れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

同性を愛することと自身を慈しむこと:『生のみ生のままで』

最近私がひたすらに考えているテーマが「いかにして自分を慈しむか」なんですが、

先日読んだ綿矢りさ『生のみ生のままで』は予想外の角度からこのテーマに一石投じる良作でした。

綿矢りさといえば私の世代にとってはもはやレジェンド作家であり、このブログでも度々感想を書いていますが、この作品もやはりとても面白くてなおかつ心に残る物語でした。

 

物語序盤、主人公の南里逢衣と荘田彩夏は同い年で二十代半ば、夏休みにそれぞれの彼氏に連れられて赴いた秋田の寂れたリゾート施設で出会います。

逢衣は正社員の携帯ショップ店員で、彩夏はブレイク寸前の女優でした。

逢衣に一目惚れした彩夏はしかし持ち前のプライドの高さで出逢った当初は逢衣にツンケンした態度をとっており、逢衣も彩夏の鼻持ちならない態度に内心憤りを感じていました。

しかしダブルデートで海に行った帰りに起きた激しい嵐と雷鳴の中を二人で凌いだ体験などから、二人はだんだん意気投合し、東京に戻ってからも友人としてつきあいづつける仲になりました。

逢衣が職場で毎週末やってくる粘着クレーマーに困っている所に、”西池袋のカナエ”というキャラクターに扮した彩夏がやってきて撃退する場面はめちゃくちゃ爆笑しました。ここだけでもまずは必読です。

 

二人で飲み歩いたりカラオケに行ったり、友達として仲を深めていった逢衣と彩夏でしたが、彩夏が彼氏の琢磨と別れ、逢衣が彼氏の颯と両親に挨拶に行き式場見学をした話をするところから二人の関係は一気に変わりだします。

逢衣の結婚間近な近況報告を受けて、彩夏は自分を保てなくなり、寝室で塞ぎ込んでしまいました。心配した逢衣が近づくと、彩夏は急に激しい情欲を逢衣にぶつけます。

友達だと思っていた彩夏にいきなり性愛の意を打ち明けられた逢衣は混乱し拒絶しますが、その後自分の中で彩夏の存在がどんどん大きくなるのを止められず、ついに逢衣は颯と別れ彩夏と付き合う選択をします。

 

このあいだの、彩夏と逢衣の葛藤はなかなか興味深かったです。彩夏も逢衣ももともと男性としか付き合ったことがなかったけれど、出逢った一瞬で彩夏は逢衣に恋に落ちたし、逢衣も彩夏の想いに何度も拒絶しながらも通じていくんです。この、異性愛しか知らなかった二人が、違和感を抱えつつ同性に惹かれていく過程というのは、私にとっては想像の域を出ないけれどもリアリティがちゃんとあって、きちんと心に迫ってきました。

 

この物語は長編で、単行本は上下巻に別れています。上巻の中でいちばん印象深かったのは、逢衣と彩夏が付き合い始めて同棲し、家庭用脱毛器で互いのアンダーヘアを脱毛し合うところです。

本当はサロンで全身脱毛したかった逢衣ですが、密室でほぼ全裸での施術となる脱毛に対して、エステティシャンに彩夏が嫉妬してしまうという理由から「互いに家で脱毛し合う」という結論に至った、という経緯が新鮮で面白かったです。

私の勤める会社では家庭用脱毛器の販売もしており、「こういうニーズもあったのか!」と目からウロコでした。

また、逢衣たちが互いのアンダーヘアを痛がったりじゃれ合ったりしながら脱毛し合う様子に、どこか”自尊心の筋トレ”としての美容を感じるところがあったのも興味深かったです。

 

異性である彼氏のために”キレイになりたい”と思うのと、同性である彼女のために”キレイでありたい”と思うことの間に、心の在り方の違いを感じました。

女性の感じる「可愛い・美人」と男性の感じるそれには明らかな違いがあり、同性パートナーである彼女のために美しくあろうとする姿勢は、翻って自分自身が美しいと感じる自分であろうとする気持ちにより直結している気がします。

「彼のために頑張るワタシ」には感情移入しづらいけれど、「彼女のために頑張るワタシ」には共感できるというか・・・私は別に同性愛者でも彼女持ちでもないんですが。同性である彼女を愛するという行為の中には、女性として自分を愛するということも内在している節があるなと思ったんです。実際の同性愛の方は全然違うかもしれませんが、少なくともこの物語を読んだヘテロの私はそう感じたという。

そしてそのことが、今の私にとってはとても尊く映ったんです。とても。

 

***

 

上巻の終盤、彩夏の後輩が隠し撮りを週刊誌にリークしてしまい、逢衣たちの仲は引き裂かれてしまいます。

芸能人としてまさに花開こうという時期の彩夏の将来を案じて身を引いた逢衣は、今は辛くともいつかまた一緒になれるという望みを捨てずに日々自己研鑽します。彩夏のツテで就いた出版社の契約社員の職に死に物狂いでくらいつき努力して正社員になり、筋トレや美容も欠かさず、いつか彩夏にまた会える日に備えて己を磨き続けました。

彩夏も極限まで仕事をこなし、一躍トップスターにのぼり詰めました。

 

人気絶頂だった彩夏が体調を崩し突然の芸能界引退を発表したのは、二人が別れてから7年の月日が経った頃でした。

彩夏の身を案じ手紙を書いた逢衣でしたが、彩夏からの返答は一切来ず、連絡を取り持ってくれたかつての彩夏のマネージャー伝いで「会うつもりはない」と言われた逢衣のもとに、彩夏の母親から連絡がきます。

もともと家族仲の良くなかった彩夏と母親でしたが、彩夏の病気による自暴自棄に手が負えなくなった母親から、逢衣は彩夏を託されます。

 

彩夏の母親から、彩夏の数少ない持ち物だというバスケットを渡された逢衣。彩夏の母親と別れてからその中を覗くと、そこには昔の逢衣と彩夏の写真がたくさん入っていました。

この場面でかなり泣きました。熱い熱いラブストーリーの中で、登場人物たちの苦しみというのは大きな山場で、ここはまさにその感情の波のピークでした。

もともとあまり写真を撮る習慣がなかった逢衣たちの、数少ないいくつかの記録。逢衣が自宅で料理している様子を彩夏が撮ったものや二人の自撮り、たまたま同じ招待状が届いて二人で赴いたパーティーでスナップされたツーショットなど、数種類の写真がそれぞれ何枚も何十枚も複製されてカゴに入っていました。

まだまだ一緒に過ごす時間はたくさんあるから、これから撮っていけばいいと呑気に構えていたのもある。こうなると分かっていたら、私は彩夏の一挙手一投足にシャッターを切っただろう。だから彩夏は同じ写真を何枚も複製するしかなかったのだろうか。

手に取ってつぶさに眺めたかったが、手がこわばり上手く動かせなくて、結局しゃがんでバスケットの中身を眺めていると、涙がぽたぽたと写真の上に落ちた。会えなくなれば思い出は増えない。何度も何度も擦り切れるまでかつての思い出を温め直すしかない。同じだけ孤独な年月を過ごした私には、彩夏の行為の意味が分かりすぎるほど分かる。

綿矢りさ『生のみ生のままで<下>』集英社 2019.6.30)

逢いたい人に逢えない苦しみというのを味わったことが私は本当になくて、それなのに(それだから?)私はこの手の悲しみになぜかとても弱くてすぐ泣いてしまいます。

 

”会えなくなれば思い出は増えない”というのも、とても重い言葉だと思いました。特に昨今の世界情勢では、オンライン会議ツールなど様々な工夫はできるものの、人に会うという行為のハードルがとても高い状況ですので、余計にそう感じるのかもしれません。

 

***

 

7年ぶりに目の前に現れた逢衣に、あなたとの縁はもう切れたと言わんばかりの冷たい態度で当たった彩夏にもめげず、逢衣はかつて二人で住んでいたマンションの一室を借り上げ、そこで彩夏とまた一緒に暮らしながら彼女の看病をします。

もともと高かったプライドを病に捻じ曲げられ気難しくなっていた彩夏を、根気強く支えながらひっそりと欲情する逢衣の様子が丹念に描かれていました。

 

いつか彩夏が元気になった時にまた愛し合えるよう身体を鍛えたり美容に気を使ったりする逢衣の様子も、だんだん病状が快方に向かい自分の美貌を取り戻そうと自分を磨く彩夏の様子も、互いへの愛と自分への愛が溢れているように感じてとても美しいなと思いました。

 

美容の尊さを近頃とみに感じている私ですが、健康というのはそれよりもっと手前の次元の話で、美容は健康という基盤がないと成り立たないものなのだと再認識しました。

 

 彼女は客観的に自分を見ているように語ったが、実際はとても怯えていた。あんなにも内側から湧き出てくる自信に裏打ちされて輝いていた人が、今では人目を気にして、ほとんど一歩も外に出られなくなっている。

病気や闘病は美とは違う次元の出来事だ。不本意にも自分の身体が病に蝕まれた場合、これまで享受してきた洗練や調和の取れた美しい世界からは一旦身を引いて、まずは健康に戻る努力から始めなければならない。しかし彩夏はその切り替えがどうしてもうまく行かずに、相変わらずの厳しい美意識で自己を見つめていた。そうなると彼女の基準値を満たせないのは当然で、彼女はどんどん身体と喧嘩して、身体を叱咤し続けて、あげく見放す気持ちにすらなりかけている。

彼女の自分の身体に対する態度には、正直腹が立った。私には彼女の身体しかないというのに、早々に見捨てたり、粗末に扱わないで欲しい。

(同上)

 

***

 

この作品はとても熱量の高いラブストーリーなので、自ずとベッドシーンも丁寧に描かれています。

BLの読みすぎとか同人音声作品の聴きすぎとかが影響して、今の私にとってセックスやエロというのは恋愛や性欲よりもお笑いやコントといったコンテンツに含まれる事象になってしまっています。

けれど逢衣と彩夏のセックスは愛欲の純度が高すぎて、茶化すこともできないほど体当たりで切実なものでした。「セックスって本来こういうものだったな」と正気に戻り、ちょっと反省しました。

生きている限り人間は何かを食べて、夜になれば眠る。生殖だけが目的ではないとほとんどの人が気づいているのに、なぜこの欲だけは”いつかは枯れる”と信じ込まれているのだろう。

いつかは燃えて灰になる。どれだけ息巻いて足掻いても、結局最後は骨しか残らない。今しか動いていない。ものすごく不遇な最期を迎える可能性も否定しきれない。百年後には間違いなく実在しない自分の手、彼女の手、みんなの手。この肉体を故意に苦しめる必要は、一体どこにあるだろうか?命は儚い。ただ愛とか栄光とか幸福とか友情とか、もっと儚いものが身近にありすぎるため忘却しているだけだ。

どんな退屈な毎日の連続でも、同じ場所には留まっていられない。絶えず時間を移動し肉体を衰えさせて確実に死に近づいていく。骨や灰や塵になる、それまでの短いひととき、なんで自分を、もしくは誰かを、むげに攻撃する必要があるだろうか。

(同上)

 私が物心ついてから、おそらく今が一番全世界的に命の儚さを感じるご時世だなと感じます。

東日本大震災に被災した時も、もっと個人的な事柄で、小学生の時に車に轢かれそうになった時や10tトラックに営業車で突っ込んだ時も、文字通り”死ぬかと思った”ものです。しかし地球上のどこにも安全地帯が無いことがこれほど明確な今、本当になす術がなく、ちょっとしたきっかけで死んでしまうかもしれないのだなとつくづく思います。

 

流行病があってもなくても、いつか死んでしまうという事実は泰然と全ての人の人生に横たわってるんですよね。だったら、やっぱり限られた時間は、それが数日でも数年でも数十年でも有限であることには変わりがないわけで、その限られた時間のなかで、私はできるだけ私を愛したいし、大切な人ができたらその人のことも愛したいし、誰だか知らない赤の他人でも攻撃するよりはやさしい気持ちで接したいなと、上記の独白を読んであらためて思いました。おわり。

『美容は自尊心の筋トレ』

多くの日本人に必要と思われる本が長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』です。

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

美容は自尊心の筋トレ (ele-king books)

  • 作者:長田 杏奈
  • 発売日: 2019/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

表紙の感じがぱっと見女性向けですが、男性にも読んでほしいと思いました。

 

美容ライターの著者が”この世に「ブス」なんていない”という全員美人原理主義の立場に立って、自尊心を育てるための美容のHow toから心も持ちようまで幅広くわかりやすく解説しています。

年々難しい文章を読むのが辛くなってきている中、この文章はとにかく読みやすかったです。ものすごい早さで読み終わってしまいました。

さらっと読めるけどとても良いことがたくさん書いてある、というか、いまの私に必要なことが凝縮された本でした。

 

私がこの本を手にとったのは何かの女性誌でオススメされてたのを目にしたからで、多分10代や20代前半の頃に目にしていても気に留めなかったと思います。

昔の私は今以上に自分に厳しくて、激しく高い理想を掲げて自分で自分を追い詰めていました。

当時の日記が今もEvernoteにとってあり、たまに読み返すと「君は何と戦ってるの」ってくらい「〜すべき」「〜してはいけない」の羅列があります。自分でたくさん条件やしがらみを作っていました。

思春期って潔癖なものだし仕方がなかったかなといまは思いますが、その頃の負の遺産が今もなお根深く残っているのです。その負債とは「劣等感」「無能力感」「自己嫌悪」です。

 

何においても「私なんて」「こんなんじゃダメだ」とずっと何かと一人相撲してきた10代〜20代のうちに、自分の価値をどうにも測れないというか評価できなくなってしまい、何に関しても自信が持てない状態がつづいているんですね。

悲観主義には防衛的側面もあるので、それでもいいかなと思っていたんですが、30代に突入していよいよ心身が持たなくなってきました。

この30年、死ぬほど長くて辛かった、ゴミみたいな人生だった、と思っていると、まだ目の前にいつ終わるかわからない人生が続いてるのがしんどくてたまりません。さらに、若い頃と違ってこのままだと自分がどうなるかなんとなくイメージが湧いて、それがまた地獄絵図で、ああだめだ、私はこのままだといよいよまずいことになる、もう生き延びられない、と毎日恐怖と絶望に苛まれて疲労困憊です。

 

私が今一番欲しいもの、それが「自尊心」でした。

「劣等感」「無能力感」「自己嫌悪」のフィルターがかかったヘッドセットを外して捨てて、「自尊心」を手に入れて見える世界を変えないと、いよいよ悲惨な結末を迎えてしまうだろうという恐怖がかつてないほど切実に湧いていました。本当に信じられないほど毎朝起きるのがしんどくて一日が長くて生きるのが辛いのです。

ずーっと欲しかった自尊心、でも何をすれば手に入るのか皆目見当がつかなかったとき、この『美容は自尊心の筋トレ』というタイトルが目に飛び込んできたわけです。

 

美容。

 

このブログでも書いたことがあるとおり、私にとって美容は「好きでもなければ興味も持てないけれど取らないと卒業のための単位が揃わないから渋々履修している教養科目みたいなもの」でした。

まさかこの美容が自尊心の筋トレになるとは!というか、自尊心って筋トレするものなのかと目から鱗でした。

 

何も、高い化粧品を買ったりコールドプレスジュースを飲むのが美容のすべてではなかったのです。そういうものは美容の本質ではなかったのです。

美容というと、たくさんの化粧品を買って、いろいろな手間をかけることのように思われがちだけれど、触れ方をやさしくして物理的な刺激を避けるだけでも、肌は変わる。

(長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』Pヴァイン 2019.7.17)

まずは肌に優しく触れることから始めてみることにしました。手のひら全体を優しく当てるか中指〜小指だけを使うといいらしいです。

 

***

 

著者の掲げる全員美人原理主義という考え方は、はじめはかなり極端に感じたのですが、噛み砕いて考えると「他人にやさしくする」と「自分にやさしくする」が表裏一体となった合理的なものの見方なのだと思いました。

顔立ち、体つき、内面、暮らし方や履歴などが複雑に絡み合って個性となり、紆余曲折を経てスタイルとして醸成される。コンプレックスは個性の種、スタイルのフラグである。もし、あなたを苛むコンプレックスがあるのなら、まずは心ときめく少しでもましなワードに言い換えてほしい。もし誰かが、本当のこと言ってやるよ顔でディスってきたら、その人はそれで自分を保っている or 生計を立てている、もしくは心が貧しく審美眼が未熟でセンスが寒い人なので放っておけばよい。意地悪にピントを合わせず、よきイリュージョンに包まれて暮らそう。

(同上)

コンプレックスをましなキーワードに言い換えるのはなかなか楽ではないですが、意地悪にピントを合わせないことは心がけ一つでできることだと思いました。

また、この一節を読んで思い当たったのですが、自分に非常に厳しかったこれまでの十数年間、私は他人に対しても常に厳しかったです。他人を断罪するのだから、自分も断罪されなければならない=私がこれだけ慎ましくしているのだから他人も同じくらい控えめであるべき、という、冷静に考えればはた迷惑なジャッジを誰彼構わず振り回してきたのです。

他人に向けた厳しい眼差しは翻って自分自身に返ってくるわけで、自分にやさしくしたいなら他人を見る目もやさしくしたほうがいいし、この二つは根本的に同じことなのだと改めて気づきました。

 

妬みや嫉みについても似たような構造が潜んでいます。

比べる気持ちや嫉妬を感じたら、心がザワつく対象を鏡に、自分を研究する。悪感情を自分を磨くチャンスにする。これに尽きる。

(同上)

「羨ましい」という気持ちの根底には「自分もそうなりたい」「自分も欲しい」という欲求が存在します。そこをもっと掘って「なぜ自分はそうなりたいのか?」「なぜ私はそれが欲しいのか?」と自己と対話することで、悪感情を自己研究・研鑽に変えるわけですね。なんていいライフハック、義務教育で教えるべきでは?とまで思いました。(もしかして道徳とかで教えてるのかも、私が覚えていないだけで)

 

自分に向けた矢印と他人に向ける矢印の関係を深く探っていくと、自尊心というものの本質が見えてきます。

自分の大切さやかけがえのなさの根拠を、他人に求めてはいけない。自分が大切な存在かどうか、相手の出方次第で決めるのはやめよう。(中略)酷かもしれないが、どんな日も易きに流れず、自分を大切にしようとする意思の最後のひと葉を守り、尊厳を投げ出さないように抵抗し踏みとどまってほしい。「あなたが期待通りにしてくれないから、私には価値がない」というのは、「私の期待通りにしてくれないから、あなたには価値がない」と背中合わせだ。これは恋愛に限った話ではなく、家族、友人、同僚、袖触れ合う有象無象の人々との関わりにおいても同じこと。自尊心は人間関係の基本だと私は思う。

(同上)

ビジネスの場にいると価値にお金が紐づいてることがほとんどなので、お客様の満足に繋がらない→売上が上がらない→価値がないという場合は往往にしてあると思います。期待される仕事が果たせない→価値がない、とかも、確かにある。

けれど、ビジネスではなく純粋な人間関係、人間存在について言及する場合の価値については、確かに著者の言う通りだと思いました。ここのところ仕事での売上のことばっかり考えてたので、価値と言うものをすごく狭くとらえていたことに気づき反省しました。価値という言葉には、ものすごく幅広い意味が内在しているんでした。

 

***

 

本書の終盤では世の女性像の窮屈さについて悲痛な叫びが満載でした。

私がこれまで美容をどこか毛嫌いしていた原因の大部分はここにあります。悲しいことですが、本来純粋に自尊心の筋トレであるはずの美容が、いらない尾ひれがたくさんついた禍々しいものに感じられるのは、社会に長年深く根ざしている”「女」の呪い”のせいです。

この問題については、二階堂奥歯氏の下記のエントリが私は一番的を射ていると思っています。

oquba.world.coocan.jp

oquba.world.coocan.jp

生物学的に女である現実の人間の子供・女の子と、女の子と良く似た身なりの空想上の妖精のような文学的存在である「少女」。

女の子が成長した現実の成人・女と、「少女」が成長した「女」という概念。

 

観念的存在で現実には存在しない「女」の真似事を身に纏わないととやかく言われる社会生活というのは本当に窮屈です。

その「女」の真似事に美容が多く含まれるので、私はそれがずっとモヤモヤして嫌でした。

男性は勿論、同性である女性にだって「女ならみんな普通キレイになりたいでいたいでしょ・若くありたいでしょ・モテたいでしょ」みたいに言われるのは本当に苦痛です。このご時世そんなこと言われないだろうって思いたいですが、全然言う人いますよね。多分私も仕事上止むに止まれず使ったり、無意識のうちに言っちゃうことあるかもってレベルで、物心つく前から刷り込まれているのです。知らずしらずのうちに。

 自分の「普通」が、地図で行ったらどのあたりにまで通用するもので、データで見たらどのくらいのパーセンテージのものなのか。多様な価値観をすり合わせながら共生するこれからの時代は、自分の中の普通や常識をアップデートし、みだりに他人に押し付けないデリカシーこそ大切だ。

(長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』Pヴァイン 2019.7.17)

 

「女」の呪いの延長上に「若さ」の呪いもそういえばあったなと思いました。

まあ、若さは物理的(肉体的)な自由度が違うし、やっぱり若さ特有の美しさというものはあると思います。何事も遅すぎることはないといいつつ、早いに越したことはないこともいっぱいあります。

けれど、誰しも同じ尺度の時間の流れの世界で生きているので、若さだけに絶対的価値を置くとやはり全員詰んでしまいます。

いくら本人が「人間の価値は年齢ではない」と信じていても、婚活や就職など社会との関わり合いの中で扱いを変えられ、「年齢で価値が下がる」と傷つく場面はすぐにはなくならないだろう。ときには「これが現実なんだ」と心が折れるかもしれない。けれど、社会という大きなものは変えられなくても、自分や他人に向ける眼差しを少しずつ変えることはできるし、まずは自分の意識を変えないとその上に築く現実を変えることはできない。

(同上)

”若さ信奉の呪縛”から自分や他人を解放するのも、つまるところ意志の力ですね。

ネガティヴは感情、ポジティヴは意志。つくづくこれだなぁ。

 

「女」の呪いと若さ信奉の呪縛に対抗する、最後の著者のまくし立てがとても面白かったです。

女を捨てる、女を忘れる、女として見られない、女じゃなくなる。四十路の先を見渡せば、年齢に絡めて「女」か否かを問う脅し文句が、銃弾のように飛び交っている。そういう脅し文句は、美容とも親和性が高い。(中略)年をとってもセックスや恋愛をしているか、生理があって女性ホルモンは分泌されているか、愛し愛され、膣は程よく潤っているかなどで、女の合否を断じたり、焦りを植えつけられたくない。お金を払ったり特定のサービスを受けなければ、女でいられないなんて、そんな軽いものではなく、もっと根源的なものだ。こちとら女の体に生まれたら、ほっといても死ぬまで生物学的には女。以上、と宣言したい。

(同上)

「男を捨てる」「男を忘れる」という表現は(別の意味ならともかく)上記のような意味で使われることは確かにないなぁ、とはたと気づきました。やはりこの「女」幻想問題は根深いですね。

 

***

 

なかなか一日二日で自尊心が芽生えることはないですが、気長にこの本のTipsを実践しながら、少しでも生きづらさが減るといいなと思います。

また、文化的な背景もありますが、日本人は特に自尊心が足りないことが男女ともに多いと常々感じます。自尊心が足りないということはイコール自分にも他人にも厳しいということで、それがこの社会の閉塞感の大きな一因となっていると改めて思い至りました。なので、私と同じように八方塞がり感を抱いている人に一人でも多く読んでほしいです。それで少しでも心持ちが穏やかになったらいいなと思いました。おわり。

子供のいる世界といない世界:『ここは私たちのいない場所』

先日30歳になりました。三十路。まさかこんなに生き延びるとは・・・って感じです。

30歳になってもまだ知らない素敵な作家さんが、物語がたくさんあるものです。

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

ここは私たちのいない場所 (新潮文庫)

  • 作者:白石 一文
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/08/28
  • メディア: 文庫
 

本当になんの気なしに手に取った作品だったのですが、枯れきった今の自分にとても寄り添ってくれる作品でした。

 

主人公は大手食品メーカーで40代にして役員にスピード出世している独身男性・芹澤です。彼は哲学者の父と有名な画家の母の間に生まれ、5歳の時に2つ年下の妹を病気で亡くしています。芹澤にとって妹の死は大人になった今でも心に大きな影響を与える出来事として描写されてるんですが、妹の死に対する芹澤の被害者意識がうざったくて、さらに芹澤自身もかなり自分勝手な性格なので、それがかえって湿っぽくならず物語全体をピリッと乾燥させるいいスパイスになっていました。

 

会社の社長にも気に入られ独身貴族として順風満帆だった芹澤ですが、部下の不祥事に巻き込まれ、周囲が止めるのも聞かず自ら辞職します。

父の遺産もあり、職を失っても金に困らない芹澤が羨ましいったらありゃしなかったです。いいなぁ。私も仕事辞めて料理したり映画観たりしたいです。

 

仕事を辞めた芹澤の日常と、彼の過去がかわるがわる描かれていく中盤、かつて役人に就任した頃「サザエさん症候群」ないし「ブルーマンデー症候群」に罹っていた話が出てきます。仕事の付き合いで行った銀座のクラブで出会った女性・香代子との会話が気になりました。

香代子にどこか心安さをおぼえた芹澤は、最近症状がどんどん酷くなるサザエさん症候群について香代子に相談します。香代子のアドヴァイスは「あの頃に戻りたいな、と思えるような過去を思い出す音楽を聴くこと」でした。そんなことで症状が改善するのかと訝しげな芹澤に、香代子は優しくさとします。

「そんなふうに心が参ってしまったときは自分自身に治してもらうのが一番なのよ。 というか、自分の心は自分にしか治せないの。病気や怪我だって実は同じなんだけど、心は特にそうなのよ。でも芹澤さんの心は弱ってるから、いまの自分に治してもらうわけにはいかないでしょう。だから、過去の自分に会いに行って、その人に治してもらうしかないのよ」

白石一文『ここは私たちのいない場所』新潮文庫 R1.9.1)

この香代子の音楽療法が効くかは別として、「自分の心は自分にしか治せない」というのは真実だなぁとハッとしました。忘れていたわけではないですが、心が沈めば沈むほど、何かに縋りたい、何かに救いを求めたい気持ちが湧き出てしまうので。

香代子の言う通り、自分の心は自分にしか治せないんです。向精神薬も、カウンセラーも、誰かの愛も、自分の心を治すことはできないんです。

過去の自分、と聞いて真っ先に浮かぶのは中学3年生〜高校1年生くらいの自分です。ちょうど今までの人生をフルで考えると折り返し地点の頃。あの頃よく聴いていた音楽といえば、椎名林檎東京事変ショパンレッチリ、ラブサイケデリコとか・・・?確かに最近聴いてないけれど、気が向くとたまに聴くし、聴いたところで別に回復はしないんですけどね。

 

***

 

芹澤が辞職に至った不祥事をおかした部下の妻・珠美はこの作品のメインヒロイン的存在です。別に恋物語ではないんですが。

ニートラップ的に芹澤を貶めたものの、結果的に自分の思うような結果を引き出せなかった珠美は、看護師の母に女手一つで育てられた美人さんです。子供はいらない、働くのが好きではない珠美は土地持ちの次男と結婚し、夫の経済力に寄生して生きていた専業主婦でした。珠美の母・虹子が東京に出てきた際、虹子は娘の悪行を詫びたいと芹澤にアポイントを入れてきます。

新橋の喫茶店で話し合った芹澤と虹子。最後に娘の不始末を謝罪するために、虹子は何かのためにと貯めてきた一千万円を賠償金として芹澤に差し出すんですが、芹澤はそれを突き返します。その時の一言が、三十路独身女性の私には澱のように心の隅に静かに沈み滞留しています。

「だったら、このお金は珠美さんにあげて下さい。一生、誰かの経済力に寄生して生きていくなんて、それほどつまらない人生はありませんからね」

(同上)

誰かの経済力に寄生して生きているのは私のハハです。彼女は離婚してもなお前・夫である父の経済力に寄生して生きています(父だってさほど経済力ないのに)。

ハハの生き様は見ていて虫酸が走り、なおかつ羨ましい気持ちもどこかにあって、その座りの悪さもあって私はハハに会うのが本当に苦痛で嫌いなのでした。

 

見方によっては、今の私は自分の経済力で生きているのかもしれません。家族を持たず、自分で働いて得た給与で暮らしているので。

けれど、この生き方は会社に寄生しているともいえます。好きでもない人たちと、興味のない事柄について話あい、誰でもできるような作業をし、適当に時間を潰しているだけの、人生の切り売りが私の今の就業実態です。婚活もしなければ独立もせず、一番手に入りやすかった会社という寄生先を見つけて、そこでだましだまし生きているだけなのです。

つまらない人生と言われれば、「その通り」としか言いようがない、そんな人生です。

どうせ寄生するのなら、会社なんかよりお金のある男の人の方がいいんですが、それだと男性側にメリットが一つもないんですよね。。

 

***

 

芹澤の大学時代の同級生・奥野が癌で死んでしまうところも示唆に富む描写がたくさんありました。

所属していた映画サークルでマドンナ的存在だった成宮。彼女は告白してくる男子と一回だけ次々デートしてはふるということを繰り返していましたが、そんなモテモテの成宮が恋人に選んだのが奥野でした。

例に漏れずフラれた男のうちの一人となった芹澤の回顧。

 成宮は誰かに好かれるのではなく、誰かを好きになるのを欲していたのだ。そのことに気づいていながら彼女への好意を秘匿できなかった私は未熟だった。

(同上)

全然違うのですが、先日読んだ山田詠美「MENU」に出てきた麻子を思い出しました。なんでだろう。

最近とみに思うんですが、「好かれる」って面倒ですよね。好きな人にすらそんなに好かれたいと思わなくなりました。要は、他人の感情なんてはなから自分の意思でどうこうできるものでもないし測りきれないわけで、そんな制御不能なエネルギーが自分に向けられたらせいぜい振り回されるのがオチです。今の気力のない萎れた心身では。

きっと成宮のように物心ついた時から膨大な好意を向けられてきた人は、凡人より早くその疲労の境地にたどり着くんでしょうね。

 

***

 

珠美の女性に対する優れた洞察と、それを受けた芹澤のイラっとする返し。

「(前略)結局、女同士ていがみ合ってるわけで、そんなの馬鹿みたいだって思ったの。私たち女っていつも仲間割ればかりしてるでしょう。男のことでもお金のことでも子供のことでも、それに仕事のことでもね。結局、小さなことに対する執着が強すぎるのよ。視力のいい人みたいに近くのものが見え過ぎて、遠くを見る習慣が身についていないのかもしれない。(中略)」

「それは当たってると思うね。(中略)女性が仲間割れするのは、男に比べると若い時期に時間がなさすぎるのと、容姿という生まれながらの絶対的格差のせいだろうけど、ただ、きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能だと僕はいつも思うね」

(同上)

女性が”遠くを見る習慣が身についていない”というのは実感として私も頷けます。それに対して芹澤よ。若い時期に時間がなさすぎる?容姿という生まれながらの絶対的格差?そんなもん男性だって一緒じゃないですか。なぜ女性が遠くを見通す習慣がない理由をそこに帰結させるのだ?さらにはこんな支離滅裂な論理に重ねて「きみたち女性が団結していかないと、この男社会を変えるなんて到底不可能」ののたまうこの神経。つくづく憎たらしい男だと思いました。

 

けれど、この憎たらしさこそが芹澤という男のリアリティでもあるのです。独身貴族で達観してて、さらに女性の心情にまで理解があったら、そんなスーパーダーリンは文学にならないんですよ。せいぜいラブコメ漫画のヒーローです。この腹立たしさこそが、実在しそうな大人の男性そのものなのです。

 

***

 

珠美は自分のせいで無職になった芹澤のこれからのことを度々気にかけるのですが、芹澤の返答はいつも要領を得ないのでした。

この数ヵ月、今後の人生設計に思いを馳せても何も考えつかないのだった。やりたくないことは山ほどあって、起業などはその代表選手のようなものだが、さりとてどうしてもやりたいと思うことが何一つ浮かばなかった。

(同上)

芹澤みたいにお金に困らず家族のしがらみもない悠々自適な人でも、やりたいことが何一つ浮かばないと、なんだか死んでるみたいだなと思いました。さっき腹立たしいと言ったばかりの芹澤に、この描写で一気に感情移入してしまいました。

 

***

 

大学の同級生・奥野の葬式の少し後、同じく同級生で南米に単身赴任していた里中が帰国してきて芹澤と二人で飲んだ時の話もすごく良かったです。

芹澤と同じく若くして出世街道に乗っていた里中でしたが、駐在先で勤務中に乗ったセスナが墜落するという事故に遭いました。間一髪で軽傷で済んだ里中でしたが、この時の経験が出世を捨ててでも日本に戻り家族と一緒にいたいと願うきっかけになったと言います。

「ああいうとき、人間は何も考えられないんだって身に沁みて知ったよ。両方ともエンジンが止まってるのが見えて、現に飛行機が地上に向かって落ち始めているっていうのに、自分が死ぬとは思えないんだ。いま起きていることが現実かどうかが分からないって感じだった。(中略)結局、人間は、自分が死ぬのかどうかの判断がつかないまま本当に死んじまうんだよ。今回、俺はそのことを痛感したよ」

(同上)

これもリアリティが強い表現だなぁと感服しました。東日本大震災で揺れまくるマンションのベランダから街を見下ろしたあの瞬間を思い出しました。体験したことない大きな揺れで、マンションが折れるかと思うほどだったあの瞬間、「死ぬかも、人生終わるかも」って本気で頭によぎりましたがどこか現実かどうかわかならい感じもあり、里中の一言一句そのままの実感でした。

そして里中は「出世なんかしてる場合じゃない」と帰国を決意したそうです。ほんと、そうですね。

 

しかし、里中の言い分も理解できるけれど、どこか違和感が残る芹澤は、その後病院の廊下でよその赤ん坊と対峙しながら、違和感の正体を言明します。

二日前、里中は言っていた。自分の人生を取り戻すために日本に帰るのだと。大事な親友を失っても葬式にも駆けつけられないような、妻や子供たちと一緒に暮らすことさえできないようなリオデジャネイロでの独居は、自分の人生にとって無意味だとようやく気づいたのだと。だから彼は、上層部に直談判までして帰国の段取りをつけたのだった。

だが、私自身は、そうやって彼が生きる意味を見出すことのできなかった、まさにその世界でいまも生きているし、これからもずっと生きていかねばならないのだった。

私には妻子もいないし、親友の葬式に出られないことを悔やむ気持ちもなかった。遠隔地にいることを理由に奥野の葬式をパスできた里中が羨ましかったくらいだ。

(同上)

大共感、でした。この、自分自身でさえ生きる意味を見出すことのできない世界で生き続ける孤独。読みやすくわかりやすく心に刺さる、素晴らしい文章だと思いました。

 

芹澤は(そして私もそうだと気づいたんですが)、誰かに頼ったり頼られたり、何かに依存したりされたりするのが嫌な人間なのでした。仕事を辞め、自己を顧みて、いろんな人と対話する中で、彼はその一つの真実を改めて眺めるのです。

人を助けるという行為も一時的なものでなくてはならない。

のべつまくなし特定の人物の手助けをしていれば、結果的にその相手に依存することにつながる。事情がどうであれ、その特定の相手を助け続けなくては自分の気持ちが落ち着かなくなってしまう。まして家族のようなある種の運命共同体に身をゆだねるのは願い下げだった。仮に他人と一緒に生活するとしても、夫婦という単位が限界だと感じている。

人と共に生きても、人間は決して強くはなれない。

ずっとそう考えてきた。

(同上)

これはもはや格言ですね。「人と共に生きても、人間は決して強くはなれない」。一生忘れないようにしたいと思いました。

 

これまで、私の周りの大人たちは、皆家庭を持ちたがったり、もしくは持っていたりする人ばかりでした。私がどんなに子供を持たない決意を表明しても、家族というものに良さを見出せない旨を話しても、「今はそう言っているけどいずれ気が変わるよ」というようなことを必ず言われてきました。

けれど最近、私のような考えを貫いて中年になった人が何人か周りに現れ始めて、私だけが特におかしいわけではなかったのだとどこか安堵しました。

100パーセント同じ考えや論理でないにしても、似たような倫理観や死生観から「一生子供を産まず、家庭を持たない」と決めて独りで生き続けている人がいる。その事実は、自分の面倒をひたすら自分で見なければならない疲れる人生に、小さな飴玉みたいな気安さを添えてくれるのでした。

 

文庫版に添えられた解説は編集者の女性の文章で、彼女もまたそんな一人でした。

多くの親が、子供により無常の喜びと幸せを感じていると同時に、その真逆で、我が子の存在により、すべてを奪われ、苦しみ、最後にはお互いに殺し合うような形で人生を終える親もいる。私は「産まなかった後悔より産んでしまった後悔の方が怖い」と、子供のいる世界に入ることを拒んだのだ。

それは、大人だけの世界で生きていこうと決めたことになる。いずれそれは「老人だけの世界」にもつながるわけだが、覚悟はしていた。

(「解説」中瀬ゆかり 同上)

よく”やらないで後悔するより、やって後悔した方がマシだ”みたいな言説がありますが、出産は真逆ですよね、ほんと。産んでしまった後悔は、ゾッとするほど取り返しがつかない後悔だと思います。産まなかった後悔はありふれているというか、私の場合多分しなくて済みそうですけど。

 

それにしても、大人だけの世界かぁ。確かに、よく考えてなかったけれど、私もいつの間にか大人だけの世界で生きていこうと決めていたみたいです。ほとんど無意識に、なんの躊躇もなく。

でも老人だけの世界に行く前に、消えてなくなりたいとも思うのでした。おわり。

人間の嫌なところ、に共感:『妻の超然』

クスッと笑えて、ちょっと切なく、どことなく怖い中編集にであいました。

妻の超然

妻の超然

  • 作者:絲山秋子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/04/12
  • メディア: Kindle
 

絲山秋子さんの作品は半分〜4分の3くらい読んでるかもしれません。

小田原とかつくばとか群馬とか、日本の地方の描写がとても優れた方だと思います。

 

一話目の表題作「妻の超然」は四十代の専業主婦・理津子が夫の浮気を一定の距離を保ちながら静観しつつやきもきするお話でした。

三島由紀夫のコメディ並みに笑いました。そして比喩がとてもよかったです。

たった十年でこれだ。結婚なんて家電と変わらない。なのにまだ二十年だか三十年だか生きるのだ。壊れた家電同士の夫婦が、だからといって捨てるわけにもいかないで並んでいる埃だらけの棚の隅、それがこの家だ。

絲山秋子「妻の超然」『妻の超然』新潮文庫H25.3.1)

壊れた家電同士って、的確すぎてめちゃめちゃ笑いました。

 

私にとって”専業主婦”というのは世界七不思議の一つです。専業主婦というあり方が、どうやったら成り立つのか実に不可思議なのです。

子供がいるならまだしも、理津子は子供もいません。家事しかしない妙齢の女性を養う夫の文麿とは、一体何を思って離婚をしないのか、本当に理解ができないのです。(炎上しちゃいます?)

お金を稼ぐでもない、愛してもない、セックスもしない他人と一緒に暮らすメリットって、一体なんなんでしょう?世間体とかですかね??子無し専業主婦になるためには一体何をしたらいいんでしょう。なってみたいです、心の底から。

理津子もおそらく私と同じような疑問を抱いていると思われる場面があります。

文麿・・・・・・カネヅル  文麿・・・・・・風邪ひかない  文麿・・・・・・浮気性  文麿・・・・・・ぼんぼん  文麿・・・・・・退屈  文麿・・・・・・一番近い他人  文麿・・・・・・じゃあ文麿が私に求めていることって、何?

文麿の求めていることがわからない。

(同上)

やっぱりわからないんです。子供もない、愛してもないしセックスもしない、家事はかろうじてするが仕事はせず稼ぎもない、そんな年上の女性と一緒に暮らす男性って、一体何を求めているのでしょうか。

 

理津子は街中で謎のストーカー男に遭遇し悩むのですが、ストーカー対策を相談した妹の義母である「舞浜先生」の指摘が実に的確でした。

「女って、自分が興味ない男にはものすごく厳しいわよね。りっちゃんもさ、それが自分の好みだったら、三日くらいいい気分でいられたのにね」

「そんなこと絶対ないって。ほんとにすっごく嫌。消えてほしい、あの男」

「はははは」

ああ、舞浜先生もあてにならない。

(同上)

「自分に興味ない男に厳しい現象」って本当によくありますよねぇ。男の人は違うのでしょうか?

全然違うんですが、最近不倫騒動で話題になった東出昌大さんを思い出しました。東出さん、強烈にバッシングされてるの見ますけど、あれって攻撃的なのはさほど東出さんに興味ない女性たちですよね、多分。

私は以前書いたように東出さん割と好きだったので、唐田えりかさんに同情してしまいました。若い頃にあんなイケメン既婚者がモーションかけてきたらのってしまうよなぁ、と不憫に思わずにはいられないというか。

 

綾小路きみまろ的な面白い一説も印象的でした。

文麿が出かけているとき、理津子は北側の部屋のドアに指先で「ぴんぴんころり」と書く。

舞浜先生と一緒にどこかの神社に行っても、絵馬に「ぴんぴんころり」と書く。

自分がぴんぴんころりだっていいわけだが、できれば文麿が先に逝った方がいい。長患いすることなく、ころりと逝って欲しい。

「あーあ、死んじゃったよ」

心の中でぼやいてみたい。弔問に来る人々を見て、少し嬉しい自分の心を抑えて見たい。

(同上)

この文章を読んでから、「ぴんぴんころり」が座右の銘になりそうな勢いです。読んでた通勤電車の中で声出して笑ってしまいました。

 

***

 

二話目の「下戸の超然」は、地方都市で働くお酒の飲めない男性・広生が、同じ職場で趣味が同じ女性・美咲と恋仲になり、それが終わる、少しもの哀しい話でした。

 

ぱっと見地味で控えめそうな美咲と、パズルという趣味で仲良くなった広生。付き合ううちに彼女が海外の恵まれない子供たちのためのボランティア活動をしている事を知り、立派だと感じながらもどこか居心地の悪い感触を味わいます。

僕はその、他人へのむきだしの善意と、社会へのむきだしの悪意の前で不安になる。善意には際限がないようでおそろしい。

悪意というものは怒りと同じでモチベーションを保ち続けるのがおそろしく難しい。ところが善意というものは、ときには人を傷つけながら、人の自由を侵害しながら、イナゴの大群のようにすすんで行く。

絲山秋子「下戸の超然」『妻の超然』新潮文庫 H25.3.1)

確かに、悪意が怖いのはもちろんですが、善意も迷いがないとなんだか怖いよね、とハッとしました。

このちょっと倒錯的な善意の真意を正確に言い当てる描写がありました。

彼女は、彼女たちは、不幸な子どもたちのためには「自分しかいない」と思っている。「自分だけができること」と思っている。それは彼女が今なお、誰かに頼りたいことの裏返しではないか。自分がして欲しいことを人にしている。そうやって結局は自分を支えている。

(同上)

人間って、どうして自分の気持ちをすぐに裏返したり置き換えたりしてしまうんでしょう。口があるのに、言葉があるのに、それを信じられずに裏返してわかりづらくしてしまう。

昔大学の臨床心理学の講義でよく出た例ですが、思っているのに言えないことを自分の内部に溜め込む人はしばしば嘔吐するそうです。

言いたいことを言葉で吐き出せないから、代わりに食べたものや飲んだものを吐き出してしまうんだそうです。

そんな置換、自分も他人も嫌な気持ちになるだけなのに。つらいだけなのに、それでも言葉にできないなんて、なんて悲しくて生きづらい世界だろうと思ったものでした。

 

***

 

三話目の「作家の超然」は、独身女性作家・時子が、悪性腫瘍を摘出する手術を受けるにあたって入院する話です。

 

時子が何度も読み返す外国文学について言及する場面が身に沁みすぎました。

「コレカラ何年自分デ自分ノ面倒ヲミナケレバナラナイノカシラ」

お前はそれを読んで呟いた。

「これは、私のことだ」

絲山秋子「作家の超然」『妻の超然』新潮文庫 H25.3.1)

ソール・ベローの著作「黄色い家」という作品で、実在するようなのですが私はまだ読めていません。それでもこの一節、今時にいうと「わかりみが深すぎてつらい」って感じですね。

前の職場でお世話になっていた46歳独身女性上司がよく言っていたのを思い出します、「自分で自分の面倒見るのが本当に疲れた」。

ほんと、あと何年(何十年?)自分を養い自分の面倒を見なければならないのだろう、と、ことあるごとに途方もない気持ちになります。

しかしその一方でこうも思うのです。

一人で生きて一人で死んで行くことはもっとさびしいものだと思っていた。

だがいつからか、一人でいることにさびしさなどというものは全く感じなくなった。

誰かと一緒になって生き別れたり死に別れたりそばにいたまま心が離れていく方がよほどさびしい。

孤独死を発見する人は不快でつらいだろう。だが、本人にとってそれは本当に悔いの残る死に方なのか。孤独死とはある意味自然死だ。そのときになってそれを受け入れられるか、悔しく思うかはわからない。

(同上)

ちょうど先日仕事終わりに独身年上女性とサシで飲む機会がありました。

彼女は私と同じ一人っ子の四十代ですが、私と違って家族を大事に思う質のようで、自分の親と飼い猫よりは早く死ねないとか、老後に入居予定の独身用老人ホームの準備とかをきちんとしている人でした。

私はそんな行動力もお金もなければ、血族や他人への迷惑もかえりみない質なので、死んだ後のことなんてどうでもいいとしか思えませんでした。

 

さびしさを「まったく感じない」という境地には至っていませんが、「仕方のないことだ」と受け入れてじっとするくらいには私も年を取りました。今更他人と積極的に関わって、さびしさを蹴散らそうとは全然思いません。そんなのはひどい自己欺瞞だとすら思います。

 

もう一つ興味深い描写がありました。

そこそこ売れっ子作家となった時子に近づいた男性たちの変貌についてです。

「ある日突然、恋人であるはずの男の汗ばんだ肌は夏の満員電車で触れた他人の感触になっているのだった。野菜や、牛乳や、豚肉のように、恋人は突然受け入れがたいにおいを発しはじめる。

彼らは思うのだ。私という人間に飽きた瞬間から考え始めるのだ。地位とか名誉とか金とか名誉とか地位とか金とか地位とか名誉とかを。

処理しきれない欲望は結局そこへ向かうのだ。

俺なんかみたいな男とつき合ってくれて、俺は自慢だけれど、でも俺なんか俺なんか俺なんか。

彼らの自尊心は結局彼ら自身を貶め、傷つけることにしかならない。自慢が妬みへと変わっていくのはバナナが腐るのと同じくらい、わかりきったことなのに、どうしてそれを自制できないのか」

(同上)

自分より稼いでる彼女or妻をもった男の人のねじれプライド問題。とても素晴らしい表現だと思いました。

私は自分があんまり稼ぐ人間でないので、自分より社会的弱者の男性と関わった経験はほぼゼロです。

女性である自分が低く見られる分には(ジェンダー的にイラっとすることがあっても)慣れっこで特段傷つかないのですが、男性はどうやら一筋縄ではいかないらしいというのをよく見聞きします。ただ、見聞きするだけで実感がないのでどこかファンタジーめいているのもまた事実です。

この一節を読んで、いつか社会的強者になってバナナが腐るように不貞腐れていく男性を眺めてみたいなぁ、なんてかなり悪趣味なことを夢想したりしました。

 

***

 

読んだ中で自分の心に引っかかった場面を掘り下げて書きましたが、こうして読み返してみると、私はこういう、一般的に目を背けがちな「人間のみっともない心の湿り気」のようなものに心惹かれるようです。性格悪いですね。

絲山さんはそういうじめっとした嫌な情感を、何倍も湿度を上げてみたり、逆に面白おかしく乾かしてみたりするのが非常に上手い作家であり、その技量に十代の頃から心とらわれているのだと、今回改めて実感しました。おわり。

存在を消すために心を砕く

お正月休みですっかり緩んでリラックスしていたのに、あっという間に仕事に飲み込まれ殺伐とした日常生活がやってきて、相変わらず冴えない人生を送っています。

 

久しぶりに山田詠美さんの小説を読みました。

姫君 (文春文庫)

姫君 (文春文庫)

 

初版は2001年の9.11よりも前に出版されたんですね。すごい。

短編集でどれも面白かったですが、私が特に好きだったのは1番目の「MENU」という物語です。

 

主人公の男子大学生・時紀は、幼い頃に母が自殺して、善良で裕福な伯父の家に引き取られ、これまた善良な血の繋がらない兄・聖一と、蠱惑的な妹・聖子といった家族の中で独自の成長をとげます。

 

文庫版の解説が金原ひとみさんで、彼女が昔好きだった男性がこの時紀にそっくりで嫌な男だった、というようなことを書いていました。

時紀は多分見目麗しく理知的で、女の子には不自由してなくて、どことなくシニカルで意地悪で性格が悪い男の子です。きっと身近にいたらすごく嫌な奴だろうなと私も思います。

けれども不思議と読後感が悪くなくて、それでいていつまでも心に残っているのです。

時紀は女の敵みたいなクズな男なんですが、どうにも共感せずにはいられない。時紀の思想は自分にも通ずるところがあるというか、私がうまく表現できなかった自身のあり方を、的確に体現してくれていたんですね。

ぼくは、母に感謝してもいる。彼女は、死ぬことによって、ぼくに、その先の指針のようなものを与えてくれた。人に必要とされてしまったら、死ぬ自由すら手に入れることが出来ないのを教えてくれた。そして、ある人間を必要としてしまったら、その人の自由を奪ってしまうことも。ぼくは、生きるのが楽だと思いたい。記憶は溜まって行くが、そこに何の不純物も付随させたくないのだ。

山田詠美「MENU」『姫君』文春文庫2004.5.10)

「記憶に不純物を付随させたくない」というのは、若さ特有の潔癖さも感じますが、人に必要とされることに一種の恐怖や嫌悪を感じる気持ちはすごくわかるなぁと思いました。

 

時紀の大学のクラスメイトの女子・麻子と、時紀の兄・聖一が付き合うようになって、時紀は心のバランスを少しずつ崩していきます。

麻子は時紀にとって他のどんな女とも違う、存在しない幻の弟みたいな存在でした。他の女のように時紀に惚れず、求めず、しかし言葉を正しく交し合える、きちんとした共通言語をもつ友人でした。それでいて好きでも嫌いでもない、しかし深いところで一種の支えになっている独特の存在でした。

そんな麻子が思いやりの化身みたいな聖一と付き合い、少しずつ変化していく。静かに反発する時紀に麻子が言い放った台詞がこの小説の中で一番好きです。

「言ったじゃない。トキと私は、まったく違うって。あんたは、存在を消すことに一生心を砕く人。私は、誰かのために存在したいのよ」

(同上)

ああそうか、と自覚しました。私は誰かのために存在するっていうのが耐えられないのだと。

 

麻子は終盤、苛立った時紀に犯され、妊娠して聖一と結婚します。

時紀の子なのか聖一の子なのかは明らかになりませんが、麻子は「これで自分は一生誰かのために存在できる」というようなことを言って、時紀に礼を言いました。

 

私が子供を絶対に産まないと言っているのは、生まれてくる子供が不憫だからということもありますが、自分が誰かのための存在になってしまうのが嫌だからという理由もあったんだなと、この物語を読んで思い至りました。

 

時紀の兄・聖一は穏やかな人で、時紀がショッキングな事情で自分の家に引き取られてから、本当の兄弟のように接しようと、時紀の本当の家族として心の拠り所となれるよう心を砕いていました。聖一は育ちの良さが爆発したような本当に気遣いと思いやりが服を着て歩いているような人です。

こんなにいい人なのに、どうにも斜めに見てしまう私(と時紀)は、やはり思考が歪んでいるんですかね。

「出ましたね、セイ兄の気づかい」

「そうじゃないよ。ぼくは、彼女の喜ぶことがしたいだけなんだって」

聖一は、真剣さを滲ませて言った。彼は、いつも自分の中で他人の幸せを構築する。

(同上)

”自分の中で他人の幸せを構築する”。なんて的確な表現でしょう。さすが山田詠美さん、とうなりました。

たとえ本当に自分が幸せを感じる事柄だったとしても、私以外の人間が、私の幸せを自分の中で勝手に構築していた結果だとしたら、私は気持ち悪いと思うし拒絶したいと思ってしまいます。

なんせ、存在を消すために心を砕いているような人間なんですから。

私は生まれてしまった事実を諦念とともに受け入れ、手に余るこの自分の存在というものを、自分のため以外には使いたくないのです。

 

存在なんて、本当はしたくない。

けれど、もう存在してしまっている。私の意に反して。

そして存在を消すことは難しく、死ぬのは痛そうで怖い。

だからせめて、どうせ存在してしまっているのなら、自分だけのために存在したい。

他の誰のためにも在りたくない。

そう強く思いました。

 

***

 

自分の意に反して存在してしまったことについて、最後に収録されていた「シャンプー」という話の一節が痛快でした。

両親が離婚した小学生のおませな女の子の独白です。

つまり、ある時期、この二人は同類だったのだ。私は、小学生で、そのことを悟ってしまったのだった。私の両親は、私を作成した時、二人共、馬鹿だったのである。

以来、私は自分のルーツに思いを馳せるのを止めた。ただでさえ、私は忙しいのだ。両親の失策など思い悩んでいる暇はない。

山田詠美「シャンプー」『姫君』文春文庫2004.5.10)

”両親の失策”に声を出して笑ってしまいました。ほんと、その通りだなって。

私の存在も、ただの馬鹿者二人の失策にすぎないのです。おわり。

人生から生まれる音楽『はじまりのうた』

今年の年末は9連休。なにかと忙しくて消耗した12月の疲れを癒すように、漫画や映画や音楽を摂取しては夕方まで眠って引きこもっています。

年の瀬に映画で今しがた号泣しました。『はじまりのうた』で。

はじまりのうた BEGIN AGAIN(字幕版)

はじまりのうた BEGIN AGAIN(字幕版)

  • 発売日: 2016/02/10
  • メディア: Prime Video
 

主題歌の「Lost Stars」をラジオで何回か聴いて、いつか観よう観ようと思っていてやっと観ることができました。何でこんなに泣けるのかわからないんですが、凄く泣きました。

 

物語の概要は以下。

製作した曲が映画に採用された恋人のデイヴとともにイギリスからニューヨークへやってきたシンガーソングライターのグレタだったが、デイヴの浮気により彼と別れて、友人のスティーヴを頼る。スティーブは失意のグレタを励まそうとライブバーに連れていき、彼女を無理やりステージに上げる。グレタが歌っていたところ、偶然その場に居合わせた落ち目の音楽プロデューサー・ダンの目に留まる。ダンはグレタに一緒にアルバムを作ろうと持ち掛ける。

Wikipediaより)

映画を観ながら飲んでいたお酒のせいかもしれないんですが、グレタが歌うシーンではほとんど泣いてた気がします、自分。

 

私って音楽が大好きだなぁって思いました。

音楽って生活にすごく密着していて、人生に寄り添っているものだなって強く思いました。

この映画で流れる音楽は、どれも登場人物の人生を切り取った写真みたいな音楽なんです。

絵画も舞台もアニメも映画も大切で偉大な芸術ですが、音楽はなによりも人生に付随しているのだと思いました。

 

グレタとダンが互いのプレイリストを聴かせあいながら夜の街を歩き回る場面がすごく好きです。

「音楽の魔法だ

平凡な風景が意味のあるものに変わる

陳腐でつまらない景色が———

美しく光り輝く真珠になる

 

音楽でね

 

年を取るほど———

この真珠がなかなか見られなくなる」

「糸ばっかり?」

「糸をたどらないと真珠には届かない

今この瞬間は真珠だ」

「輝いてる」

「すべてがね」

 

街中をオープンイヤフォンで音楽を聴きながら散歩をするのが好きです。

酔いが回ってるとより一層街がキレイに見えたり愉快な気持ちになったりします。

 

私の人生は、例にもれず陳腐だしみっともないし大して面白くもありません。

でも、それでもなんとか誤魔化しながら楽しく生きてこられたのは、素敵な音楽にめぐりあってきたからです。

今年は首都圏に引っ越して、仕事帰りに素敵なライヴにもたくさん行けるようになりました。

アニメソングも同じ。

OP、EDを聴くと、そのころの生活を思い出します。そのアニメの名シーンや登場人物の心情、そのアニメを毎週楽しみにしていたころの数年前の自分を。その時好きだった人や、ハマっていた事柄を。

 

音楽は香りや景色のように、人生にまとわりついて思い出の引き金になる。

意識を飛ばす薬になる。

一歩を踏み出させるひと押しになる。

 

はじめて音楽を聴いたのがいつだったのか、はじまりは全く思い出せませんが、

物心ついたときから、私はたぶんずっと音楽の魔法にかかっているのだなと、この映画を観て思い知りました。

凄く素敵な映画でした。おわり。


Adam Levine - Lost Stars (from Begin Again)

架空のお葬式と現実の葬式

今月の上旬に、父方の祖父が亡くなりました。

二十数年前に曾祖母が立て続けになくなって以来、本当に久しぶりに葬儀というものに参列しました。

はるか昔に参列したその曾祖母の葬儀は、幼かったこともあって記憶が断片的です。したがって自意識のはっきりした状態で参列する葬儀は、今回が初めてでした。

 

新幹線で祖父母宅へ向かう間、お葬式を題材にした物語をいくつか思い出していました。

たとえば、ふみふみこ『めめんと森』。

めめんと森 (フィールコミックス) (Feelコミックス)

めめんと森 (フィールコミックス) (Feelコミックス)

 

主人公の目野優子が葬儀場でのアルバイトを通して、失踪した兄にまつわる過去と折り合いをつけたり、上司の黒川森魚と恋愛したりする群像劇で、独特のテンポで死生観を描く良作です。

 

また、たとえば江國香織の短編集『ぬるい眠り』に収録されている「清水夫妻」。

ぬるい眠り (新潮文庫)

ぬるい眠り (新潮文庫)

  • 作者:江國 香織
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/02/28
  • メディア: 文庫
 

赤の他人のお葬式に参列するのが趣味の不思議な夫婦・清水夫妻の話で、死というものを穏やかで静かなもののように表現する、これまた心に残る良作です。

 

さらには、世界的な傑作映画『おくりびと』。

映画「おくりびと」【TBSオンデマンド】

映画「おくりびと」【TBSオンデマンド】

  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: Prime Video
 

もはや国民的映画といってもいいくらい、観てない人もなんとなく知ってるレベルの名作。私も話題になった少しあとくらいに(大学生の頃でした)DVDで観て、人並みに感動して泣きました。

 

そんなわけで、これまで出会ってきたお葬式にまつわる物語がわりと穏やかで良いものばかりだったので、私は結婚式や卒業式なんかよりはお葬式のほうがはるかに好き、というと語弊がありますが、とにかく性に合っているというか、冠婚葬祭のなかでは一番マシだと考えていました。普段着も黒が多くて、日常的にお通夜みたいな恰好で生活していました。それが落ち着くと思っていました。

 

しかし、実際に葬儀を体験すると、ものすごく消耗し、金輪際御免蒙りたいとすら感じました。

 

私にとって亡くなった祖父という人は、これといって好きでも嫌いでもない、あえて積極的に会いたいわけでもない、強い思い入れも思い出もない親戚でした。遠方に住んでいたせいもあって、生涯で会った回数もそんなに多くない人です。

祖父にとっては私は長男の一人娘で、さぞやかわいい孫娘であっただろうと思います。お小遣いもたくさんもらっていたと思います。有難かったといえば有難かったけれど、だからといって「おじいちゃん大好き」とはならなかった。大概の親類縁者がそうであるように、なんとなく性格的に合わないけれど絶縁するわけでもない、ゆるいつながりのある人。それが祖父でした。

 

今年に入って具合が悪かったことはなんとなく聞いていたので、亡くなった知らせをうけたときも「やっぱりか」くらいで驚きはありませんでした。

祖父母宅に着くと、先に集まっていた祖母も父も叔母もいとこも皆落ち着いていて、特段悲しむでもなく普通にテレビを見たりしていました。

 

しかし、いざ仏間に横たわる祖父の遺体を目の当たりにすると、なんとなく居心地の悪さを感じました。遺体というのは、なんともいえないオーラのような、異質な雰囲気があり、想像していたより怖かったです。

通夜にむけて葬儀社の人が祖父の遺体を運び出すとき、布団がめくれてちらりと見えた祖父の脚がびっくりするくらい細くて、当たり前ですが血色も悪くて、ますます不気味でした。

葬儀社に移動すると、今度は故人の体を清めるなどといって遺体を洗う儀式(?)があったのですが、これもまた嫌でした。遺族も体を拭いたりするんですが、私は絶対に触りたくないと思い、最後の最後まで、指一本祖父の遺体に触れませんでした。

 

棺に入れるといういろんな葬儀社のオプションの話を聞くのも疲れました。遺族の気持ちに寄り添うような語り口での訳の分からない蝋燭だの遺髪入れだののセールストークは断ったもののうんざりして、その後誰が誰だかわからない親類縁者のおじさんおばさんたちにも辟易して、お坊さんのやけに長いお経にも疲れ、極めつけにはろくな挨拶もできない喪主の父の頭の悪さにも嫌悪感しかなく、とにかくすべてがウンザリでした。

 

翌日の葬式で棺に皆で花を入れた時、おばさんたちやいとこやハハが、皆しくしくと泣き出しました。私も一瞬もらい泣きしそうになりましたが、どうにも空虚な気持ちと疲労感が勝って、すぐに涙は引っ込んでしまいました。

火葬場の独特のにおいも嫌でした。遺体が骨になるのを待つ間、おばさんたちの話に相槌をうつのも面倒で、焼かれた骨を目の当たりにしたときもこれまた不気味でした。

 

最後の食事を終えて一同が解散して、そのまま帰りの新幹線で東京に戻りました。

葬儀がすべて終わったあとは本当にどっと疲れて、異様に眠くてすべてが面倒で鬱陶しく感じました。

どうしてこんなに疲れて嫌な気持ちでいっぱいなのか、暮れてゆく車窓の外を眺めながら考えていました。

 

遺体というものの異質さと怖さ。

それまでろくに連絡も取りあってなかったのに、死んでから惜しむ遠縁の親類たちのオーバーリアクション。

実の父親である祖父に対して何一つ語ることのできない、何も考えてない喪主の父の無能さ。

一人残されてより小さくか弱く見える祖母の心細い佇まい。

父やら親類やらの悪口と不平不満ばかり言うハハの醜さ。

線香くさい真っ黒な喪服。

 

なにもかもが嫌で嫌で仕方なくて、東京に着いた頃には苛々した気持ちが頂点に達していました。

あんな悲しい場所はもうたくさんだと思いました。

こんな煙くさい黒い服なんて今すぐ脱ぎ捨てたい、黒い服なんてもう着たくないし全部捨てたいと思いました。

あんなに激しい感情は久しぶりで、自分でもちょっと驚いたし持て余しました。

 

帰り道に派手なピンクのニットを買いました。小学生のころ以来着たことないようなピンク色の。

帰宅したら塩を振りまきまくって、玄関で下着まで全部脱いで洗濯機を回し、シャワーを浴びました。

派手な花柄のパジャマを着て、やっと少し落ち着きました。意味もなく部屋中に掃除機をかけました。

翌日、午前休で買い物に行きました。真っ赤なニットやゴールドのピアスを買ってつけたりしました。

夕方にはロックバンドのライヴに行き、翌週は東南アジアに旅行しました。

騒がしくてカラフルな空間に身を投じると、なんとなく死が遠のいてくれるような感覚がありました。一瞬ですけど。

 

今になって思うと、死が怖かったのかなと思います。

人間誰しも死ぬってわかってるけど、実際に死んだ人を目の前にして、それが知識を超えて現実として立ちはだかったんですよね。

漫画とも小説とも映画とも違った、現実の葬式。現実の死。

現実は、物語とは全然違かったです。考えてみれば当然かもしれないけれど。

死は穏やかでも静かでもなかったです。ただただ不気味で、異質で、怖いものでした。

葬式は何一ついいものではなく、ひたすらに居心地の悪い、疲れる、摩耗するものでした。

 

もう誰の葬式にも出たくないと思いました。

私が死んでも葬式なんて挙げてほしくないと思いました。

別れるのに、いちいち儀式なんて要らないって思ってしまいました。

そんな区切りいらないって。

 

それから、街にもっともっと明るい色が溢れたらいいと思いました。

もっともっと騒がしくなればいいと思いました。

目が覚めるような真っ赤とか真っ青とか真っ黄色とか、ピンクとか黄緑とかオレンジとかゴールドとか水色とか、もっともっと明るくて鮮明で鮮烈な色で世界が彩られればいいと思いました。

現実逃避。最後には絶対逃げられないって、頭ではわかっています。それでも、

逃げて逃げて、死ぬまで逃げて、誤魔化して、逃げ続けたいと思いました。おわり。