奥さんと思しき女性がおり、仲陸まし気な二人のあとを蒼子は尾行します。

地下鉄を乗り継いだ先のパチンコ屋の前でわかれた河見夫婦。意を決してパチンコ屋に入ろうとする蒼子に、河見夫人が声を掛けました。

尾行に気づかれていた気まずさに狼狽えた蒼子は河見夫人を見てびっくり、なんと河見夫人は、自分と双子並みに瓜二つだったのです・・・。

 

冒頭で、主人公の蒼子がいかに孤独で退屈で愛に飢えているかが述べられているんですが、めちゃくちゃ贅沢な悩みでちょっと腹が立つくらいなんです。

外に恋人を抱えているけれど潤沢なお金と清潔な住まいを提供してくれる夫の佐々木は、私からすれば”超優良物件”なのです。ハウスキーピングまでつけてくれてて、家事すらもしなくていいんですよ。佐々木、凄すぎです。

仕事もしなくていい、家事もしなくていい、都会のきれいな高層マンションに住まわせてくれて、セックスもしなくてよくて、料理もしなくてよくて、それどころかあまり家にもいなくてでもお金はたくさんくれて、旅行してもブランド品を買ってもお咎めなしの放任状態。天国かよって感じです。

私はむしろ、好きでもない蒼子になぜここまでしてくれるのか、佐々木にとってこの結婚がどんなメリットがあるのか不思議でたまりませんでした。

あとから発覚しますが、佐々木には実は幼馴染の真に愛する恋人がいます。しかし彼女も別の人と結婚していて、複雑な事情で結ばれない佐々木は、彼女への未練を断ち切るうえで蒼子を利用したようでした。

でも、それでも全然いいですよね。愛なんてよくわからないものがなくても、快適な住まいと生活を無償で提供してくれる佐々木みたいな旦那様に出会いたいものだとしみじみ思いました。

そんな恵まれまくりの蒼子は、それでも全然満たされない気持ちをこう表現します。

けれど、それも最近では虚しさばかり残る。いったいこれから、私はどうしたらいいかまるで分からなかった。結婚相手の選択を間違い、離婚する理由もきっかけも掴めない。情熱を注げる仕事もなければ、逃避行してしまえるような不倫相手もいない。私には何もすることがなくなってしまった。これから先の長い時間、私はただこうやって虚しい消費を続けていくだけなんだろうか。

「この罰当たりがっ!」とどつきたい気持ちと、けれど強く共感してしまう気持ちが同時に湧き上がる秀逸な一節です。私は佐々木との結婚が間違いとはとても思えませんが、何もすることがなく虚しい消費を続けるしかない孤独は、私が社会人になってからずっと抱えているものです。

心から愛しあえる結婚相手や恋人がいれば満たされるのか?熱中できる仕事があれば満たされるのか?どちらも生まれてこの方手にしたことがないので全然わかりません。

わからなくて、いつまで続くかわからないこの”虚しい消費”を活用して、己を顧みて自分自身に問いかける場がこの日記なのです。。

 

***

 

自分の生き写しにしか見えない河見夫人と話し合うことにした蒼子。なんと河見夫人の名前も蒼子で、それどころか二人は同じ出生、同じ経歴をたどり、それぞれ結婚する直前まで同じ人生を歩んでいました。

つまり河見蒼子は、佐々木蒼子と同一人物、河見蒼子は佐々木蒼子のドッペルゲンガーだったのです。

以後、佐々木蒼子は蒼子A、河見蒼子は蒼子Bとして描かれます。様々な実験を通じて、蒼子Aが本体で蒼子Bは後から生まれた影であり、ある一定の条件下において、影は他人に認識されなくなってしまうことが判明します。

 

蒼子Aは、この好機を利用して夢に見た河見との結婚生活をどうしても体験したくなり、蒼子Bに入れ替わりの提案をします。

人はふたつの人生を生きることはできない。けれど、どういう訳か私にだけそのチャンスが与えられたのだ。

蒼子Bはいろいろ思うところはあるものの、最終的に蒼子Aの提案を受け入れます。

蒼子Bは、蒼子Aより控えめな性格をしていました。元が同じ人間で、食べ物や男や服の趣味もまったくと言っていいほど同じ蒼子たちですが、振る舞いや考え方が結構違っているのが興味深かったです。

 

発達心理学教育心理学などで、”遺伝か環境か問題”はよく出てくる話題でした。最終的には”遺伝も環境も”性格形成に影響を及ぼしているというのが現在のスタンダードではあると思いますが、いまだにすべてのメカニズムが解明されているわけではありません。

23歳くらいまで同じ一人の人間だった蒼子Aと蒼子B。蒼子Aは放任主義な佐々木と結婚し、何不自由ない生活の中で愛に飢えているわがままで自分勝手な女です。

一方で蒼子Bは、ボロアパートで無骨な九州男児の河見と質素な生活を送っていました。河見は蒼子をとても愛してくれましたが、独占欲が強く亭主関白で昭和的家庭観の持ち主で、さらに悪いことに、外で酒を飲み酔っぱらって帰ってくると、日ごろためている鬱憤を爆発させて妻を殴る半DV夫だったのです。

殴られても、泣いて素直にすぐ謝罪の言葉を口にすると、河見は我に返り蒼子Bを割れ物のようにひどくいたわり大事にするのです。蒼子Bは河見との生活の中で事なかれ主義になり、「とりあえずあやまる」「とりあえず飲み込む」諦めの処世術を身につけたのです。

 

暴力って人格を捻じ曲げるのにこうも有力で、またじゅうぶんなのですね。どんなに理知的で意志の強い女性でも、こういう理不尽なパートナーを持ってしまっては、蒼子Bのようになってしまうのかもしれません。

序盤の蒼子Aの回想で出てきた河見は、不器用だけれど心から蒼子を愛してくれる好青年のように描かれており、河見との結婚を夢想し後悔する蒼子Aの気持ちもちょっとわからなくもなかったんですが、蒼子Bが九州弁でボロクソに罵られ殴られる描写を見てからは、やっぱり蒼子Aは佐々木と結婚して正解だったじゃないかと思いました。河見にはもはや好きになる要素が一ミリもないです。いくら心から蒼子を愛していたとしても、酒に酔っていたとしても、殴った後正気に戻って優しく労わるとしても、女に暴力を振るう男は全員死ぬべきだとすら思ってしまいました。

 

自分に比べて気弱にさえ見える蒼子Bを、蒼子Aは完全にナメています。そして信用しきっています。

好きに使っていいからとクレジットカードまで蒼子Bに渡して、蒼子Aは河見家に、蒼子Bは東京の佐々木家に1か月間の入れ替わり生活へ突入します。

 

蒼子Aは夢にまで見た河見との結婚生活を満喫し、ささやかながら愛に満ちた生活に昂揚します。

東京にいた時に比べて、一日がとても早く感じられた。夫が仕事に出かけると、私も何かしらして働く。働いていると、あっという間に日が沈み、そして夫が帰って来る。愛する人を送り出し、働き、迎え、そして明日のために眠る。海のように満ちては引いていく、その永遠の繰り返し。私は”何も考えないこと”の幸福を知った。新作映画もベストセラーも、流行の服も必要ない。

働くことの喜びと共に、私は休日の楽しさを実感することができた。オンがあるからこそ、オフがあるのだ。毎日が日曜日のようだった今までの生活が、とてつもなく怠惰なものに思えた。

つくづく「ばかやろうっ」とどつきなくなる蒼子Aの甘ったれ独白です(苦笑)。これまで経験した何度かのニート生活を通して”毎日が日曜日”状態が最高だと思っている私からすると、この蒼子Aは狂気の沙汰です。まあ、ものめずらしさに気分が高まるのもわからなくはないですけどね。

 

蒼子Bもそれは同じで、久しぶりの東京での生活、洗練された都会の暮らし、淡泊だけれど絶対暴力なんて振るわない優しい佐々木を前にした蒼子Bは、今まで甘んじて受け入れていた九州での河見との暮らしの中で、いかに自分が我慢していたかに気づき、タガが外れたように豪遊生活を送ります。

 

それぞれが羨む隣の庭の青い芝を手に入れた蒼子たち。蒼子Bは東京で好き放題するうちにすっかり河見のもとに戻る気が失せ、蒼子Aに禁じられていた牧原の勤務先のデパートに赴き、さらには牧原の子供を孕んでしまいました。

一方の蒼子Aは、ある日酔っぱらって帰ってきた河見に初めて暴力を振るわれ、一気に夢からさめたような気持になります。

河見の暴力と粘着質な性格に耐えられない蒼子Aは、すぐに東京に逃げ帰ります。しかし、そこで発覚した蒼子Bのやりたい放題の所業に、蒼子Aの怒りは頂点に達します。

ところが、妊娠したことによって蒼子Bはなんと影から本体に昇格してしまったのです。牧原や佐々木の目に映らなくなったことで、蒼子Aは自分が影に取って代わられてしまった事実に絶望し気絶してしまいました。

 

蒼子Bはこの好機を逃さないようにと、カバンの中身を入れ替えて、具合が悪くなった蒼子Aと、河見蒼子の持ち物が入ったカバンを公園に放り出し、入れ替わりを完全なものに、自分をまぎれもない本体にしてしまおうと画策します。

このあたりの、蒼子Aの怒りと蒼子Bの怒りのぶつかり合いが本当に激しくて怖くてびっくりしました。

 

蒼子たちが出会ったばかりのころは、久しぶりに会った仲のいい双子みたいに楽しく過ごす二人の描写を読んで羨ましかったんですよね。

私は一人っ子で兄弟姉妹もいないし、長い付き合いの友人もいないので、自分の過去を一緒に振り返る他人が一人もいないのです。

昔話は時に楽しいものです。でも、同窓会に行くわけでもないし、楽しく過去を懐かしむ誰かがいるわけでもない。そんな私が一番よく読むのが自分の日記です。

このはてなブログを書き始めたのは新卒で入った会社を辞めて、社会人になってから初めてニートになったときでした。暇を持て余し通い詰めていた図書館を活用して、新たな切り口で日記を書きたいと思ったのがきっかけでした。

しかしそれよりもずっと前、中学生のころから、私はネット上でも手書きのノートでも日記を書いていました。当時使っていたブログサービスが消えてしまったりして残っていないものもありますが、学生時代からのブログ記事をクラウド上に保存しており、今でも頻繁に読み返します。

 

昔の日記は、異常なほどに共感できる他人のブログのようで、読み返すととても面白いです。きっと、私以外のだれが読んでも毒にも薬にもならないと思うけれど、私だけが、死ぬほど面白く読めるのです。

誰とも思い出を共有できないので、自分で自分の分身をつくるように日記を残し、そして振り返って対話しているのでした。

蒼子たちのように、ドッペルゲンガーと語り合えたらとても楽しいだろうなと、はしゃぐ蒼子たちの描写を読みながら何度も夢想しました。けれど物語が終盤になり、蒼子たちが互いを憎しみ合うようになって、自分自身という人間の業の深さは、決して生ぬるいものではないのだと思い知りました。

「でも河見君よりは、まだ牧原君の方がましよ。だから返さないわ。あなたは影になったのだから、あなたが河見蒼子になるのよ」

彼女は窓を向いたままそう言った。その冷たい横顔。誰にも何者にも慈悲の手を差し伸べることのない頑な背中。

私は、この時初めて気が付いた。

どうして今まで気が付かなかったのだろう。目の前に立っている女は私なのだ。

嘘つきでわがままで冷酷な人間。それが私だ。彼女は私そのものではないか。

 

大学生の頃、定年の70歳近いクラス担任の教授が「すべての学問は、最終的に”私とは何ぞや”という命題に行き着く」と話していたのを、今でも時々思い出します。

社会が成熟して、社会的欲求や承認欲求くらいまで皆そこそこ満たされてきて、マズローの欲求5段階説のほぼほぼが埋まってきたような現代において、人々の関心がどこに向かっていくのか。

きっと、己の存在に言及していく。それは当然の帰結なのだろうと、今回あらためて思いました。

自分を正しく正面から見つめ返すのってこんなに怖くて骨の折れることだったんだと、この作品を読んで思い知りました。日記を読み返すくらいでは全然甘いのです。

 

***

 

その後事態は二転三転して、結局蒼子Bは流産してしまい、蒼子Aは影から本体に戻りました。

蒼子Bもどこかほっとしながら冷静になり、病室で蒼子Aにこう諭します。

「どうすれば、満たされるんだと思う?」

彼女は額から手を外し、私の目を見てそう質問した。私はただぎこちなく首を傾げる。

「私達、ちゃんと愛されてたのよ。河見君にも牧原君にも。佐々木さんでさえ、結婚した時はあなたのことが好きだったのよ。それをねじ曲げたのは私達なのよ。愛されてたのに愛し返さなかったのよ、私達」

彼女は話し終えると、大きく溜め息をついた。私は彼女の言葉の意味を考えた。彼女の言うことはもっともだが、では、どうすればよかったのだろう。

 

私は蒼子たちを見て、人間には、本当の本当は愛も思いやりも無いのではないかと思いました。

つまるところ人間は、自分の満足と利得のためにしか行動できないのではないかと。

はたから見て思いやりのある行動だったとしても、突き詰めると行動原理は”自分のため”に尽きるのではないかと。

 

あなたは満たされたいと思いますか?

この世に満たされてる人なんているのでしょうか。

考えてみれば、不満を持たない、幸せいっぱいで満たされた人に、私は一度も会ったことがないかもしれません。

前向きな人はいました。今ある環境に感謝し、不平不満を言わず、絶えず努力している人は確かに存在しました。

しかし、彼ら彼女らが満たされているのかというと、それは全然別の話です。

 

満たされた状態って、幻想なのか?と思い至りました。

誰一人として見たことのない”神”と同じで、人間の想像上の、空想上の、幻なのかもしれないと。

だから、というわけでもないですが、私は別に満たされなくてもいいやと思いました。

情熱を注げる仕事も、愛し合えるパートナーも、思い出を共有して語り合える友達も、別にいなくてもいいです。

ただ、「私とは何ぞや」という問いからは、きっと逃れられない予感があります。

私もドッペルゲンガーに会ってみたい。蒼子たちのように、最終的にいがみ合い刺し違えるかもしれないけれど、それでも自分を見つめるのにこれほど有効な状況はきっと他にないでしょうから。

 

私はきっと、この先一生、私にしか心を砕くことはできないだろうと思いました。

自分という存在は、それくらい自分にとって強力で無視できない存在なのだと、本当の意味で自覚しました。おわり。