れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

女に生まれたのは私のせいじゃない、『13月のゆうれい』

このエントリは少し時間をかけて書きました。

というのも、『13月のゆうれい』第1巻を読んで、思わず書き連ねたもののまとまらず、下書きフォルダで長いこと塩漬けになっていたのです。それが前半です。

そして先週末、第2巻を読んで、ああ続きを書きたいと思い加筆したのが後半です。

〜ここから前半〜

13月のゆうれい(1) (FEEL COMICS swing)

13月のゆうれい(1) (FEEL COMICS swing)

 

佐波ネリは彼氏なしのOLで、彼女が合コンに向かうところから物語ははじまります。

合コンに行くというネリの恰好はブルゾンにカーゴパンツをブーツイン、友人に「また随分ごっつい恰好してきたね」と言われますが、「好きな格好してモテてえ~」と自分の洋服選びのポリシーを覆そうとはしません。

ネリは子供のころから男勝りで空手も得意で少年のような女の子でした。双子の弟・キリはうってかわっておとなしめのかわいい系男子で、ネリはそんなキリをいろいろなものから守ってきた逞しい姉でした。

ネリは合コンへ行く前に銀行へ寄ろうとすると、”かわいい系の恰好”をした自分と瓜二つの女の子に出会います。

それは、女装をしていた弟のキリでした。

約3年ぶりに会った弟の様子にネリは混乱しましたが、詳しい話はあとにして合コンに向かうことに。

合コンで顔がモロタイプな男・周防に迫られるものの実は周防が同棲しているということがわかりネリはがっかりします。おまけになぜか酔っぱらった周防の介抱までする羽目になり散々でしたが、周防を迎えに来た同棲相手というのは、なんと弟のキリでした。

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キリは子供のころからかわいいかわいいともてはやされていましたが、小学生のころとある不審者にいたずらをされてしまいます。

それから「かわいい」と言われることが我慢ならなくなり、言われると暴れるようになりましたが、高1の学園祭でひょんなことから急遽男子校の女装コンテストに出ることになり、女装をすれば「かわいい」と言われても嫌じゃないことに気づきました。

それから女装はキリにとって一種の鎧となりました。

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一方キリの同級生の周防は、自分がどうしても恋愛できないことに悩んでいました。

顔が悪くない彼はモテて、いろんな女の子に告白されますがどの子にも執着できず、自分には恋愛の才能がないのだと考えるようになります。

しかし高1の女装コンテストに出場したキリの女装姿に胸を鷲掴みにされ一目惚れしてしまった周防。男の恰好に戻ったキリには何も感じないのに、女装したキリには心を奪われるというちぐはぐで幻想を追うような恋に苦しみます。

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それぞれの事情がだんだんわかってきたネリは、合コンの時からほとんど一目惚れで周防のことが好きです。奇妙な三角関係ははたして・・・というようなストーリーです。

 

ネリがすごくカッコいい女なんですよねぇ。強い女ってこういう人だと思います。

自分の好みや思考経路がはっきりしていて、腕もあるし勇気もある。少し不器用なところもあるけど懐の深さを併せ持っている。素敵な女性です。

特にカッコいい場面が、キリが女装姿を会社の同僚に盗撮されて、ショックで引きこもってしまうのですが、それを助けにきたときのネリ。

「キリ

 

もう大丈夫

 

今度は誰をぶっとばせばいい?」 

そういってキリを抱きしめるネリ、めちゃめちゃカッコいい。男前で女前です。

後日ネリが盗撮男に天誅を下すところがまたスカッとしていいです。

 

そんなカッコいい女・ネリですが、物語の中でちょくちょくネリの少女時代が描かれます。

髪が短くて活発でちょっと乱暴者なネリはどこからみても男の子にしか見えず、よくキリに間違えられました。

そんなネリも中学に上がるころには、容赦ない体の変化に飲み込まれていくわけです。

その時の絶望が繰り返し描かれるんですね。

初潮やら第二次性徴期やらってよく文学や漫画やアニメのエッセンスにされますけど、正直私はこれが全然ピンとこないんですよね。

初潮がきたとき、私はネリみたいにお腹もいたくなかったし、体もそんなに重いと感じなかったし、確かに少しはめんどくさかったですが、そんなもんだと思ってました。

ブラジャーもスポブラなんてほとんど使った記憶がなくて、中1くらいのころにはすでにワイヤー入りのかわいいブラを着けていました。

子供を産むとか産まないとかそういうことも特に考えてなかったです。思春期の私にとっての月経は、なんだかめんどくさいしょうがないもの、体育サボる言い訳に使えるもの、くらいの認識でした。

生理痛を本格的に感じ始めたのは高校の半ばくらいからで、それからはまれに「子宮取りたい」とか考えるようになりましたけどね。

そう考えると、単純に感受性の貧しい子供だっただけかもしれませんが。。

こういうの、男の子はどうなんですかね?性同一性障害だったらまた話は別ですが、ヘテロでも抵抗あるんでしょうか。

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以前にも書きましたが、私は10代の中盤くらいまでは、自分の性別にケチをつける気はそんなになかったです。

女に生まれてよかったと思っていたし、かわいい恰好をして「かわいい」と言われれば嬉しかったし、化粧も服も派手で露出が高く、ヒールとスカートが大好きでした。

少しは「女のくせに生意気」とか文句を言われる場面もありましたが、どちらにせよ子供だったので、おおよそ流せる範囲でした。

でも、今は女は不便でしょうがないです。

 

 

〜ここから後半〜

さてさて前半を書いてから数ヶ月たち、第2巻を読みました。

13月のゆうれい(2) (FEEL COMICS swing)

13月のゆうれい(2) (FEEL COMICS swing)

 

 かっこよかったネリが、周防と付き合いだして少しずつ変化していきます。

周防に「付き合おう」と言われて幸せいっぱいのネリですが、周防が自分を女装したキリの代替品のように思っているのではないかと懐疑的になります。

それでも、いわゆる”かわいい”格好をして褒められると嬉しいことに気づいたネリは、これまで築き上げたいかつい自分と”かわいいと言われて嬉しい自分”との間になかなか折り合いがつけられずに悩みます。

 

そんな悩めるネリに、友人の愛佳(かわいい系ブランドアパレル店長)がたくさんの助言をくれます。2巻ではこの愛佳が大活躍します。

「彼氏受けがきっかけだとしてもさ

新しい服着るだけで 自分が変われる気がしてよくない?」

(中略)

「悩むな 悩むな

どうせ着るんだったら ネリが楽しんで着られるのを探しゃいいじゃん

そのためにたくさん種類あんだからさ

 

服は気分よく着てこそだよ」

愛佳店長さすがです。愛佳みたいな定員さんから服を買いたいものです。 

そんな愛佳ですが、流れでキリと付き合い始めることになります。

ネリとは違った角度でキリもいろいろ悩ましい青年で、自分の男性的な部分にいくらか抵抗があるようです。

そんなキリといいムードになりつつも、やはりキリの精神的な課題のため、初めてはスムーズにいかず、気をとりなおして2人でお風呂に入る場面があります。

そこでも愛佳の慧眼が発揮されます。

「さっきさあ

『汚い』って言ってたじゃん

私からはキリ君はそう思えないんだけど

でもきっとそういう問題でもないのね」

「・・・うん」

「難しいねえ」

(中略)

「もしかしてだけど

『あなたは汚くなんかないですよ』て表明?するのに

舐めたり入れたりするのかな」

「え」

「まあ私は

キリ君と舐めたり入れたりしたけどね」 

愛佳さん、攻めますね。

結局この日2人は仲良く眠るだけですが、キリの心は少しずつ着実に軽くなっていきます。そして最終的にはこの2人は結婚します。素敵だなぁ。

 

このキリたちが仲良くお泊まりする晩、ネリと周防もネリの家でお泊まりするんですよ。たまたま。

でもネリたちもいろんなタイミングの悪さからうまくいかなくて、ここのネリの正直さが読んでて笑えます。

久々のディープキスにうろたえるところとか、すね毛とかいろんなところが急な話でネイチャーなままで焦るとか、相手の男の体毛が薄毛で羨ましくてムカつくところとか、すごく共感できて笑ってしまいました。

 

終盤、ネリは周防を信じきれずに別れを切り出します。

しかし、周防との付き合いやキリや愛佳などの友人とのやりとりを通して、ネリはだんだん新しい自分、「選択肢が増えて好きな服が増えて」いく自分を受け入れることができるようになります。

心機一転、合コンに繰り出す頃には、ひらひらのスカートも難なくコーディネートに取り入れることができるほどになりました。 

「女の子」に生まれたのは私のせいじゃない

だから「女の子」への呪いに付き合ってあげる義理だってない 

好きな恰好して何が悪いんだよ

 

楽しむ権利が私にはあるのだ

この作品の中で一番好きな文節です。

私は本当はかなりシビアな部分があって、「着るのは自由かもしれないけどブスは何着てもブス」とか「可愛い子は何着ても可愛いし許される」とか、結構ひどい偏見も持っているんですけど、

それでも”「女の子」への呪いに付き合う義理はない”というのに相当救われる部分があります。

 

現実は依然として厳しいです。

今いる日本社会は、まだまだ”「女の子」への呪い”に付き合わなければやっていけないようにできています。

それでも先人たちが、呪いに終止符を打ちたい女性たちが戦って戦って、少しずつ少しずつ、その呪いが弱まってきたと思います。

だから今の時代に生まれて、幾分かマシだとは感じています。

呪いに付き合った方が楽なことも多い世の中ですが、

今回こうして『13月のゆうれい』を読んで、やっぱりネリのように呪いを跳ね除ける方にシフトしようと決めました。

楽だからといって呪いに付き合い続けるのは思考停止ですね。

「女の子」を演じるのはやめます。おわり。

もう二度と会えない事実:『塩狩峠』

私は祖父母を含む親戚一同皆生きており、身近な家族を亡くしたことがありません。

小中高校、大学の同級生や社会人の同期も、今は誰とも会うことはないけれど、亡くなった知らせを聞いたことはありません。

仕事で出会った様々な人も、病気したりすることはあっても訃報を聞いたことはなく、おぼろげな記憶の曽祖母のお葬式以外、葬儀に出た記憶はないです。

 

そんな私が「死んだ人間にはもう二度と会えない」という事実を突きつけられたのは、中学時代に三浦綾子塩狩峠』を読んだ時でした。

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

 

この物語は長編で、あまり好んで読み返す作品ではないのですが

初めて読み終えた時の衝撃があまりにも強く、10年以上たった今でも意識に深く刻まれていて、何かのきっかけで思い出すことがあります。

この作品はまるで何かの美談のように語り継がれたりすることも多くて、作者の三浦綾子キリスト教信者なせいもあって、後半はややキリスト賞賛っぽい雰囲気も出てきてしらける場面もあります。

それでも私がこの作品をどうしてこんなに忘れられないかというと、一番最後の、恋人を失った女性・ふじ子の絶望が全く救いようがなかったからです。

 

結納の日、もう結婚するという日の、幸せの絶頂にいたふじ子。彼女は幼い頃から片足に障害があって、いろいろと不憫な人生を歩んできた女性です。

そんな彼女が、大人になってようやく掴みかけた幸せが、一瞬にして消え去ります。

物語の主人公であり、ふじ子の恋人である信夫は、結納に向かう列車で事故に遭い、多くの乗客の命を救うために自らが犠牲となり、帰らぬ人となります。

信夫は死んでしまいますが、その勇敢なおこないに周囲は彼を褒め称えます。

 

しかし、私は信夫が賞賛されればされるほど、やりきれない虚しい気持ちでいっぱいになるのでした。

どんなに信夫が素晴らしい人間だと称えられたところで、信夫は二度と帰ってこない。

もう二度と会えない。

この事実にどうすることもできないふじ子の、最後、信夫が亡くなった場所に花を手向けに行く場面は、思い出すだけでもやり場のない悲しみで胸がいっぱいになります。

 

 

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私はこの場所(このブログ)で、自分が直近で観て・聴いて・読んで、心に残った作品を通して私自身をかえりみるということをしています。

しかし、上記の『塩狩峠』は、最近読み返したわけではありません。

 

自分のよく知る場所で、自分のよく知る場所の人々が、突然に命を落とした悲しい事故がありました。

自分がすごく親しかった人でなくても、ある程度距離の近い人が、全国ニュースになるくらいの大きな事故に巻き込まれて亡くなりました。

職場でニュースを観た時、思考がすっと静かになり、報道を見ながら言いようのない・それまで体験したことのないような気持ちになりました。

そんな時、脳裏にふっと現れたのが、『塩狩峠』を読んだ時にひたすら訴えられた、死んだ人間にはもう二度と会えないという事実でした。

 

冒頭に書いたように、私は家族も同級生も同期も同僚も、身近な人間をなくした経験がありません。

自分にとって大切な誰かを失った経験がありません。そして、大切な人というものを持っていません。

どんなにイメージしても想像の域を出ませんが、もし自分にとってかけがえのない人(恋人か、配偶者か、愛する人との間に生まれた子供か・・・)が、事故や事件や病気や災害で命を落とし、もう二度と会えなくなったとしたら、

私はきっと立ち上がれないのではないかと思うのです。

想像するだけで、怖くて動けなくなります。

前に別の何かでも書きましたが、私はとにかく人一倍「失うこと」が怖いです。

だからあらかじめ、失いたくないものは持たない。そういう人生を送ってきました。

それでも、今回のニュースで、心がこんなに抉られるなんて、思ってもみませんでした。

 

ぼやぼやと不真面目に生活していて、いきなり闇から殴られたような、そういう出来事でした。

20代や30代くらいで、何も考えずに生きていると、”死”というものが知らぬ間に遠くへ隠れてしまいます。

本当はいつも自分とともにあるのに。

 

 

 

亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

アニメ史に残る名場面:『亜人ちゃんは語りたい』

日本に生まれて本当に良かったと思う瞬間、それは素晴らしいアニメ作品を母国語で認識できる時です。

現代日本は素晴らしいアニメ作品、漫画、ライトノベルその他で溢れているとしみじみ感じます。

それらが翻訳を介さずにシームレスに認識できること、この幸運を享受できて本当に嬉しいです。

さて、そんな現代日本において、アニメ史に残る名場面というものがあります。

私がパッと思いつく名場面は『涼宮ハルヒの消失』のラストの雪が降る病院の屋上のシーン、『氷菓』の最終回の桜吹雪の中でのシーン、『恋物語』終盤での貝木が撫子に必死に諭すシーン、『HELLSING OVA』での少佐の大演説などなど、今でも思い出すだけで胸が熱くなるものばかりですが、

そんな名場面に新たに加えられたのが、現在放送中の『亜人ちゃんは語りたい』11話の終盤の海辺のシーンです。

 原作漫画では4巻の最後の部分にあたりますが、情景が少しアニメとは異なっています。

 ”亜人ちゃん”は”デミちゃん”と読みます。

物語の舞台は現代日本ですが、「バンパイア」「デュラハン」「雪女」「サキュバス」といった”亜人”と呼ばれる特別な性質を持つ人間がいる社会です。

日常生活に不利な点を持つ亜人に対しての生活保障制度が充実しているなど、ある程度環境の整備された世界ですが、そうは言ってもまだまだ課題の残る世の中。

柴崎高校の生物教師・高橋鉄男は、学生時代から亜人に興味を持っていたものの、今まで亜人に会ったことはなかったのですが、ある新学期、新入生3人・新人教師1名の様々な亜人に出会い、彼女たちと交流しながら亜人についての理解を深め、また彼女たちの生活も変化していく・・・というのが大まかなストーリーです。

この主人公の高橋先生が、いい男なんですよね〜。以前仕事でサブカル系の婚活イベントを開催した時、参加者の女性の方が好きな異性のタイプに「高橋先生」と書いていらして、大変共感したものです。ハグされたいですよね、わかります。

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高橋先生以外の主な登場人物は、1年生のバンパイア・小鳥遊ひかり、デュラハン・町京子、雪女・日下部雪、サキュバスで数学教師の佐藤早紀絵の亜人たち。

彼女たちはそれぞれに問題や悩みを抱えつつも、それらを高橋先生を中心とした仲間たちと語り合いながら一つずつ乗り越えていきます。

特に、亜人ちゃんたちの中でもムードメーカー的存在のひかり。この子が本当にいい子なんですよね。学校の成績は芳しくなくいつもネタにされていますが、実はこの子が一番頭がいいのではないかといつも思います。

ひかりのファインプレーシーンその1は、雪がクラスメイトに悪口を言われて悩んでいる時に、そのクラスメイトにひかりがくってかかるシーン。

「アンタたち 他人の悪口ばっかり言ってるんでしょ!

やめなよ!そういうの!」

(中略)

「確かにユッキーは亜人だけど!関係ない!

アンタたちに文句を言うのはアンタたちに文句を言いたいからよ!

相手を煽って はぐらかそうとするな!!」(中略)

「別に陰口を言うのをやめたくなかったら それでもいい

でもアンタたちが言ってるのを見たり聞いたりしたら

その度に文句を言いに行くから

のんびり他人の悪口を言いたいなら 私の目や耳に入らないところでやって」

「・・・・・・別に 陰口言ってるのってアタシたちだけじゃねーじゃん

なんでアタシたちにだけ文句を・・・」

「アンタたちだけじゃない

陰口を言っている人を見聞きしたら誰にだって私は文句を言う」

「何でそんなにやっきになるんだよ!

陰口言うなんて誰でもやってるだろ!!」

「『みんながやってるから』なんて理屈・・・ 私は嫌い!!

『みんな傷つけあってるから私も傷つけていい』なんて・・・

口にして恥ずかしくないの!?

陰口を言われてうれしい人なんているわけないのに・・・ッ」

「・・・・・・じゃあ何?アンタは他人の陰口を言わないの?」

「言わない

言いたいことがあれば全部直接言う 言えなえれば言わない」

「そうすれば 自分は陰口をたたかれないとでも?」

「・・・・・・・・・それはない

だって私がここを去ったあと 二人は私の陰口を言うでしょ?」

(中略)

「でも決めたんだ・・・ただの自己満足だけど・・・

私は・・・人から嫌われても うしろめたさが残ることはしないって・・・」 

ひかりはこんな風に啖呵を切っても、言いすぎた時は素直にすぐ謝る謙虚さも持っていて、そこもすごいと思いました。

ひかりがこんなに固く心に誓っているのは、双子の妹・ひまりと約束したからなんだそうです。ひかり、かっこいいなぁ〜。

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さて、冒頭でもご紹介した名場面についてです。

アニメも11話までやってきて、亜人ちゃん達もかなり打ち解け、高橋先生も迫り来る夏に向けてさらに亜人研究を進めようとしていた時(バンパイアひかりと雪女・雪は暑さに弱い)、彼は教頭先生に亜人に構いすぎていると指摘され立ち止まってしまいます。

高橋先生のおかげで亜人ちゃんたちは確実により良い方へ変わっていっているのですが、自分が介入せずとも彼女たちが自分たちの力と周りの様々な人間関係の中で得られるはずのものだったのではないかと、教頭の言葉を真に受けた高橋先生は塞ぎ込み、放課後海辺で途方に暮れてしまいました。

高橋先生の異変に気付いたひかりたちは、先生のためにビデオレターを作り、自分たちが高橋先生のおかげでどれだけ助かったか、生活がより良いものになったか、高橋先生をいかに信頼しているかを伝えます。

そのビデオレターをスマホで見て泣いていた高橋先生の元に、ひかりがやってきます。

ひかりだけはカメラを回していてビデオレターにほとんど映っていなかったのです。

「みんなの動画・・・すごくうれしかったよ

元気出た・・・ ・・・でも

やっぱり出すぎたことをしていたんだろうなーって・・・

周りと足並み揃えなきゃって・・・」

「そんなことは ないよ・・・

”頑張る”に”やりすぎ”なんてないよ!

頑張って前に出てる人に『出すぎだ』なんて文句言うのはおかしい

頑張ってる人に対して周りができることは

頑張りが報われるよう支えたり 感謝を伝えたり・・・

もしもその人と足並みを揃えたいなら

自分も同じくらい頑張ることじゃないかな・・・

(ひかりが突如立ち上がり、夕陽に向かって叫びます) 

センセーー!!いつも頑張ってくれて ホントーにありがとう!

センセーがくれる頑張りに負けないくらい!私も頑張って!

センセーやいろんな人に返していきたいと思います!!

(高橋先生の方に向き直って)

じゃじゃ〜〜ん!!ドッキリシークレットビデオレターでした〜〜〜!!」

この後ひかりに頭を撫でられ、高橋先生は俯いてさらに泣くのでした。

このシーンはアニメで観ても漫画で読んでも泣けます。ひかり、本当にいい子だなぁ〜とジンときます。「頑張って前に出てる人に『出すぎだ』なんて文句言うのはおかしい」ときっぱり言い切るひかりの慧眼に強く胸を打たれました。

正論ばっかり振りかざすポジティブモンスターは鬱陶しいですが、ひかりは自分の意見にきちんと裏付けや論拠をもっていて、自身の経験から考えを構築しているので、言葉の一つ一つがすっと腑に落ちます。

私も、頑張ってる人につまらない言いがかりはしたくないし、頑張りをもらったら相手や周囲の人に返していきたいと思いました。おわり。

自己制御の難しさ:『恋愛中毒』

にわかに小説が読みたくなって、Kindleでパッと購入した小説が山本文緒大先生の『恋愛中毒』でした。

恋愛中毒 (角川文庫)

恋愛中毒 (角川文庫)

  • 作者:山本 文緒
  • 発売日: 2002/06/25
  • メディア: 文庫
 

私が好きな小説家として真っ先に名前を挙げるのが山本文緒さんです。

小学生で漫画ばかり読んでいた頃、入り浸っていた近所の本屋で棚に飾られていたのが山本文緒さんの作品たちで、ほんの気まぐれで短編集から手を取ったのですが、すっかりファンになりました。

でも全ての作品を読んでいるわけではなく、いつか読もう読もうと思っていたのがこの『恋愛中毒』でした。

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主人公の水無月という女性は、昔結婚していた時に静かな家庭崩壊にあい、元夫の浮気を疑った結果相手の女性に対し法に触れるレベルの嫌がらせをし、前科持ちになった人です。

愛していた元夫に見放され離婚し、同じ過ちを犯さないよう地道に生きていた彼女は、ひょんなことから芸能人であり著名な作家・創路に出会い、そこから再び人生が狂いだします。

学生時代に一瞬体の関係を持った同級生・荻原にストーカーまがいの行動を起こす自分を止められなかった経験があるなど、彼女にはもともと粘着気質というか、相手に依存し溺れやすい傾向があります。

中毒というものは、恋愛でも酒でも薬でも、自分で決めたルールを守れない、自分で引いた線を超えてしまう性質があるのですね。

私も昔からそういうところがあるので、水無月の落ちてゆく様を読み進めるのは結構怖かったです。

他人事じゃない気がして。

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もう一つ怖かったのは、水無月の過去の結婚生活の模様でした。

学生時代からの付き合いで結婚し、初めは上手くいっていたように見えた二人。

どこで崩壊が始まったのか、本人もわからないほど、大きなきっかけもなく冷めてゆく夫婦の様子はホラー以外の何物でもなかったです。

平和な日々が少しずつ少しずつ崩れ落ちていくのって、自分にはなかなか経験がないんですよね。

今までの人生で何かが(物ではなく、人間関係や信じていた何かが)壊れた時は、そんなじわじわタオルに水が染み込むように徐々にではなく、決定的な一打があって、それで一気に世界が変わることがほとんどでした。

だから、水無月の昔の結婚が、そんなゆっくり壊れていく様子が不気味で恐ろしかったです。不気味で恐ろしいけど、現実味があって救いようがない感じがしました。

私は結婚したことがないし、おそらくこの先もすることはないと思いますが、こんな危険な可能性をはらんでいてどうして結婚なんてできるのか、人々の強さが信じ難くもあります。

私は何にも持っていないくせに、人一倍失うのが怖いんだと、この本を読んで気づきました。

失うのが怖いから、あらかじめ手に入れないのです。

 

先日仕事で制作部の女性のアイディアを私がスポンサー向けに提案書の形に直すという作業があったのですが、

その制作部の女性が俗に言う”スィーツ(笑)”という感じなんです。

そんな彼女の作った素案には「前向きに、ハッピーに」という文言が溢れており、私は嫌気がさして片っ端からそれらを別の言葉に(「豊かに」とか「健康的に」とか)に勝手に置き換えて、また直されたりしたことがありました。

その時自分のことを”ハッピーアレルギー”と称したんですけど、私のハッピーアレルギーの原因は、この「失うことへの過度な恐怖心」から来ているのかもしれないと思いました。

 

そしてそういう恐怖心が、形を変えて今あるものへの度を過ぎた執着や被害者意識につながっていくのかもしれません。

そう、今思い出したんですが、この作品を読んで私が引っかかった大きなキーワードが「被害者意識」です。

「母親に嫌われたくなくて、ずいぶん頑張って通ってたんですけど」

「そりゃあうっぷん溜まっただろう」

先生は軽く笑って私のグラスにシャンペンを注ぎ足した。その笑顔に全然同情の色はなかった。

「でも言っとくけどな、それはお前が勝手に溜めてたんだからな。いい子なふりしておいて、あとで本当は嫌だったなんていうのは逆恨みだよ、逆恨み。子供だからって何でも許されると思うなよ」

シャンペンの泡がグラスの底からネックレスのように上がっていくのを見ながら、私はゆっくり瞬きをした。逆恨み?

「どうせあれだろ。お前のおかんは若い頃本当は自分が女優かなんかになりたかったんだろ。で、娘がちょっと可愛かったもんだから、娘を使ってそれを実現させたかったんだろ。よくある話だよ。馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿馬鹿しい?」

「お前そんなことが過酷な幼児体験だとか思ってんの?ほっんと馬鹿だよなあ。いくつだよお前。千花を見ろ、千花を」

「千花ちゃんと私は違います」

「そりゃ違うよ。当たり前だよ。でも千花は被害者ぶってっか?お前のその被害者意識なんとかなんないの?そんなんだから離婚されたんじゃないの?」

(中略)

逆恨みだの被害者意識だのという言葉が頭の中でぐるぐるまわった。指摘されてみて、私は改めて自分が”ひどいめにあわされてきた”と強く思っていたことに気づいた。そうだ、私は親からも夫からもひどいめにあわされたと思っていた。親しいと思っていた人からも、そうでない大勢の他人からも、私は漠然とした敵意のようなものを感じていたように思う。だからこそ、自衛して生きていこうと決めたのだ。でも先生はそれを私の逆恨みだと言う。反発を感じるよりも驚きの方が大きかった。 

ここ、すご〜く嫌な記述ではないですか。頭を鈍く殴られたような衝撃でした。

水無月の気持ちもよくわかります。私も放っておくとすぐに「被害者意識」丸出しになってしまう時があります。

でもこの被害者意識を持つ人間って、どうしても好きになれないんですよね。

 

会社の同僚で、婚約していた女性に入籍数日前に急に逃げられた男性がいます。

上司や他部署の人たちも「かわいそう」「ひどい女だ」と逃亡した女性を非難し、同僚に同情していましたが、私はあまりそれに同調できず、どちらかというと逃げた彼女の方に同情してしまいました。

今でもその事件は時たま職場でネタにされていますが、私は同僚の「かわいそうな自分」と頬に書いてあるような表情を見るたびちょっとイラつくのです。

仕事はよくできる同僚の肩をみんなが持つのはよくわかりますが、そんな切羽詰った逃げ方をするほど追い詰められていた彼女の気持ちは誰も汲まないんですよね。所詮は他人ですし。

私は逃げられた同僚を被害者だとは微塵も思えないのです。加害者である自分を省みない厚かましい男だと思う気持ちを拭えないのです。

そんなわけで私は「被害者意識」を持つ人間が嫌いです。

 

でも、誰でもすぐ被害者ヅラになっちゃうんですよね。誰だって一番可愛いのは自分ですから。

だから、せめて自由意志のある人間として、できるだけ被害者意識に染まらないよう日々を生きていかなくてはと思いました。

自分で制御するのなんて、死ぬほど難しいんですけどね。おわり。

『五つ星をつけてよ』

先日勤務時間中にこっそり図書館に行き、借りてきた本が面白かったです。

奥田亜希子『五つ星をつけてよ』。

五つ星をつけてよ

五つ星をつけてよ

 

奥田さんの小説は他に2冊読んでおり、ここにも感想を書いたものもありますが、

とにかく面白いです。

文章の読みやすさと巧みさ、シーンの描写や読後感など、どれをとってもハズさない。すごい作家さんだと思います。

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『五つ星をつけてよ』は、表題作を含む6作品の短編集です。 

まず最初の「キャンディ・イン・ポケット」からほろりと泣けました。女子高生の卒業シーズンを描いた作品で、今の時期にぴったりの物語でした。

学校カースト低位置の主人公・沙耶が、ひょんなきっかけで3年間登校を共にした日向の女の子・皆川椎子への羨望とコンプレックスと、ふたりの間の独特の友情がとても心に沁み渡ります。

2話目の「ジャムの果て」は一転して執着と愛情の押し売りの激しい未亡人・晴子が、自立した娘や息子に拒絶されてバランスが崩れていく、なかなかに痛々しい話、

3話目の「空に根ざして」は、30を過ぎた独身男性・手嶋宗喜が、かつて長いあいだ同棲していた元恋人の結婚を友人のSNSで知り落ち込む話・・・と、現代・時には未来に生きる様々なライフステージで事情を抱える人間たちの群像劇が次々と立ち現れます。

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この短編集は、主に東京オリンピックの2度目の開催が決まった頃から現在にかけての時代の空気を非常に巧みに切り取っていると感じます。

LINEやブログやtwitterfacebookinstagramAmazon食べログ、そして今も健在の2ちゃんねるなど、私たちが今多用している様々なサービスが、彼らの日常に確実に作用していて、どれも身近なものであるために、物語が自分にどんどん迫ってくる感覚があります。

そして最後の最後には、ハッとする仕掛けがなされていました。

この、いろんな物語をめぐって最後に読み手である自分に帰結していく感覚は、なんだかドキッとするし、ちょっと愉快な気分にもなります。

映画『ソーセージ・パーティー』のラストみたいな感じです(わかりづらくてすみません)。

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この本の中で私が特に好きなのは1話目の「キャンディ・イン・ポケット」と5話目の「ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ」です。

どちらも思春期の女の子特有の苦悩が描かれていて、私はもうとっくに思春期は過ぎているんですけど、なんだか共感してしまうのでした。

アスファルトを踏むノーブランドのスニーカー、背中で跳ねる、近所のショッピングセンターで買ったリュックサック、母親の友だちの美容院で切ってもらっている、肩のあたりで揺れる髪。椎子とはなにもかも違う。でも。

私たちは、毎朝三十分間だけの友だちではなかった。

変な趣味だと思われたくなくて、紹介できなかった漫画。気持ち悪いと思われたくなくて、家に置いてきた手作りのチョコレートクッキー。貸せばよかった。持ってくればよかった。社交辞令だと決めつけずに、遊びに行く予定を立てればよかった。スルーしないで返事ちょうだいよ、とメッセージを送ればよかった。

三年間、そばにいてくれた相手を、どうして信じられなかったのだろう。

奥田亜希子「キャンディ・イン・ポケット」『五つ星をつけてよ』 新潮社 2016.10.20)

この話は本当に好きです。単純にいい話だなぁと思うし、私にも三年間そばにいてくれたにもかかわらず、やっぱり信用していなかった相手がいるので、なんだか不思議な気分でした。

高校時代の私は、この話の沙耶のように地味なカーストにはいなくて、椎子ほどではないにしてもどちらかというと派手な部類でした。

三年間一緒に登校していたのは、やはり1年生の時に同じクラスだったバスケ部のサバサバした女の子で、学年が上がってきた頃には彼女の可愛い後輩もよく一緒でした。

三年間同じクラスで同じグループで過ごしたバトミントン部の女の子とは、1度くらいは学校の外で遊んだこともあったし、誕生日プレゼントを交換したりもしていました。

でも、そのどちらも、高校卒業後は全く連絡を取っていません。

一度だけ、大学1年の夏休みに昔のグループで集まったことがありましたが、それがあまりに楽しくなくてびっくりした記憶があります。

そもそも、高校を卒業した時点で、私は多分ケータイ(その頃はまだみんな二枚貝のようなガラケーでEメールが主流でした)のアドレスを変えて誰にも知らせず、ほぼすべての人付き合いをフェードアウトしたのでした。誰とも喧嘩もしていないし、円満な卒業式だったのですが、私はもうずっと「大学に入ったら誰ともつるまず一人で本読んで生活したい」と考えていたので、それを実行した形でした。

本当にみんな善良でいい人たちだったと今でも思うのに、また会いたいと全然思わないのはなんでなのか、やっぱり不思議です。

別に裏切られたこともないのに、どうして信じられなかったのか、それは結局この物語を読んでもわかりません。

でも、その”信用できない”気持ちはとてもよくわかるのでした。

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そんなこんなで、いろんな人間関係の中で感じる孤独を軽やかで少し意地悪なタッチで描いていく、とても親しみやすくそれでも心を刺してくる、素晴らしい短編集でした。

星をつけるなら文句なしの五つ星です。おわり。

 

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ものごとの考え方を再考する:『IPPO』

この冬とてもよく読んでいる”えすとえむ”さんという漫画家の作品で

特に気に入っているのが『IPPO』です。

IPPO 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

IPPO 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

若き靴職人・一条歩の挑戦と、その周りの人々の人間ドラマです。 

イタリアの靴職人である祖父・フィリッポ・ジェルリーニの元で修行し、22歳にして独立した歩は、昔祖父が日本で開いていた店を改装して、自身のブランド「IPPO」を立ち上げます。

広告の営業マンや、事故で左足が義足になった元モデルの女性、靴のコレクターやセレクトショップのバイヤー、テレビによく出る有名俳優など、実に様々な人がIPPOを訪れます。

歩は高い技術と持ち前のマイペースさ・創造性を存分に発揮して、依頼者の人生に寄り添った靴を一つ一つ作っていきます。

1足30万円からという決して安くない買い物ですが、歩の作品を履いた依頼者たちは、それぞれとても幸せそうな顔をして帰っていくのです。

あまりに依頼者に寄り添いすぎるために、歩の作品には一見すると一貫性がありません。

そのために、他の靴職人から「君の靴は美しくない」「美学が感じられない」とよく言われてしまい、歩自身もそれについて時々悩むことがあります。

しかし、歩にとって、そして依頼者にとっての”いい靴”を追究し続けることにとことんこだわるその姿勢には、ライバルの職人たちも一目置いています。

歩の”いい靴”への挑戦は、まだまだ続くのです・・・。

***

作中に出てくる営業マンが

歩に採寸されながら、こんなことを言います。

・・・ああ

やっぱりええな

 

食べもんも着るもんも

住むとこも身の回りのもん全部

作った誰かが見えるんはほんまにええ

 

僕らは”作る”ってことはできひん人間やけど

(中略)

バイヤーの仕事

大きく言えば営業の仕事もそうやな

 

物と人をつなげるだけやなく

人と人をつなげる仕事をしていけたら

これってそれの一番ゼイタクな形やんなあ? 

この場面、なんだかすごく心に残りました。なんでだろう・・・自分が営業職だからかもしれません。

この漫画は”仕事”というものの捉え方について、非常に示唆に富む場面がたくさんあります。

回想シーンで、歩の祖父・フィリッポが、修行中の歩に諭す下記のシーンもすごく好きです。

・・・いつか 魔法の話をしましたね

技術は魔法ではありませんが

創造性を持つこと 真心をこめること

そこに魔法はあるかもしれないと

 

・・・私たちにとって大切なのは

ここ(手)と

ここ(頭)と

そしてここ(心)

 

”手だけで仕事をするものは労働者である”

”手と頭で仕事をするものは職人である”

” 手と頭・・・そして心で仕事をするものは

・・・芸術家である”

イタリアの聖人の言葉です

芸術家かはともかく

創造性を失ってはいけない

今の時代に求められているものをとても的確に言い表している場面だと思います。

どうせ働くなら”芸術家”になりたくはありませんか?

芸術家とは、何もアーティストだけを指すものではないのですね。

手と頭と心をどれだけ駆使できるか・・・今後仕事をしていく上で意識したいところです。(なかなか難しいのかもしれませんが)

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また、”いいものを持つ”ということの意味についても考えさせられます。

私はもともと所有という行為があまり好きではなくて、なるべく物は持たないし、あまり高価なものも持たないです。が、

安くてそこそこなものをある一定期間所有し、破棄するというサイクルに

正直しんどさも感じています。

自分にとっての”いいもの”がまだ定まっていないせいもあるかもしれませんが

所有という行為と人生の豊かさとの関係について、もう一度考え直したいと思いました。

 

そもそも、どうして所有欲のない私が靴職人の物語であるこの『IPPO』を手に取ったかというと、

私にとって”靴”というアイテムが少し特別だったからです。

私は洋服もさほど好きではないしカバンも持たないし、食器も化粧品もそこまでこだわりはありません。

でも、靴だけは違います。

私の足は子供の頃から少々奇形で、小学生の頃には専門店で足型を取り

自分のためのインソールを使用していました。

そのため、履ける靴にはいろんな注意点があります。必ずしも高価ではありませんが、靴だけはあまりちゃちなものは履きません。

そんな足を持つ身であるため、『IPPO』のあらすじを少し見ただけで気になったのだと思います。

 

持ち物はできるだけ少なくしたいです。

バックパック一つで一生困らないくらい、所有物を厳選して生きていきたいといつも思っています。

だからこそこの『IPPO』のような、”いいものとはどういうものか”を思い出させてくれるような作品は、私にとって非常に価値のある物語なのだと思います。おわり。

 

私にとっての新しい娯楽、寄席(とくに落語)

先日生まれて初めて”寄席”に行きました。

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場所は上野鈴本演芸場

夜の部のお仲入りからで、料金は2000円でした。(通常2800円)

食べ物も飲み物も(お酒も)持ち込み自由で、8時10分の大トリに入るまでは出入りも自由。

漫才、落語、奇術など、いろんな芸で客を笑わせてくれる演者さんたちを生で観て、これまでにない新しい面白さを感じました。うまく言えないけれど、笑点をテレビで観る時とは全然違うのです。ミュージシャンのCDを聴くのとライヴを観るのがまったく違うというのに似ています。

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今回なぜ私が寄席に行こうと思ったかというと、

毎週楽しく聴いている某埼玉のエフエム局の午後の人気番組パーソナリティ「三遊亭鬼丸」さんが2月1日〜10日まで鈴本演芸場夜の部のトリをつとめること、そして来場者全員に番組ステッカーを模した特別製のステッカー(鬼丸さんのサイン入り)がプレゼントされるというお知らせを聞いたからです。

会場は平日にもかかわらずファンの方々でいっぱいでした。普段あまり寄席に来ていなさそうな方もたくさん居て、やはり私のような鬼丸さんとステッカーをきっかけに来た方が多かったのだろうと思います。

しかし、各々寄席を存分に楽しんでいて、最後に鬼丸さんが演じた「死神」では、ラジオのネタも織り交ぜつつ実に引き込まれる演技で、ラジオとはまた違った鬼丸さんの気迫に圧倒されました。

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また、落語といえば最近2期が放送中で話題のアニメ『昭和元禄落語心中』も毎週欠かさず観ております。鬼丸さんが死神を語り始めた時、とっさに八雲師匠が浮かんで嬉しくなりました。まさか初めて行った寄席であの「死神」を観られるなんて!と。

また、その前の落語では三遊亭歌奴という方が「初天神」を演じられて、このお話も以前ラジオで話題に出たものだったので、あ〜これがそうか〜と非常に感心しました。

話の流れを知っていても知らなくてもそれぞれに楽しめる、落語とはまさに音楽のようだと思いました。

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寄席では写真撮影などは普通はできないのですが、今回は鬼丸さんの粋な計らいで特別に終演後撮影ができました。

SNS戦国時代のこのご時世に、ぜひ落語・ひいては寄席の良さを広めてほしいとの思いだそうです。

今週の昭和元禄落語心中を観た後、生で観た寄席の感動をまた思い出し、思わず書き残そうと思ったのでした。

 

新しい娯楽を見つけて、人生が少しいいものになったような気がします。

 

今度は別のラジオ番組でファンになった春風亭一之輔さんの落語も生で観たいと思います。おわり。