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ひまをつぶしましょう

手紙を通して世の中を知る:『三島由紀夫レター教室』

先日青山の某コーヒースタンドに置いてあった『三島由紀夫レター教室』という文庫が面白くてハマってしまいました。小説を読んでこんなに爆笑したのは本当に久しぶりです。

三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)

三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)

 

三島由紀夫近代文学の中でも特に好きな作家です。こんなに美しい文章を書く人は後にも先にも彼しかいないとずっと思ってきました。

しかし、この『三島由紀夫レター教室』はもっとブラックユーモアに富んでいてなおかつ実用的で、とにかく笑えるエンタメ作品でした。

 

まず目次の一番最初が作中の登場人物紹介から始まるのですが、ここからすでに笑えます。登場人物紹介がそのまま登場人物の悪口なんですもん。しかもその悪口が上品な皮肉というか、とても巧みな悪口なのです。落語を一級品の文学にしたような。

  • マダム然とした未亡人の氷ママ子(45)
  • 元田舎者のちょいワルおやじデザイナー・山トビ夫(45)
  • 小悪魔OLの空ミツ子(20)
  • 舞台演出に情熱を捧げる堅物青年・炎タケル(23)
  • ミツ子の従兄でテレビ大好きダメ男の丸トラ一(25)

上記5名の、世代も境遇もバラバラな登場人物たちに共通するのが”筆まめである”ということで、彼らの文通がそのまま物語になっています。その様子を作者である三島由紀夫が俯瞰で見ているという構図で、こういう趣向もあるのかと感嘆しました。

 

まず面白かったのが、山トビ夫がエロオヤジらしく若いミツ子を口説きにかかる手紙で、そこでミツ子の肉体を賞賛する文章でした。

変態この上ない文章なのですが、不思議と可笑しくて笑えてしまうのです。

特に胸に関する記述はなんだか実にもっともだと思いました。

あなたの胸は、ふくれて、口をとんがらして、「何よ」と言ってるみたいな形で、かわいいこと、この上なしだ。胸が謙虚にうなだれていては困るのです。

(「肉体的な愛の申し込み」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4) 

確かに!!!とゲラゲラ笑ってしまいました。”謙虚にうなだれた胸”って・・・言葉のセンスが秀逸すぎます。

 

話は変わって、今回この作品を読んで改めて驚いたのが、三島由紀夫という作家が、あまりにも女について熟知しすぎているということです。ここまで女の生態を見抜いている男性が他にいるのでしょうか?

例えば次のような記述。

女の子から、「ちょっとイカすわね」と言われれば、うれしいにきまっているが、男は軽率に自分の男性的魅力を信じるわけにはいきません。

女の子というものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだからです。しかし同性からそう言われたら、もう僕の男としての魅力には疑いがない。なぜなら向こうも男であるのに、その男が膝を屈して愛を打ちあけるのだから、僕の男性的魅力は、水準以上ということになります。 

(「同性への愛の告白」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4)

確かに男の非男性的魅力に弱いですね。私はもう女の”子”ではないですが、とてもしっくりきてしまいました。

ちなみにこれは炎タケルが同性の三枚目男優・大川点助からラブレターをもらってしまったことについて氷ママ子に相談している手紙なのですが、これに返答するママ子の文章がこれまたいいんですよねぇ。

大ていの女は、年をとり、 魅力を失えば失うほど、相手への思いやりや賛美を忘れ、しゃにむに自分を売りこもうとして失敗するのです。もうカスになった自分をね。

自分のことをちっとも書かず、あなたの魅力だけをサラリと書き並べた大川点助の恋文には、私たちは大いに学ばねばなりません。そして片ときも忘れぬようにしましょう。あらゆる男は己惚れ屋である、ということを。

(「同性への愛の告白」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4)

名文ですね。良すぎて唸ってしまいます。氷ママ子の手紙にはとにかくこういう名文が多いです。

恋敵をやっつけるなら、あらゆる悪らつな手を使って、うまく完全犯罪をおやりなさい。相手を見くびってはいけませんよ。相手はほんの小僧っ子でも、あなたが永久に失った「若さ」をもっているのは向こう様なのですからね。

そして恋愛にとって、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まっています。

ともすると、恋愛というものは「若さ」と「バカさ」をあわせもった年齢の特技で、「若さ」も「バカさ」も失った時に、恋愛の資格を失うのかもしれませんわ。私にはそれが骨身にしみてわかっているつもりです。

(「恋敵を中傷する手紙」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4) 

ママ子様〜と跪きたくなるほどシビれるアドヴァイスではありませんか。見事に恋愛の資格を失っている私にも大変しみるお言葉でありました。

 

個性豊かでチャーミングな登場人物たちの中で、なんとなく一番共感できたのは丸トラ一です。

私はトラ一と違ってテレビは全く見ませんが、他人との距離感や言葉選びが一番身近に感じました。他力本願で怠け者なところもとてもシンパシーを感じます。

どうぞ、どうぞ、ほうっておいてください 。僕に一切かまわずにおいてください。僕はこれで十分幸福なのですから。他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりっこないのですから。

(「悪男悪女の仲なおりの手紙」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4)

ママ子とトビ夫、タケルとミツ子の2カップルの複雑な人間関係にうまく巻き込まれたトラ一が、タケルの己惚れた惚気の手紙にさらっと返信したこの葉書の文章で物語は終わります。

 

そしてこの先から、”レター教室”と銘打ったこの作品が、手紙を書く上での極意へと収束していきます。

手紙を書くときには、相手はまったくこちらに関心がない、という前提で書きはじめなければいけません。これがいちばん大切なところです。

世の中を知る、ということは、他人は決して他人に深い興味を持ちえない、もし持ち得るとすれば自分の利害にからんだ時だけだ、というニガい哲学を、腹の底からよく知ることです。

(中略)

世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かって邁進しており、他人に関心を持つのはよほど例外的だ、とわかったときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力がそなわり、人の心をゆすぶる手紙が書けるようになるのです。

(「作者から読者への手紙」『三島由紀夫レター教室』ちくま文庫 1991.12.4) 

私が人生でいちばんたくさん手紙を書いていたのは、おそらく中学生の頃だったと思いますが、もちろん田舎のクソガキだった当時の私はこんな哲学を知りませんでした。

クラスメイトとの秘密の打ち明けあいの手紙や、ネットの掲示板で出会った大阪や鹿児島のギャルとのプリクラ交換の手紙など、汚い字で実に多くの手紙を書いていましたが、結局その中のどれひとつとして記憶に残っている内容はありません。

私も、文通相手の彼・彼女たちも、みんな自分勝手で己惚れ屋で、相手に深い興味なんて抱いていなくて、その事実にまったく気づいていませんでした。

 

この先誰かに手紙を書くことがあるかわかりませんが、もし書くことがあれば、私は相手がまったく自分に関心がないことを前提として、ペンをとると思います。おわり。