れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

人間の嫌なところ、に共感:『妻の超然』

クスッと笑えて、ちょっと切なく、どことなく怖い中編集にであいました。

妻の超然

妻の超然

  • 作者:絲山秋子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/04/12
  • メディア: Kindle
 

絲山秋子さんの作品は半分〜4分の3くらい読んでるかもしれません。

小田原とかつくばとか群馬とか、日本の地方の描写がとても優れた方だと思います。

 

一話目の表題作「妻の超然」は四十代の専業主婦・理津子が夫の浮気を一定の距離を保ちながら静観しつつやきもきするお話でした。

三島由紀夫のコメディ並みに笑いました。そして比喩がとてもよかったです。

たった十年でこれだ。結婚なんて家電と変わらない。なのにまだ二十年だか三十年だか生きるのだ。壊れた家電同士の夫婦が、だからといって捨てるわけにもいかないで並んでいる埃だらけの棚の隅、それがこの家だ。

絲山秋子「妻の超然」『妻の超然』新潮文庫H25.3.1)

壊れた家電同士って、的確すぎてめちゃめちゃ笑いました。

 

私にとって”専業主婦”というのは世界七不思議の一つです。専業主婦というあり方が、どうやったら成り立つのか実に不可思議なのです。

子供がいるならまだしも、理津子は子供もいません。家事しかしない妙齢の女性を養う夫の文麿とは、一体何を思って離婚をしないのか、本当に理解ができないのです。(炎上しちゃいます?)

お金を稼ぐでもない、愛してもない、セックスもしない他人と一緒に暮らすメリットって、一体なんなんでしょう?世間体とかですかね??子無し専業主婦になるためには一体何をしたらいいんでしょう。なってみたいです、心の底から。

理津子もおそらく私と同じような疑問を抱いていると思われる場面があります。

文麿・・・・・・カネヅル  文麿・・・・・・風邪ひかない  文麿・・・・・・浮気性  文麿・・・・・・ぼんぼん  文麿・・・・・・退屈  文麿・・・・・・一番近い他人  文麿・・・・・・じゃあ文麿が私に求めていることって、何?

文麿の求めていることがわからない。

(同上)

やっぱりわからないんです。子供もない、愛してもないしセックスもしない、家事はかろうじてするが仕事はせず稼ぎもない、そんな年上の女性と一緒に暮らす男性って、一体何を求めているのでしょうか。

 

理津子は街中で謎のストーカー男に遭遇し悩むのですが、ストーカー対策を相談した妹の義母である「舞浜先生」の指摘が実に的確でした。

「女って、自分が興味ない男にはものすごく厳しいわよね。りっちゃんもさ、それが自分の好みだったら、三日くらいいい気分でいられたのにね」

「そんなこと絶対ないって。ほんとにすっごく嫌。消えてほしい、あの男」

「はははは」

ああ、舞浜先生もあてにならない。

(同上)

「自分に興味ない男に厳しい現象」って本当によくありますよねぇ。男の人は違うのでしょうか?

全然違うんですが、最近不倫騒動で話題になった東出昌大さんを思い出しました。東出さん、強烈にバッシングされてるの見ますけど、あれって攻撃的なのはさほど東出さんに興味ない女性たちですよね、多分。

私は以前書いたように東出さん割と好きだったので、唐田えりかさんに同情してしまいました。若い頃にあんなイケメン既婚者がモーションかけてきたらのってしまうよなぁ、と不憫に思わずにはいられないというか。

 

綾小路きみまろ的な面白い一説も印象的でした。

文麿が出かけているとき、理津子は北側の部屋のドアに指先で「ぴんぴんころり」と書く。

舞浜先生と一緒にどこかの神社に行っても、絵馬に「ぴんぴんころり」と書く。

自分がぴんぴんころりだっていいわけだが、できれば文麿が先に逝った方がいい。長患いすることなく、ころりと逝って欲しい。

「あーあ、死んじゃったよ」

心の中でぼやいてみたい。弔問に来る人々を見て、少し嬉しい自分の心を抑えて見たい。

(同上)

この文章を読んでから、「ぴんぴんころり」が座右の銘になりそうな勢いです。読んでた通勤電車の中で声出して笑ってしまいました。

 

***

 

二話目の「下戸の超然」は、地方都市で働くお酒の飲めない男性・広生が、同じ職場で趣味が同じ女性・美咲と恋仲になり、それが終わる、少しもの哀しい話でした。

 

ぱっと見地味で控えめそうな美咲と、パズルという趣味で仲良くなった広生。付き合ううちに彼女が海外の恵まれない子供たちのためのボランティア活動をしている事を知り、立派だと感じながらもどこか居心地の悪い感触を味わいます。

僕はその、他人へのむきだしの善意と、社会へのむきだしの悪意の前で不安になる。善意には際限がないようでおそろしい。

悪意というものは怒りと同じでモチベーションを保ち続けるのがおそろしく難しい。ところが善意というものは、ときには人を傷つけながら、人の自由を侵害しながら、イナゴの大群のようにすすんで行く。

絲山秋子「下戸の超然」『妻の超然』新潮文庫 H25.3.1)

確かに、悪意が怖いのはもちろんですが、善意も迷いがないとなんだか怖いよね、とハッとしました。

このちょっと倒錯的な善意の真意を正確に言い当てる描写がありました。

彼女は、彼女たちは、不幸な子どもたちのためには「自分しかいない」と思っている。「自分だけができること」と思っている。それは彼女が今なお、誰かに頼りたいことの裏返しではないか。自分がして欲しいことを人にしている。そうやって結局は自分を支えている。

(同上)

人間って、どうして自分の気持ちをすぐに裏返したり置き換えたりしてしまうんでしょう。口があるのに、言葉があるのに、それを信じられずに裏返してわかりづらくしてしまう。

昔大学の臨床心理学の講義でよく出た例ですが、思っているのに言えないことを自分の内部に溜め込む人はしばしば嘔吐するそうです。

言いたいことを言葉で吐き出せないから、代わりに食べたものや飲んだものを吐き出してしまうんだそうです。

そんな置換、自分も他人も嫌な気持ちになるだけなのに。つらいだけなのに、それでも言葉にできないなんて、なんて悲しくて生きづらい世界だろうと思ったものでした。

 

***

 

三話目の「作家の超然」は、独身女性作家・時子が、悪性腫瘍を摘出する手術を受けるにあたって入院する話です。

 

時子が何度も読み返す外国文学について言及する場面が身に沁みすぎました。

「コレカラ何年自分デ自分ノ面倒ヲミナケレバナラナイノカシラ」

お前はそれを読んで呟いた。

「これは、私のことだ」

絲山秋子「作家の超然」『妻の超然』新潮文庫 H25.3.1)

ソール・ベローの著作「黄色い家」という作品で、実在するようなのですが私はまだ読めていません。それでもこの一節、今時にいうと「わかりみが深すぎてつらい」って感じですね。

前の職場でお世話になっていた46歳独身女性上司がよく言っていたのを思い出します、「自分で自分の面倒見るのが本当に疲れた」。

ほんと、あと何年(何十年?)自分を養い自分の面倒を見なければならないのだろう、と、ことあるごとに途方もない気持ちになります。

しかしその一方でこうも思うのです。

一人で生きて一人で死んで行くことはもっとさびしいものだと思っていた。

だがいつからか、一人でいることにさびしさなどというものは全く感じなくなった。

誰かと一緒になって生き別れたり死に別れたりそばにいたまま心が離れていく方がよほどさびしい。

孤独死を発見する人は不快でつらいだろう。だが、本人にとってそれは本当に悔いの残る死に方なのか。孤独死とはある意味自然死だ。そのときになってそれを受け入れられるか、悔しく思うかはわからない。

(同上)

ちょうど先日仕事終わりに独身年上女性とサシで飲む機会がありました。

彼女は私と同じ一人っ子の四十代ですが、私と違って家族を大事に思う質のようで、自分の親と飼い猫よりは早く死ねないとか、老後に入居予定の独身用老人ホームの準備とかをきちんとしている人でした。

私はそんな行動力もお金もなければ、血族や他人への迷惑もかえりみない質なので、死んだ後のことなんてどうでもいいとしか思えませんでした。

 

さびしさを「まったく感じない」という境地には至っていませんが、「仕方のないことだ」と受け入れてじっとするくらいには私も年を取りました。今更他人と積極的に関わって、さびしさを蹴散らそうとは全然思いません。そんなのはひどい自己欺瞞だとすら思います。

 

もう一つ興味深い描写がありました。

そこそこ売れっ子作家となった時子に近づいた男性たちの変貌についてです。

「ある日突然、恋人であるはずの男の汗ばんだ肌は夏の満員電車で触れた他人の感触になっているのだった。野菜や、牛乳や、豚肉のように、恋人は突然受け入れがたいにおいを発しはじめる。

彼らは思うのだ。私という人間に飽きた瞬間から考え始めるのだ。地位とか名誉とか金とか名誉とか地位とか金とか地位とか名誉とかを。

処理しきれない欲望は結局そこへ向かうのだ。

俺なんかみたいな男とつき合ってくれて、俺は自慢だけれど、でも俺なんか俺なんか俺なんか。

彼らの自尊心は結局彼ら自身を貶め、傷つけることにしかならない。自慢が妬みへと変わっていくのはバナナが腐るのと同じくらい、わかりきったことなのに、どうしてそれを自制できないのか」

(同上)

自分より稼いでる彼女or妻をもった男の人のねじれプライド問題。とても素晴らしい表現だと思いました。

私は自分があんまり稼ぐ人間でないので、自分より社会的弱者の男性と関わった経験はほぼゼロです。

女性である自分が低く見られる分には(ジェンダー的にイラっとすることがあっても)慣れっこで特段傷つかないのですが、男性はどうやら一筋縄ではいかないらしいというのをよく見聞きします。ただ、見聞きするだけで実感がないのでどこかファンタジーめいているのもまた事実です。

この一節を読んで、いつか社会的強者になってバナナが腐るように不貞腐れていく男性を眺めてみたいなぁ、なんてかなり悪趣味なことを夢想したりしました。

 

***

 

読んだ中で自分の心に引っかかった場面を掘り下げて書きましたが、こうして読み返してみると、私はこういう、一般的に目を背けがちな「人間のみっともない心の湿り気」のようなものに心惹かれるようです。性格悪いですね。

絲山さんはそういうじめっとした嫌な情感を、何倍も湿度を上げてみたり、逆に面白おかしく乾かしてみたりするのが非常に上手い作家であり、その技量に十代の頃から心とらわれているのだと、今回改めて実感しました。おわり。

存在を消すために心を砕く

お正月休みですっかり緩んでリラックスしていたのに、あっという間に仕事に飲み込まれ殺伐とした日常生活がやってきて、相変わらず冴えない人生を送っています。

 

久しぶりに山田詠美さんの小説を読みました。

姫君 (文春文庫)

姫君 (文春文庫)

 

初版は2001年の9.11よりも前に出版されたんですね。すごい。

短編集でどれも面白かったですが、私が特に好きだったのは1番目の「MENU」という物語です。

 

主人公の男子大学生・時紀は、幼い頃に母が自殺して、善良で裕福な伯父の家に引き取られ、これまた善良な血の繋がらない兄・聖一と、蠱惑的な妹・聖子といった家族の中で独自の成長をとげます。

 

文庫版の解説が金原ひとみさんで、彼女が昔好きだった男性がこの時紀にそっくりで嫌な男だった、というようなことを書いていました。

時紀は多分見目麗しく理知的で、女の子には不自由してなくて、どことなくシニカルで意地悪で性格が悪い男の子です。きっと身近にいたらすごく嫌な奴だろうなと私も思います。

けれども不思議と読後感が悪くなくて、それでいていつまでも心に残っているのです。

時紀は女の敵みたいなクズな男なんですが、どうにも共感せずにはいられない。時紀の思想は自分にも通ずるところがあるというか、私がうまく表現できなかった自身のあり方を、的確に体現してくれていたんですね。

ぼくは、母に感謝してもいる。彼女は、死ぬことによって、ぼくに、その先の指針のようなものを与えてくれた。人に必要とされてしまったら、死ぬ自由すら手に入れることが出来ないのを教えてくれた。そして、ある人間を必要としてしまったら、その人の自由を奪ってしまうことも。ぼくは、生きるのが楽だと思いたい。記憶は溜まって行くが、そこに何の不純物も付随させたくないのだ。

山田詠美「MENU」『姫君』文春文庫2004.5.10)

「記憶に不純物を付随させたくない」というのは、若さ特有の潔癖さも感じますが、人に必要とされることに一種の恐怖や嫌悪を感じる気持ちはすごくわかるなぁと思いました。

 

時紀の大学のクラスメイトの女子・麻子と、時紀の兄・聖一が付き合うようになって、時紀は心のバランスを少しずつ崩していきます。

麻子は時紀にとって他のどんな女とも違う、存在しない幻の弟みたいな存在でした。他の女のように時紀に惚れず、求めず、しかし言葉を正しく交し合える、きちんとした共通言語をもつ友人でした。それでいて好きでも嫌いでもない、しかし深いところで一種の支えになっている独特の存在でした。

そんな麻子が思いやりの化身みたいな聖一と付き合い、少しずつ変化していく。静かに反発する時紀に麻子が言い放った台詞がこの小説の中で一番好きです。

「言ったじゃない。トキと私は、まったく違うって。あんたは、存在を消すことに一生心を砕く人。私は、誰かのために存在したいのよ」

(同上)

ああそうか、と自覚しました。私は誰かのために存在するっていうのが耐えられないのだと。

 

麻子は終盤、苛立った時紀に犯され、妊娠して聖一と結婚します。

時紀の子なのか聖一の子なのかは明らかになりませんが、麻子は「これで自分は一生誰かのために存在できる」というようなことを言って、時紀に礼を言いました。

 

私が子供を絶対に産まないと言っているのは、生まれてくる子供が不憫だからということもありますが、自分が誰かのための存在になってしまうのが嫌だからという理由もあったんだなと、この物語を読んで思い至りました。

 

時紀の兄・聖一は穏やかな人で、時紀がショッキングな事情で自分の家に引き取られてから、本当の兄弟のように接しようと、時紀の本当の家族として心の拠り所となれるよう心を砕いていました。聖一は育ちの良さが爆発したような本当に気遣いと思いやりが服を着て歩いているような人です。

こんなにいい人なのに、どうにも斜めに見てしまう私(と時紀)は、やはり思考が歪んでいるんですかね。

「出ましたね、セイ兄の気づかい」

「そうじゃないよ。ぼくは、彼女の喜ぶことがしたいだけなんだって」

聖一は、真剣さを滲ませて言った。彼は、いつも自分の中で他人の幸せを構築する。

(同上)

”自分の中で他人の幸せを構築する”。なんて的確な表現でしょう。さすが山田詠美さん、とうなりました。

たとえ本当に自分が幸せを感じる事柄だったとしても、私以外の人間が、私の幸せを自分の中で勝手に構築していた結果だとしたら、私は気持ち悪いと思うし拒絶したいと思ってしまいます。

なんせ、存在を消すために心を砕いているような人間なんですから。

私は生まれてしまった事実を諦念とともに受け入れ、手に余るこの自分の存在というものを、自分のため以外には使いたくないのです。

 

存在なんて、本当はしたくない。

けれど、もう存在してしまっている。私の意に反して。

そして存在を消すことは難しく、死ぬのは痛そうで怖い。

だからせめて、どうせ存在してしまっているのなら、自分だけのために存在したい。

他の誰のためにも在りたくない。

そう強く思いました。

 

***

 

自分の意に反して存在してしまったことについて、最後に収録されていた「シャンプー」という話の一節が痛快でした。

両親が離婚した小学生のおませな女の子の独白です。

つまり、ある時期、この二人は同類だったのだ。私は、小学生で、そのことを悟ってしまったのだった。私の両親は、私を作成した時、二人共、馬鹿だったのである。

以来、私は自分のルーツに思いを馳せるのを止めた。ただでさえ、私は忙しいのだ。両親の失策など思い悩んでいる暇はない。

山田詠美「シャンプー」『姫君』文春文庫2004.5.10)

”両親の失策”に声を出して笑ってしまいました。ほんと、その通りだなって。

私の存在も、ただの馬鹿者二人の失策にすぎないのです。おわり。

人生から生まれる音楽『はじまりのうた』

今年の年末は9連休。なにかと忙しくて消耗した12月の疲れを癒すように、漫画や映画や音楽を摂取しては夕方まで眠って引きこもっています。

年の瀬に映画で今しがた号泣しました。『はじまりのうた』で。

はじまりのうた BEGIN AGAIN(字幕版)

はじまりのうた BEGIN AGAIN(字幕版)

  • 発売日: 2016/02/10
  • メディア: Prime Video
 

主題歌の「Lost Stars」をラジオで何回か聴いて、いつか観よう観ようと思っていてやっと観ることができました。何でこんなに泣けるのかわからないんですが、凄く泣きました。

 

物語の概要は以下。

製作した曲が映画に採用された恋人のデイヴとともにイギリスからニューヨークへやってきたシンガーソングライターのグレタだったが、デイヴの浮気により彼と別れて、友人のスティーヴを頼る。スティーブは失意のグレタを励まそうとライブバーに連れていき、彼女を無理やりステージに上げる。グレタが歌っていたところ、偶然その場に居合わせた落ち目の音楽プロデューサー・ダンの目に留まる。ダンはグレタに一緒にアルバムを作ろうと持ち掛ける。

Wikipediaより)

映画を観ながら飲んでいたお酒のせいかもしれないんですが、グレタが歌うシーンではほとんど泣いてた気がします、自分。

 

私って音楽が大好きだなぁって思いました。

音楽って生活にすごく密着していて、人生に寄り添っているものだなって強く思いました。

この映画で流れる音楽は、どれも登場人物の人生を切り取った写真みたいな音楽なんです。

絵画も舞台もアニメも映画も大切で偉大な芸術ですが、音楽はなによりも人生に付随しているのだと思いました。

 

グレタとダンが互いのプレイリストを聴かせあいながら夜の街を歩き回る場面がすごく好きです。

「音楽の魔法だ

平凡な風景が意味のあるものに変わる

陳腐でつまらない景色が———

美しく光り輝く真珠になる

 

音楽でね

 

年を取るほど———

この真珠がなかなか見られなくなる」

「糸ばっかり?」

「糸をたどらないと真珠には届かない

今この瞬間は真珠だ」

「輝いてる」

「すべてがね」

 

街中をオープンイヤフォンで音楽を聴きながら散歩をするのが好きです。

酔いが回ってるとより一層街がキレイに見えたり愉快な気持ちになったりします。

 

私の人生は、例にもれず陳腐だしみっともないし大して面白くもありません。

でも、それでもなんとか誤魔化しながら楽しく生きてこられたのは、素敵な音楽にめぐりあってきたからです。

今年は首都圏に引っ越して、仕事帰りに素敵なライヴにもたくさん行けるようになりました。

アニメソングも同じ。

OP、EDを聴くと、そのころの生活を思い出します。そのアニメの名シーンや登場人物の心情、そのアニメを毎週楽しみにしていたころの数年前の自分を。その時好きだった人や、ハマっていた事柄を。

 

音楽は香りや景色のように、人生にまとわりついて思い出の引き金になる。

意識を飛ばす薬になる。

一歩を踏み出させるひと押しになる。

 

はじめて音楽を聴いたのがいつだったのか、はじまりは全く思い出せませんが、

物心ついたときから、私はたぶんずっと音楽の魔法にかかっているのだなと、この映画を観て思い知りました。

凄く素敵な映画でした。おわり。


Adam Levine - Lost Stars (from Begin Again)

架空のお葬式と現実の葬式

今月の上旬に、父方の祖父が亡くなりました。

二十数年前に曾祖母が立て続けになくなって以来、本当に久しぶりに葬儀というものに参列しました。

はるか昔に参列したその曾祖母の葬儀は、幼かったこともあって記憶が断片的です。したがって自意識のはっきりした状態で参列する葬儀は、今回が初めてでした。

 

新幹線で祖父母宅へ向かう間、お葬式を題材にした物語をいくつか思い出していました。

たとえば、ふみふみこ『めめんと森』。

めめんと森 (フィールコミックス) (Feelコミックス)

めめんと森 (フィールコミックス) (Feelコミックス)

 

主人公の目野優子が葬儀場でのアルバイトを通して、失踪した兄にまつわる過去と折り合いをつけたり、上司の黒川森魚と恋愛したりする群像劇で、独特のテンポで死生観を描く良作です。

 

また、たとえば江國香織の短編集『ぬるい眠り』に収録されている「清水夫妻」。

ぬるい眠り (新潮文庫)

ぬるい眠り (新潮文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/02/28
  • メディア: 文庫
 

赤の他人のお葬式に参列するのが趣味の不思議な夫婦・清水夫妻の話で、死というものを穏やかで静かなもののように表現する、これまた心に残る良作です。

 

さらには、世界的な傑作映画『おくりびと』。

映画「おくりびと」【TBSオンデマンド】

映画「おくりびと」【TBSオンデマンド】

  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: Prime Video
 

もはや国民的映画といってもいいくらい、観てない人もなんとなく知ってるレベルの名作。私も話題になった少しあとくらいに(大学生の頃でした)DVDで観て、人並みに感動して泣きました。

 

そんなわけで、これまで出会ってきたお葬式にまつわる物語がわりと穏やかで良いものばかりだったので、私は結婚式や卒業式なんかよりはお葬式のほうがはるかに好き、というと語弊がありますが、とにかく性に合っているというか、冠婚葬祭のなかでは一番マシだと考えていました。普段着も黒が多くて、日常的にお通夜みたいな恰好で生活していました。それが落ち着くと思っていました。

 

しかし、実際に葬儀を体験すると、ものすごく消耗し、金輪際御免蒙りたいとすら感じました。

 

私にとって亡くなった祖父という人は、これといって好きでも嫌いでもない、あえて積極的に会いたいわけでもない、強い思い入れも思い出もない親戚でした。遠方に住んでいたせいもあって、生涯で会った回数もそんなに多くない人です。

祖父にとっては私は長男の一人娘で、さぞやかわいい孫娘であっただろうと思います。お小遣いもたくさんもらっていたと思います。有難かったといえば有難かったけれど、だからといって「おじいちゃん大好き」とはならなかった。大概の親類縁者がそうであるように、なんとなく性格的に合わないけれど絶縁するわけでもない、ゆるいつながりのある人。それが祖父でした。

 

今年に入って具合が悪かったことはなんとなく聞いていたので、亡くなった知らせをうけたときも「やっぱりか」くらいで驚きはありませんでした。

祖父母宅に着くと、先に集まっていた祖母も父も叔母もいとこも皆落ち着いていて、特段悲しむでもなく普通にテレビを見たりしていました。

 

しかし、いざ仏間に横たわる祖父の遺体を目の当たりにすると、なんとなく居心地の悪さを感じました。遺体というのは、なんともいえないオーラのような、異質な雰囲気があり、想像していたより怖かったです。

通夜にむけて葬儀社の人が祖父の遺体を運び出すとき、布団がめくれてちらりと見えた祖父の脚がびっくりするくらい細くて、当たり前ですが血色も悪くて、ますます不気味でした。

葬儀社に移動すると、今度は故人の体を清めるなどといって遺体を洗う儀式(?)があったのですが、これもまた嫌でした。遺族も体を拭いたりするんですが、私は絶対に触りたくないと思い、最後の最後まで、指一本祖父の遺体に触れませんでした。

 

棺に入れるといういろんな葬儀社のオプションの話を聞くのも疲れました。遺族の気持ちに寄り添うような語り口での訳の分からない蝋燭だの遺髪入れだののセールストークは断ったもののうんざりして、その後誰が誰だかわからない親類縁者のおじさんおばさんたちにも辟易して、お坊さんのやけに長いお経にも疲れ、極めつけにはろくな挨拶もできない喪主の父の頭の悪さにも嫌悪感しかなく、とにかくすべてがウンザリでした。

 

翌日の葬式で棺に皆で花を入れた時、おばさんたちやいとこやハハが、皆しくしくと泣き出しました。私も一瞬もらい泣きしそうになりましたが、どうにも空虚な気持ちと疲労感が勝って、すぐに涙は引っ込んでしまいました。

火葬場の独特のにおいも嫌でした。遺体が骨になるのを待つ間、おばさんたちの話に相槌をうつのも面倒で、焼かれた骨を目の当たりにしたときもこれまた不気味でした。

 

最後の食事を終えて一同が解散して、そのまま帰りの新幹線で東京に戻りました。

葬儀がすべて終わったあとは本当にどっと疲れて、異様に眠くてすべてが面倒で鬱陶しく感じました。

どうしてこんなに疲れて嫌な気持ちでいっぱいなのか、暮れてゆく車窓の外を眺めながら考えていました。

 

遺体というものの異質さと怖さ。

それまでろくに連絡も取りあってなかったのに、死んでから惜しむ遠縁の親類たちのオーバーリアクション。

実の父親である祖父に対して何一つ語ることのできない、何も考えてない喪主の父の無能さ。

一人残されてより小さくか弱く見える祖母の心細い佇まい。

父やら親類やらの悪口と不平不満ばかり言うハハの醜さ。

線香くさい真っ黒な喪服。

 

なにもかもが嫌で嫌で仕方なくて、東京に着いた頃には苛々した気持ちが頂点に達していました。

あんな悲しい場所はもうたくさんだと思いました。

こんな煙くさい黒い服なんて今すぐ脱ぎ捨てたい、黒い服なんてもう着たくないし全部捨てたいと思いました。

あんなに激しい感情は久しぶりで、自分でもちょっと驚いたし持て余しました。

 

帰り道に派手なピンクのニットを買いました。小学生のころ以来着たことないようなピンク色の。

帰宅したら塩を振りまきまくって、玄関で下着まで全部脱いで洗濯機を回し、シャワーを浴びました。

派手な花柄のパジャマを着て、やっと少し落ち着きました。意味もなく部屋中に掃除機をかけました。

翌日、午前休で買い物に行きました。真っ赤なニットやゴールドのピアスを買ってつけたりしました。

夕方にはロックバンドのライヴに行き、翌週は東南アジアに旅行しました。

騒がしくてカラフルな空間に身を投じると、なんとなく死が遠のいてくれるような感覚がありました。一瞬ですけど。

 

今になって思うと、死が怖かったのかなと思います。

人間誰しも死ぬってわかってるけど、実際に死んだ人を目の前にして、それが知識を超えて現実として立ちはだかったんですよね。

漫画とも小説とも映画とも違った、現実の葬式。現実の死。

現実は、物語とは全然違かったです。考えてみれば当然かもしれないけれど。

死は穏やかでも静かでもなかったです。ただただ不気味で、異質で、怖いものでした。

葬式は何一ついいものではなく、ひたすらに居心地の悪い、疲れる、摩耗するものでした。

 

もう誰の葬式にも出たくないと思いました。

私が死んでも葬式なんて挙げてほしくないと思いました。

別れるのに、いちいち儀式なんて要らないって思ってしまいました。

そんな区切りいらないって。

 

それから、街にもっともっと明るい色が溢れたらいいと思いました。

もっともっと騒がしくなればいいと思いました。

目が覚めるような真っ赤とか真っ青とか真っ黄色とか、ピンクとか黄緑とかオレンジとかゴールドとか水色とか、もっともっと明るくて鮮明で鮮烈な色で世界が彩られればいいと思いました。

現実逃避。最後には絶対逃げられないって、頭ではわかっています。それでも、

逃げて逃げて、死ぬまで逃げて、誤魔化して、逃げ続けたいと思いました。おわり。

昨日よりマシに生きたい:「明日こそは/It's not over yet」

今週のバビロン(アニメ)を観てから気が滅入っています。。ショックすぎて。

生理前だからとか、寒くなってきたからだとか、仕事がいまいち上手くいかないからだとか、他にもいろんな原因があるのかもしれませんが、とにかくどこか憂鬱で、億劫で、気分が塞ぐ。

 

そんななか、よく聴くようになったのがKIRINJIの2018年のアルバム『愛をあるだけ、すべて』の最初の曲「明日こそは/It's not over yet」です。

明日こそは/It’s not over yet

明日こそは/It’s not over yet

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

イントロのギターがかっこよくて、でも晴れやかで爽やかで、今朝通勤で聴いていたときは「青空に合うなぁ」と思って聴いてましたが、帰宅時に聴くと「仕事終わりのパッとしない夜にも合うなぁ」と感じました。いつ聴いても心にしっくりくる素晴らしい曲です。

 

歌い出しの「明日こそ 明日こそは昨日よりマシな生き方したいね」って、なんでこんなに素敵なんだろう。ほんと、そうだよね、って聴くたびに思います。

堀込高樹さんの歌詞はイメージとして抽象的ででも心に迫り共感できるものが多いと思っていましたが、この曲はすとんと腑に落ちて、難解なことが一つもない、すごく素直な歌詞に感じました。もう、共感しかない。全共感。

そしてメロディや編曲が、これまたもう「これでしょ!」っていうピッタリ具合なのです。明日こそは昨日よりマシに生きてみたくなる、滅入った心と身体に染みる美しい曲調です。

 

KIRINJIは今日新しいアルバムが出て、それのリードトラックをラジオで聴くたび「KIRINJI素敵なことになってるな〜」と思っていたのですが、まさか1年前の曲が巡り巡ってこんなに自分にフィットするとは不思議な感じです。このブログで書いたかどうか覚えてないですが、キリンジには個人的に微妙な思い出があったりするので。昔の曲も好きなのいくつもありますけど。

けど・・・今のKIRINJIが1番好きです。こんなに長く活動していて、今の曲が一番好きって凄いことですね。本当にいいアーティストってことだと思います。

ここのところ1年前の曲をヘビロテしてますが、きっと気持ちが回復したら最新アルバムをヘビロテします。おわり。

cherish(通常盤)

cherish(通常盤)

 

  

愛をあるだけ、すべて(通常盤)

愛をあるだけ、すべて(通常盤)

 

 

知を愛し求める:『know』

現在放送中のアニメ『バビロン』がめちゃくちゃ面白くて、原作者の野崎まどさんの著作を漁っています。

『know』はバビロンとはまた違った雰囲気で、やはりこれも示唆に富む良作でした。

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 

あらすじは以下。

超情報化対策として、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された2081年の日本・京都。情報庁で働く官僚の御野・連レルは、情報素子のコードのなかに恩師であり現在は行方不明の研究者、道終・常イチが残した暗号を発見する。その“啓示”に誘われた先で待っていたのは、ひとりの少女だった。道終の真意もわからぬまま、御野は「すべてを知る」ため彼女と行動をともにする。それは、世界が変わる4日間の始まりだった——

(背表紙のあらすじより)

 

私は常々スマートフォンもパソコンも電話も本当に面倒くさいなぁと思っていて、この作品世界のように、直接脳にメールでも動画でも何でも届いてジェスチャーだけで処理できたら楽だろうなと夢想しています。Suicaが体に埋め込めるようになるのはあと何年後なんでしょうね。

世の中の人々みんな脳みそとネットワークが繋がっていて、検索して調べればわかることは”知っていること”と同義である世界。ああ、素敵です。

 

***

 

主人公の御野・連レルはエリート官僚で、そんな超情報社会の特権階級を使って好き放題やっているんですが、彼は生まれつき腐れ野郎だったわけではありません。

彼は中学生の夏休みにワークショップで出会った天才大学教授・道終・常イチとの対話によって、将来の道筋を見出しました。道終先生は連レルとの1週間の対話ののちに忽然と失踪してしまいますが、先生に憧れ先生の指し示した道をもっと突き進みたいと思った連レルは勉強して勉強して努力して、「クラス5」と呼ばれるエリート階級まで登りつめたのです。

 

しかし、大人になってクラス5の権力を手にした連レルが見た世界は、道終先生との対話で夢見たようなどこまでも広がる知識探求の世界ではなく、大人の事情と利権と思惑でドロドロの現実世界でした。

優秀な学生が官僚になって腐った現実を目の当たりにしてねじ曲がっていく構図は、昭和も平成も令和も2081年も変わらない日本の悲しい現実ですね。。

 

最初にすごくいいなと思ったシーンは、そんな”汚れてしまった”連レルが自宅で脳内麻薬に溺れる場面です。

脳がネットワークに繋がると、薬もデジタルでできるんですねぇ。素晴らしい。

電子葉薬と呼ばれるドラッグを使ってどんな楽しい幻想も描き出せる連レルが見るのは、酒池肉林でも心踊る空想アクションでもなく、14歳の時の自分です。

啓示世界の中で、僕は子供に戻った。

十四歳の体と感覚。十四歳の目線。先生と出会ったあの頃の僕に戻った。

もう忘れてしまって久しい身体感覚が、同じように忘れていた感情を呼び起こす。

”期待”。

現実を知る前の僕が持っていたもの。先生の魅惑的な言葉に僕が感じた気持ち。クラス5の世界に一体何が待っているんだろうと夢見た憧憬の感覚。僕はドラッグを使ってそれを再現し、その快楽の中でただ揺蕩う。

(中略)

啓示装置が虚構のゆりかごを作る。夢の中で僕は夢をみる。もう通り過ぎてしまった未来を、わくわくしながら想像する。

傍点を太字に置換しています。

 

このくだり、なんて切ないのだろうと胸が締め付けられました。

私も電子葉薬があったら、連レルと同じことをするかもしれません。

13歳とか15歳とか、まだ手のひらにいくらでも可能性がのっかっているようなあの頃の感覚。未来への期待、わくわくしながら将来を想像できる無邪気さ。

もう逆立ちしたって手に入らない感覚です。

 

私はもうじき三十歳になります。

地獄のように長くて退屈だった20代を振り返るたび、それ以前の10代の記憶がよりキラキラ輝いて見えるのです。

10代の時にあって、20代の時にはなくなっていたもの(いつの間にか擦り切れてなくなってしまったもの)こそ、まさに”期待”です。

社会人になってからの生活は本当に期待できる事象がありませんでした。そしてこの先30代、40代と年を重ねても、きっと何にも期待できないままだと思います。

失われた何十年と言われる不景気の暗い時代に生まれた私でさえ、10代のころは何かに期待していたんですね。若さってそういうことなのかもしれません。

 

***

 

やさぐれていた連レルのもとに、ある日アルコーン社という世界トップ企業のCEOが訪ねてきます。

彼らは14年前に失踪した道終先生に共同研究での大事な成果を盗まれ、おまけに蓄積したデータを全て消されたと言います。

久々に先生について話をした連レルは、先生とのやり取りを回想しながら先生の偉業である現代社会を構築するシステムのソースコードを眺めます。

そこである引っ掛かりを覚え、ソースを詳しく解読する中で浮かび上がった一つのメッセージを読み解いた連レルは、暗号の指し示す京都大学近くの喫茶店で、14年ぶりに恩師の道終・常イチと再会するのです。

 

憧れ焦がれていた恩師との久々の再会に静かに興奮する連レル。

道終先生に連れられた山奥の養護施設で、これまでの14年の真相と先生の講義を聞かされる連レルの感動がとても印象的でした。

クラウド的な捉え方?」

「今、君がイメージしているので正解だ」

先生はにやりと笑って僕を全肯定してくれた。僕は先生が教えたい事を自分なりに理解したし、先生は僕が何を考えたかを一言で理解してくれた。”意志が伝わる”という事の原始的な喜びが脳内麻薬のように湧き出る。

この一節はとても言い得て妙というか慧眼だと思いました。コミュニケーションが極めて高い成立比率をなした時というのは、麻薬に匹敵する快感なのだという事を如実にあらわしています。

 

私がこれまでの人生で最も長時間対話した人は、家族以外では学校の先生たちです。

もっとも、家族(特にハハ)は対話の総量こそ多いですが特に意味も奥行きもない内容しかなく、意志や思考のやり取りをしたという意味での対話は、やはり先生たちだけです。

高校の時の学年主任だった国語の先生。

高校3年生とのきの担任の数学の先生。

大学の時一番世話になった哲学の先生。

彼ら(たまたま全員男性なのです)は私の思考経路にいくつもの種子を埋め込んでくれたと思うし、私の言い表したい事象を高い次元で正確に咀嚼してくれたのも彼らだけだと思います。

彼らはしばしば私の言葉選び・言葉遣いを”独特”だと言いました。時には私の表現を気に入ってくれて汎用したりしました。

私はその頃自覚がなかったですが、社会人になってから上司や先輩にたまに同じようなことを言われることがあり、「あの時指摘されたのはこういうことだったのか」と遅ればせなから実感しました。

 

しかし言葉が”独特”であるということは、そうでない人との間に齟齬を生む要因にもなりうるのでした。

同じ日本語を使っているはずなのに、言いたいことと相手の受け取る内容がズレるのです。逆に相手の言うことも正しく受け取れていない。コミュニケーション成立比率が低いのです。

今となっては「大体の人に私の言葉は伝わらないものだ」と諦め開き直ることができていますが、最初この事実を受け入れるまでは絶望的な気持ちでした。

だからこそ、高い次元で理解が成立する先生たちとの対話がことさら貴重でかけがえのないものだったのだと思えます。

会話を通じて脳が正しく発火してネットワークが構築されていくような、あの感覚。”わかる”ということが高いレベルで実現した時のあの快感、気持ちよさ。

連レルは14年ぶりに先生に会って、その快感を思い出したのでした。

 

***

 

道終先生は連レルに14年ぶりの個人講義をした後、娘だというセーラー服の少女・道終・知ルを連レルに託して自殺してしまいます。

道終先生がアルコーン社から持ち逃げした電子葉の進化版・量子葉を0歳で脳に埋めこまれ育った知ルはまさに神とも思しき全知っぷりでした。全ての情報を高速で処理し、ネットワークの穴を駆使してどんな情報も一瞬で取得してしまう知ルは、連レルをお寺や京都御所の地下に連れ回します。

 

知ルが国宝の曼荼羅を見て、81歳の大僧正と禅問答する場面もとても好きです。

「この真理を得ること、本質を得ることを、密教では”無上正覚”と言う。即ち」大僧正は曼荼羅を眺め続ける知ルの背中に向けて語る。「”悟り”じゃ」

知ルが振り返る。

「悟りとは、なんでしょうか」

「知ることじゃ」

大僧正は迷いなく答えた。

「今まで知らなかったことを知ること。新しいことに気付くこと。それが悟りじゃ。「真理を知る」と言う意味で使われるのは、「真理」とは何かをこの世の誰も知らないからであるの。真理は全ての人間にとって新しい知識である。それを知ることは即ち悟りとなる」

「新しい・・・」

「そう。その言葉を選んだお嬢さんは正しい。その感覚を持ちなさい。新旧。前後。この二点の感覚こそが真理に続く道を作る。知ることで二つに分かれるのじゃ。知る前と知る後。知らなかったと知っている。悟るためにはの、”自分が何を知らないのか”を知らなければならない

 『お慕い申し上げます』でも思いましたが、お寺の大僧正さまという人はどうしてこんなに物事を見通した知見を持ってるんですかね。私も大僧正さまみたいに整然とした知識体系を持ちたいです。

 

しかし、知ルは大僧正の回答を受けて困惑します。彼女は大抵のことは知っているのです。その並外れた量子葉のついた脳で、どんなことも一瞬で知ってしまうのですから。

自分が何を知らないのかわからないという知ルに、大僧正は「覚悟」という言葉について話します。

 「<覚>とは読んで字の如く”覚えていること”。すなわち<過去>を指す。それと対照となるのが<悟>。”悟ること”。これは<未来>を指している。まだ知らないもの、悟らなければ知り得ないもの、それが未来じゃ。未来は誰にも知り得ない。つまりお嬢さん。お主の知らないことの一つは、未来じゃ」

(中略)

「とはいえ」

大僧正は、少し言葉を軽くして続ける。

「人は過去の経験から未来を予想する力を持っているからのう。昨日はこうだったからきっと明日はこうだろうと想像できる。過去を知り、未来を見る。そうしてやっと覚悟が決められる、というわけじゃな。するとここで我々はまた一つ悟る。”人には絶対に覚悟できないことがある”」

(中略)

「死んだことのある人間はいない。だから死の先は誰も知らないわけじゃ。僧の儂が言うのはどうかと思うが、天国も地獄も所詮は何もないところからの作り事。経験から予想する未来ではない。我々は死とは何かを知り得ない。だからこそまた、覚悟も決められない。死を永遠に恐れ続ける」

大僧正は屈託のない笑みを浮かべる。

「死ぬ覚悟ができた、などと言う奴はもれなく大嘘つきじゃ」

いや〜目から鱗!でした。「覚悟」と言うよく聞くありふれた言葉を紐解いて、こうして真理を垣間見ることができるなんて。言葉の面白さを実感しました。

 

そしてこの一件はのちに大きな付箋となって物語の最後に回収されるのです。構成もエキサイティングで素晴らしいと思いました。

 

***

 

物語の本筋とはズレますが、最近とても目につくことがあります。

この作品は2081年以降の未来が描かれている、いわばSF作品です。今期のアニメでも近未来SF作品が多く放送されているのですが、人間感情以外で普遍的な存在が一つあります。

それは「コーヒー」です。

 

知ルと彼女の持つ量子葉はアルコーン社に狙われ、連レルたちは逃亡犯扱いとなってしまいます。道終先生との再会から日々が目まぐるしくなり、ついに職場の情報庁も追われた連レルはほとほと疲れ、職場の優秀な後輩の三縞・歌ウ嬢と彼女がいつも淹れてくれていたコーヒーに想いを馳せます。

三縞君の顔が頭を掠める。彼女のコーヒーを最後に飲んだのはほんの三日前なのに、なんだかもの凄く昔のように思えた。この三日の間に、あまりにも衝撃的な出来事ばかりが続いたから。

先生との再会。知ルとの出会い。先生の死。クラス9。情報庁の追っ手。逃走。

脳はもうずっと悲鳴を上げている。少しでいいから休ませてくれと訴え続けている。

三縞君のコーヒーが飲みたかった。

連レルは劣情とは違った愛情を三縞嬢に抱いていたのです。連レルの三縞嬢を大切に思う気持ちがとても微笑ましく美しいなと思いました。そしてそこに用いられる象徴的な存在であるコーヒー。私は麻薬でさえ脳内で作れる時代にコーヒーがまだ現存していることに、驚きと得心の両方を持ちました。

 

コーヒー。嗜好品であり、メインの成分としてしばしば言及されるカフェインには効果効能や副作用、いいことと悪いことが両方取り上げられていますよね。

煙草はこの数年で社会的にとても肩身が狭くなったように感じますし、お酒もそのうち煙草みたいな扱いに近づいていくのではないかと思います。

ではコーヒーはどうなのでしょう。

紅茶や緑茶なども同じ存在かもしれないですが、コーヒーはどこかお茶と一線を画す何かを感じるんですよね。なんでだろう、不思議です。

先日Fate/Grand Orderのアニメでロマニとダヴィンチがコーヒーを飲んでいるのを見て、しみじみコーヒーという存在とその未来についても考えてしまいました。

 

今年の春先に2ヶ月の出張で生活環境が変わった時、私の日記にはこう書いてありました。

出張でわかった自分の好きなもの

・コーヒー

・アニメ

・お酒

・旅行

・ラジオ

物理的に移動して慣れない土地や環境に身をおくと、自分の深層を垣間見れることがありますが、そこで悟った結果がこれだったんですね。

順不同だとは思うものの、コーヒーが真っ先に書いてあるのに驚きです。

毎日飲んでるわけでもないんですが(毎日飲んでるのはむしろお酒です)、なんか欠かせないんでしょうね。単に中毒だと言われればそれまでですが。

 

***

 

話を戻します。

この作品を読んで、知的好奇心って生命力そのものだなぁと思いました。

量子葉という世界がひっくり返るような全知全能の情報処理能力を備えた知ルは、それでももっともっと知りたいという強い意志に基づいて連レルを巻き込んで真理に突き進んでいきます。

そして誰も知り得なかった”死”のその先を知るのです・・・。

 

序盤で”期待”について書きましたが、私が胸に期待を抱いて生きていた頃、毎日新しいことを知るのが楽しくて楽しくて仕方なかったのを思い出しました。

学校に行って授業を受けると、先生が新しい知識を話してくれる。理科室での実験で、図書室で漁った本で、部活動で、友達との会話で、ネットコミュニティで、新しいことを知り、新たにできることが増えていく楽しさ。

それは今だって手に入れようと思えばできることだと思います。むしろ昔より、もっとチャンネルが多い。アクセスできる情報は、10年前よりずっとずっと増えました。

 

10年前にはあって、今は無いもの。それは「知りたい」という強い気持ちです。

知っても、どうすることもない。空虚な日々しか手元になくて。

私のフィロソフィア、知を愛し求める気持ちは、いつの間にか擦り切れて磨耗してどこかに霧散してしまったのでしょうか。

だからこんなに身体が重くて、うつろで、なんの期待も持てないのでしょうかね。おわり。

もう一人の私、もうひとつの人生:『ブルーもしくはブルー』

山本文緒さんの作品は本当にどれも暴力的なまでの面白さだと感服しました。

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

 

ドッペルゲンガーのお話で、ファンタジーと称されていますが、全然ファンタジーという言葉がしっくりこないくらいリアルで怖くて切なくて夢中になりました。

 

主人公の佐々木蒼子は、愛はないけど金はある夫と結婚六年目の子なし主婦です。

東京のウォーターフロントのいいマンションに住んで、働かなくても夫の稼ぎで好き勝手できて、気まぐれでやったデパートのアルバイト先で出会った恋人・牧原と不倫していました。

物語は蒼子と牧原がサイパン旅行から帰国する飛行機の中から始まります。

優しいけど気弱で劣等感の強い牧原に蒼子は愛想をつかしており、二人は別れ話をしていました。

そんな折、関東上空に台風がある影響で、飛行機は急遽福岡に着陸するというアナウンスが。

次の日仕事があるのにと文句たらたらの牧原をよそに、蒼子は福岡という土地に意識を持っていかれます。

なぜなら、今の夫・佐々木と結婚する前に、本気で結婚を考えていたかつての恋人・河見がいるのが福岡だからです。

 

佐々木との満たされない結婚生活の中で、蒼子は「もしあの時佐々木ではなく河見を選んでいたら」という後悔をずっと持っていました。

九州男児であか抜けない板前の河見。彼は佐々木のような高給取りでもないし、都会的なスマートさとは対極の無骨で不器用な男でしたが、蒼子をとても愛していました。

後ろめたくも二股をかけながら、最終的に佐々木との洗練された結婚を選んだ蒼子。

体調を崩した父の面倒を見るため地元の福岡に帰った河見とはそれっきりでした。

 

福岡で飛行機を降りた蒼子は牧原と別れ、初めて来た九州の地方都市に一泊することにしました。

会えるはずがないと思いながらも街ゆく人を目で追ってしまう蒼子は、なんと本当に河見を見つけてしまいました。

河見の隣には奥さんと思しき女性がおり、仲陸まし気な二人のあとを蒼子は尾行します。

地下鉄を乗り継いだ先のパチンコ屋の前でわかれた河見夫婦。意を決してパチンコ屋に入ろうとする蒼子に、河見夫人が声を掛けました。

尾行に気づかれていた気まずさに狼狽えた蒼子は河見夫人を見てびっくり、なんと河見夫人は、自分と双子並みに瓜二つだったのです・・・。

 

冒頭で、主人公の蒼子がいかに孤独で退屈で愛に飢えているかが述べられているんですが、めちゃくちゃ贅沢な悩みでちょっと腹が立つくらいなんです。

外に恋人を抱えているけれど潤沢なお金と清潔な住まいを提供してくれる夫の佐々木は、私からすれば”超優良物件”なのです。ハウスキーピングまでつけてくれてて、家事すらもしなくていいんですよ。佐々木、凄すぎです。

仕事もしなくていい、家事もしなくていい、都会のきれいな高層マンションに住まわせてくれて、セックスもしなくてよくて、料理もしなくてよくて、それどころかあまり家にもいなくてでもお金はたくさんくれて、旅行してもブランド品を買ってもお咎めなしの放任状態。天国かよって感じです。

私はむしろ、好きでもない蒼子になぜここまでしてくれるのか、佐々木にとってこの結婚がどんなメリットがあるのか不思議でたまりませんでした。

あとから発覚しますが、佐々木には実は幼馴染の真に愛する恋人がいます。しかし彼女も別の人と結婚していて、複雑な事情で結ばれない佐々木は、彼女への未練を断ち切るうえで蒼子を利用したようでした。

でも、それでも全然いいですよね。愛なんてよくわからないものがなくても、快適な住まいと生活を無償で提供してくれる佐々木みたいな旦那様に出会いたいものだとしみじみ思いました。

そんな恵まれまくりの蒼子は、それでも全然満たされない気持ちをこう表現します。

けれど、それも最近では虚しさばかり残る。いったいこれから、私はどうしたらいいかまるで分からなかった。結婚相手の選択を間違い、離婚する理由もきっかけも掴めない。情熱を注げる仕事もなければ、逃避行してしまえるような不倫相手もいない。私には何もすることがなくなってしまった。これから先の長い時間、私はただこうやって虚しい消費を続けていくだけなんだろうか。

「この罰当たりがっ!」とどつきたい気持ちと、けれど強く共感してしまう気持ちが同時に湧き上がる秀逸な一節です。私は佐々木との結婚が間違いとはとても思えませんが、何もすることがなく虚しい消費を続けるしかない孤独は、私が社会人になってからずっと抱えているものです。

心から愛しあえる結婚相手や恋人がいれば満たされるのか?熱中できる仕事があれば満たされるのか?どちらも生まれてこの方手にしたことがないので全然わかりません。

わからなくて、いつまで続くかわからないこの”虚しい消費”を活用して、己を顧みて自分自身に問いかける場がこの日記なのです。。

 

***

 

自分の生き写しにしか見えない河見夫人と話し合うことにした蒼子。なんと河見夫人の名前も蒼子で、それどころか二人は同じ出生、同じ経歴をたどり、それぞれ結婚する直前まで同じ人生を歩んでいました。

つまり河見蒼子は、佐々木蒼子と同一人物、河見蒼子は佐々木蒼子のドッペルゲンガーだったのです。

以後、佐々木蒼子は蒼子A、河見蒼子は蒼子Bとして描かれます。様々な実験を通じて、蒼子Aが本体で蒼子Bは後から生まれた影であり、ある一定の条件下において、影は他人に認識されなくなってしまうことが判明します。

 

蒼子Aは、この好機を利用して夢に見た河見との結婚生活をどうしても体験したくなり、蒼子Bに入れ替わりの提案をします。

人はふたつの人生を生きることはできない。けれど、どういう訳か私にだけそのチャンスが与えられたのだ。

蒼子Bはいろいろ思うところはあるものの、最終的に蒼子Aの提案を受け入れます。

蒼子Bは、蒼子Aより控えめな性格をしていました。元が同じ人間で、食べ物や男や服の趣味もまったくと言っていいほど同じ蒼子たちですが、振る舞いや考え方が結構違っているのが興味深かったです。

 

発達心理学教育心理学などで、”遺伝か環境か問題”はよく出てくる話題でした。最終的には”遺伝も環境も”性格形成に影響を及ぼしているというのが現在のスタンダードではあると思いますが、いまだにすべてのメカニズムが解明されているわけではありません。

23歳くらいまで同じ一人の人間だった蒼子Aと蒼子B。蒼子Aは放任主義な佐々木と結婚し、何不自由ない生活の中で愛に飢えているわがままで自分勝手な女です。

一方で蒼子Bは、ボロアパートで無骨な九州男児の河見と質素な生活を送っていました。河見は蒼子をとても愛してくれましたが、独占欲が強く亭主関白で昭和的家庭観の持ち主で、さらに悪いことに、外で酒を飲み酔っぱらって帰ってくると、日ごろためている鬱憤を爆発させて妻を殴る半DV夫だったのです。

殴られても、泣いて素直にすぐ謝罪の言葉を口にすると、河見は我に返り蒼子Bを割れ物のようにひどくいたわり大事にするのです。蒼子Bは河見との生活の中で事なかれ主義になり、「とりあえずあやまる」「とりあえず飲み込む」諦めの処世術を身につけたのです。

 

暴力って人格を捻じ曲げるのにこうも有力で、またじゅうぶんなのですね。どんなに理知的で意志の強い女性でも、こういう理不尽なパートナーを持ってしまっては、蒼子Bのようになってしまうのかもしれません。

序盤の蒼子Aの回想で出てきた河見は、不器用だけれど心から蒼子を愛してくれる好青年のように描かれており、河見との結婚を夢想し後悔する蒼子Aの気持ちもちょっとわからなくもなかったんですが、蒼子Bが九州弁でボロクソに罵られ殴られる描写を見てからは、やっぱり蒼子Aは佐々木と結婚して正解だったじゃないかと思いました。河見にはもはや好きになる要素が一ミリもないです。いくら心から蒼子を愛していたとしても、酒に酔っていたとしても、殴った後正気に戻って優しく労わるとしても、女に暴力を振るう男は全員死ぬべきだとすら思ってしまいました。

 

自分に比べて気弱にさえ見える蒼子Bを、蒼子Aは完全にナメています。そして信用しきっています。

好きに使っていいからとクレジットカードまで蒼子Bに渡して、蒼子Aは河見家に、蒼子Bは東京の佐々木家に1か月間の入れ替わり生活へ突入します。

 

蒼子Aは夢にまで見た河見との結婚生活を満喫し、ささやかながら愛に満ちた生活に昂揚します。

東京にいた時に比べて、一日がとても早く感じられた。夫が仕事に出かけると、私も何かしらして働く。働いていると、あっという間に日が沈み、そして夫が帰って来る。愛する人を送り出し、働き、迎え、そして明日のために眠る。海のように満ちては引いていく、その永遠の繰り返し。私は”何も考えないこと”の幸福を知った。新作映画もベストセラーも、流行の服も必要ない。

働くことの喜びと共に、私は休日の楽しさを実感することができた。オンがあるからこそ、オフがあるのだ。毎日が日曜日のようだった今までの生活が、とてつもなく怠惰なものに思えた。

つくづく「ばかやろうっ」とどつきなくなる蒼子Aの甘ったれ独白です(苦笑)。これまで経験した何度かのニート生活を通して”毎日が日曜日”状態が最高だと思っている私からすると、この蒼子Aは狂気の沙汰です。まあ、ものめずらしさに気分が高まるのもわからなくはないですけどね。

 

蒼子Bもそれは同じで、久しぶりの東京での生活、洗練された都会の暮らし、淡泊だけれど絶対暴力なんて振るわない優しい佐々木を前にした蒼子Bは、今まで甘んじて受け入れていた九州での河見との暮らしの中で、いかに自分が我慢していたかに気づき、タガが外れたように豪遊生活を送ります。

 

それぞれが羨む隣の庭の青い芝を手に入れた蒼子たち。蒼子Bは東京で好き放題するうちにすっかり河見のもとに戻る気が失せ、蒼子Aに禁じられていた牧原の勤務先のデパートに赴き、さらには牧原の子供を孕んでしまいました。

一方の蒼子Aは、ある日酔っぱらって帰ってきた河見に初めて暴力を振るわれ、一気に夢からさめたような気持になります。

河見の暴力と粘着質な性格に耐えられない蒼子Aは、すぐに東京に逃げ帰ります。しかし、そこで発覚した蒼子Bのやりたい放題の所業に、蒼子Aの怒りは頂点に達します。

ところが、妊娠したことによって蒼子Bはなんと影から本体に昇格してしまったのです。牧原や佐々木の目に映らなくなったことで、蒼子Aは自分が影に取って代わられてしまった事実に絶望し気絶してしまいました。

 

蒼子Bはこの好機を逃さないようにと、カバンの中身を入れ替えて、具合が悪くなった蒼子Aと、河見蒼子の持ち物が入ったカバンを公園に放り出し、入れ替わりを完全なものに、自分をまぎれもない本体にしてしまおうと画策します。

このあたりの、蒼子Aの怒りと蒼子Bの怒りのぶつかり合いが本当に激しくて怖くてびっくりしました。

 

蒼子たちが出会ったばかりのころは、久しぶりに会った仲のいい双子みたいに楽しく過ごす二人の描写を読んで羨ましかったんですよね。

私は一人っ子で兄弟姉妹もいないし、長い付き合いの友人もいないので、自分の過去を一緒に振り返る他人が一人もいないのです。

昔話は時に楽しいものです。でも、同窓会に行くわけでもないし、楽しく過去を懐かしむ誰かがいるわけでもない。そんな私が一番よく読むのが自分の日記です。

このはてなブログを書き始めたのは新卒で入った会社を辞めて、社会人になってから初めてニートになったときでした。暇を持て余し通い詰めていた図書館を活用して、新たな切り口で日記を書きたいと思ったのがきっかけでした。

しかしそれよりもずっと前、中学生のころから、私はネット上でも手書きのノートでも日記を書いていました。当時使っていたブログサービスが消えてしまったりして残っていないものもありますが、学生時代からのブログ記事をクラウド上に保存しており、今でも頻繁に読み返します。

 

昔の日記は、異常なほどに共感できる他人のブログのようで、読み返すととても面白いです。きっと、私以外のだれが読んでも毒にも薬にもならないと思うけれど、私だけが、死ぬほど面白く読めるのです。

誰とも思い出を共有できないので、自分で自分の分身をつくるように日記を残し、そして振り返って対話しているのでした。

蒼子たちのように、ドッペルゲンガーと語り合えたらとても楽しいだろうなと、はしゃぐ蒼子たちの描写を読みながら何度も夢想しました。けれど物語が終盤になり、蒼子たちが互いを憎しみ合うようになって、自分自身という人間の業の深さは、決して生ぬるいものではないのだと思い知りました。

「でも河見君よりは、まだ牧原君の方がましよ。だから返さないわ。あなたは影になったのだから、あなたが河見蒼子になるのよ」

彼女は窓を向いたままそう言った。その冷たい横顔。誰にも何者にも慈悲の手を差し伸べることのない頑な背中。

私は、この時初めて気が付いた。

どうして今まで気が付かなかったのだろう。目の前に立っている女は私なのだ。

嘘つきでわがままで冷酷な人間。それが私だ。彼女は私そのものではないか。

 

大学生の頃、定年の70歳近いクラス担任の教授が「すべての学問は、最終的に”私とは何ぞや”という命題に行き着く」と話していたのを、今でも時々思い出します。

社会が成熟して、社会的欲求や承認欲求くらいまで皆そこそこ満たされてきて、マズローの欲求5段階説のほぼほぼが埋まってきたような現代において、人々の関心がどこに向かっていくのか。

きっと、己の存在に言及していく。それは当然の帰結なのだろうと、今回あらためて思いました。

自分を正しく正面から見つめ返すのってこんなに怖くて骨の折れることだったんだと、この作品を読んで思い知りました。日記を読み返すくらいでは全然甘いのです。

 

***

 

その後事態は二転三転して、結局蒼子Bは流産してしまい、蒼子Aは影から本体に戻りました。

蒼子Bもどこかほっとしながら冷静になり、病室で蒼子Aにこう諭します。

「どうすれば、満たされるんだと思う?」

彼女は額から手を外し、私の目を見てそう質問した。私はただぎこちなく首を傾げる。

「私達、ちゃんと愛されてたのよ。河見君にも牧原君にも。佐々木さんでさえ、結婚した時はあなたのことが好きだったのよ。それをねじ曲げたのは私達なのよ。愛されてたのに愛し返さなかったのよ、私達」

彼女は話し終えると、大きく溜め息をついた。私は彼女の言葉の意味を考えた。彼女の言うことはもっともだが、では、どうすればよかったのだろう。

 

私は蒼子たちを見て、人間には、本当の本当は愛も思いやりも無いのではないかと思いました。

つまるところ人間は、自分の満足と利得のためにしか行動できないのではないかと。

はたから見て思いやりのある行動だったとしても、突き詰めると行動原理は”自分のため”に尽きるのではないかと。

 

あなたは満たされたいと思いますか?

この世に満たされてる人なんているのでしょうか。

考えてみれば、不満を持たない、幸せいっぱいで満たされた人に、私は一度も会ったことがないかもしれません。

前向きな人はいました。今ある環境に感謝し、不平不満を言わず、絶えず努力している人は確かに存在しました。

しかし、彼ら彼女らが満たされているのかというと、それは全然別の話です。

 

満たされた状態って、幻想なのか?と思い至りました。

誰一人として見たことのない”神”と同じで、人間の想像上の、空想上の、幻なのかもしれないと。

だから、というわけでもないですが、私は別に満たされなくてもいいやと思いました。

情熱を注げる仕事も、愛し合えるパートナーも、思い出を共有して語り合える友達も、別にいなくてもいいです。

ただ、「私とは何ぞや」という問いからは、きっと逃れられない予感があります。

私もドッペルゲンガーに会ってみたい。蒼子たちのように、最終的にいがみ合い刺し違えるかもしれないけれど、それでも自分を見つめるのにこれほど有効な状況はきっと他にないでしょうから。

 

私はきっと、この先一生、私にしか心を砕くことはできないだろうと思いました。

自分という存在は、それくらい自分にとって強力で無視できない存在なのだと、本当の意味で自覚しました。おわり。