れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

しがらみに囚われないために:『叶恭子の知のジュエリー12ヵ月』

叶恭子さんの良著を読みました。 

叶恭子の知のジュエリー12ヶ月 (よりみちパン! セ)

叶恭子の知のジュエリー12ヶ月 (よりみちパン! セ)

 

ひと月ごとに「関係」や「お金」や「孤独」と言ったテーマを設け、恭子さんの考えを非常に簡素な言葉で綴った名言集のような本です。

誰が読んでも感銘を受ける内容ではありますが、特に思春期の女の子のために書かれたような記述が中心です。

 

毎月のテーマの最後に10代女子からのQ&Aコーナーがあるのですが、それぞれの質問に対する恭子さんの真摯な回答が特に印象的でした。

私がそれらを読んでいて「そういえば・・・」と思い出したことの一つが”女子の連れ立ってトイレに行く現象”でした。

トイレなんて人間として用をたしに行くだけの場所なのに、小学校高学年くらいから、なぜか数人でゾロゾロとトイレに行く現象が出現していました。

私はあまり連れションした記憶はありません。単純に休み時間にトイレに行くのでみんなタイミングが一緒だっただけなのでは?とも考えられます。

けれど中には、確かに用をたすでもないのにゾロゾロと団体でトイレに連れ立って、鏡の前でやたらと櫛で前髪をときまくったり、リップを塗りたくったりする女子も存在していた、ような記憶がぼんやりとあります。

 

また、昼食のグループに関しては、中学までは給食だったので席順でグループを強制的に作らされ男女混合で一緒に昼食をとりましたが、高校生の頃はそれぞれ好きなようにグループを作り机を動かしてお弁当を一緒に食べていました。

正直そういうグループ作りに苦労した経験がないので、Q&Aコーナーに出てきた「好きでもない奴らと一緒にトイレに行ったりお弁当食べたりするのはしんどいけど仲間はずれにされていじめられるのは怖い」みたいな悩みは自分にも自分の周りにも確認できませんでした。

ただ、高校2年生の時、いつも教室でただ1人誰とも机をくっつけず静かにお弁当を食べていた女の子がいたことは、とてもよく覚えています。彼女はクラスの中でも存在感の薄い子で、持ち物や見た目も地味で成績も運動神経もそんなに良くない、普通の女の子でした。

彼女をいじめたり陰口を言う人は存在しなかった(と思う)けれど、彼女はどんな場面でも大抵1人で、授業やイベントごとでグループを作らなければいけない時は、誰かが気を利かせて混ぜていた感じだったと思います。

 

私は高校時代ずっと7人組の女の子グループでお昼ご飯を食べていました。たまたま入学してすぐ打ち解けた女の子たちと自然に集まって過ごしていただけでしたが、自分の斜め左数メートル先で、静かに1人でお弁当を食べていたその女の子にどこか憧れを抱いていました。俯くでもなく、悲壮な感じでもなく、ただ淡々と1人でお弁当を食べる彼女がとても大人に見えて、無理して自分もすぐに真似することはなくても、例えば大学生になったらああいう風に過ごしてみたいと考えるようになりました。

 

そしてその願望の通り、大学生になった私は授業やイベント事以外でクラスメイトとはあまり深く付き合わないようにし、お昼ご飯や休み時間は自分のためだけの時間として自分の食べたいものを食べ、自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをするようにしました。

高校生の頃憧れていた彼女のように、食堂で周囲が賑やかに食事をとっていても、気にせず1人で自分の食事をした時「こんなに簡単で清々しいものなのか」ととても腑に落ちました。

きっと無意識のうちに、高校時代までの私も、心の奥底では一人になりたくない恐怖を抱えていたのだと思います。だから憧れつつも結局1人になりきれなかったんです。

 

冷静に分析するとこれはとても不思議なことだと思います。

私は一人っ子で、生まれた時から基本的に1人で過ごすことが多かったのです。家でお留守番するのも大好きだったし、自分一人を楽しませる術は幼い頃から無数に持っていました。

それが、保育園に入って小学校に入って中学校に進んで行くうちに、いつの間にか少しずつしがらみに足を絡ませていたのです。

 

一体どこで、いつの間に?

 

社会人になってから、私には友人が一人もいません。学生時代の友達とは、誰一人として連絡をとっていません。たまに自虐ネタのように言うこともありますが、実際のところそれで不自由がほとんどありません。

小学生〜高校生くらいまで、夏休みのお祭りや週末のお買い物など、どの友達(あるいは男の子たち)と行くか、毎回計算していた気がします。

友達と撮ったプリクラをノートや筆箱に貼って、別の友達とそれらを交換し、”プリ帳”(死語?)に貼り連ねていたあの頃。私は一体何を目指して、どうしたかったのだろうと、なんだかおかしな懐かしさを感じます。

 

私はたまたま周囲の人々に恵まれていたので、激しいいじめに遭ったことも、それを傍観したこともないですが、環境が違えばそう言う場面に巻き込まれていたかもしれません。

技術がこんなに発達して、いろんな手立てがあるにもかかわらず、未だにいじめによる10代の自殺のニュースはなくならないのは、知らず識らずのうちにしがらみが育っていて、それらに皆足を掬われて囚われてしまうのも一因だと思います。

 

謎の同調圧力、足の引っ張り合いや出る杭を打つ監視体制は、遅くとも小学校高学年から大人の社会にまで蔓延っているんだと思います。

そういうしがらみに囚われないためには、常に自分と対話し、自分の声に誠実に耳を傾けることが不可欠なのだと、恭子さんの言葉を読んで再認識しました。おわり。

恋するほどの成長:『ひそねとまそたん』

現在放送中のアニメ『ひそねとまそたん』第9話に感激して涙が出てきちゃいました。

hisomaso.com

独特の絵とエンディングテーマのフランス語の歌が印象的でなんとなく視聴していたのですが、こんなに心揺さぶられるとは夢にも思っていませんでした。

 

あらすじは以下。

「私は、君とソラを飛ぶ。」 甘粕ひそねは、航空自衛隊岐阜基地に勤務を始めた新人だ。

素直すぎて無意識で他人を傷つけるのに疲れ、任期限定の自衛官を選んだのだ。

だが、運命の出逢いが彼女の人生を根底から変える。

基地に秘匿された戦闘機に擬態するドラゴンがひそねを選び、大空高く舞いあがったのだ。

こうして「OTF(変態飛翔生体)」であるドラゴンに乗りこむ飛行要員が、

ひそねの仕事になった。

国家的な命運を左右するとも言われるドラゴンには、

はたしてどんな秘密が隠されているのだろうか……。 

 

公式サイトより)

多分あらすじを読んでもなかなか想像しづらい世界観かもしれませんが、観始めると確かに1話から心惹かれる何かがあります。

 

主人公の甘粕ひそねが、最初ぜんっぜん空気を読まない気遣いゼロ・色気もゼロの女の子だったんです。とにかく日本社会での人付き合いは不得手なコミュ障女子、それがひそねでした。

でも、ひょんなことからドラゴン”まそたん”のパイロットとして彼女にしかできない仕事を見つけ、またともに試練に立ち向かう仲間も得て、ひそねはストーリーが回を追うごとに確実に成長し、変わり始めていました。

 

まそたんをはじめとするドラゴンに乗ることができる通称「Dパイ」にはタブーがあって、それは恋愛感情なんですね。

Dパイは恋をするとドラゴンに乗れなくなってしまうんです。

 

ひそねは今まで異性はおろか同性の友人さえいなかったので、自分がいつの間にか同僚の小此木に恋してしまっていることに全然気づいていませんでした。

でも、視聴者である私は9話の最初から「ひそねが恋してる〜〜〜!!!!!!」って心が浮き足立って感激しちゃいました。

最初あんなに人とうまくやれなくて無神経に本音をズケズケ吐いて周りを怒らせてばかりいたひそねが、小此木に話しかけられて嬉しそうにしたり、突然やってきた小此木の幼馴染の女子高生・奈緒の存在に焦ったりしているのを見るたびにものすごく嬉しくなりました。

挙げ句の果てには、小此木を好きな名緒に指摘されて初めて自分の恋心という初めての感情に気づき、走り出しながら叫んでその場を逃げだすひそね。ああ、なんて愚かで愛おしいんだろうって、だんだんしみじみしてきました。

 

9話の最後、訓練のためまそたんに乗ったひそねは、スーツが溶けるほどドラゴンの胃液まみれになって吐き出されてしまいます。

いつものようにまそたんがうまく反応してくれない事態に驚いたひそね。

そして上司にズバリ言い当てられた、自分が恋をしているという事実に唖然とするところでエンディングに流れました。

次回予告も終わって一息ついたところで、無性に感動して涙が出てきました。

 

なんでひそねが恋しちゃったことがこんなに嬉しいんだろうって、すごく不思議な気持ちになって、記録に残しておきたくてこのエントリを書きました。

ひそねたちDパイは恋をしちゃいけないんです。恋愛感情を持つとドラゴンに乗れなくなってしまう、仕事に支障が出てしまう。

ひそねにとって、ドラゴンであるまそたんはかけがえのない相棒であり、自分に価値を見出せた最初のきっかけであり、自分の価値や意義を担保してくれる存在でもあります。

そんな大事な相棒に、知らず知らずのうちにちょっと仲良くなれた異性の同僚に恋してしまったせいで乗れなくなってしまったひそね。彼女のことが、かわいそうだけど、どうしようもなく可愛くて可愛くて愛しかったんです。

ああ、あんなに周囲を無神経な言葉で怒らせて落ち込んでばかりいたひそねが、恋をして、恋に悩むようになったんだーって、よかったーって、強く強く思いました。

 

恋っていざしてみると楽しさよりも苦しさや辛さが多いのに、なんだかんだ言って非常に尊いものなのだなぁと感じました。

まそたんに乗れなくなってしまったことは可哀想だけれど、恋をしたってことは、ひそねの人生においてとても大きい意味を持つ出来事になると思います。

恋って、心が成長しているからできることなんですね。

独占欲とか嫉妬とか、自己嫌悪もいっぱいするし、決して綺麗ではないのが恋愛感情というものですが、

私はやっぱり恋心というのはどうしようもなく切なく甘い宝石みたいだと思います。

 

あー私も恋したいです。もう何年もしていないなぁ。

ひそねを心から応援します。おわり。

お金を稼ぐのが大変な人とそうでない人:『ヒナまつり』

昨日から新しい職場での仕事が始まりました。

2日目にしてすでにクタクタ。日本のサービス業の労働時間の長さに驚いていると同時に体力・気力ともに底を尽きています。。

「働いてお金を稼ぐのってこんなに大変だったっけ?」とくたびれている最中、現在放送中のアニメ『ヒナまつり』が労働について示唆に富んでいたので、すごくタイムリーな作品に感じられました。

超能力者の少女・ヒナがひょんなきっかけで地球に降り立ち、そこで出会ったヤクザの新田と楽しく暮らしていくコメディです。

ヒナを追って地球にやってきたもう一人の超能力者の少女・アンズの話を観てから、お金を稼ぐことと与えられた環境の相関関係や因果関係について考えるようになりました。

 

ヒナはもともと無気力で欲望に忠実なタイプです。

そんなヒナはタワーマンションに暮らすヤクザの新田に拾われたので、基本的にお小遣いもふんだんにもらっているし、いい家に暮らしてゲームもし放題でテレビも見放題で、美味しいイクラ丼も食べられます。新田の作るご飯も美味しいのです。

たまたまリッチな人間に出会ってうまく順応できたから、そこまで努力しなくても楽で贅沢な暮らしができているのがヒナです。

 

一方アンズは、ヒナに無事会えた後に元いた世界に戻ろうとしたら移動手段が壊れてしまい、食べるために盗みを繰り返しては追われ、途方に暮れていたところでホームレスのおじさんに出会います。

そこで初めてお金を払ってものを買うのだと教わり、そのお金を稼ぐための手段として空き缶を拾ってリサイクル業者で換金するという方法を教授されます。そしてホームレスの集落に連れて行かれてそこで受け入れてもらい、それからというものの、公園に建ててもらった電気もガスもない掘っ建て小屋で寝起きし、来る日も来る日も空き缶を拾いお金に替え、カップラーメンで飢えをしのぐ生活を送ります。

 

アンズはヒナと同じ超能力者なのだから、本当はその力をうまく使って新田のようなヤクザに気に入られたり、他にもいろんな稼ぐ方法があるはずなんです。本当は。

でもアンズは、生来の素直で真面目な性格と、たまたま出会ったのがホームレスのおじさんであったことから、ヒナとは全く違う険しい道を歩むんです。

 

この、偶然の出会いから枝分かれする生活レベルの差にびっくりしました。ヒナとアンズは性格も正反対なので、必ずしも最初の出会いだけが原因だとは思いませんが、それにしてもここまで環境によって生活水準に差が出るとは。。

毎日健気に空き缶を拾ったり、ホームレス集落の仲間たちを心から慕い思いやるアンズはとても可愛いと思いますが、同時にどうしようもないほど不憫だし、ちょっといたたまれない気持ちで見てしまう自分がいました。

素直で真面目であることって、必ずしもいいことではないような気がしてしまうのです。アンズはたまたまその後集落の解体に伴い、人のいい中華料理屋の夫婦に引き取られ、ホームレスよりはマシな暮らしができるようになるのですが、もう最初の体験で体に刷り込まれてしまっているのですよ。苦労しないとお金は手に入らないということが。

本当は中学校に通ったっていいくらいアンズはまだ子供なのに、空き缶ひろいという労働で稼いでカップラーメンをすする毎日を送るうちに、”食べるためには労働してお金を稼がなければならない”というポリシーが骨の髄まで染み込んでしまっているので、引き取られた中華料理屋でも「働かせてくれ」と懇願するのです。

同じ年頃のヒナは中学校で授業中は居眠りして給食の量に文句を言いクラスメイトたちとそれなりに楽しい日々を送っているのに・・・。

 

***

 

アンズの健気さに胸を打たれ感動するものの、「アンズのようにはなりたくない」と思ってしまう自分から目を反らせません。

私の新しい職場は、バッチリ化粧して髪の毛も夜会巻きなどのきっちりヘアスタイルで武装した女性ばかりの美容サービス業で、そこで働く先輩や同僚の皆さんは、残業がデフォルトのシフトで毎日12時間以上はお店にいて、売上についても皆自分ごととして考えています。

誰かが新しい契約を取ったり化粧品を売ったりすると褒め合い喜び合う様子は、前の職場の営業部よりも営業部らしいなと思いました。(前の職場が甘すぎたのはありますが)

 

同僚の一人が「私たちのお給料はお客様からいただいたお金だから」というようなことを言っていて、確かに回り回ってその通りだと理解はしてみるものの、私はどうもその感覚が薄いのです。会社員をしていると、会社からお金を貰ってる気がしてしまう。

さらには、もらっているお給料云々の前に、1日の労働時間の長さとか(定時が10時間半拘束の9時間半労働ってなに)職場の女性たちがちょっと怖い感じで胃がすくむとか硬いサンダルで歩いたり立ちっぱなしで体力が持たないとか、そういう自分の不平不満ばっかり膨らんでしまって、周囲への感謝が二の次になってしまいます。

空き缶拾いでカップラーメン生活なんて、私は耐えられないと思います。

それどころか、アンズのようにどんな環境でも周りに感謝する心意気もないので、きっと孤独にさっさとのたれ死んでしまうかもしれません。

私みたいななんにも我慢できない人間は、ヒナみたいな幸運をただ願って待つしかできないのでしょうか。

 

もしかしたら職場の女性たちは、仕事に本当にやりがいを感じていて、心から夢中になっていて長時間労働も気にならず店舗の売上と顧客満足を追求しているのかもしれません。

私も社会人になったばかりの頃から、仕事が楽しくてしょうがなくて夢中になれてなおかつ稼げたら素敵だってずっと思ってます。

けど、どこで働いてもそうならないんです。どんな仕事も、新しいことを覚えるのは楽しいし、新しい人に出会えば中にはちょっと面白い人もいるし、どんな失敗も経験値は上がります。何かしらいいことはあるんです。

 

でも、やっぱり心の底で「働きたくなーい」という気持ちが横たわっていて、会社の指針に沿って中学の部活動みたいな独特の空気の中でしこしこ働く人々をみると、何かに洗脳されてるように見えて仕方ない気持ちになってしまいます。

「そんな、祝日も働いて、ただでさえ少ない休日も出勤して、夏休みもなくて、なんとも思わないの?」って、不思議でしょうがないんです。

他にも、「ここ変じゃない?」という、おかしな部分ばかりに次々と目がいってしまいます。

 

・・・こうやって書いていると、つくづく私は会社員に向いていないと思います。

それでも気がつくと会社員になってしまう私は、思考停止しているのでしょうか。

あー、なんかもういっそ超能力者になりたいなぁ。おわり。

音楽の力:『リズと青い鳥』

ここまで強く胸を打つ作品をつくり出すなんて・・・今年は京都アニメーション様に泣かされっぱなしです。

現在公開中のアニメ映画『リズと青い鳥』が本当に美しくて切なくて、観てからというもののその世界観にどっぷりハマっています。


『リズと青い鳥』ロングPV

物語は以前放送されていた人気アニメ『響け!ユーフォニアム』の登場人物のうち、北宇治高校吹奏楽部のオーボエ担当・鎧塚みぞれとフルート担当・傘木希美、2人の3年生に焦点を当てた群像劇です。

 

アニメ本編から多少繋がっているので、この映画単体で鑑賞しても楽しめるかもしれませんがやはりシリーズ1話から観ていた方がいいかもしれません。

あらすじは以下。

ーーーひとりぼっちだった少女のもとに、青い鳥がやってくるーーー

 

鎧塚みぞれ 3年生 オーボエ担当 。

傘木希美 3年生 フルート担当。

 

希美と過ごす毎日が幸せなみぞれと、一度退部をしたが再び戻ってきた希美。

中学時代、ひとりぼっちだったみぞれに希美が声を掛けたときから、みぞれにとって希美は世界そのものだった。

みぞれは、いつかまた希美が自分の前から消えてしまうのではないか、という不安を拭えずにいた。

 

そして、二人で出る最後のコンクール。

自由曲は「リズと青い鳥」。

童話をもとに作られたこの曲にはオーボエとフルートが掛け合うソロがあった。

 

「物語はハッピーエンドがいいよ」

屈託なくそう話す希美と、いつか別れがくることを恐れ続けるみぞれ。

 

ーーーずっとずっと、そばにいてーーー

 

童話の物語に自分たちを重ねながら、日々を過ごしていく二人。

みぞれがリズで、希美が青い鳥。

でも......。

どこか噛み合わない歯車は、噛み合う一瞬を求め、まわり続ける。

 

公式サイトより)

 

彼女たちの心の機微を繊細に描くアニメーションは圧巻です。

けれど、私が一番感動したのは彼女たちが奏でるコンクールの自由曲「リズと青い鳥」の第三楽章、みぞれと希美がソロで掛け合うメインテーマです。

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

リズと青い鳥 第三楽章「愛ゆえの決断」

  • provided courtesy of iTunes

みぞれたちの掛け合いは長い間うまく噛み合わず、顧問の滝先生や部員仲間も度々そのことに言及します。

特にみぞれのオーボエは誰もが認める一級品で、完璧なのは皆が理解しているのに、どこか物足りない。

 

みぞれの才能に目をかけている外部指導者の新山聡美先生は、みぞれの進路に自身が通っていた音大を進め、受験に向けていろんなサポートをしていました。

みぞれが第三楽章のソロを吹くときに何を考えているのかを新山先生が問いかけたとき、みぞれは青い鳥を送り出すリズの気持ちがどうしてもうまく想像できない、共感できなくて心を込められないことを打ち明けます。

みぞれがリズなら、青い鳥を送り出すなんてことはできない。希美にどこにも行ってほしくない強い気持ちを想起させます。

しかしそこで新山先生が、リズの気持ちではなく青い鳥の気持ちを想像してみるよう提案すると、そこで初めてみぞれはリズの青い鳥への愛情と、それを受け入れざるを得ない青い鳥のリズへの愛情に思い至ります。

 

そのあとの合同練習でのみぞれの演奏が、もう、とにかくすごかったです。

部員たちもみぞれの演奏のあまりの迫力に自身の演奏に集中できず、泣き出す生徒も出るほど。

しかしそんな状況にも気づかないくらい、集中してのびのびとオーボエを吹くみぞれ。

この、みぞれが本当に覚醒した合奏の場面が、この映画の一番の山場だと思います。

私はこの場面を観たとき、「音楽の力ってこんなにもすごいんだ」とあらためて驚きました。

物語ももちろん素晴らしく、アニメーション描写もこの上なく美しいです。けれど一番胸に迫るのはこの「リズと青い鳥」第三楽章のずば抜けたメロディの美しさ、オーボエの伸びやかさとそれを支える和音のバランス、音楽にここまで感情を揺さぶられたのは本当に久しぶりか、もしかすると初めてかもしれないというレベルでした。

 

映画を観終わって電車に乗っている時も、思い出しては感動して泣いていました。

あまりに泣けるのでサントラをダウンロード購入し、もう一度映画を観てまた感動し、ついには原作小説まで買って読んでしまいました。

Kindle版ないんですね。久々に紙の本買いました。

中身を確認するため書店で中をざっと読むと、それだけでまた泣いでしまいました。どんだけ泣けるの自分。

「響け!」シリーズの原作を読んだのは初めてでしたが、原作はみんな関西弁だったんですね。まあ、京都の学校の話ですもんね。結構アニメと違うところがあって驚きました。

リズと青い鳥』もところどころ原作とは違う箇所があり、結構別物というくらい違いがあります。けれど、やはり原作でもみぞれが自分の力を真に解放する上記の場面は圧巻で泣けます。滝先生も泣いてたんですね。みぞれ凄すぎです。

というか、この原作者の武田綾乃さん、ものすごい描写力です。小説という言葉だけの世界で、こんなに音楽を豊かに表現できるなんて、本当に驚きました。

そして、武田先生の描写通りの完璧な音楽を作曲した松田彬人さんも凄い。この音以外にはありえないと思うくらい、原作通りの曲でした。

 

優れた原作、優れた制作陣、全てがこれ以上ないくらいぴったりにはまって、このような至上の作品が出来上がったのだなぁと、あらためて感動しました。

世の中にはこんなにも美しいものがあるのだと、しみじみこの作品に出会えた幸運を噛み締めずにはいられません。おわり。

28歳無職:『凪のお暇』

面白い作品に巡り合いましたよ。

凪のお暇 1 (A.L.C.DX)

凪のお暇 1 (A.L.C.DX)

 

主人公の大島凪28歳は、前の職場で精神の均衡を崩し最終的には過呼吸に陥って退職。東京郊外で無職の節約生活をはじめ、人生の再スタートを切ります。

 

いや〜28歳無職って、私もまさに今28歳無職ですけど、凪のニート生活には愉快なご近所さんたちや拗らせすぎて不憫萌えな元彼など、面白い登場人物がいっぱい出てきて素晴らしい。私はここ最近お試し体験の英会話の先生(カナダ人男性34歳)と1時間喋った以外は店員さんとのレジでの「Suicaで」くらいしか喋ってないですよ。あとは独り言。

 

凪は節約術もすごい。料理上手だし金のかからないエクササイズにも詳しいです。ビニール袋でリフティングするやつには感動しました。こんな楽しくてお金のかからない運動がこの世にあったなんて!

 

***

 

凪は空気を読みまくるおとなしい系女性なのですが、そのせいで精神的にやられて会社をやめたので、退職してからの彼女はちょっと辛辣になってクールで素敵です。

特に一番すごいと思ったのが第2巻終盤、ハローワークで出会った友人・坂本さんに強引に連れていかれた婚活パーティで偶然あった前の同僚・足立さんにまくし立てるところです。

「じゃあなんで今日の足立さんはそんなに肩出して迎合した格好してるの?」

「は?」

「雰囲気違くてビックリしたのはこっちもだよ

足立さんてもっとこう媚びないカジュアルって印象だったから

もしかして会社帰りわざわざ着替えたの? すごいガッツ!

なのに収穫ないってちょっと切ないね

でもエントリーシート見つめ直してから来いだなんて

さすが足立さん強気だなぁ」

「当たり前じゃない 突っこむだけの男とは違うのよ

こっちは受け入れる側なんだから強気で行くべきでしょ」

「それなんだけどさあ

男の人だって言う程誰でもいいわけじゃなくないかな?

自意識高くてこじらせた女性わざわざほぐして入れるのなんて面倒そうだし

向こうだって足立さんがしたように最低限の線引きはしてると思うけど

それにエントリーシート見直して来いってことは職業や年収がお眼鏡に適えばOKってこと? その人の肩書によっては抱かれちゃうってことだよね?

それって露出の多い服ってだけで寄ってく男と同じくらい浅ましくない? 」

慧眼〜というか、ほんと婚活パーティみたいな場所って双方向が評価し合うってことを失念している人が多いと思うんですよねぇ。前の仕事で散々運営してたので見ていてうんざりでした。

そして凪の偉いところは、他人にズバッと言った後で自分のこともちゃんと省みるところです。

凪の元彼・慎二。彼は営業部のホープでイケメンでした。自分もそんな彼の肩書に抱かれていたのかもしれない、と内省する凪。やっぱり彼女は根が謙虚なんですよね。

だから「ヤりたいだけの男も 肩書きに抱かれたい女も責められない」と自分を断じる凪なのでした。

 

***

 

凪も可愛くてとても好きですが、私は凪の元彼・慎二がものすごく好きです。

最初はただの意地の悪い調子のいいイケメンだと思っていたのですが、2巻から慎二がいかに凪のことを好きか、そしてそれを素直に表現できない小学3年生もびっくりのガキっぽい性格かが描かれ、私は慎二に完全に萌えてしまいました。不憫萌えです。

好きな人をボロクソに言ってしまうあの心理。ガキっぽいと自分でも気づいているんですがどうにもできない時があります。私も幼い頃は若干その気があったので。

今は好きな人ができるとうざいくらい本人に好き好き言いまくるタイプになったんですが、いつどこでシフトチェンジしたのかあんまりよく思い出せません。

それにしても慎二好きです。可愛いなぁ慎二。でもやっぱり凪に「ブスになったな」はいけませんね。聡明なキャバ嬢の杏ちゃんも言っていましたが、”ブス”は女の子に言っちゃいけないワード万国共通ナンバー1です。

 

***

 

凪の新生活は、私が新卒で入った会社をやめた時とよく似ていて、ちょっと懐かしくなりました。季節も夏だったし、失業保険の手続きもしてたなぁ。ハローワークのおばさんはずっといい人だったけど。

旅行にも行ったけど、それ以外は図書館で借りてきた本読んで、料理して・・・先の全く見えないあの、心もとないけどしっくりくる感じ。

 

次の仕事が決まっているから言えることかもしれませんが、ニート生活って誰しもやってみたほうがいいんじゃないかって思います。

やるべきことがまったくなくなったときの自分を数ヶ月眺めると、空気を読んで押し殺していた自分の本音が、わからなくなっていた自分自身がちょっとずつ見えてくる感じがするのです。

って言っても私は凪ほど空気読めないタイプなんですけどね。そして我慢強くもないので無理と思うとすぐ辞めてしまう。全然凪とは違います。

それでもすごく共感できるのは、この20代の数年のうちに何度かニート生活してるからに他なりません。

 

なんで今の職場にいるのかよくわからなくてもやもやしている、なんとなく惰性で職場に通っていてスッキリしない、そういう人に読んでほしい作品だとおもいました。おわり。

旅とスタンス:『from everywhere.』

小学校低学年の頃『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』は、ストーリーはほとんど理解できないにも関わらず毎週観ていた稀有なアニメ番組で、成長してからもこのアニメのオープニングテーマとエンディングテーマがずっと心に残っていました。

小学校高学年になった頃「あの曲なんていう曲なんだろう」とふと思い出し、朧げに覚えていた歌詞を自宅のパソコンで検索すると、坂本真綾という人の「奇跡の海」という曲のコード表が出てきました。

ちょうどその少し後『ラーゼフォン』というアニメを視聴していて、またオープニングテーマが魅力的な曲で、それも坂本真綾さんが歌っていました。(「ヘミソフィア」という曲です。)

 

そんなことがあり、思春期の多感な時期によく聴いていた音楽の一つに坂本真綾さんの楽曲が数多くあり、彼女の曲は今でも好きでよく聴いています。

そんな坂本真綾さんが、自身が29歳の時の約5週間にわたるヨーロッパひとり旅の模様を書いたエッセイを読みました。

from everywhere.

from everywhere.

 

坂本さんは8歳の頃から子役として芸能界で活躍していて、この旅に出た29歳になるまでずーっと働き続けていたそうです。

すごいなぁ。数ヶ月ちょっと働いただけですぐ嫌になる自分からは想像もつかない世界です。

 

そんな彼女が初めて捻出した長期休暇で一人旅する様子は、とても素直でユーモアとセンスに溢れていて面白かったです。そして示唆に富んでいました。

 

坂本さんがこの旅を敢行したのは2010年、ちょうどスマートフォンが多数派に切り替わるくらいの年。

このころも昔に比べれば旅のための環境が格段に整備されていますが、そこからさらに8年経った今、時代はますます大移動時代に突入しているように思います。

スマートフォン1つでLCCのチケットから宿の手配からガイドから美味しいお店の口コミまで揃う、こんなに旅がしやすい時代が未だかつてあったのでしょうか。

そんな時代だからか、ここ数年は旅を推奨する言説が随分増えたように感じます。

 

坂本さんは本書の最後で「ひとりになりたくて旅に出たのに、私は人を求めて歩いていたんだと、今日わかった。」と書いています。

私はなんのために旅に出るのか、改めて考えたことがあんまりなかったことに思い至りました。

 

私は長年飛行機が苦手で、克服したのはこの2、3年のことです。

大学の時の地理学の先生が鉄道オタクで、彼の話が面白くて日本国内を電車で旅行するようになったのは20歳になる少し前でした。

大学を卒業するときは夜行バスも使って、四国と九州をめぐりました。

フリーターになった頃はほとんど休みがなかった中なんとか夏の数日間だけ時間を取り、東北地方でまだ足を踏み入れていなかった山形、秋田、青森を18きっぷで巡り、

新卒で入社したメーカーに勤めていた頃は、設備の故障で急に降って湧いた休みに長瀞や新潟に遊びに行ったりもしました。

そのメーカーをやめた直後は鳥取、島根、長崎を含む西日本旅行をし、

前の職場では夏休みに高知と愛媛、春には仕事を抱えたまま大分と宮崎をめぐり47都道府県全てに旅することができました。

それからは、家族旅行で10歳の時以来一度も行っていなかった北海道に行くべく10年ぶりに飛行機に乗り、高校の修学旅行以来行っていなかった沖縄に行くべくまた飛行機に乗り、さらには奄美大島にも飛行機で行きました。

立て続けに飛行機に乗ってやっと慣れてきて初めて海外旅行が視野に入るようになりました。

 

10代の頃も家族や学校の行事や部活動の合宿その他で大きい意味での旅行はいろんなところに行きました。でもなんだかどれも断片的な記憶しかありません。

自分の心に強く残っている旅はどれも10代最後から始まった一人旅の記憶です。

一人旅を始めた頃は「47都道府県全てに足を踏み入れる」という目標があって、それを達成した26歳の春にはそれなりに達成感がありました。

その次は「すべての都道府県の鉄道に乗る」ことを目標とし、北海道と沖縄という、10代の頃に行ったきりの場所に苦手だった飛行機で一人旅しました。

奄美大島にも行った頃心底満足するとともに思ったことは、確かに所変われば食べ物や雰囲気やいろんなところが違うけれど、あくまで日本はどこ行っても日本だな、ということです。

 

それからは、国内あちこちフラフラしつつもイマイチ気分がパッとしなくて、やっぱり一度海外に行ってみなければ、でも言葉わからないしなんかあったら怖いし、と思い悩んで28歳になってすぐ行ったのが台北でした。

ほぼ日本とも言われる台北は、確かに言葉がちょっと通じない陽気な東京みたいな感じでしたが、帰国した時に「ああ、あそこは外国だったんだ」とハッとしたのを今でもよく覚えています。

日本を出て初めて日本が相対的に見えるんだなぁ、と沖縄と対して変わらない位置にある台湾に行ってさえ感じるのだから、ヨーロッパなんて行ったらもっとカルチャーショックがあるのでしょう。

 

***

 

さて、この本を読んで「ほんとその通りだな」と思った箇所。

外国でことばが通じないときに感じる疎外感は、同じ日本語で話しているのに自分の気持ちがうまく伝えられない、人と腹を割ってわかり合えないと思うときのそれに比べたら、どうってことない。私は英語が喋れないことよりも、自信のなさを取り繕ってかっこつけていることのほうがよっぽど恥ずかしい。

私も海外旅行をまだ視野に入れていなかった頃は「英語喋れないし聞き取れないしわかんないし無理」って思っていたけど、いざ行くことを決めたら「まあなんとかなるでしょ」と妙に楽観的になり、そして本当にその通りでした。(不便はあるので語学はできるに越したことはない。)

実際はことばが通じるかどうかの不安よりも「おかしな振る舞いをして変に思われたらどうしよう」とか「おどおどして怒られたらどうしよう」とか、そういう”周囲からの目線”に変に怖気づいてしまうことのほうが多かったです。多分、日本にいても無意識のうちにそういう思考だったんでしょうね。

よくよく考えればどこから見ても明らかに外国人だし旅人なんだから、少し変な感じでも誰も気にしないし、というか旅先で恥かいたって別にどうってことないんですよね。もっといえば、別に日本に居たってどこに居たってそんなに他人の目をきにする必要はないのです。

そういう知らず識らずのうちに自分に染み付いて居た余計な癖みたいなものを認識して、取っ払う訓練ができるのは、海外旅行のいいところだと思いました。

 

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坂本さんは旅の後半の19日目くらいから、旅先も、自分が自分の日常を過ごす場所も、本質的には同じはずであるということに気づき始めます。

ここではないどこか、それを探し求めていたけれど、どこであれこの世界に特別でない場所なんてない。毎日が特別な日だし、誰もが特別な命を生きている。ただ、あまりにも近くにありすぎて普段はそれに気がつかないだけなのかもしれない。

私が呼吸し、立っている場所がすべて特別なのだとしたら、東京のいつもの生活もすでに私にとってはちゃんと帰るべき場所であったのかもしれないと。こんなに遠くまで来てやっと気がつき始めたようです。 

そして最終日にはこう書いています。

旅は現実逃避だったの?

否定できない。だけど、例えそうだとしても、いつかは坂本真綾という人間の日常へ私は帰るしかないんだ。いつまでも旅人でいたいけど、旅の中でしか自由な自分でいられないなんて、そんなの変だもの。

世の中には”いつまでも旅人”な人ももちろんいるけれど、また最近はそういうライフスタイルが結構もてはやされているけれど、少なくとも自分には向いていないとつくづく感じます。

旅は面白いし発見がたくさんあるけど、やっぱり疲れます。ずーっと旅行に行けないのもつらいけど、ずーっと旅行していなければならないのもしんどい。だからこそ、旅の中でも外でも、ちゃんと自由でいられるようになりたいと思いました。

 

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ヨーロッパには行ってみたいけどどこから行こうかちょっと考えあぐねてたんですが、

この本を読んでリスボンバルセロナフィレンツェプラハ、パリに行ってみたいと思いました。おわり。

人生を生き延びるということ:『憤死』

先週海外旅行で飛行機に乗っていた際、自分の人生の記憶を覚えている限り最初から振り返ってみる、という試みをしたのですが、幼少期の記憶がほとんど曖昧であることに気づきました。

少なくとも小学校に入る前の、3歳〜5歳くらいの記憶だとおもうのですが、それが果たして本当に自分が記憶しているものなのか、親などの他人から教えられてあたかも自分が記憶しているように錯覚しているだけなのか、確証がもてない事柄が非常に多いです。

 

人々がどのくらい昔からの記憶を保持しているのか、ちょっと気になります。

そんな、幼い頃の記憶が大人になっても人生に絡まるような物語の短編集が綿矢りさ『憤死』です。 

憤死

憤死

 

この表紙、めちゃめちゃインパクトあって好きです。

 

綿矢さん自身の幼少期のお話「おとな」から始まり、少年時代の不思議なおじいさんとその後の同級生とのホラーな展開がちょっと怖い「トイレの懺悔室」、好きじゃないけれどなんとなくつるんでいた気性の激しい女友達との再会の話「憤死」、そして男子の親友3人組が小6の時に遊んだボードゲームを巡って数奇な運命をたどる「人生ゲーム」の計4篇が収録されています。

 

読んでいて思ったのが「”世にも奇妙な物語”っぽい」、ちょっとゾクッとする話が多かったです。

「憤死」は笑いましたけど。

 

タイトルの「憤死」とは、同小説によると世界史でちょくちょく出る死に方だそうで、「どうやら誰が見ても悔しく失意のうちに死んでいった人物を、憤死扱いにするらしい」のですが、私は世界史をかけらも勉強しなかったので知りませんでした。

語り手の女性の同級生の佳穂が失恋の末自殺未遂を起こし、それを面白がって語り手が見舞いに行くという話なのですが、佳穂の自殺がまさしく憤死なのだと思い至る語り手の表現が秀逸で面白かったです。

佳穂は自分の命に八つ当たりした。小学生の頃と変わらないパワーで癇癪を爆発させて、怒りにまかせて、軽々と自分の命に八つ当たりしたのだ。

「死ぬかもしれないのに、恐くなかったの?」

「死なんて、」驚いたことに佳穂は鼻で笑った。「あんまり腹が立ってよく考えてもいなかったわね。看護婦をしてるあなたにこんなこと言ったら、叱られそうだけど、生きるか死ぬかなんて、本当にどうでも良かったのよね。ただあの瞬間、身が焼き切れそうな怒りから逃れられればよかったの」

 

綿矢りさ「憤死」『憤死』河出書房新社 2013.3.30)

”自分の命に八つ当たり”ってすごい表現だな〜と感心しました。

佳穂みたいな激しく自分の人生に没頭している人って羨ましいといつも思います。失恋して殺人とか自殺とか、よく知らないけどイタリア人みたいっていうか、ラテンぽいというか。そういう情熱的な人生って素敵だなぁと他人事のように思います。

 

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この短編集の中で一番好きな話は最後の「人生ゲーム」です。

小学6年生のコウキとナオフミと語り手の仲良し3人組がコウキの家で人生ゲームをして遊んでいると、2階から降りてきてキッチンの牛乳を飲むコウキの兄の友人らしき青年からちょっかいをかけられます。

そんなボードゲームよりリアルな人生の方がずっと大変だと茶化すと青年は「おまえらが本物の人生で大変になる場面に、マークつけてやる」と言い出しマジックで3つのマスに丸印をつけてしまいます。

すっかり興が削がれた3人は人生ゲームをやめて公園で遊ぶことにしました。

 

その後彼らは中学生になり高校生になり大学生になり、別々の学校に進みつつも付かず離れず仲良くしていた3人に大きな出来事が起こります。それはナオフミの交通事故でした。

大学生だったナオフミは取り立ての免許で彼女とドライブしていたところ事故を起こし、自身は軽傷で済んだものの一緒に乗っていた彼女は脚に大きな怪我を負い、ぶつかった相手も全身打撲で入院。ナオフミの人生は一転し、大学を辞め多額の慰謝料を返す日々を送ることになります。

コウキたち親友もできるだけの援助はしたものの、会うたび辛気臭くなるナオフミに内心嫌気がさして少しずつ疎遠になりかけていました。

そんな折にナオフミが自殺してしまいます。

何も言えないナオフミの葬儀の後日、コウキに呼び出された語り手はコウキの実家で昔遊んだ人生ゲームを見せられます。

忘れかけていた小6の時の記憶。謎の青年が勝手に丸印をつけたうちの一つのコマ、”買ったばかりの新車で人身事故! 一万三千ドルはらう”を目にして血の気が引く2人ですが、丸印をつけた青年の身元や消息は謎のまま、ただの偶然ということでやり過ごしました。

それから数年、社会人になった彼らはまたもや難儀な運命に直面します。

コウキが勤めていた大手銀行が突然の破綻、なんとか次の就職先を見つけたコウキでしたが、再会した彼の様子はとても大丈夫じゃなさそうでした。

居酒屋で再会したコウキはあの人生ゲームを持ってきていて、青年が丸印をつけた二つ目のコマ、”勤めていた会社が倒産! 無一文に”に2人は少し冷静でいられなくなります。

それでもどうすることもなくやりすごすしかなかった矢先、前の銀行で不正融資に手を染めていたことが発覚したコウキは投身自殺してしまいました。

語り手の彼は大事な親友2人を失い、偶然にしては出来過ぎている謎の丸印がついた人生ゲームをコウキの形見として貰い受けました。

最後に残った彼はそれなりに幸せな人生を全うし、妻に先立たれて一人ぼっちになった自宅であの曰くの人生ゲームを一人でプレイします。

一人でゲームを進める彼の車が止まった三つ目の丸印のついたコマは、”がんが見つかる! 手術代として一万ドルはらう”。

 

この後の展開はちょっとファンタジーなので実際読んでいただくとして、この作品は一人の男性の一生が実に巧みに鮮やかに描かれていて、本当に見事で圧巻でした。

最後の方の、彼の人生語りは読んでてじんわり泣けてきました。決して世界に名を残す偉業を成し遂げたわけでも、ドラマティックな大恋愛をしたわけでもないけれど、様々な登場人物との思い出や嬉しかったこと悔しかったこと悲しかったこと楽しかったことが走馬灯のように口から溢れ出し、目の前に広がるような様子は、人生を懸命に生き抜いた人の美しさに満ちていると思いました。

彼が語り終え再びルーレットを回して、ようやくゴールにたどり着くところもとてもいいです。

 

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過去には戻れないし未来もわからない、人生は常に今しか実際に見ることはできません。

記憶は時間とともに美化されたり歪曲されたり忘却されたりしますが、それでも人が生きていくということは、確かに過去を生きて積み重ねたということに他ならないのだと、この作品を読んで改めて思い知りました。

どんな人にも生き延びていく限り、過去があり、経験があり、思い出があり、後悔があり、未来があるのですね。おわり。