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ひまをつぶしましょう

無敵の人予備軍の苦悩と:『正欲』

すこぶる面白かったです、朝井リョウ『正欲』。

正欲

正欲

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人間ではなく"水"に欲情する特殊性癖をもつアラサーサラリーマン佐々木佳道と、彼の中学の同級生・桐生夏月。

夏月は三十路を過ぎても独身のまま岡山の実家で暮らし続けており、佳道は中3で関東に転校してそのまま関東で暮らしていました。

佳道たちと同じ特殊性癖を持つイケメン大学生・諸橋大也は横浜の実家から金沢八景の大学に通っています。

大也と同じ大学の同級生で、ヘテロセクシャルだけど男性潔癖症気味の神戸八重子も実家暮らしで、隣の部屋にいる兄はエリート街道から外れた引きこもり。

横浜で検事として働く寺井啓喜と、その息子で不登校児童の泰希。

泰希は、不登校児のためのNPOの催しで同い年の彰良と出会い、ともにYouTuber活動を始めます。

全くつながりのなかった登場人物たちが、それぞれの性的嗜好差別意識やトラウマや社会の圧力と対峙しながら、だんだん一つの結末へと近づいていく過程に夢中になりました。

文字通りページをめくる手が止まらず一気読み。ああ面白かった。

 

そして読み終わった後も思考を掴まれたまま、ずっと反芻しています。

以下、思ったことをざっくり記録します。

 

1.自分と同じ宗教(≒価値観)の人に出会うことの意味

この地球に生きている人は皆、宗教が違う。佳道はそう思う。

(中略)無宗教と言われる日本人だって、それぞれが宗教を持っている。それは豚ひき肉を見ておいしそうと思うのか食べてはならない神聖な動物だと思うのかと同じように、例えばある歌を聴いて共感するのか反発するのか、子供の泣き声を聞いてうるさいと苛立つのか元気でいいねと目を細めるのか、そういう日常の小さな場面で出来上がっていく。

そうして体内に築かれた宗教が重なる誰かと出会ったとき、人は、その誰かの生存を祈る。(中略)それは、生きていてほしいという思いを飛び越えたところにある、その人が自殺を選ぶような世界では困る、という自己都合だ。

体内の宗教が同じ人の死は、当人の死のみに収束しない。

 

朝井リョウ『正欲』新潮社 2021.3.25)

自分が共感を抱いていた人が自殺した時ショックなのはこういう理由からか~と納得しました。だからつらく感じるのかと。

上記の意味での同じ宗教の人に出会えたら、それだけでだいぶ幸運ですよね。

逆に、同じ宗教の人に出会えないことがより人を孤独に追い込み、追い詰められた人は明日に希望を抱くことができなくなって、現世につなぎとめるものが無くなって、自殺を選んだり、もしくは"無敵の人"とか呼ばれて無差別殺人事件とか銃乱射事件とかを起こしてしまう。

 

また、自分の信じる宗教が社会の中で少数派のとき、

・世間の多数派の人に必死に言い訳や弁明をして理解や共存を得ようとするか、

・世界を恨んでひっそりと誤魔化しながら生きていくか、

どちらかしなければならないんですね。

しかも自分の宗教が少数派の中でもあまりにもマイノリティな場合、説明を受け入れてもらえる確率はゼロに近いほど低いわけで、そうなると口を閉ざすしかなくなり、全てをあきらめるしかなくなります。佳道たちが長年そうしてきたように。

彼らの学習性無力感の力はすさまじく、完全に抵抗をあきらめ、一切を話すのを諦めてしまうのです。

人って本当に絶望していると、もう戦うのを完全に辞めるんですね。

 

佳道と夏月は大人になって再会して、互いに生き延びるために手を組むことにして結婚しました。

けれどこれって、佳道が男性で夏月が女性だったから、社会が多数派と認めている男女の夫婦像がつくれたわけですよね。上手く擬態できたわけです。

もし2人が男性同士、もしくは女性同士だった場合、手を組むことはできて孤独からは救われたとしても、多数派に擬態して生きていくことにはさらにハードルが課されてしまっただろうと思いました。

 

2.性的嗜好は人間の根幹的なものであるということ

私は性的嗜好について他人と詳しく語り合う経験があまりなかったので、性的嗜好なんてひとぞれぞれのもんだよね、くらいの重さでしか考えていませんでした。

けれども、性的嗜好というのは恋愛したりセックスやオナニーをするときだけ顔を出すものではなくて、 その人の人生哲学、ひいては先ほど書いた意味での宗教の根幹をなす、思考形態に根付くものなんですね。

 

私はヘテロセクシャルで、多少のフェティシズムはあるかもしれませんが、同人誌でカバーするのが難しいほどの特殊性癖はありません。

レズビアンでもゲイでもなんでも、当人たちと同じ解析度で物事を見ることは難しいかもしれませんが、想像することはできます。

佳道たちのように、人間以外のものに欲情するというのは、なかなかイメージが難しかったです。

彼らの欲情する対象は水でしたが、それが玩具でも車でもカバンでも、それがどういう感覚なのかは想像しにくいですが、特段不快に思う気持ちはありません。

 

一方で、小児性愛は、イメージできますが生理的嫌悪を抱いてしまいます。なんていうか、理解してはいけないように思えてしまうのです。

たとえば、社会の在り方や政治についての意見、コミュニケーション上大切にしていることや時間の使い方、生活のあらゆることでものすごく考え方が一致している人がいたとしますよね。

「この人とは、価値観が合う。信じてる宗教が限りなく同じみたい」

そう思っていたところで、もし相手が同性愛者だと知っても、特に考えは大きく変わらないと思います。 無機物に欲情する場合でも、価値観が似ている部分が多いことは揺らがないと思います。

でも小児性愛者だとわかったら、私は知る前と同じ距離感を保てない気がします。

これまで気が合うと思っていた思考回路が自分と大きく異なるロジックなのかもしれないことに思い至り、根底が覆されたような気持ちになるかもしれません。

 

そう、まさに根底。

 

三大欲求である食欲、睡眠欲、性欲にまつわる嗜好というのは、ただの好みのタイプではなくて、その人の人生哲学の根幹そのものなんだということに、この本を読んで思い至りました。

 

それを踏まえた上で、今の社会観念で「病的、治療が必要」とされる性癖って、よく考えると危険と隣り合わせだなと思いました。性癖そのものではなく、その性癖を「治療すべき」と断じることが。

小児性愛が”障害”で”治療すべきこと”で、年の近い異性や同性を愛することは”障害ではないこと”で、水や無機物に欲情することは”異常なこと”?

この線引き、判断基準が、実は非常に人為的で時代や状況によって流動的なことに気付くと、ほんと怖いなと。

もしかしたら私が今普通のふりして生活できているのは、本当にたまたま、時代に恵まれただけなのだと。

もう少し前に生まれてたら、もしくはまたさらに時代が変わったら、私は自分ではどうしようもない脳の働きに”異常”の烙印を押され、望んでもいない治療を施されていたかもしれないのですね。

自分の思考の根幹をなすものを無理やり矯正される恐怖は尋常ではないです。

 

3.「自分だけ?」という不安に突き動かされること

自分だけかもしれない。きっと自分だけだ。そんな思いは、いつだって人の口を閉ざす。

 

(同上) 

先日、街中を歩いていたときに、街頭の巨大スクリーンでとある大事件の報道を見かけたんですね。

結構ビックリする内容で、すぐさまスマートフォンを取り出してTwitterを開くと、案の定そのニュースでもちきりでした。

ショッキングな内容であることは重々承知なんですが、なぜか私はワクワクした気持ちになってしまい、ちょっと笑い出してしまうほどでした。

自分と同じような人がいるのではないかと思い、検索をかけてみましたが、1つのtweetも引っかかりませんでした。

その時考えた可能性は以下でした。

  1. こんなニュースでワクワクした気持ちになる私の頭がおかしくて、同じような人なんて存在していない
  2. 私と同じような人は存在しているかもしれないが、SNS上でそんなこと言うと絶対叩かれるから誰も書いていない

どちらにせよ、同じ反応をする人には出会えなくて、少し残念な気持ちになりましたし、自分の感受性に疑念を持ってしまう気持ちも生まれました。

 

今思い返すと、何故自分と同じような人がいないかTwitterで検索したのかというと、「自分だけ?」という不安に突き動かされた結果だったんですね。

確かに不謹慎かもしれないけど、こういう大事件にワクワクする人も一定数いるだろう(≒私はそこまで少数派ではないだろう)と不安に思って、検索して、全然同じような人がいなくて不安が確信に変わって寂しくなったんです。

別に私は自分をとりたてて多数派だとは考えていなかったんですが、無自覚で実は数の力に乗っかって自分を護りたいと思っていたのです。 そのことに今回気づきました。

 

4.理解を示そうとする厚かまし

物語の終盤の山場の一つに、大也の家のまえで八重子と大也が言い合いになるシーンがあります。

ゼミの合宿の日、体調不良と嘘をついて佳道たち水フェチのオフ会に繰り出そうと意気揚々と家を出た大也は、何故か自分の家を知っていてわざわざ訪ねてきた八重子に恐怖と嫌悪を感じます。

そしてそれまで八重子に対して感じていた苛立ちが閾値を超え、八重子に本音をぶちまけます。

「私は理解者ですみたいな顔で近づいてくる奴が一番ムカつくんだよ。自分に正直に生きたいとかこっちは思ってないから、そもそも」

(中略)

「異性の目線が怖いとか恋愛が苦手とか……お前らみたいな、世間に応援されるってわかってて傷晒してる奴見ると、その瘡蓋にナイフでも突き立ててやりたくなる」

(中略)

「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

(中略)

「お前らが大好きな”多様性”って、使えばそれっぽくなる魔法の言葉じゃねえんだよ」

 

(同上)

もー「わかる〜わかりみが深すぎる〜」と一行一行読むたびに唸ってしまった大也の言い分。名台詞の嵐です。

「自分はあくまで理解する側だって思ってる奴らが一番嫌いだ」

(中略)

「お前らがやってるのは、こういうことだよ」

(中略)

「どんな人間だって自由に生きられる世界を!ただしマジでヤバい奴は除く」

(中略)

「差別はダメ!でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」

 

(同上)

大也がこれだけ言葉を尽くしても、八重子はまだ真意を取り違えていて、「それでも私は理解したいって思う」などと火に油を注ぐ発言をします。「諸橋君がどんな人間でも、私は拒絶しない」とかね。読んでるこっちまでイライラしました。

「拒絶しないって何だよ。関係ねえんだよお前が拒絶するかどうかなんて。何でお前らは常に自分が誰かを受け入れる側っていう前提なんだよ。お前らの言う理解って結局、我々まとも側の文脈に入れ込める程度の異物か確かめさせてねってことだろ」

 

(同上)

「おっしゃる通り!」と思わず膝を打ちました。

結局自分と違う宗教の人を理解すると言うことは、自分の持つ文脈のなかで整合性を取ろうとするだけであって、真に相手と同じ目線を共有したり、感覚を腹落ちさせることではないんですね。

 

大也の大正論でこのまま終わるかと思っていましたが、その後の八重子の言い分にも少し共感したのが自分でもびっくりでした。

「さっき俺たちの気持ちがわかるかとか言ってたけど、そっちだってわかんないでしょ?選択肢はあるのに上手くできない人間の辛さ、わかんないでしょ?

(中略)

不幸だからって何してもいいわけじゃないよ。同意がなかったらキスだってセックスだって犯罪だもん。別にあんたたちだけが特別不自由なわけじゃない」

(中略)

「私のお兄ちゃんは引き籠って気持ち悪いAVばっか観てるけど(中略)それでも現実で誰かを無理やりどうこうしようとはしない。異性愛者だって誰だってみんな歯ぁ食い縛って、色んな欲望を満たせない自分とどうにか折り合いつけて生きてんの!」

 

(同上)

八重子の言い分もわかるけど、ちょっと論点がズレてて、大也とはついに噛み合わない感じでした。

2人は最終的には「誰が何をどう思うかは、誰にも操れない」という共通見解で一致したものの、根本的に人間を好きになる通常世界で生きている八重子とそうでない大也は話し合ったところで永遠に平行線のまま、諦めて早く切り上げたい大也と、執拗に話し合ってより良い社会について考えたいという熱苦しい八重子の問答は終わりました。

 

八重子みたいに、より良い社会の実現に向けて、SDGsダイバーシティだなんだとアクションを起こしている人は現代社会にたくさんいますよね。企業もそういう取り組みをすることでイメージアップを狙ったりしています。

いつまでも昭和や平成みたいな固定観念ガチガチの社会よりは、少しでも間口を広げようとする社会の方が幾らか生きやすいだろうと思うので、別に反対する気持ちはありません。

けれども時折なぜか感じる厚かましさ、巧妙に隠されていても透けて見える上から目線。

それはつまるところ彼らが、大也の言うように「自分はあくまで理解する側だ」と思っているからなんですね。たとえ本人が自分はマイノリティ側だと思っていても、それを利用して自分は理解があると思わせようとする。意識的に、あるいは無意識的に。

 

理解を示されたって、そんなの結局のところ気休めです。

別に理解されなくてもいいので、ただ「自分の想像力の範囲を遥かに超えた領域が存在する」と言うことだけ、記憶に留めていてもらえたらいいと思いました。

人間の脳は時により早く省エネに情報処理するため、さまざまなバイアスを通して物事を見ます。だから狭い前提で話を進めてしまうことも、想像力の範囲で判断してしまうことも仕方のないことだと思います。

ただ、一呼吸おいて一歩下がった目線を、どこかで思い出したい。

今話していること、今前提にしていることの一段外側の世界の存在を、忘れないようにしたいと思いました。

 

5.繋がりと孤独と”無敵の人”

この本の中で一番好きなシーンは、飲み会から帰宅した夏月が、佳道に一度セックスを経験してみたいと頼んで、服を着たまま夏月のベッドで正常位体験する場面です。

「なんか人間って、ずっとセックスの話してるよね」

「わかる」マジで、と、佳道は付け足す。

「今日も皆の話聞きながら、中学とか高校のときとかに同級生がしてた話とほとんど同じだなって思ってた」

「うわー、わかるわ」

佳道は思わず笑ってしまう。人間はずっと、セックスの話をしている。その存在に気づいてからは、何歳になっても永遠に。

 

(同上)

「人間はずっとセックスの話をしている」っていうの、『亜獣譚』のツユボネも同じようなこと言っていたなと思いました。

 

佳道は夏月の突飛な依頼の真意を理解し、2人はあれこれ試行錯誤しながら、服越しに互いの性器をあてがいます。

そこには何の欲情も感動もなく、ただただ奇妙なおかしみだけがあります。

「何これ」

天井を見上げたまま、夏月が呟く。

「私いま、死んだカエルみたいじゃない?」

佳道は思わず吹き出しそうになる。

「これが、皆のしてることなの?」

脚を抱えたまま、夏月が言う。

「異性と知り合って、連絡先交換して、駆け引きとかして、おしゃれして、デートして、その最終ゴールがこれ?」

 

(同上)

私も読んでて笑ってしまいました。「ほんとだよね」って感じ。

わりと多くの人が、夏月と同じことを一度は思ったことがあるのではないかとも思いました。

けれども、変なのーと思いつつも、痛みや快感や、コミュニケーションとしての有効性や煩わしさやお金や悪意や、いろんなものが絡み付いてくるうちに、この最初の純粋なおかしみはどこかに消えて無くなってしまったのかもしれません。

 

佳道はあってるのかよくわからない”セックス”の動きを体験して、これまで同級生や会社の人々など多くの他人が、執拗に自分と違う人間を確かめようとするのは、ひとえに不安だったからだと言うことに思い至ります。

佳道や夏月たちのように、初めから自分が極めてマイノリティだとわかっている人は、多くのマジョリティが抱える不安を認識していなかったと。だから自分の迷いを誰かと確かめ合う必要がなく、誰かにわかってもらうことも、誰かをわかることも、端から諦めていたと。

 

佳道たちは人間に欲情しない(できない)ので、性器を押し当てあったところで興奮もしないし、勃ちもしないし濡れもしません。

2人の間には恋愛感情はないけれど、互いに根底の部分が同じであることで、互いが自分の一部であるような気持ちが芽生えたのだと思います。

2人はもう孤独ではないのです。

劣情にかられて激しく抱き合うわけでもなく、ただ静かに、2人が文字通り体を重ねる場面は、文学史に残したいくらいの名場面だと思いました。

「どうしよう」

重なった二つの身体の境目が、どんどんなくなっていく。

「私もう、ひとりで生きてた時間に戻れないかも」

これまで過ごしてきた時間も、飼い慣らすしかなかった寂しさも、恨みも僻みも何もかもが、一瞬、ひとつに混ざったような気がした。

 

(同上)

言葉にするとチープに聞こえるかもしれませんが、やっぱり孤独ってつらくて、自分の望む形で分かり合える他人と一緒にいられることって、心の安寧に必要不可欠なんですね。

夏月たちのように、お互いに「いなくならないで」と言い合える誰かに出会えることは、この上ない幸運なんです。

 

そして、その幸運にありつけない人(私もその一人ですが)は、飼い慣らすしかない寂しさ・恨み・僻みを抱えながら、なんとか踏み外さないように日々をやり過ごすしかありません。

その中で、それら負の感情が自分のキャパシティを超え溢れ出したとき、人は何もかも消してしまって構わないというような”無敵の人”状態となり、無差別殺人をしてみたり、銃を乱射してみたり、公園の水道に車で突っ込んだり、あるいは自死したりするのでしょう。

 

秋葉原通り魔事件が起こったとき、私はまだ10代で、孤独に対する理解が浅かったので、容疑者の男性がただただ頭のおかしい奴だとしか思えませんでした。

似たような事件が起こるたび、人間の中には一定数理解できない凶悪な奴がいるんだなーくらいの認識しかできていませんでした。

 

けれども、今では、似たような事件が起こると他人事とは思えません。

被害者になる心配じゃありません。加害者になる不安です。

自分もいつ、踏み外すかわからない。

いま何とか耐えている孤独に、いつか耐えられなくなる日が来るかもしれない。

そうなったとき、今の自分では想像もつかないような、絶望的で猟奇的な感情が湧き起こるかもしれない。

その時私は自分が何をしでかすかわかりません。

「自分は彼らのようにはならないだろう」とは到底思えません。

 

”繋がり”と言葉にすると、途端に胡散臭く押し付けがましい印象すら感じたりしますが、やはり人間社会で生きていく上で重要なものなんだな、と感じました。

でも、私はそれを手にすることができません。

会社の同僚とは仕事の話以外したくないし、マッチングアプリや婚活サービスに登録して出会いを探しにいくこともしたくない。

孤独は確かにつらいけど、それを散らすための努力はしたくないんです。

家族とも、もう話したいことはありません。祖父母も両親も親戚も、誰にも会いたくないし、誰の話も聞きたくないし、自分の話もしたくないです。

ただただ、自分と皆の寿命が尽きるのを待つだけです。

 

孤独が人を凶悪に変える恐ろしいものだということはわかります。

ひとりで日々を生き延びるのは本当に不安で怖いです。

でも、私は自分が他人と繋がりを築けるような性格をしていないことを、もうすでに知っています。

私にとって誰かと繋がるということは、もはや自分の根底を否定することとほぼ同義なのではないかとすら思います。

もしかしたら”治療”が必要なのかもしれません。

けれどもそれは、小児性愛者に大人の異性に欲情するよう矯正したり、水に欲情する人に人間に欲情するよう矯正するのと同じレベルのことです。

そんな治療をされることと、このまま孤独に飲み込まれる不安を抱えて生き続けること、その恐怖の天秤のバランスの上で、日々を何とか生き延びているのでした。おわり。