れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

子供のいる世界といない世界:『ここは私たちのいない場所』

先日30歳になりました。三十路。まさかこんなに生き延びるとは・・・って感じです。

30歳になってもまだ知らない素敵な作家さんが、物語がたくさんあるものです。

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

  • 作者:白石 一文
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/08/28
  • メディア: 文庫
 

本当になんの気なしに手に取った作品だったのですが、枯れきった今の自分にとても寄り添ってくれる作品でした。

 

主人公は大手食品メーカーで40代にして役員にスピード出世している独身男性・芹澤です。彼は哲学者の父と有名な画家の母の間に生まれ、5歳の時に2つ年下の妹を病気で亡くしています。芹澤にとって妹の死は大人になった今でも心に大きな影響を与える出来事として描写されてるんですが、妹の死に対する芹澤の被害者意識がうざったくて、さらに芹澤自身もかなり自分勝手な性格なので、それがかえって湿っぽくならず物語全体をピリッと乾燥させるいいスパイスになっていました。

 

会社の社長にも気に入られ独身貴族として順風満帆だった芹澤ですが、部下の不祥事に巻き込まれ、周囲が止めるのも聞かず自ら辞職します。

父の遺産もあり、職を失っても金に困らない芹澤が羨ましいったらありゃしなかったです。いいなぁ。私も仕事辞めて料理したり映画観たりしたいです。

 

仕事を辞めた芹澤の日常と、彼の過去がかわるがわる描かれていく中盤、かつて役人に就任した頃「サザエさん症候群」ないし「ブルーマンデー症候群」に罹っていた話が出てきます。仕事の付き合いで行った銀座のクラブで出会った女性・香代子との会話が気になりました。

香代子にどこか心安さをおぼえた芹澤は、最近症状がどんどん酷くなるサザエさん症候群について香代子に相談します。香代子のアドヴァイスは「あの頃に戻りたいな、と思えるような過去を思い出す音楽を聴くこと」でした。そんなことで症状が改善するのかと訝しげな芹澤に、香代子は優しくさとします。

「そんなふうに心が参ってしまったときは自分自身に治してもらうのが一番なのよ。 というか、自分の心は自分にしか治せないの。病気や怪我だって実は同じなんだけど、心は特にそうなのよ。でも芹澤さんの心は弱ってるから、いまの自分に治してもらうわけにはいかないでしょう。だから、過去の自分に会いに行って、その人に治してもらうしかないのよ」

白石一文『ここは私たちのいない場所』新潮文庫 R1.9.1)

この香代子の音楽療法が効くかは別として、「自分の心は自分にしか治せない」というのは真実だなぁとハッとしました。忘れていたわけではないですが、心が沈めば沈むほど、何かに縋りたい、何かに救いを求めたい気持ちが湧き出てしまうので。

香代子の言う通り、自分の心は自分にしか治せないんです。向精神薬も、カウンセラーも、誰かの愛も、自分の心を治すことはできないんです。

過去の自分、と聞いて真っ先に浮かぶのは中学3年生〜高校1年生くらいの自分です。ちょうど今までの人生をフルで考えると折り返し地点の頃。あの頃よく聴いていた音楽といえば、椎名林檎東京事変ショパンレッチリ、ラブサイケデリコとか・・・?確かに最近聴いてないけれど、気が向くとたまに聴くし、聴いたところで別に回復はしないんですけどね。

 

***

 

芹澤が辞職に至った不祥事をおかした部下の妻・珠美はこの作品のメインヒロイン的存在です。別に恋物語ではないんですが。

ニートラップ的に芹澤を貶めたものの、結果的に自分の思うような結果を引き出せなかった珠美は、看護師の母に女手一つで育てられた美人さんです。子供はいらない、働くのが好きではない珠美は土地持ちの次男と結婚し、夫の経済力に寄生して生きていた専業主婦でした。珠美の母・虹子が東京に出てきた際、虹子は娘の悪行を詫びたいと芹澤にアポイントを入れてきます。

新橋の喫茶店で話し合った芹澤と虹子。最後に娘の不始末を謝罪するために、虹子は何かのためにと貯めてきた一千万円を賠償金として芹澤に差し出すんですが、芹澤はそれを突き返します。その時の一言が、三十路独身女性の私には澱のように心の隅に静かに沈み滞留しています。

「だったら、このお金は珠美さんにあげて下さい。一生、誰かの経済力に寄生して生きていくなんて、それほどつまらない人生はありませんからね」

(同上)

誰かの経済力に寄生して生きているのは私のハハです。彼女は離婚してもなお前・夫である父の経済力に寄生して生きています(父だってさほど経済力ないのに)。

ハハの生き様は見ていて虫酸が走り、なおかつ羨ましい気持ちもどこかにあって、その座りの悪さもあって私はハハに会うのが本当に苦痛で嫌いなのでした。

 

見方によっては、今の私は自分の経済力で生きているのかもしれません。家族を持たず、自分で働いて得た給与で暮らしているので。

けれど、この生き方は会社に寄生しているともいえます。好きでもない人たちと、興味のない事柄について話あい、誰でもできるような作業をし、適当に時間を潰しているだけの、人生の切り売りが私の今の就業実態です。婚活もしなければ独立もせず、一番手に入りやすかった会社という寄生先を見つけて、そこでだましだまし生きているだけなのです。

つまらない人生と言われれば、「その通り」としか言いようがない、そんな人生です。

どうせ寄生するのなら、会社なんかよりお金のある男の人の方がいいんですが、それだと男性側にメリットが一つもないんですよね。。

 

***

 

芹澤の大学時代の同級生・奥野が癌で死んでしまうところも示唆に富む描写がたくさんありました。

所属していた映画サークルでマドンナ的存在だった成宮。彼女は告白してくる男子と一回だけ次々デートしてはふるということを繰り返していましたが、そんなモテモテの成宮が恋人に選んだのが奥野でした。

例に漏れずフラれた男のうちの一人となった芹澤の回顧。

 成宮は誰かに好かれるのではなく、誰かを好きになるのを欲していたのだ。そのことに気づいていながら彼女への好意を秘匿できなかった私は未熟だった。

(同上)

全然違うのですが、先日読んだ山田詠美「MENU」に出てきた麻子を思い出しました。なんでだろう。

最近とみに思うんですが、「好かれる」って面倒ですよね。好きな人にすらそんなに好かれたいと思わなくなりました。要は、他人の感情なんてはなから自分の意思でどうこうできるものでもないし測りきれないわけで、そんな制御不能なエネルギーが自分に向けられたらせいぜい振り回されるのがオチです。今の気力のない萎れた心身では。

きっと成宮のように物心ついた時から膨大な好意を向けられてきた人は、凡人より早くその疲労の境地にたどり着くんでしょうね。

 

***

 

珠美の女性に対する優れた洞察と、それを受けた芹澤のイラっとする返し。

「(前略)結局、女同士ていがみ合ってるわけで、そんなの馬鹿みたいだって思ったの。私たち女っていつも仲間割ればかりしてるでしょう。男のことでもお金のことでも子供のことでも、それに仕事のことでもね。結局、小さなことに対する執着が強すぎるのよ。視力のいい人みたいに近くのものが見え過ぎて、遠くを見る習慣が身についていないのかもしれない。(中略)」

「それは当たってると思うね。(中略)女性が仲間割れするのは、男に比べると若い時期に時間がなさすぎるのと、容姿という生まれながらの絶対的格差のせいだろうけど、ただ、きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能だと僕はいつも思うね」

(同上)

女性が”遠くを見る習慣が身についていない”というのは実感として私も頷けます。それに対して芹澤よ。若い時期に時間がなさすぎる?容姿という生まれながらの絶対的格差?そんなもん男性だって一緒じゃないですか。なぜ女性が遠くを見通す習慣がない理由をそこに帰結させるのだ?さらにはこんな支離滅裂な論理に重ねて「きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能」ののたまうこの神経。つくづく憎たらしい男だと思いました。

 

けれど、この憎たらしさこそが芹澤という男のリアリティでもあるのです。独身貴族で達観してて、さらに女性の心情にまで理解があったら、そんなスーパーダーリンは文学にならないんですよ。せいぜいラブコメ漫画のヒーローです。この腹立たしさこそが、実在しそうな大人の男性そのものなのです。

 

***

 

珠美は自分のせいで無職になった芹澤のこれからのことを度々気にかけるのですが、芹澤の返答はいつも要領を得ないのでした。

この数ヵ月、今後の人生設計に思いを馳せても何も考えつかないのだった。やりたくないことは山ほどあって、起業などはその代表選手のようなものだが、さりとてどうしてもやりたいと思うことが何一つ浮かばなかった。

(同上)

芹澤みたいにお金に困らず家族のしがらみもない悠々自適な人でも、やりたいことが何一つ浮かばないと、なんだか死んでるみたいだなと思いました。さっき腹立たしいと言ったばかりの芹澤に、この描写で一気に感情移入してしまいました。

 

***

 

大学の同級生・奥野の葬式の少し後、同じく同級生で南米に単身赴任していた里中が帰国してきて芹澤と二人で飲んだ時の話もすごく良かったです。

芹澤と同じく若くして出世街道に乗っていた里中でしたが、駐在先で勤務中に乗ったセスナが墜落するという事故に遭いました。間一髪で軽傷で済んだ里中でしたが、この時の経験が出世を捨ててでも日本に戻り家族と一緒にいたいと願うきっかけになったと言います。

「ああいうとき、人間は何も考えられないんだって身に沁みて知ったよ。両方ともエンジンが止まってるのが見えて、現に飛行機が地上に向かって落ち始めているっていうのに、自分が死ぬとは思えないんだ。いま起きていることが現実かどうかが分からないって感じだった。(中略)結局、人間は、自分が死ぬのかどうかの判断がつかないまま本当に死んじまうんだよ。今回、俺はそのことを痛感したよ」

(同上)

これもリアリティが強い表現だなぁと感服しました。東日本大震災で揺れまくるマンションのベランダから街を見下ろしたあの瞬間を思い出しました。体験したことない大きな揺れで、マンションが折れるかと思うほどだったあの瞬間、「死ぬかも、人生終わるかも」って本気で頭によぎりましたがどこか現実かどうかわかならい感じもあり、里中の一言一句そのままの実感でした。

そして里中は「出世なんかしてる場合じゃない」と帰国を決意したそうです。ほんと、そうですね。

 

しかし、里中の言い分も理解できるけれど、どこか違和感が残る芹澤は、その後病院の廊下でよその赤ん坊と対峙しながら、違和感の正体を言明します。

二日前、里中は言っていた。自分の人生を取り戻すために日本に帰るのだと。大事な親友を失っても葬式にも駆けつけられないような、妻や子供たちと一緒に暮らすことさえできないようなリオデジャネイロでの独居は、自分の人生にとって無意味だとようやく気づいたのだと。だから彼は、上層部に直談判までして帰国の段取りをつけたのだった。

だが、私自身は、そうやって彼が生きる意味を見出すことのできなかった、まさにその世界でいまも生きているし、これからもずっと生きていかねばならないのだった。

私には妻子もいないし、親友の葬式に出られないことを悔やむ気持ちもなかった。遠隔地にいることを理由に奥野の葬式をパスできた里中が羨ましかったくらいだ。

(同上)

大共感、でした。この、自分自身でさえ生きる意味を見出すことのできない世界で生き続ける孤独。読みやすくわかりやすく心に刺さる、素晴らしい文章だと思いました。

 

芹澤は(そして私もそうだと気づいたんですが)、誰かに頼ったり頼られたり、何かに依存したりされたりするのが嫌な人間なのでした。仕事を辞め、自己を顧みて、いろんな人と対話する中で、彼はその一つの真実を改めて眺めるのです。

人を助けるという行為も一時的なものでなくてはならない。

のべつまくなし特定の人物の手助けをしていれば、結果的にその相手に依存することにつながる。事情がどうであれ、その特定の相手を助け続けなくては自分の気持ちが落ち着かなくなってしまう。まして家族のようなある種の運命共同体に身をゆだねるのは願い下げだった。仮に他人と一緒に生活するとしても、夫婦という単位が限界だと感じている。

人と共に生きても、人間は決して強くはなれない。

ずっとそう考えてきた。

(同上)

これはもはや格言ですね。「人と共に生きても、人間は決して強くはなれない」。一生忘れないようにしたいと思いました。

 

これまで、私の周りの大人たちは、皆家庭を持ちたがったり、もしくは持っていたりする人ばかりでした。私がどんなに子供を持たない決意を表明しても、家族というものに良さを見出せない旨を話しても、「今はそう言っているけどいずれ気が変わるよ」というようなことを必ず言われてきました。

けれど最近、私のような考えを貫いて中年になった人が何人か周りに現れ始めて、私だけが特におかしいわけではなかったのだとどこか安堵しました。

100パーセント同じ考えや論理でないにしても、似たような倫理観や死生観から「一生子供を産まず、家庭を持たない」と決めて独りで生き続けている人がいる。その事実は、自分の面倒をひたすら自分で見なければならない疲れる人生に、小さな飴玉みたいな気安さを添えてくれるのでした。

 

文庫版に添えられた解説は編集者の女性の文章で、彼女もまたそんな一人でした。

多くの親が、子供により無常の喜びと幸せを感じていると同時に、その真逆で、我が子の存在により、すべてを奪われ、苦しみ、最後にはお互いに殺し合うような形で人生を終える親もいる。私は「産まなかった後悔より産んでしまった後悔の方が怖い」と、子供のいる世界に入ることを拒んだのだ。

それは、大人だけの世界で生きていこうと決めたことになる。いずれそれは「老人だけの世界」にもつながるわけだが、覚悟はしていた。

(「解説」中瀬ゆかり 同上)

よく”やらないで後悔するより、やって後悔した方がマシだ”みたいな言説がありますが、出産は真逆ですよね、ほんと。産んでしまった後悔は、ゾッとするほど取り返しがつかない後悔だと思います。産まなかった後悔はありふれているというか、私の場合多分しなくて済みそうですけど。

 

それにしても、大人だけの世界かぁ。確かに、よく考えてなかったけれど、私もいつの間にか大人だけの世界で生きていこうと決めていたみたいです。ほとんど無意識に、なんの躊躇もなく。

でも老人だけの世界に行く前に、消えてなくなりたいとも思うのでした。おわり。