クスッと笑えて、ちょっと切なく、どことなく怖い中編集にであいました。
絲山秋子さんの作品は半分〜4分の3くらい読んでるかもしれません。
小田原とかつくばとか群馬とか、日本の地方の描写がとても優れた方だと思います。
一話目の表題作「妻の超然」は四十代の専業主婦・理津子が夫の浮気を一定の距離を保ちながら静観しつつやきもきするお話でした。
三島由紀夫のコメディ並みに笑いました。そして比喩がとてもよかったです。
たった十年でこれだ。結婚なんて家電と変わらない。なのにまだ二十年だか三十年だか生きるのだ。壊れた家電同士の夫婦が、だからといって捨てるわけにもいかないで並んでいる埃だらけの棚の隅、それがこの家だ。
壊れた家電同士って、的確すぎてめちゃめちゃ笑いました。
私にとって”専業主婦”というのは世界七不思議の一つです。専業主婦というあり方が、どうやったら成り立つのか実に不可思議なのです。
子供がいるならまだしも、理津子は子供もいません。家事しかしない妙齢の女性を養う夫の文麿とは、一体何を思って離婚をしないのか、本当に理解ができないのです。(炎上しちゃいます?)
お金を稼ぐでもない、愛してもない、セックスもしない他人と一緒に暮らすメリットって、一体なんなんでしょう?世間体とかですかね??子無し専業主婦になるためには一体何をしたらいいんでしょう。なってみたいです、心の底から。
理津子もおそらく私と同じような疑問を抱いていると思われる場面があります。
文麿・・・・・・カネヅル 文麿・・・・・・風邪ひかない 文麿・・・・・・浮気性 文麿・・・・・・ぼんぼん 文麿・・・・・・退屈 文麿・・・・・・一番近い他人 文麿・・・・・・じゃあ文麿が私に求めていることって、何?
文麿の求めていることがわからない。
(同上)
やっぱりわからないんです。子供もない、愛してもないしセックスもしない、家事はかろうじてするが仕事はせず稼ぎもない、そんな年上の女性と一緒に暮らす男性って、一体何を求めているのでしょうか。
理津子は街中で謎のストーカー男に遭遇し悩むのですが、ストーカー対策を相談した妹の義母である「舞浜先生」の指摘が実に的確でした。
「女って、自分が興味ない男にはものすごく厳しいわよね。りっちゃんもさ、それが自分の好みだったら、三日くらいいい気分でいられたのにね」
「そんなこと絶対ないって。ほんとにすっごく嫌。消えてほしい、あの男」
「はははは」
ああ、舞浜先生もあてにならない。
(同上)
「自分に興味ない男に厳しい現象」って本当によくありますよねぇ。男の人は違うのでしょうか?
全然違うんですが、最近不倫騒動で話題になった東出昌大さんを思い出しました。東出さん、強烈にバッシングされてるの見ますけど、あれって攻撃的なのはさほど東出さんに興味ない女性たちですよね、多分。
私は以前書いたように東出さん割と好きだったので、唐田えりかさんに同情してしまいました。若い頃にあんなイケメン既婚者がモーションかけてきたらのってしまうよなぁ、と不憫に思わずにはいられないというか。
綾小路きみまろ的な面白い一説も印象的でした。
文麿が出かけているとき、理津子は北側の部屋のドアに指先で「ぴんぴんころり」と書く。
舞浜先生と一緒にどこかの神社に行っても、絵馬に「ぴんぴんころり」と書く。
自分がぴんぴんころりだっていいわけだが、できれば文麿が先に逝った方がいい。長患いすることなく、ころりと逝って欲しい。
「あーあ、死んじゃったよ」
心の中でぼやいてみたい。弔問に来る人々を見て、少し嬉しい自分の心を抑えて見たい。
(同上)
この文章を読んでから、「ぴんぴんころり」が座右の銘になりそうな勢いです。読んでた通勤電車の中で声出して笑ってしまいました。
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二話目の「下戸の超然」は、地方都市で働くお酒の飲めない男性・広生が、同じ職場で趣味が同じ女性・美咲と恋仲になり、それが終わる、少しもの哀しい話でした。
ぱっと見地味で控えめそうな美咲と、パズルという趣味で仲良くなった広生。付き合ううちに彼女が海外の恵まれない子供たちのためのボランティア活動をしている事を知り、立派だと感じながらもどこか居心地の悪い感触を味わいます。
僕はその、他人へのむきだしの善意と、社会へのむきだしの悪意の前で不安になる。善意には際限がないようでおそろしい。
悪意というものは怒りと同じでモチベーションを保ち続けるのがおそろしく難しい。ところが善意というものは、ときには人を傷つけながら、人の自由を侵害しながら、イナゴの大群のようにすすんで行く。
確かに、悪意が怖いのはもちろんですが、善意も迷いがないとなんだか怖いよね、とハッとしました。
このちょっと倒錯的な善意の真意を正確に言い当てる描写がありました。
彼女は、彼女たちは、不幸な子どもたちのためには「自分しかいない」と思っている。「自分だけができること」と思っている。それは彼女が今なお、誰かに頼りたいことの裏返しではないか。自分がして欲しいことを人にしている。そうやって結局は自分を支えている。
(同上)
人間って、どうして自分の気持ちをすぐに裏返したり置き換えたりしてしまうんでしょう。口があるのに、言葉があるのに、それを信じられずに裏返してわかりづらくしてしまう。
昔大学の臨床心理学の講義でよく出た例ですが、思っているのに言えないことを自分の内部に溜め込む人はしばしば嘔吐するそうです。
言いたいことを言葉で吐き出せないから、代わりに食べたものや飲んだものを吐き出してしまうんだそうです。
そんな置換、自分も他人も嫌な気持ちになるだけなのに。つらいだけなのに、それでも言葉にできないなんて、なんて悲しくて生きづらい世界だろうと思ったものでした。
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三話目の「作家の超然」は、独身女性作家・時子が、悪性腫瘍を摘出する手術を受けるにあたって入院する話です。
時子が何度も読み返す外国文学について言及する場面が身に沁みすぎました。
「コレカラ何年自分デ自分ノ面倒ヲミナケレバナラナイノカシラ」
お前はそれを読んで呟いた。
「これは、私のことだ」
ソール・ベローの著作「黄色い家」という作品で、実在するようなのですが私はまだ読めていません。それでもこの一節、今時にいうと「わかりみが深すぎてつらい」って感じですね。
前の職場でお世話になっていた46歳独身女性上司がよく言っていたのを思い出します、「自分で自分の面倒見るのが本当に疲れた」。
ほんと、あと何年(何十年?)自分を養い自分の面倒を見なければならないのだろう、と、ことあるごとに途方もない気持ちになります。
しかしその一方でこうも思うのです。
一人で生きて一人で死んで行くことはもっとさびしいものだと思っていた。
だがいつからか、一人でいることにさびしさなどというものは全く感じなくなった。
誰かと一緒になって生き別れたり死に別れたりそばにいたまま心が離れていく方がよほどさびしい。
孤独死を発見する人は不快でつらいだろう。だが、本人にとってそれは本当に悔いの残る死に方なのか。孤独死とはある意味自然死だ。そのときになってそれを受け入れられるか、悔しく思うかはわからない。
(同上)
ちょうど先日仕事終わりに独身年上女性とサシで飲む機会がありました。
彼女は私と同じ一人っ子の四十代ですが、私と違って家族を大事に思う質のようで、自分の親と飼い猫よりは早く死ねないとか、老後に入居予定の独身用老人ホームの準備とかをきちんとしている人でした。
私はそんな行動力もお金もなければ、血族や他人への迷惑もかえりみない質なので、死んだ後のことなんてどうでもいいとしか思えませんでした。
さびしさを「まったく感じない」という境地には至っていませんが、「仕方のないことだ」と受け入れてじっとするくらいには私も年を取りました。今更他人と積極的に関わって、さびしさを蹴散らそうとは全然思いません。そんなのはひどい自己欺瞞だとすら思います。
もう一つ興味深い描写がありました。
そこそこ売れっ子作家となった時子に近づいた男性たちの変貌についてです。
「ある日突然、恋人であるはずの男の汗ばんだ肌は夏の満員電車で触れた他人の感触になっているのだった。野菜や、牛乳や、豚肉のように、恋人は突然受け入れがたいにおいを発しはじめる。
彼らは思うのだ。私という人間に飽きた瞬間から考え始めるのだ。地位とか名誉とか金とか名誉とか地位とか金とか地位とか名誉とかを。
処理しきれない欲望は結局そこへ向かうのだ。
俺なんかみたいな男とつき合ってくれて、俺は自慢だけれど、でも俺なんか俺なんか俺なんか。
彼らの自尊心は結局彼ら自身を貶め、傷つけることにしかならない。自慢が妬みへと変わっていくのはバナナが腐るのと同じくらい、わかりきったことなのに、どうしてそれを自制できないのか」
(同上)
自分より稼いでる彼女or妻をもった男の人のねじれプライド問題。とても素晴らしい表現だと思いました。
私は自分があんまり稼ぐ人間でないので、自分より社会的弱者の男性と関わった経験はほぼゼロです。
女性である自分が低く見られる分には(ジェンダー的にイラっとすることがあっても)慣れっこで特段傷つかないのですが、男性はどうやら一筋縄ではいかないらしいというのをよく見聞きします。ただ、見聞きするだけで実感がないのでどこかファンタジーめいているのもまた事実です。
この一節を読んで、いつか社会的強者になってバナナが腐るように不貞腐れていく男性を眺めてみたいなぁ、なんてかなり悪趣味なことを夢想したりしました。
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読んだ中で自分の心に引っかかった場面を掘り下げて書きましたが、こうして読み返してみると、私はこういう、一般的に目を背けがちな「人間のみっともない心の湿り気」のようなものに心惹かれるようです。性格悪いですね。
絲山さんはそういうじめっとした嫌な情感を、何倍も湿度を上げてみたり、逆に面白おかしく乾かしてみたりするのが非常に上手い作家であり、その技量に十代の頃から心とらわれているのだと、今回改めて実感しました。おわり。