れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

今月一番思考を持っていかれた『売れっ子漫画家×うつ病漫画家』

先日の亜獣譚エントリにも書きましたが、pixiv漫画『売れっ子漫画家×うつ病漫画家』がマインドをえぐりまくりでどえらいハマっています。

www.pixiv.net

売れっ子とまではいかないまでも、誠実にいい作品を描いて賞なども獲っていた漫画家・古印葵こと福田矢晴は、編集者との齟齬などから精神に不調をきたします。

いつしか矢晴のアパートはゴミ屋敷となり、矢晴はアルコール中毒にもなり、当然ながら漫画も書けず、貯金は底をつき、文字通り死にかけます。

そんななか、あるきっかけで古印葵の大ファンだという売れっ子漫画家・望海可純こと上薗純と出会うや否や、純はかつて憧れていた古印葵の変わり果てた姿に驚愕し、度を越した庇護欲をもって彼を自宅に居候させます。

こうして売れっ子漫画家の、うつ病漫画家への献身的で倒錯的な看病の日々が始まるのですが…。

 

まずはですね、矢晴の言葉の力にとても引っ張られます。

私はうつ病って、普段人が見ないようにしている真実から目を逸らせなくなる病気って感じがするのですが、矢晴はまさにみんなが忘れたふりしている「本当のこと」を的確に言い当てていると思います。

「愛されない弱者を救う方法は

強者の中で他人を愛する才能のある人が多数派になれば解決する話ですが

強者の中身なんて普通の人と同じで

全員へ老婆心を持ち合わせてるわけじゃないから解決しませんよね

好きなものしか愛せないのが人間の弱さですから」

 

(溺英恵『売れっ子漫画家×うつ病漫画家』pixiv)

「愛されない弱者」っていうのはキーワードのひとつですね。

矢晴は純と出会ったことで「愛された弱者」となれたわけですが、もし純との出会いがなかったら、あのまま衰弱して死んでいたでしょう。

愛されたって救われずに死んでしまう人もいますが、愛されない弱者はもっと悲惨な死に様になるよなぁと思いました。

きっと私も死ぬ時は「愛されない弱者」としてくたばるに違いないです。

 

***

 

まだ矢晴が元気だった頃のシーンも印象的でした。

出版社のパーティーにて壇上で挨拶する矢晴の台詞は、その後の彼の転落を思うとものすごく切ないです。

「ーーきれいだな 忘れたくないなと思ったものをカメラで撮るのが日課

漫画も

忘れたくないと思ったモノや感情を取り込んで形にしてます

それがたくさんの人に読まれたり褒められたりすると なんだか不思議な気持ちです

とても嬉しいです」

 

(同上)

このときのウブな矢晴の横顔が可愛くて…。ああ切ない。

私もカメラ付きのガラケーを持った思春期の頃からずっと「きれいだな 忘れたくないなと思ったものをカメラで撮るのが日課」です。最近はフィルムカメラでも撮ってます。

でも、仕事やなんやで心が荒んでくると、いつの間にかカメラを起動しなくなるんですよね。

すっかり病んでしまった矢晴も、写真なんてずっと撮っていないです。

スマホ社会になって一億総カメラマンみたいな時代になってますが、案外こういうことも健康のバロメーターになっているのかもしれません。

 

***

 

矢晴には共感する部分も多いのですが、純のほうは少し超人的なところがあって、共感というよりはハッとさせられる発言が多いです。慧眼、という感じ。

「暴言って動機に下心がありがちだし

その瞬間は自分がスッキリするけど人類にとってそんなに必要ないし」

(人類…)

 

(同上)

ほんまその通りやな、と思いました。

私は結構短気なので、すぐ苛立ってトゲのある言葉を吐いてしまうのですが、それが人類にとって必要かと考えると、全然必要ないなって感じです。

暴言を吐かれるのももちろん嫌ですが、吐いて一時的にスッキリしても、結局響きが残って後味悪いんですよね、暴言って。

悪口はセンス良く言えば笑いに昇華できることもありますが、暴言は文字通りただの言葉の暴力で、暴力はどう転んでも笑えないわけです。

 

別のシーンで、合コンについての持論も興味深かったです。

「……それに合コンとか婚活とかさ

人間が人間を品定めする場面を見るのがしんどいんだよね

私も他人を品定めするの気分悪いし

品定めしなきゃいけない場所なのは分かるんだけどさ」

 

(同上)

「人間が人間を品定めする場面を見るのがしんどい」。ほんと、それな、略してほんそれ(何)。

前の職場で婚活イベントやるたびに感じていたなんともいえない徒労感はこれだったんだなぁと腑に落ちました。

同じような理由で就職面接も苦手です。それこそ品定めしなきゃいけない場面ですけどね。

 

何故人間が人間を品定めする場面を見るとしんどくなるのかっていうと、やっぱり自分が品定めされた時に感じる、自分の底が割れたような居心地の悪さとか不当に評価された時の怒りと失望などを思い出してしまうからですかね。

なんかもー好きにさせてくれ、ほっといてくれって気分になりますよね。

その一方で、好きなものしか愛せない弱さも併せ持ってるのだから、人間ってタチが悪いなーとあらためて思ったのでした。

 

さらにさらに、しばしば我々が自己嫌悪に陥る己の“ガキっぽさ”に対しても、純の慧眼は役に立ちます。

「人間ってみんなもともと子供だろ?

子供の性質は人間の持って生まれた性質だよ

性質は成熟過程で薄まりはしても消えはしない

みんな死ぬまで持ってる 君も私も」

 

(同上)

間寛平のギャグ「いくつになっても甘えん坊〜」もまったくこの理論なわけです。諦めようと思いました(白目)。

純って視座が高いですよね。人間とか人類とか、広く一般化して物事を見ています。

そういう視座の持ち方は、かえって矢晴のような病人と対峙するときはいいのかもしれません。不用意に引き摺られずに済むし、落ち着きを失わなそう。

 

***

 

最後に、現時点での最新話に大きな山場があるので、そこに触れたいと思います。

純が「矢晴には」危害を加えないということから発展して、その純の物言いに激昂した矢晴の怒涛の反論が、なんかもう、すごすぎました(語彙力)。

「考えろ!!どうして四階はクソになったか?

不出来を他人に助けてもらえず壊れていったからだ

誰かが助けないと自分の中に助けるべきものがあることすら人間は気付けないから!

不出来が原因で歪んだ思考が人に嫌われる言動として発露したら誰もそいつを助けようと思わない!

誰も止めないと壊れた車になる!

修理されない車は歪みは増えても減ることはない!

歪みが増えれば増えるほどもっと止められなくなる!誰も助けない!

私もお前もだぞ!

自分の中に必ず壊れた車がある!

いつかなにかの歯車が狂って私も四階になるかもしれない!

なにも考えずになにが「矢晴には」だ!!」

(中略)

「そんなにたくさん他人の人生を考えられる人が 四階みたいになるもんか!」

「なにが再現だ なにがならないだ お前の低解像度でモノを語るな!

(中略)

お前だってなにかのかけ違いでこっち側にくる未来がどこかで待ってるぞ」

 

(同上)

四階というのは矢晴たちが出会った出版社の嫌われ社員です。四階が矢晴の漫画をボロクソに言ったところに純が来て、四階にバチバチの精神攻撃を仕掛けて撃退したのでした。

四階みたいなクソ野郎に対して、どうしてそのような人間になってしまったかに思い至る矢晴の想像力も確かにすごいですが、言われてみれば確かにそういうものだよなと納得しました。

 

よく、ブスに生まれたり出来のいい兄弟と比べられたりすると、心無い言葉をたくさん言われて育つので、その中で性格が歪んでしまう、みたいな話ってありますよね。

別に醜い容姿や劣等感だけじゃなくて、人間の心を殺しにくる事象ってたくさんあります。そんな何かに傷付けられて、誰も助けてくれなくて、さらには自分が傷ついてることにも気づけなくて、歪んで壊れたまま生き続けると、四階みたいなクソ野郎に成り下がってしまう可能性も、誰しもが持ち合わせているのかもしれません。

 

まあ、それに思い至ったところで助けてやる義理はないし、とっとと逃げたほうがいいんですけどね。

私もすでに壊れたまま走り続けて歪みきってしまった車を何台も所持しているのかもしれません。

廃車手続きしたいんですけど、どうしたらいいですかね。おわり。

濃い漫画:『亜獣譚』

先日Twitterでトレンド入りしていたpixiv上のWEB漫画『売れっ子漫画家×うつ病漫画家』が面白くて、どハマりしました。

www.pixiv.net

この漫画を"趣味で"描いているという作者の溺英恵氏は、商業漫画家・江野スミ(朱美)先生としても活躍されているそうな。

そこで江野スミ作品も読んでみよう!と手に取った『亜獣譚』が、熱量高すぎてこれまたすっかりハマってしまいました。

あらすじは以下。

第3回 次にくるマンガ大賞 Web部門入賞。

 

その愛には獣の臭いが染み付いていた——

 

男の名はアキミア。

職業、害獣駆除兵。

女の名はソウ。

職業、衛生兵。

 

獣を喰らう男と愛を知る女、

この二人の出会いの先にあるは安寧か破滅か…。

鬼才・江野スミが描く新境地、ハードアクションファンタジー開幕!

裏サンデー作品ページより)

セリフの一つ一つ、登場人物のキャラクター性と彼らそれぞれのエピソードの一つ一つがめちゃくちゃ濃く・重く・強烈で、面白いけど読むのに気力を使いました。

画力も素晴らしく強くて、読み終わった第一印象は「とにかく濃い漫画だったなぁ」でした。

 

愛と友情、正義とは何か、善と悪、正常と異常、性についてetc...

内包されているテーマもてんこ盛りです。むしろ全部のせって感じ。

なのですが、

ラストはやさしいハッピーエンドで、後味はとてもさっぱりしているのです。不思議~。

 

読んでいる間はとにかく物語に引き込まれて、同時に登場人物たちと一緒にあれこれ考えさせられるんですが、

読み終わった後は「あ~面白かった」ってあんまりうだうだ考えなくて済んでます。

少しもったいない気持ちもしましたが、あくまでエンタメに徹した作品なのかもしれません。

 

最近仕事や親族関係で煩わしいことが多々あり、とにかく2次元に逃げ込みたい気分なので、

思考を根こそぎ持って行って没頭させてくれる、強烈に面白い作品というのがとにかくありがたいです。

おかげさまでこの数か月は面白い漫画にたくさん出会えているので、なんとか生き延びられています。

 

***

 

この作品はとにかく世界観や設定が山盛りなので、一つ一つ掘り下げると何時間あっても足りない感じなのですが、

個人的に「おお」と思ったのは、中盤から出てくるエドゥルという国のあり方についてでした。

主人公・アキミアたちの暮らす国・ノピンよりも数段科学技術が進んでいるエドゥルには、人間と遜色ないアンドロイドが1,000万人暮らしており、オーガニックな人間は1,000人しかいません。

古風な街並みですが、目に見えるもの全てはインターネットにつながっていて、センサーで位置情報が常に取得されています。

 

国の人口の大半を占めるアンドロイドの中には、他国で死亡した後に献体として運ばれエドゥルの蘇生術を受け、オーガニックな人間だった頃の記憶を受け継いだままアンドロイドとなった人もいます。

かつてアキミアの幼い頃、彼の目の前で殺されたシュンカ姉ちゃんもその一人。

 

14年ぶりに再会したシュンカ姉ちゃんに、なぜノピンに帰国しないのかとアキミアは問いました。

その答えは「そっちの国の法律じゃ 身体のほとんどが人工物の人間は 生きてる人間だって認めてくれなくてさ」というものでした。

だから死亡届を取り消せないし、戸籍も取れないから家も借りられないと。

 

哲学の思考実験そのもののストーリー展開でした。久々にこの感覚を味わいましたね。

4巻の終盤でこのエドゥルのあり方とアンドロイドと人間の違いについての会話シーンが出てくるのですが、実に興味深いです。

オーガニックな人間がお年寄りに席を譲るのは「親切」で、アンドロイドがお年寄りに席を譲るのは「模範的で教科書通り」と捉えられるとか。なるほどなぁ。

オーガニックな人間だって思考せずに機械的に行動することだってあるのに、オーガニックな人間であるというだけで、行動は心情(動機)と結び付けられてしまうんですね。

アンドロイドはその逆で、心の働きから生まれた行動でも、プログラム処理の結果としか思われない。

 

さらに、オーガニックな人間が人口減少した社会で、「人権のない働き手がほしい」企業がエドゥルからアンドロイドを買っていくという話も面白いです。

アンドロイドには人権がないという前提があると、エドゥルのようなアンドロイドが多数の国はただの「工場」にとどまり、独立した国になりきれないと。

人権を持つアンドロイドと人権を持たないアンドロイドが両方存在するのかもしれないけど、その境界線って何を持って定義するのか?答えは果たしてあるのでしょうか。ああ面白い。

 

アンドロイドの人権はセンシティブな問題ではあるけれど、私はエドゥルみたいな国があったらそこで暮らしてみたいなぁと思いました。

人権があるはずのオーガニックな人間を人権無視して働かせる企業が横行する現代日本みたいな国よりは、人口の99.99%がアンドロイドで福祉が充実しているエドゥルの方がはるかに暮らしやすそう。

 

***

 

エドゥルの話は物語の本筋というほどでもないんですが、その1エッセンスを取り出すだけでも楽しい作品でした。

これだけ色々詰め込まれているので、読んでいる間脳みそは絶えず刺激を受け続けることができます。

それでいて、最後は爽やかに優しいハッピーエンドなんですから、実に素晴らしい優れたエンターテイメント作品だと思います。

笑えてヌけて思考実験できる、地獄と天国の両方を味わえる濃ゆ〜い漫画でした。おわり。

そのスタイルでいこう:『オーラの発表会』

日本の現代文学でギャグ・コメディセンスがピカイチなのが綿矢りさ大先生。

『オーラの発表会』、めちゃめちゃ笑いました。

あらすじは以下。

「人を好きになる気持ちが分からないんです」

 

海松子(みるこ)、大学一年生。

他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手。

趣味は凧揚げ。特技はまわりの人に脳内で(ちょっと失礼な)あだ名をつけること。

友達は「まね師」の萌音(もね)、ひとりだけ。

なのに、幼馴染の同い年男子と、男前の社会人から、 気づけばアプローチを受けていて……。

 

「あんまり群れないから一匹狼系なんだと思ってた」「片井さんておもしろいね」「もし良かったらまた会ってください」「しばらくは彼氏作らないでいて」「順調にやらかしてるね」

――「で、あんたはさ、高校卒業と大学入学の間に、いったい何があったの?」

 

綿矢りさデビュー20周年!

他人の気持ちを読めない女子の、不器用で愛おしい恋愛未満小説。

 

集英社作品サイトより)

海松子は確かに他人の気持ちを読めないけど、他人の気持ちを読める人なんでいないですよね。読めないというより、推し量れないのが海松子なのです。

クラスメイトの口臭から昼間に食べた学食のメニューを言い当てることを特技とするような、結構デリカシーのない変わった女の子ですが、その失礼な感じが実に軽快な文体で面白おかしく描かれていて、声出して笑えます。

 

海松子の父は大学教授で弥生時代などの研究者で、母も歴史が好きで食卓に江戸時代の食事を忠実に再現したメニューを並べる人です。両親もなかなかパンチがある人だなぁと思います。

そんな両親に愛されて育った箱入りの一人娘・海松子ですが、家族にもクラスメイトにも一貫して敬語で話す描写からも「この子なんか不思議な感じ」と印象付けられます。

そんでもって将来の夢が教師で、現在は教育学部に通い、塾講師のアルバイトをしています。

 

これは偏見であることを承知していますが、やっぱり学校の先生になる人(なりたがる人)って変な人多いですよね。

私も教育学部出身ですが、私の専攻は教育学部のくせに教職がメインではない不思議なクラスだったので、周囲にも教員になった人はほぼいません(私ももちろん教育実習すらしていない)。

そのせいか、私の同級生はわりと常識的な人が多かったです。

 

でも、義務教育から大学に至るまで、出会ってきた先生は大体変な人だったなぁと思い出されます。どのように変だったのかを説明しだすと文字数オーバーしそうなくらいキリがないですが、全体的に浮世離れしてたというか、社会と隔絶されてる感じの人が多かったです。

そして、私はそういう変な先生と話すのがとても好きな子供だったので、用もないのに職員室や生徒指導室に入り浸っては、暇な(本当はそんなに暇じゃなかったかもしれない)先生を捕まえてニュースの話とか本の話とか将来の話とかをダラダラし続ける面倒な生徒でした。

 

***

 

海松子はバイト先の塾で中高生から好かれず、小学校低学年のクラスを中心に任されていました。

そんななか、夏期講習の人員不足で久々に中高生にも教えられるとなっていた矢先、複数生徒からの強い要望で授業を外されることになってしまった海松子。

彼女は落ち込み、ある日大学教授である父の授業をこの目で見てみようと思い立ちます。

 

他大学のカリキュラムをネットで調べて大教室の授業に潜り込んだ海松子が目にしたのは、ゲームやおしゃべりや居眠りばかりで全く授業に関心を持たない学生たちの中で、ひたすら淡々と授業を進める父の姿でした。

幼い頃から研究者としての父を誇りに思っていた海松子はショックを受けますが、授業の後に父の研究室に行き、バイト先の出来事と自分の将来について悩んでいることを父に相談します。

父は、学生に迎合しても、要望を聞き出せばキリがないこと、とにかく授業を続行しなければならない責任があること等を訥々と説きました。

思い悩む娘に極めて現実的なアドバイスをした父。それに対して海松子は・・・

頷きながらも、自分の受け持ちの授業なのに、父が街頭のビラ配りの人と同じくらいしか学生には期待していない事実に衝撃を受けた。この人は自分のしたいことしかしていない。私もそのスタイルでいこう。

 

綿矢りさ『オーラの発表会』集英社 2021.8.30)

「そのスタイルでいくんかい」と思わずツッコミを入れてしまいました。あー面白い。

このシーンからも読み取れますが、海松子って人の気持ちは推しはかれないけど、誰かを否定したり非難したりは基本的にしないんですよね。純粋な悪意はないというか。

 

だからクラスメイトや友人の萌音も海松子に対して「こいつほんと失礼だな」「変わってるな」「ムカつくな」と思っても、彼女のことを心の底から嫌ったりはしないんだと思います。

ムカつくけど悪気がないのはわかるし、基本的には自分を肯定してくれて、自分の話を素直に聞いてくれて、思いもよらない形で受け入れてくれる。海松子はそういう子です。

 

***

 

海松子は主人公ですが、変わり者過ぎておまけにちょっとポンコツなため、実際に物語を前に進めていくのは友人の萌音でした。彼女がこれまたすこぶる面白い女の子です。

萌音自身の容姿は地味で特段特徴がないのですが、身近な可愛い子を忠実にトレースするのが非常に上手い子で、大学生になった今ではSNSでの検索力やメイクの技術も舌を巻くレベルに。

萌音に服装やメイクを真似された女子たちはだいたい不愉快な気持ちになり萌音に敵意を向けるようになるのですが、海松子はそのプロ並みのコピー能力を素直し尊敬し、才能であると考えています。

 

この辺の対比も非常に興味深いなと思いました。

同じ「服装やメイクを真似される」という事態に対して、真似されて不愉快になる人と、真似のクオリティに関心し相手を尊敬する人がいるんですね。その差はどこにあるのでしょうか。

私が思い付いたのは「他人への関心の強さ」です。

海松子は他人に全く関心がない訳ではないですが、基本的には父と同じく街頭のビラ配りの人程度にしか興味が持続しません。

だから、自分の服装を真似されても「なんで?」と追及せず、「完成度が高い、すごい」と関心するだけで終わるのです。

 

あらすじにも「他人に興味を抱いたり、気持ちを推しはかったりするのが苦手」とありますが、私は逆に、他人に興味を抱いたり気持ちを推し量ったりしようとするから、世の中生きづらくなるんじゃないかと、この本を読んで感じました。

最初に書いたように、他人の気持ちを読める人はいません。

推し量ったところで、それが事実とどれくらい合致しているかなんて誰にもわかりません。

勝手に推し量って、勝手に想像して、勝手に気を使った結果ストレスになるんじゃないでしょうか。

そして、自分が勝手に推し量った気になっているだけなのに、それを相手にも無意識のうちに強要していて「どうして私の気持ちがわからないの」と逆ギレして非難めいた気持ちになる。悪循環ですね。

 

***

 

この本の読後感がとても爽やかで軽やかなのは、海松子も萌音も海松子の父も、登場人物がみんな自分勝手に生きていて、それでいてうまく連帯しているからだと思いました。

他人に興味をあまり持てなくても、相手の気持ちを想像する力があまりなくても、相手の存在を素直に肯定し、受け入れられなければ適当に受け流すだけで、本当は十分なのかもしれないと思いました。

人との距離感について、とても示唆に富む良作でした。おわり。

自尊感情と距離感:『ブランチライン』

このブログで何度か池辺葵さんの漫画について書いていますが、現在連載中の『ブランチライン』もとても印象深い素晴らしい作品だと思います。

あらすじは以下。

4姉妹と母。女たちが抱く罪悪感と宝物。

 

アパレル通販会社で働く4姉妹の末っ子・仁衣。

茶店を営む三女・茉子。

役所勤務の次女・太重。

シングルマザーの長女・イチ。

そして、実家を一人で守る母。

 

今はそれぞれ離れて暮らしているが、

女5人で育てた長女の息子・岳は

皆にとっての宝物だ。

けれど、岳にとっての女たちは、

いつも正義であっただろうかーー?

 

あなたにもきっと、思い当たる感情がある。

だからこそ、この物語はあなたの呼吸をふっと軽くする。

池辺葵が紡ぐ様々な世代の女たちと家族のあり方について。

 

pixivコミック作品サイトより)

池辺さんの作品に出てくる人たちって、みんな他人との距離感が絶妙だなぁと思います。

『ブランチライン』は家族を中心に描かれていますが、こんなバランスの取れた家族って実際どれくらいいるんですかね。というか存在するかなぁ。

 

私は一人っ子で両親も離婚していて、家族というにはだいぶ散り散りになっていますが、

ハハは三姉妹の次女で長男である弟も含め4人兄弟で、彼らの両親(つまり私の祖父母)も健在、つまり現在も家族が機能しています。

還暦間近のハハですが、最近癌がみつかり、現在入院中とのこと。

離れて暮らしていてろくに連絡も寄越さない薄情な一人娘の代わりに、入院の手続きなど面倒を見てくれているのは7歳下の妹(私の叔母)です。

昔から軽口を叩き合っている姉妹たちでしたが、みんなそれなりの高齢者になってあちこち身体にガタがきている中、こまめに連絡を取り合っては助け合っている様子で、私はものすごく助かっています。

 

これだけ書くと、ハハの家族もこの漫画の4姉妹のように、付かず離れず、けれど相手をきちんと尊重している家族のように思えるかもしれません。

しかし、実際はもっと泥臭くて後ろ暗い、恨みとか諦めとか意地の悪い感情もたくさん持ち合わせているよなーと私は考えています。

だから、助け合ってくれてて有難いんだけど、彼らを見ていてもこの漫画を読んだ後のようなほっこりした気持ちには全然ならないです。

 

いったい何が違うのかなぁと考えると違いは明白。

ハハ含め私の親戚一同には無くて、この作品の家族・八条寺家にあるもの、それは『自尊感情』です。

八条寺家には卑屈な人が全然いません。各々バラバラな性格でも、みんな自分を大切にしていて、だから親でも兄弟でも、他人を敬うことも当たり前にできています。

ハハの家族は(そして私もその血を受け継いでしまっている)、祖母を筆頭にみんな自尊感情が低くて卑屈です。彼らが幼い頃の昔話を聞いても、成人してからの思い出話を聞いても、成功体験が全くない。

 

誰も経済的に成功していないのはもちろん、伯母は2回離婚してて叔母も離婚はしていないが自分の旦那が大嫌いな人です。いとこABも子供の頃や若いうちは愛されていたかもしれませんが、いい歳になってもパラサイトなままのいとこAは本気で伯母に恨まれてるようです。

仕事も嫌々するしかなく、暖かな家庭も築くことができなかったハハたちは、憎まれ口を叩き合い傷つけ合いながらも、お互い支え合うしか選択肢がないのかもしれません。

 

それでも、誰もいないよりは100倍マシなのかもしれないですよね。

私がもしハハと同じ状況になったら、助けてくれる兄弟はいないし、もちろん配偶者も子供も友人も恋人もおらず、文字通り一人でどうにかするしかないです。そしてそんなことができるほど、私に気力はすでに無い。

内心気に食わないけれど頼れる血縁者や家族がいた方がいいのか、気に入らない人間に頭を下げるくらいなら孤独でいた方がいいのか。最近流行りの“正解のない問題”ってやつですかね。

まあ、実際選択肢なんてないんですが。

 

***

 

今回この漫画の八条寺家と、ハハの姉妹や家族たちを比較してみて、あらためて自尊感情ってとっても大事なんだなぁと実感しました。

池辺さんの作品世界のように、悪者がいないというか、みんな自分と他人を思いやる気持ちが持てるようになるには、ベースに自尊感情が不可欠だと思います。

自分を大事にしていない人間は、結局のところ他人も大事にできないですね。

ハハは一人娘の私が一番大事だと口では言いますが、言われた私はちっとも嬉しくなく、大事に育ててもらったとも思いません。そもそも大事って何ですかね?

 

なんていうか、自分を大切に思っていない人に、好きだとか大事だとか言われたところで、そもそもズレている気がします。

自尊心のない人に何かしてもらっても、ありがた迷惑だし押し付けがましい感じがします。私に何かしてあげようと思う前に、自分を労れよ、って言いたいです。

 

・・・なんて、書きながらブーメランで全部自分に返ってくるんですけどね。

30年以上卑屈に生きてきて、成功体験を積むことができなかった大人が自尊感情をうまく抱くことって、かなり至難の業ではないでしょうか。

ましてや60年近く生きてきたハハたちも、90年近く生き延びた祖母たちも、今更どうやって自己肯定感を育めばいいのやら。

死ぬまで自分の人生を嘆き、何かを誰かのせいにしたままっていうのも、なかなかつらいものですね。でもそういう人生も確かにあるのです。

 

なんかもう、来世に期待としか言えないですね。笑。

いつものように救いのない結論に落ち着いてしまったので、最後に八条寺家長女の息子・岳の大学院の教授の素晴らしい名言を引用しておこうと思います。

「何億 何十億年かけて風化していく石の寿命に比べて 人間の寿命は短い

生きて死ぬだけで十分なのにねー」

 

池辺葵『ブランチライン 3』祥伝社 2022.1.8)

生きて死ぬだけで十分だと言われて育ったら、卑屈にならずに済んだでしょうか。おわり。

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』を観ました

アニメ『輪るピングドラム』が放送されてから10年が経ったそうで、総集編ないしリマスター版とも呼べるような劇場版が公開されました。

penguindrum-movie.jp

総集編的な劇場版アニメは基本的にどんなに好きだった作品でも観ることはないのです。だって初めて観た時以上の感動なんてきっとないと思いますし。

 

しかし、『輪るピングドラム』は今まで観た数々のアニメの中でも特に印象深い作品ですし、気になって見てみたTwitterの人々の感想もおおむね好意的なものだったので、映画館に観に行くことにしました。

 

改めて観てもやっぱり面白いストーリー、魅力的なキャラクター、作り込まれた美しい世界観が本当に秀逸で、観てよかったと思いました。

それと同時に、やはりとても懐かしくて、TVアニメ放送当時のいろんなことを思い出しました。

 

当時の私は大学4年生でした。

卒論をぐだぐだやりながら、就職活動もせずアニメばかり観て本と漫画ばかり読んで、生産的なことは何もしていない学生でした。

塾講師のバイトで受け持っていた男子高校生と、毎週のように『輪るピングドラム』の最新話の感想を言い合ったりして(勉強しろ)、思い返せばささやかながらも幸せだったような気がします。

当時の日記を読み返すと、全然幸せそうなこと言ってないんですけどね。私の日記は結局のところいつもそうです。

幸せそうなことは何も書いてない。それでも、思い返すと幸せだった気がするから不思議です。

 

今回の劇場版(前編)で、冠葉が陽毬に口付ける場面が一番ドキドキしました。

TVアニメ版の第1話を観た時も、エンディングに入る前の陽毬の枕元の冠葉の独白が一番ドキドキしてた気がします。

冠葉の、妹への常軌を逸するほどの熱い愛情は、何度観ても胸に迫るものがあります。なんていうか、真っ赤なラブストーリーって感じ。

きっとTVアニメ版を観ていた21歳の私は、誰かに冠葉くらい強く愛してほしかったんだと思います。若くて飢えてたのだと。

そして32歳の今も、相変わらず飢えているのです。愛や、夢や、希望に。だから同じ物語に同じように心奪われる。

作品を通して、自分の精神の無成熟さを痛感し直すという。苦笑です。

 

きっとないですが、たとえばまたさらに10年後に『輪るピングドラム』に何かの形で触れることがあったら、私はまたTVアニメ版を観ていた大学4年生の夏を思い出すし、さらには都会で一人寂しく暮らしていた32歳の春のことも懐かしく思い出すと思います。

きっと今までと同じように、愛や夢や希望に飢えた薄暗い気持ちで、それでも映画館から出たときに目に映る街の景色を、美しいなぁとか思うのです。

生き延びていたら、の話ですけどね。おわり。

何者かであることと夢と仕事:『Sketchy』

ガールズスケーター漫画『Sketchy』の5巻にうんうん頷きました。

アラサーのレンタルショップ社員・川澄憧子がスケートボードと出会い、それをきっかけに人生が変わっていく様子を描いたヒューマンドラマです。

5巻では憧子が勤めていたレンタルショップの閉店が決まったり、長年付き合った彼氏と別れたり、ずっと練習してたスケボーの技・オーリーができるようになったりと、憧子の感情の振れ幅が結構ありました。
 
印象に残った場面の一つが、憧子が職場の閉店が決まったことを彼氏に話した場面。
「・・・・え なんだ よかったじゃん
これで辞められるじゃん」
・・・・そんな 辞めたいみたいなふうに言わないで」
「うーん・・・・でも 一生続けてく仕事なの?
アコちゃんの代わりになる人沢山いる仕事でしょ?
同級生たちに劣等感感じてるんでしょ?」
「そんなの・・・・っ感じてない!
勝手に決めつけないで!
何者かであることがエライだなんて思わないで
何者じゃなくても私は毎日満足してる・・・・
怜君だって“自己実現の鬼”なんて言ってるけど
理想を語るだけで何も実現してないじゃん!
・・・・
・・・・」
・・・・ごめん 言いすぎた」
 
(マキヒロチ『Sketchy(5)』ヤンマガKCスペシャル 2022.2.18)
自己実現の鬼”とか標榜しちゃう彼氏も痛々しいけど、そんな彼が言うことも結構的を射ていますよね。憧子も図星だったからムキになって言いすぎたんだと思いました。
 
こんなことを言うと元も子もないですが、“代わりになる人沢山いる仕事”じゃない仕事なんて、世の中にありますかね?
『恋物語 ひたぎエンド』で貝木泥舟が言っていたように、かけがえのない・かわりのないものなんかないと私は思っています。
いくら高度だろうがクリエイティブだろうが、自己実現の結晶だろうが、代わりのない仕事なんてないんじゃないですかね。彼氏の怜君は仕事というものを神格化しすぎな気がします。
 
一方で、「何者じゃなくても毎日満足してる」という憧子も本当はそんなに満足してないんですよね。
前述の彼氏と別れた後、定期的に集まる学生時代の同級生同士の女子会にて、憧子が本音を吐露する場面でそれが垣間見れます。
・・・・いや 別れた」
「え!!  いつ?なんで教えてくんなかったかったの!?」
「うーん・・わざわざ報告することでもないし
別れた上に 仕事もなくなった」
「えぇ!? 大丈夫?最悪じゃん!!
彼は置いといて どうすんの仕事!? もう決まってんの!?」
「決まってない やりたい仕事なんかないし
結婚もできないしお金も大してないし
趣味も全然 上達しないし
・・・・みんなといるとボンヤリする やりたいこと欲しい物だらけでさ
中学から一緒なのに 私は みんなと全然違う
呼ばれりゃ行くけどさ 年々 溝が深く感じる」
 
(同上)
共感だわ〜と言いながら読んでました。
憧子はスケートボードという趣味があり、それがこの物語の軸にもなるのでまだ救いがありますが、私にはそんな打ち込める趣味もありません。
それでもってやりたい仕事もなく結婚もできずお金もないわけで、そりゃボンヤリするしかないでしょって感じです。
 
憧子は学生時代から映画を観るのがとても好きだった描写がありました。その流れもあって入社したレンタルショップでしたが、サブスクの波に押されて店舗は閉店、あとには何も残らず、憧子の心にはポッカリ穴が空いたようでした。
でもその後、スケボーでずっとできなかったオーリーという技を決めることができた憧子は、長年得られなかった成功体験と達成感を手にして、人生をあらためて前に進める決意をするのでした。
 
こういう、挑戦したり達成したりできる趣味っていいなぁと思いました。
私の趣味といえばアニメ鑑賞や漫画などの読書、一昔前では乙女ゲームに旅行などでしたが、どれも受身の趣味でこれといった挑戦もないし達成感もないんですよね。
日本全国鉄道乗り潰しをしていた頃は少し挑戦してる感もありましたが、47都道府県を制覇したあとは目標を見失ったような心持ちでした。
 
じゃあ仕事で何か挑戦すればと思われるかもしれませんが、クソつまらんと思ってる仕事にそんな気力はまったく湧きません。
そもそも社会人になって約10年、いかに自分が働くのが嫌いか骨身に染みつづけてきたのです。自分の嫌いなことで達成感を得ようなんてどだい無理な話でしょう。
 
話は飛びますが、先日3年ぶりくらいに叔母に会う機会があり、いとこをはじめ親戚一同の近況報告を受けました。
ワクチン接種による体調不良と仮病を使い仕事をサボりまくったいとこAや、運よくコネ入社できたが仕事がろくにできなくて毎日愚痴ばかり言ってるいとこBなど、みんな私と同じくらい働くの嫌いで笑いました。
私のハハも叔母たちも仕事は必要悪という感じの人たちだったので、その影響をしっかり受け継いでしまったのか、親戚はみんなうだつの上がらないサラリーマンばかりのようです。
 
そんなダメリーマンたちの話を聞いて、私はなんとなくほっとしてしまいました。
私の職場は業績回復の見込みがなく先行きの暗い業界なのに、働いている人たちは皆意識とプライドだけは高くて“やりがい”だの“成長”だのを仕事に求める人たちばかりなんですよね。
そういう、気持ちだけはアツい人たちと仕事をしていると、嫌々仕事をしている自分が悪なのかと思うことがありますが、別に善も悪もないですよね。嫌々でも仕事はしてるんだし。
そりゃあやりがいを持ってキラキラ働くのは素晴らしいことだと思いますが、全ての人がそんなふうに働くことはないし、そんなこと無理だろうと思います。
世の中には私みたいに働くこと自体が好きになれない人間が一定数いるし、それは血液型くらい変えようがないんじゃないかと思いました。
 
***
 
5巻の終盤、憧子はスケボー仲間のアトリエに招かれ、そこで自分の夢を見つけます。
それは、どこか自分の気に入った外国の街でスケボーに乗ること。
新たな夢を見出した憧子の気持ちは少し上向きになりました。
 
私が最後に夢を持っていたのはいつだろうと振り返ると、高1くらいまでだったかなーと思い出されました。その頃は英語か数学の教師になろうと思ってた気がします。
結局その後家庭内のゴタゴタなどがあって夢はなくなり、そのまま今に至ります。
47都道府県全ての鉄道に乗ろうとか、ヨーロッパに行こうとか、地元を離れて暮らそうとか、スモールゴールは叶えてきましたが、憧子の夢のように「それがあるから頑張れる」みたいなレベルの夢や目標はもうずっと持っていません。もう持てる気もしないです。
でも、夢や希望のない人生って本当に生き続けるのがしんどいんですよね。なんかいつも同じこと言ってますね、私。
 
夢ってどうやって見つけるのか、それは結局この漫画を読んでもわかりません。スケボーなんてしたら絶対コケて骨折とかする自信があるのでやりたくないし。
まあそれは置いといて、マキヒロチさんの漫画はどれも現代の等身大の大人を描いた作品で、共感できる部分が多いのでおすすめです。おわり。

21世紀の仏教徒:『池上彰と考える、仏教って何ですか?』

私のなかの仏教ブームのひとつの到達点ともいえる著作に出会いました。それが『池上彰と考える、仏教って何ですか?』。

さすが池上彰氏、仏教のはじまりから日本でどのように発展したか、現代の仏教が世界でどのように存在しているかを大変わかりやすく解説した良著でした。池上さんの本を読んだことはあまりなかったんですが、優れた教育者だなぁって感じがしました。こういう先生に社会科教わりたかったです。

 

しかしながら、今回私がこの本を読んで感銘を受けたのは、前半の歴史解説部分ではなく、池上さんがインドのダラムサラに赴き、チベット仏教の高僧やダライ・ラマ14世と対談した模様を収めた後半部分です。

この本を読むまで、チベット仏教って日本の仏教より厳しい修行をしてそうだなぁとかぼんやりしたイメージしかなかったのですが、中国共産党に弾圧されたチベット亡命政権とも直結しているんですね。現在戦争中のウクライナとロシアのことも想起され、非常に示唆に富む内容でした。

 

***

 

そもそも何故自分が仏教に興味を持つようになったかというと、今抱えている生きづらさを仏教ならどうにかできるんじゃないかと考えたからです。

仏教は、どうして生きづらいのかという問いに一つの解答案を提示してくれた気がします。

日本に限った話ではなく、物質的な向上を図ることで幸せが得られるのだと勘違いしてきた人がたくさんいるようです。

(中略)

外面的に見て、快適だと思われる条件をすべて整えたとしても、心の平和を得ることはできないのです。これは皆さんご自身の体験に即して考えても、きっと理解していただけるでしょう。

自身の心の中によい変化をもたらさなければ、心の平和を確立することはできませんし、本当の意味で幸せになることはできないということです。  

 

池上彰池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社 2012.8.5)

上記は池上さんがダライ・ラマ14世に会う前にお話ししてくださった高僧の言葉です。

 

幸せになるかどうかは置いといて、心の平和は何より欲しいです。

物質的な向上…私にとっては洋服とかコスメとか美味しい物とかお酒とかですかね。デジタルガジェットなんかもそうかな。

「新製品!」「期間限定!」などに色めきだっているうちは、まだまだ物質的価値観から抜け出せていないわけで、そういう価値観で生きていると、心の平和は一向にやってこないんですね。  

 

この物質的価値観って20世紀的価値観とも言えると思うんですけど、

なんだかんだいって私を含む多くの一般人は、いまだにここから抜け出すことができていないのではと思いました。

この価値観って中毒性が凄くて、デトックスが難しい上に禁断症状やリバウンドも起こりそうな感じがします。  

 

価値観=ものの考え方とも言えます。ダライ・ラマ14世も上記と同じことを言っていました。

このような大惨事が起きてしまい、多くの困難や苦しみに直面したとき、大きな違いをもたらすのは何かというと、私たちのものの考え方にあります。

普段から物質的な発展だけを追い求め、外面的な幸せを得ることだけを考えていたとしたら、内面的なことをあまり考えずに過ごしていたとしたら、このような惨事が起きたとき、すべての望みを失ってしまいます。

しかし、日頃からどのようなものの考え方をするべきかについて考え、心を訓練していれば、逆境に立たされた場合でも、心の中では希望や勇気を失わずにいることができるのです。  

 

(同上)

この取材が行われたのは東日本大震災の少し後だったようで、ここで言われている大惨事とは震災のことです。  

残念なことに2020年代も、新型コロナウイルスパンデミックやらロシアによるウクライナ侵攻やら大惨事が続いていて、「物質的な発展だけを追い求め」ていた私は、文字通りすべての望みを失った気がしていました。  

面白く感じていた海外旅行に行けなくなって、体調を崩して好物の辛いものも食べられないしコーヒーやお酒や炭酸飲料も飲めなくなって、ただでさえゴミみたいな毎日だと思っていたのに、もう何に楽しみを見出せばいいのか全然わかんないって感じでした。  

この本を読んで、自分がいかに物質的な幸福だけを追い求めていたか、それに縛られていたのかを痛感しました。そしてそれこそが、自分が生きづらいと感じる原因の大きな一因なのだということにも思い至りました。  

 

***  

 

この、物質的幸福を追い求めてしまう心のはたらきが煩悩です。『サンピエンス全史』で言われていたところの“渇愛”でもあります。

仏教ではこれら煩悩を滅する修行がおこなわれているわけですが、その修行は単に信仰や祈りや瞑想だけではないと法王は言います。

仏教は、私たち人間が持っている様々な感情について、つまり、心という精神世界について、大変深い考察と探究をしています。私たちの心とはどういうものなのか、感情がどのような働きをしているのかを正しく理解することは、問題や困難に直面したとき、自分の破壊的な感情を克服するために大変役に立つのです。自分の感情をどのように扱うべきかを知っていると、たとえ破壊的な感情が起きても、それに取り組み、克服する手段を心得ているからです。  

 

(同上)

ここでいう「破壊的な感情」もすなわち煩悩です。法王はこれらを踏まえて全人類が仏教の心理学を勉強した方がいいと話していました。  

 

“仏教の心理学”というのが私にとってはパワーワードでした。

確かにこれだけ心のはたらきについて体型立てて対処法がまとまっている仏教は、いち宗教というにはあまりに理論的かつ実践的すぎるくらいです。

私が(そして池上さんもそうだと書いていましたが)他の宗教よりも仏教を信仰しようと思えるのは、他の宗教の世界観や現実社会の最新の理論や技術も受け入れる寛容さと、科学的センスを兼ね備えているからなのだと理解しました。  

 

ちなみに、チベット仏教における僧侶の昇進試験は論理学ごりごりの問答実技試験なのだそうです。知らなかった。

そんなロジカルシンキングの猛者たちの頂点にいるのがダライ・ラマ法王なわけですね。確かに、法王の言葉は平易でなおかつ理路整然としていて、読んでいて終始気持ちがいいなと感じました。  

日本も(だいぶ日本仕様になっているとはいえ)仏教国なんだから、教育現場でもっと論理学ごりごりやればいいのに。高校数学あたりでちょろっと触るくらいじゃ少なすぎるし遅すぎます。  

 

***  

 

ところで、この本をとてもタイムリーに感じたのが、チベットという国が置かれている状況についての記述です。

ダライ・ラマ法王が国家元首を務めていたチベットという国は、一九五十年代、圧倒的な軍事力を持つ中国の手に落ちました。

一九五九年、法王がインドに亡命した後のチベットでは着々と中国化が進められ、信仰の自由や人権が脅かされているため、チベット人たちが今も抗議活動を続けています。ダライ・ラマ法王は、自ら世界中を飛び回って国際社会にチベットの問題を訴えるという「非暴力」の戦いを貫いています。

中国という強大な国を相手に、一見勝ち目のなさそうに思える戦いを、よくぞ半世紀以上にわたって続けてこられたものです。  

 

(同上)

仏教は一貫して無用な殺生をしてはいけない、利他の精神を持ちなさいという考え方なので、いまのウクライナのように武力で対抗するということはしないんですね。抗議の焼身自殺はすることがありますが。

結果として亡命政権になったけれど、国を取り戻せる見通しは(少なくとも中国共産党があるかぎり)無さそうに見えます。  

 

ダライ・ラマ14世はこの戦いの本質を「真実の力」だと言っていて、例にもれず極めて正しいと感じる理論を展開するんですが、圧倒的暴力の前でその「真実の力」がどれだけ現実を動かせるのかはやっぱり疑問でした。

別にチベットも武力で対抗すべきだとは思いません。むしろ亡命して助かる命が多いのなら、つらくても国を離れるべきなのかもしれないとも思います。(西欧諸国は最初はゼレンスキー大統領にもそれを求めていたのではないかと)  

 

でも一方で、「プライドも体面も捨てたら 残るもんなんて何にもない それ捨てたら死んだも同然やろ」という『来世は他人がいい』の吉乃みたいな考え方も共感できなくもないんですよね。まあ国土とか故郷とか資源とか矜持に執着しているという意味で、この気持ちも煩悩と言われればそうなんですけど。  

 

ひどいのは侵攻している中国でありロシアであり暴力であるはずなのに、その力があまりに強大すぎて、現状を変える対抗手段を考えると結局暴力しかないんですよね。この本を読んで私はそう思い至りました。

話し合い、言葉の力、コミュニケーションで暴力を解決するのってやっぱり無理なんですかね…。  

 

かろうじて救いがあるのは、そんな苦しい状況にある法王が極めてポジティブであることです。さすが仏教の修行を極めているトップ、心の平和レベルが凡人とは違います。

私はいつも正直に真実を語り、慈悲深い態度を維持していますから、悲しんだり、後悔したりする理由は何もありません。それが楽観的でいられる主な理由です。さらに、私はひとりの仏教僧であり、家族もありません。自分ひとりのことだけを考えていればよく、家族のことを心配する必要もありませんから、皆さんよりもずっとシンプルなのです。

家族がいて、子供、孫、曾孫などがいたら、心配の種がたくさんあって、考えなければならないこともたくさんでてきますからね笑。  

 

(同上) 

カッコいい〜〜〜〜〜私だって家族も友人も恋人も居なくてシンプルなはずなのに、全然楽観的になれません。 真実を語り慈悲深い態度を維持できるよう、修行に励めということでしょうか…。  

 

***  

 

先ほども書いたように、この本の発行から10年が経った現在、世界情勢も日本社会もより困難を極めていると思います。

これから新たな冷戦時代に突入しそうだし、それによってインフレも進みそうだし、そもそも円安も進んでて海外旅行も高くついてるし、国内は超高齢化社会のシルバー民主主義が向こう30年は続きそうだし所得もやっぱり上がらなそう。

21世紀になってすぐ、「物質的価値観の時代は終わった」的な言論が出回るようになっていましたが、そう言いながらもみんな休みの日はショッピングしてたし、旅行先ではお土産たくさん買い込んで、毎年買い換えてるスマートフォンで写真撮りまくってたんですよね。なかなかモノの中毒性から抜けられなかったんです。  

 

でも、この先本当に物質的価値観が終焉を迎えるかもしれないと思います。

しかも、こちらが終わりにしたいと思っていなくても、大きな力によってその価値観を剥奪されてしまうような変化が訪れるんじゃないかと。正直結構怖いです。

全体的に見れば、アメリカの生活スタイルや、西洋の工業国の生活スタイルは消費過多なので、これには真剣に取り組まなければなりません。私たち人間は、持っているもので満足するという実践をしなければならないと思います。

すべての人たちが、生きていくために必要なものや設備を得る権利を持っていますが、贅沢品はどうしても必要なものではありません。世界では何百万人もの人たちが貧困と飢えに苦しんでいることを考えると、あまりに贅沢な暮らしをすることはよいことではありません。

しかし、すでに述べたとおり、科学技術がなくては生活の向上を図ることはできません。  

 

(同上) 

贅沢って慣れてしまうもので、慣れると依存してしまうものです。

この先、薬物中毒者が苦しみながら薬を抜くように、社会的要因や経済的理由から”贅沢抜き“を強いられるような未来が訪れるかもしれないと思います。

もしそういう未来がやってきたとき、仏教って(仏教の心理学って)有用なんじゃないでしょうか。  

 

ダライ・ラマ14世は話の中で幾度も勉強することの重要性を説いていました。

現代において必要とされている知識や教養(そこに仏教の心理学も含まれる)を正しく備えた上で、ひとりの人間として、他人を思いやる気持ちを持っていなければならないというのが法王の持論で、その姿勢を「21世紀の仏教徒」と表現していました。  

 

私はなかば救いを求めて仏教について調べていたわけですが、最終的に「21世紀の仏教徒になれ(よく勉強して人に優しくしなさい、それが修行だ)」という結論に落ち着きました。法王すごい。

悟りは遠いけれど、視界がひらけた感じがしました。思考が一段クリアになったというか。

心がぐちゃぐちゃになってしまったとき、思考が迷子になってしまったときに、この本の対談部分だけでも読むと良い薬になると思います。おわり。