れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

昨日よりマシに生きたい:「明日こそは/It's not over yet」

今週のバビロン(アニメ)を観てから気が滅入っています。。ショックすぎて。

生理前だからとか、寒くなってきたからだとか、仕事がいまいち上手くいかないからだとか、他にもいろんな原因があるのかもしれませんが、とにかくどこか憂鬱で、億劫で、気分が塞ぐ。

 

そんななか、よく聴くようになったのがKIRINJIの2018年のアルバム『愛をあるだけ、すべて』の最初の曲「明日こそは/It's not over yet」です。

明日こそは/It’s not over yet

明日こそは/It’s not over yet

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

イントロのギターがかっこよくて、でも晴れやかで爽やかで、今朝通勤で聴いていたときは「青空に合うなぁ」と思って聴いてましたが、帰宅時に聴くと「仕事終わりのパッとしない夜にも合うなぁ」と感じました。いつ聴いても心にしっくりくる素晴らしい曲です。

 

歌い出しの「明日こそ 明日こそは昨日よりマシな生き方したいね」って、なんでこんなに素敵なんだろう。ほんと、そうだよね、って聴くたびに思います。

堀込高樹さんの歌詞はイメージとして抽象的ででも心に迫り共感できるものが多いと思っていましたが、この曲はすとんと腑に落ちて、難解なことが一つもない、すごく素直な歌詞に感じました。もう、共感しかない。全共感。

そしてメロディや編曲が、これまたもう「これでしょ!」っていうピッタリ具合なのです。明日こそは昨日よりマシに生きてみたくなる、滅入った心と身体に染みる美しい曲調です。

 

KIRINJIは今日新しいアルバムが出て、それのリードトラックをラジオで聴くたび「KIRINJI素敵なことになってるな〜」と思っていたのですが、まさか1年前の曲が巡り巡ってこんなに自分にフィットするとは不思議な感じです。このブログで書いたかどうか覚えてないですが、キリンジには個人的に微妙な思い出があったりするので。昔の曲も好きなのいくつもありますけど。

けど・・・今のKIRINJIが1番好きです。こんなに長く活動していて、今の曲が一番好きって凄いことですね。本当にいいアーティストってことだと思います。

ここのところ1年前の曲をヘビロテしてますが、きっと気持ちが回復したら最新アルバムをヘビロテします。おわり。

cherish(通常盤)

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愛をあるだけ、すべて(通常盤)

愛をあるだけ、すべて(通常盤)

 

 

知を愛し求める:『know』

現在放送中のアニメ『バビロン』がめちゃくちゃ面白くて、原作者の野崎まどさんの著作を漁っています。

『know』はバビロンとはまた違った雰囲気で、やはりこれも示唆に富む良作でした。

know (ハヤカワ文庫JA)

know (ハヤカワ文庫JA)

 

あらすじは以下。

超情報化対策として、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された2081年の日本・京都。情報庁で働く官僚の御野・連レルは、情報素子のコードのなかに恩師であり現在は行方不明の研究者、道終・常イチが残した暗号を発見する。その“啓示”に誘われた先で待っていたのは、ひとりの少女だった。道終の真意もわからぬまま、御野は「すべてを知る」ため彼女と行動をともにする。それは、世界が変わる4日間の始まりだった——

(背表紙のあらすじより)

 

私は常々スマートフォンもパソコンも電話も本当に面倒くさいなぁと思っていて、この作品世界のように、直接脳にメールでも動画でも何でも届いてジェスチャーだけで処理できたら楽だろうなと夢想しています。Suicaが体に埋め込めるようになるのはあと何年後なんでしょうね。

世の中の人々みんな脳みそとネットワークが繋がっていて、検索して調べればわかることは”知っていること”と同義である世界。ああ、素敵です。

 

***

 

主人公の御野・連レルはエリート官僚で、そんな超情報社会の特権階級を使って好き放題やっているんですが、彼は生まれつき腐れ野郎だったわけではありません。

彼は中学生の夏休みにワークショップで出会った天才大学教授・道終・常イチとの対話によって、将来の道筋を見出しました。道終先生は連レルとの1週間の対話ののちに忽然と失踪してしまいますが、先生に憧れ先生の指し示した道をもっと突き進みたいと思った連レルは勉強して勉強して努力して、「クラス5」と呼ばれるエリート階級まで登りつめたのです。

 

しかし、大人になってクラス5の権力を手にした連レルが見た世界は、道終先生との対話で夢見たようなどこまでも広がる知識探求の世界ではなく、大人の事情と利権と思惑でドロドロの現実世界でした。

優秀な学生が官僚になって腐った現実を目の当たりにしてねじ曲がっていく構図は、昭和も平成も令和も2081年も変わらない日本の悲しい現実ですね。。

 

最初にすごくいいなと思ったシーンは、そんな”汚れてしまった”連レルが自宅で脳内麻薬に溺れる場面です。

脳がネットワークに繋がると、薬もデジタルでできるんですねぇ。素晴らしい。

電子葉薬と呼ばれるドラッグを使ってどんな楽しい幻想も描き出せる連レルが見るのは、酒池肉林でも心踊る空想アクションでもなく、14歳の時の自分です。

啓示世界の中で、僕は子供に戻った。

十四歳の体と感覚。十四歳の目線。先生と出会ったあの頃の僕に戻った。

もう忘れてしまって久しい身体感覚が、同じように忘れていた感情を呼び起こす。

”期待”。

現実を知る前の僕が持っていたもの。先生の魅惑的な言葉に僕が感じた気持ち。クラス5の世界に一体何が待っているんだろうと夢見た憧憬の感覚。僕はドラッグを使ってそれを再現し、その快楽の中でただ揺蕩う。

(中略)

啓示装置が虚構のゆりかごを作る。夢の中で僕は夢をみる。もう通り過ぎてしまった未来を、わくわくしながら想像する。

傍点を太字に置換しています。

 

このくだり、なんて切ないのだろうと胸が締め付けられました。

私も電子葉薬があったら、連レルと同じことをするかもしれません。

13歳とか15歳とか、まだ手のひらにいくらでも可能性がのっかっているようなあの頃の感覚。未来への期待、わくわくしながら将来を想像できる無邪気さ。

もう逆立ちしたって手に入らない感覚です。

 

私はもうじき三十歳になります。

地獄のように長くて退屈だった20代を振り返るたび、それ以前の10代の記憶がよりキラキラ輝いて見えるのです。

10代の時にあって、20代の時にはなくなっていたもの(いつの間にか擦り切れてなくなってしまったもの)こそ、まさに”期待”です。

社会人になってからの生活は本当に期待できる事象がありませんでした。そしてこの先30代、40代と年を重ねても、きっと何にも期待できないままだと思います。

失われた何十年と言われる不景気の暗い時代に生まれた私でさえ、10代のころは何かに期待していたんですね。若さってそういうことなのかもしれません。

 

***

 

やさぐれていた連レルのもとに、ある日アルコーン社という世界トップ企業のCEOが訪ねてきます。

彼らは14年前に失踪した道終先生に共同研究での大事な成果を盗まれ、おまけに蓄積したデータを全て消されたと言います。

久々に先生について話をした連レルは、先生とのやり取りを回想しながら先生の偉業である現代社会を構築するシステムのソースコードを眺めます。

そこである引っ掛かりを覚え、ソースを詳しく解読する中で浮かび上がった一つのメッセージを読み解いた連レルは、暗号の指し示す京都大学近くの喫茶店で、14年ぶりに恩師の道終・常イチと再会するのです。

 

憧れ焦がれていた恩師との久々の再会に静かに興奮する連レル。

道終先生に連れられた山奥の養護施設で、これまでの14年の真相と先生の講義を聞かされる連レルの感動がとても印象的でした。

クラウド的な捉え方?」

「今、君がイメージしているので正解だ」

先生はにやりと笑って僕を全肯定してくれた。僕は先生が教えたい事を自分なりに理解したし、先生は僕が何を考えたかを一言で理解してくれた。”意志が伝わる”という事の原始的な喜びが脳内麻薬のように湧き出る。

この一節はとても言い得て妙というか慧眼だと思いました。コミュニケーションが極めて高い成立比率をなした時というのは、麻薬に匹敵する快感なのだという事を如実にあらわしています。

 

私がこれまでの人生で最も長時間対話した人は、家族以外では学校の先生たちです。

もっとも、家族(特にハハ)は対話の総量こそ多いですが特に意味も奥行きもない内容しかなく、意志や思考のやり取りをしたという意味での対話は、やはり先生たちだけです。

高校の時の学年主任だった国語の先生。

高校3年生とのきの担任の数学の先生。

大学の時一番世話になった哲学の先生。

彼ら(たまたま全員男性なのです)は私の思考経路にいくつもの種子を埋め込んでくれたと思うし、私の言い表したい事象を高い次元で正確に咀嚼してくれたのも彼らだけだと思います。

彼らはしばしば私の言葉選び・言葉遣いを”独特”だと言いました。時には私の表現を気に入ってくれて汎用したりしました。

私はその頃自覚がなかったですが、社会人になってから上司や先輩にたまに同じようなことを言われることがあり、「あの時指摘されたのはこういうことだったのか」と遅ればせなから実感しました。

 

しかし言葉が”独特”であるということは、そうでない人との間に齟齬を生む要因にもなりうるのでした。

同じ日本語を使っているはずなのに、言いたいことと相手の受け取る内容がズレるのです。逆に相手の言うことも正しく受け取れていない。コミュニケーション成立比率が低いのです。

今となっては「大体の人に私の言葉は伝わらないものだ」と諦め開き直ることができていますが、最初この事実を受け入れるまでは絶望的な気持ちでした。

だからこそ、高い次元で理解が成立する先生たちとの対話がことさら貴重でかけがえのないものだったのだと思えます。

会話を通じて脳が正しく発火してネットワークが構築されていくような、あの感覚。”わかる”ということが高いレベルで実現した時のあの快感、気持ちよさ。

連レルは14年ぶりに先生に会って、その快感を思い出したのでした。

 

***

 

道終先生は連レルに14年ぶりの個人講義をした後、娘だというセーラー服の少女・道終・知ルを連レルに託して自殺してしまいます。

道終先生がアルコーン社から持ち逃げした電子葉の進化版・量子葉を0歳で脳に埋めこまれ育った知ルはまさに神とも思しき全知っぷりでした。全ての情報を高速で処理し、ネットワークの穴を駆使してどんな情報も一瞬で取得してしまう知ルは、連レルをお寺や京都御所の地下に連れ回します。

 

知ルが国宝の曼荼羅を見て、81歳の大僧正と禅問答する場面もとても好きです。

「この真理を得ること、本質を得ることを、密教では”無上正覚”と言う。即ち」大僧正は曼荼羅を眺め続ける知ルの背中に向けて語る。「”悟り”じゃ」

知ルが振り返る。

「悟りとは、なんでしょうか」

「知ることじゃ」

大僧正は迷いなく答えた。

「今まで知らなかったことを知ること。新しいことに気付くこと。それが悟りじゃ。「真理を知る」と言う意味で使われるのは、「真理」とは何かをこの世の誰も知らないからであるの。真理は全ての人間にとって新しい知識である。それを知ることは即ち悟りとなる」

「新しい・・・」

「そう。その言葉を選んだお嬢さんは正しい。その感覚を持ちなさい。新旧。前後。この二点の感覚こそが真理に続く道を作る。知ることで二つに分かれるのじゃ。知る前と知る後。知らなかったと知っている。悟るためにはの、”自分が何を知らないのか”を知らなければならない

 『お慕い申し上げます』でも思いましたが、お寺の大僧正さまという人はどうしてこんなに物事を見通した知見を持ってるんですかね。私も大僧正さまみたいに整然とした知識体系を持ちたいです。

 

しかし、知ルは大僧正の回答を受けて困惑します。彼女は大抵のことは知っているのです。その並外れた量子葉のついた脳で、どんなことも一瞬で知ってしまうのですから。

自分が何を知らないのかわからないという知ルに、大僧正は「覚悟」という言葉について話します。

 「<覚>とは読んで字の如く”覚えていること”。すなわち<過去>を指す。それと対照となるのが<悟>。”悟ること”。これは<未来>を指している。まだ知らないもの、悟らなければ知り得ないもの、それが未来じゃ。未来は誰にも知り得ない。つまりお嬢さん。お主の知らないことの一つは、未来じゃ」

(中略)

「とはいえ」

大僧正は、少し言葉を軽くして続ける。

「人は過去の経験から未来を予想する力を持っているからのう。昨日はこうだったからきっと明日はこうだろうと想像できる。過去を知り、未来を見る。そうしてやっと覚悟が決められる、というわけじゃな。するとここで我々はまた一つ悟る。”人には絶対に覚悟できないことがある”」

(中略)

「死んだことのある人間はいない。だから死の先は誰も知らないわけじゃ。僧の儂が言うのはどうかと思うが、天国も地獄も所詮は何もないところからの作り事。経験から予想する未来ではない。我々は死とは何かを知り得ない。だからこそまた、覚悟も決められない。死を永遠に恐れ続ける」

大僧正は屈託のない笑みを浮かべる。

「死ぬ覚悟ができた、などと言う奴はもれなく大嘘つきじゃ」

いや〜目から鱗!でした。「覚悟」と言うよく聞くありふれた言葉を紐解いて、こうして真理を垣間見ることができるなんて。言葉の面白さを実感しました。

 

そしてこの一件はのちに大きな付箋となって物語の最後に回収されるのです。構成もエキサイティングで素晴らしいと思いました。

 

***

 

物語の本筋とはズレますが、最近とても目につくことがあります。

この作品は2081年以降の未来が描かれている、いわばSF作品です。今期のアニメでも近未来SF作品が多く放送されているのですが、人間感情以外で普遍的な存在が一つあります。

それは「コーヒー」です。

 

知ルと彼女の持つ量子葉はアルコーン社に狙われ、連レルたちは逃亡犯扱いとなってしまいます。道終先生との再会から日々が目まぐるしくなり、ついに職場の情報庁も追われた連レルはほとほと疲れ、職場の優秀な後輩の三縞・歌ウ嬢と彼女がいつも淹れてくれていたコーヒーに想いを馳せます。

三縞君の顔が頭を掠める。彼女のコーヒーを最後に飲んだのはほんの三日前なのに、なんだかもの凄く昔のように思えた。この三日の間に、あまりにも衝撃的な出来事ばかりが続いたから。

先生との再会。知ルとの出会い。先生の死。クラス9。情報庁の追っ手。逃走。

脳はもうずっと悲鳴を上げている。少しでいいから休ませてくれと訴え続けている。

三縞君のコーヒーが飲みたかった。

連レルは劣情とは違った愛情を三縞嬢に抱いていたのです。連レルの三縞嬢を大切に思う気持ちがとても微笑ましく美しいなと思いました。そしてそこに用いられる象徴的な存在であるコーヒー。私は麻薬でさえ脳内で作れる時代にコーヒーがまだ現存していることに、驚きと得心の両方を持ちました。

 

コーヒー。嗜好品であり、メインの成分としてしばしば言及されるカフェインには効果効能や副作用、いいことと悪いことが両方取り上げられていますよね。

煙草はこの数年で社会的にとても肩身が狭くなったように感じますし、お酒もそのうち煙草みたいな扱いに近づいていくのではないかと思います。

ではコーヒーはどうなのでしょう。

紅茶や緑茶なども同じ存在かもしれないですが、コーヒーはどこかお茶と一線を画す何かを感じるんですよね。なんでだろう、不思議です。

先日Fate/Grand Orderのアニメでロマニとダヴィンチがコーヒーを飲んでいるのを見て、しみじみコーヒーという存在とその未来についても考えてしまいました。

 

今年の春先に2ヶ月の出張で生活環境が変わった時、私の日記にはこう書いてありました。

出張でわかった自分の好きなもの

・コーヒー

・アニメ

・お酒

・旅行

・ラジオ

物理的に移動して慣れない土地や環境に身をおくと、自分の深層を垣間見れることがありますが、そこで悟った結果がこれだったんですね。

順不同だとは思うものの、コーヒーが真っ先に書いてあるのに驚きです。

毎日飲んでるわけでもないんですが(毎日飲んでるのはむしろお酒です)、なんか欠かせないんでしょうね。単に中毒だと言われればそれまでですが。

 

***

 

話を戻します。

この作品を読んで、知的好奇心って生命力そのものだなぁと思いました。

量子葉という世界がひっくり返るような全知全能の情報処理能力を備えた知ルは、それでももっともっと知りたいという強い意志に基づいて連レルを巻き込んで真理に突き進んでいきます。

そして誰も知り得なかった”死”のその先を知るのです・・・。

 

序盤で”期待”について書きましたが、私が胸に期待を抱いて生きていた頃、毎日新しいことを知るのが楽しくて楽しくて仕方なかったのを思い出しました。

学校に行って授業を受けると、先生が新しい知識を話してくれる。理科室での実験で、図書室で漁った本で、部活動で、友達との会話で、ネットコミュニティで、新しいことを知り、新たにできることが増えていく楽しさ。

それは今だって手に入れようと思えばできることだと思います。むしろ昔より、もっとチャンネルが多い。アクセスできる情報は、10年前よりずっとずっと増えました。

 

10年前にはあって、今は無いもの。それは「知りたい」という強い気持ちです。

知っても、どうすることもない。空虚な日々しか手元になくて。

私のフィロソフィア、知を愛し求める気持ちは、いつの間にか擦り切れて磨耗してどこかに霧散してしまったのでしょうか。

だからこんなに身体が重くて、うつろで、なんの期待も持てないのでしょうかね。おわり。

もう一人の私、もうひとつの人生:『ブルーもしくはブルー』

山本文緒さんの作品は本当にどれも暴力的なまでの面白さだと感服しました。

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

ブルーもしくはブルー (角川文庫)

 

ドッペルゲンガーのお話で、ファンタジーと称されていますが、全然ファンタジーという言葉がしっくりこないくらいリアルで怖くて切なくて夢中になりました。

 

主人公の佐々木蒼子は、愛はないけど金はある夫と結婚六年目の子なし主婦です。

東京のウォーターフロントのいいマンションに住んで、働かなくても夫の稼ぎで好き勝手できて、気まぐれでやったデパートのアルバイト先で出会った恋人・牧原と不倫していました。

物語は蒼子と牧原がサイパン旅行から帰国する飛行機の中から始まります。

優しいけど気弱で劣等感の強い牧原に蒼子は愛想をつかしており、二人は別れ話をしていました。

そんな折、関東上空に台風がある影響で、飛行機は急遽福岡に着陸するというアナウンスが。

次の日仕事があるのにと文句たらたらの牧原をよそに、蒼子は福岡という土地に意識を持っていかれます。

なぜなら、今の夫・佐々木と結婚する前に、本気で結婚を考えていたかつての恋人・河見がいるのが福岡だからです。

 

佐々木との満たされない結婚生活の中で、蒼子は「もしあの時佐々木ではなく河見を選んでいたら」という後悔をずっと持っていました。

九州男児であか抜けない板前の河見。彼は佐々木のような高給取りでもないし、都会的なスマートさとは対極の無骨で不器用な男でしたが、蒼子をとても愛していました。

後ろめたくも二股をかけながら、最終的に佐々木との洗練された結婚を選んだ蒼子。

体調を崩した父の面倒を見るため地元の福岡に帰った河見とはそれっきりでした。

 

福岡で飛行機を降りた蒼子は牧原と別れ、初めて来た九州の地方都市に一泊することにしました。

会えるはずがないと思いながらも街ゆく人を目で追ってしまう蒼子は、なんと本当に河見を見つけてしまいました。

河見の隣には奥さんと思しき女性がおり、仲陸まし気な二人のあとを蒼子は尾行します。

地下鉄を乗り継いだ先のパチンコ屋の前でわかれた河見夫婦。意を決してパチンコ屋に入ろうとする蒼子に、河見夫人が声を掛けました。

尾行に気づかれていた気まずさに狼狽えた蒼子は河見夫人を見てびっくり、なんと河見夫人は、自分と双子並みに瓜二つだったのです・・・。

 

冒頭で、主人公の蒼子がいかに孤独で退屈で愛に飢えているかが述べられているんですが、めちゃくちゃ贅沢な悩みでちょっと腹が立つくらいなんです。

外に恋人を抱えているけれど潤沢なお金と清潔な住まいを提供してくれる夫の佐々木は、私からすれば”超優良物件”なのです。ハウスキーピングまでつけてくれてて、家事すらもしなくていいんですよ。佐々木、凄すぎです。

仕事もしなくていい、家事もしなくていい、都会のきれいな高層マンションに住まわせてくれて、セックスもしなくてよくて、料理もしなくてよくて、それどころかあまり家にもいなくてでもお金はたくさんくれて、旅行してもブランド品を買ってもお咎めなしの放任状態。天国かよって感じです。

私はむしろ、好きでもない蒼子になぜここまでしてくれるのか、佐々木にとってこの結婚がどんなメリットがあるのか不思議でたまりませんでした。

あとから発覚しますが、佐々木には実は幼馴染の真に愛する恋人がいます。しかし彼女も別の人と結婚していて、複雑な事情で結ばれない佐々木は、彼女への未練を断ち切るうえで蒼子を利用したようでした。

でも、それでも全然いいですよね。愛なんてよくわからないものがなくても、快適な住まいと生活を無償で提供してくれる佐々木みたいな旦那様に出会いたいものだとしみじみ思いました。

そんな恵まれまくりの蒼子は、それでも全然満たされない気持ちをこう表現します。

けれど、それも最近では虚しさばかり残る。いったいこれから、私はどうしたらいいかまるで分からなかった。結婚相手の選択を間違い、離婚する理由もきっかけも掴めない。情熱を注げる仕事もなければ、逃避行してしまえるような不倫相手もいない。私には何もすることがなくなってしまった。これから先の長い時間、私はただこうやって虚しい消費を続けていくだけなんだろうか。

「この罰当たりがっ!」とどつきたい気持ちと、けれど強く共感してしまう気持ちが同時に湧き上がる秀逸な一節です。私は佐々木との結婚が間違いとはとても思えませんが、何もすることがなく虚しい消費を続けるしかない孤独は、私が社会人になってからずっと抱えているものです。

心から愛しあえる結婚相手や恋人がいれば満たされるのか?熱中できる仕事があれば満たされるのか?どちらも生まれてこの方手にしたことがないので全然わかりません。

わからなくて、いつまで続くかわからないこの”虚しい消費”を活用して、己を顧みて自分自身に問いかける場がこの日記なのです。。

 

***

 

自分の生き写しにしか見えない河見夫人と話し合うことにした蒼子。なんと河見夫人の名前も蒼子で、それどころか二人は同じ出生、同じ経歴をたどり、それぞれ結婚する直前まで同じ人生を歩んでいました。

つまり河見蒼子は、佐々木蒼子と同一人物、河見蒼子は佐々木蒼子のドッペルゲンガーだったのです。

以後、佐々木蒼子は蒼子A、河見蒼子は蒼子Bとして描かれます。様々な実験を通じて、蒼子Aが本体で蒼子Bは後から生まれた影であり、ある一定の条件下において、影は他人に認識されなくなってしまうことが判明します。

 

蒼子Aは、この好機を利用して夢に見た河見との結婚生活をどうしても体験したくなり、蒼子Bに入れ替わりの提案をします。

人はふたつの人生を生きることはできない。けれど、どういう訳か私にだけそのチャンスが与えられたのだ。

蒼子Bはいろいろ思うところはあるものの、最終的に蒼子Aの提案を受け入れます。

蒼子Bは、蒼子Aより控えめな性格をしていました。元が同じ人間で、食べ物や男や服の趣味もまったくと言っていいほど同じ蒼子たちですが、振る舞いや考え方が結構違っているのが興味深かったです。

 

発達心理学教育心理学などで、”遺伝か環境か問題”はよく出てくる話題でした。最終的には”遺伝も環境も”性格形成に影響を及ぼしているというのが現在のスタンダードではあると思いますが、いまだにすべてのメカニズムが解明されているわけではありません。

23歳くらいまで同じ一人の人間だった蒼子Aと蒼子B。蒼子Aは放任主義な佐々木と結婚し、何不自由ない生活の中で愛に飢えているわがままで自分勝手な女です。

一方で蒼子Bは、ボロアパートで無骨な九州男児の河見と質素な生活を送っていました。河見は蒼子をとても愛してくれましたが、独占欲が強く亭主関白で昭和的家庭観の持ち主で、さらに悪いことに、外で酒を飲み酔っぱらって帰ってくると、日ごろためている鬱憤を爆発させて妻を殴る半DV夫だったのです。

殴られても、泣いて素直にすぐ謝罪の言葉を口にすると、河見は我に返り蒼子Bを割れ物のようにひどくいたわり大事にするのです。蒼子Bは河見との生活の中で事なかれ主義になり、「とりあえずあやまる」「とりあえず飲み込む」諦めの処世術を身につけたのです。

 

暴力って人格を捻じ曲げるのにこうも有力で、またじゅうぶんなのですね。どんなに理知的で意志の強い女性でも、こういう理不尽なパートナーを持ってしまっては、蒼子Bのようになってしまうのかもしれません。

序盤の蒼子Aの回想で出てきた河見は、不器用だけれど心から蒼子を愛してくれる好青年のように描かれており、河見との結婚を夢想し後悔する蒼子Aの気持ちもちょっとわからなくもなかったんですが、蒼子Bが九州弁でボロクソに罵られ殴られる描写を見てからは、やっぱり蒼子Aは佐々木と結婚して正解だったじゃないかと思いました。河見にはもはや好きになる要素が一ミリもないです。いくら心から蒼子を愛していたとしても、酒に酔っていたとしても、殴った後正気に戻って優しく労わるとしても、女に暴力を振るう男は全員死ぬべきだとすら思ってしまいました。

 

自分に比べて気弱にさえ見える蒼子Bを、蒼子Aは完全にナメています。そして信用しきっています。

好きに使っていいからとクレジットカードまで蒼子Bに渡して、蒼子Aは河見家に、蒼子Bは東京の佐々木家に1か月間の入れ替わり生活へ突入します。

 

蒼子Aは夢にまで見た河見との結婚生活を満喫し、ささやかながら愛に満ちた生活に昂揚します。

東京にいた時に比べて、一日がとても早く感じられた。夫が仕事に出かけると、私も何かしらして働く。働いていると、あっという間に日が沈み、そして夫が帰って来る。愛する人を送り出し、働き、迎え、そして明日のために眠る。海のように満ちては引いていく、その永遠の繰り返し。私は”何も考えないこと”の幸福を知った。新作映画もベストセラーも、流行の服も必要ない。

働くことの喜びと共に、私は休日の楽しさを実感することができた。オンがあるからこそ、オフがあるのだ。毎日が日曜日のようだった今までの生活が、とてつもなく怠惰なものに思えた。

つくづく「ばかやろうっ」とどつきなくなる蒼子Aの甘ったれ独白です(苦笑)。これまで経験した何度かのニート生活を通して”毎日が日曜日”状態が最高だと思っている私からすると、この蒼子Aは狂気の沙汰です。まあ、ものめずらしさに気分が高まるのもわからなくはないですけどね。

 

蒼子Bもそれは同じで、久しぶりの東京での生活、洗練された都会の暮らし、淡泊だけれど絶対暴力なんて振るわない優しい佐々木を前にした蒼子Bは、今まで甘んじて受け入れていた九州での河見との暮らしの中で、いかに自分が我慢していたかに気づき、タガが外れたように豪遊生活を送ります。

 

それぞれが羨む隣の庭の青い芝を手に入れた蒼子たち。蒼子Bは東京で好き放題するうちにすっかり河見のもとに戻る気が失せ、蒼子Aに禁じられていた牧原の勤務先のデパートに赴き、さらには牧原の子供を孕んでしまいました。

一方の蒼子Aは、ある日酔っぱらって帰ってきた河見に初めて暴力を振るわれ、一気に夢からさめたような気持になります。

河見の暴力と粘着質な性格に耐えられない蒼子Aは、すぐに東京に逃げ帰ります。しかし、そこで発覚した蒼子Bのやりたい放題の所業に、蒼子Aの怒りは頂点に達します。

ところが、妊娠したことによって蒼子Bはなんと影から本体に昇格してしまったのです。牧原や佐々木の目に映らなくなったことで、蒼子Aは自分が影に取って代わられてしまった事実に絶望し気絶してしまいました。

 

蒼子Bはこの好機を逃さないようにと、カバンの中身を入れ替えて、具合が悪くなった蒼子Aと、河見蒼子の持ち物が入ったカバンを公園に放り出し、入れ替わりを完全なものに、自分をまぎれもない本体にしてしまおうと画策します。

このあたりの、蒼子Aの怒りと蒼子Bの怒りのぶつかり合いが本当に激しくて怖くてびっくりしました。

 

蒼子たちが出会ったばかりのころは、久しぶりに会った仲のいい双子みたいに楽しく過ごす二人の描写を読んで羨ましかったんですよね。

私は一人っ子で兄弟姉妹もいないし、長い付き合いの友人もいないので、自分の過去を一緒に振り返る他人が一人もいないのです。

昔話は時に楽しいものです。でも、同窓会に行くわけでもないし、楽しく過去を懐かしむ誰かがいるわけでもない。そんな私が一番よく読むのが自分の日記です。

このはてなブログを書き始めたのは新卒で入った会社を辞めて、社会人になってから初めてニートになったときでした。暇を持て余し通い詰めていた図書館を活用して、新たな切り口で日記を書きたいと思ったのがきっかけでした。

しかしそれよりもずっと前、中学生のころから、私はネット上でも手書きのノートでも日記を書いていました。当時使っていたブログサービスが消えてしまったりして残っていないものもありますが、学生時代からのブログ記事をクラウド上に保存しており、今でも頻繁に読み返します。

 

昔の日記は、異常なほどに共感できる他人のブログのようで、読み返すととても面白いです。きっと、私以外のだれが読んでも毒にも薬にもならないと思うけれど、私だけが、死ぬほど面白く読めるのです。

誰とも思い出を共有できないので、自分で自分の分身をつくるように日記を残し、そして振り返って対話しているのでした。

蒼子たちのように、ドッペルゲンガーと語り合えたらとても楽しいだろうなと、はしゃぐ蒼子たちの描写を読みながら何度も夢想しました。けれど物語が終盤になり、蒼子たちが互いを憎しみ合うようになって、自分自身という人間の業の深さは、決して生ぬるいものではないのだと思い知りました。

「でも河見君よりは、まだ牧原君の方がましよ。だから返さないわ。あなたは影になったのだから、あなたが河見蒼子になるのよ」

彼女は窓を向いたままそう言った。その冷たい横顔。誰にも何者にも慈悲の手を差し伸べることのない頑な背中。

私は、この時初めて気が付いた。

どうして今まで気が付かなかったのだろう。目の前に立っている女は私なのだ。

嘘つきでわがままで冷酷な人間。それが私だ。彼女は私そのものではないか。

 

大学生の頃、定年の70歳近いクラス担任の教授が「すべての学問は、最終的に”私とは何ぞや”という命題に行き着く」と話していたのを、今でも時々思い出します。

社会が成熟して、社会的欲求や承認欲求くらいまで皆そこそこ満たされてきて、マズローの欲求5段階説のほぼほぼが埋まってきたような現代において、人々の関心がどこに向かっていくのか。

きっと、己の存在に言及していく。それは当然の帰結なのだろうと、今回あらためて思いました。

自分を正しく正面から見つめ返すのってこんなに怖くて骨の折れることだったんだと、この作品を読んで思い知りました。日記を読み返すくらいでは全然甘いのです。

 

***

 

その後事態は二転三転して、結局蒼子Bは流産してしまい、蒼子Aは影から本体に戻りました。

蒼子Bもどこかほっとしながら冷静になり、病室で蒼子Aにこう諭します。

「どうすれば、満たされるんだと思う?」

彼女は額から手を外し、私の目を見てそう質問した。私はただぎこちなく首を傾げる。

「私達、ちゃんと愛されてたのよ。河見君にも牧原君にも。佐々木さんでさえ、結婚した時はあなたのことが好きだったのよ。それをねじ曲げたのは私達なのよ。愛されてたのに愛し返さなかったのよ、私達」

彼女は話し終えると、大きく溜め息をついた。私は彼女の言葉の意味を考えた。彼女の言うことはもっともだが、では、どうすればよかったのだろう。

 

私は蒼子たちを見て、人間には、本当の本当は愛も思いやりも無いのではないかと思いました。

つまるところ人間は、自分の満足と利得のためにしか行動できないのではないかと。

はたから見て思いやりのある行動だったとしても、突き詰めると行動原理は”自分のため”に尽きるのではないかと。

 

あなたは満たされたいと思いますか?

この世に満たされてる人なんているのでしょうか。

考えてみれば、不満を持たない、幸せいっぱいで満たされた人に、私は一度も会ったことがないかもしれません。

前向きな人はいました。今ある環境に感謝し、不平不満を言わず、絶えず努力している人は確かに存在しました。

しかし、彼ら彼女らが満たされているのかというと、それは全然別の話です。

 

満たされた状態って、幻想なのか?と思い至りました。

誰一人として見たことのない”神”と同じで、人間の想像上の、空想上の、幻なのかもしれないと。

だから、というわけでもないですが、私は別に満たされなくてもいいやと思いました。

情熱を注げる仕事も、愛し合えるパートナーも、思い出を共有して語り合える友達も、別にいなくてもいいです。

ただ、「私とは何ぞや」という問いからは、きっと逃れられない予感があります。

私もドッペルゲンガーに会ってみたい。蒼子たちのように、最終的にいがみ合い刺し違えるかもしれないけれど、それでも自分を見つめるのにこれほど有効な状況はきっと他にないでしょうから。

 

私はきっと、この先一生、私にしか心を砕くことはできないだろうと思いました。

自分という存在は、それくらい自分にとって強力で無視できない存在なのだと、本当の意味で自覚しました。おわり。

どんな銃で鎮魂されたいか:『炎炎ノ消防隊』

今週ずーっと頭から離れないアニメが『炎炎ノ消防隊』でした。最新話がとても印象的で、鎮魂とか信仰とか弔いとか、そういうことをただただ思い巡らせていたのです。

炎炎ノ消防隊 Blu-ray 第7巻

炎炎ノ消防隊 Blu-ray 第7巻

 

原作はマガジンで連載中の漫画らしく、そちらも読まなければなぁと思っています。

アニメはOPがアニメーションと曲がぴったりあっていてとてもかっこよくて、本編はちょっと独特のテンポで癖がありますが、音楽が非常によくてドラマティックです。サウンドトラック12月に出るみたいですね。欲しいです。 

炎炎ノ音楽隊〜TVアニメ『炎炎ノ消防隊』オリジナルサウンドトラック〜

炎炎ノ音楽隊〜TVアニメ『炎炎ノ消防隊』オリジナルサウンドトラック〜

 

 

先週末放送された第11話と12話がとてもいい話で、泣けるし、自分の信仰心や魂というものの捉え方などについてかなり考えさせられる回でした。わかりやすくいうと”神回”というやつです。

 

***

 

作品のあらすじは以下。

太陽暦佰九拾八年、東京皇国。この世界は、とある大災害を境に始まった人体発火現象「焔(ほむら)ビト」による脅威に苛まれていた。突然、自身の体から発火した者は瞬く間に全身が炎に包まれ、自我を失い命が尽きるまで周囲を焼きつくすのである。この脅威に対応して、一般市民を炎の恐怖から守り、人体発火現象の原因と解決策を究明するために「特殊消防隊」が組織された。

幼い頃からヒーローに憧れを抱く少年・シンラは、12年前に突然の火事によって母親と生まれたばかりの弟を亡くしてしまう。足から炎を出す事ができる「第三世代」の能力者であったシンラは、自らの体から発した炎が火事を引き起こした出火原因だとされ周囲から迫害を受ける。しかし、シンラは母親と弟と自分以外の第三者が室内にいたことを目撃しており、その人物が犯人ではないかと考えていた。

訓練校を卒業し「第8特殊消防隊」に配属されたシンラは、母親と弟のような被害者を増やさないため、また母親と弟を殺した犯人を捕まえ自らに被せられた濡れ衣を晴らすために、仲間たちと共に訓練と消防活動に奮闘する。その中で、暗躍する謎の男「ジョーカー」や焔ビトの秘密を握る組織「伝導者一派」、時に他の消防隊との戦いを繰り広げていくことになる。

Wikipediaより)

私的神回の第11話は、主人公・シンラが属する第8特殊消防隊がどのように結成されたのかというお話です。

 

第8特殊消防隊の中隊長・武久火縄は昔は軍人でした。火縄は自分のことを冷徹なリアリストのように思っていて、信仰心も優しさもかけらもない人間だと自身をみなしていました。

ある日火縄と仲の良いルームメイトで同僚の灯城が、自分の銃を特殊消防隊に倣って教会で洗礼してもらったという話をします。

火縄は銃が洗礼されてようがそうでなかろうが、撃たれた事実は変わらないのだから無駄だと言いますが、灯城は「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいいだろ」と冗談めかして言います。

灯城の話を聞いて火縄はしみじみと「なんでお前みたいな優しいやつが俺と一緒にいるのだろう」と不思議がりますが、灯城は火縄は自分が思っているよりずっと優しい人間だと、灯城の分のお盆まで一緒に片付けている火縄の行動を指摘したのでした。

 

そのあと、火縄が先に眠っている寮の部屋の窓辺で、灯城は小さくあかりをつけながら読書をしていました。夜風が外からゆっくり吹いてきたその時、灯城は指先から発火し、突然焔ビト化してしまいます。

事態に気づき飛び起きた火縄は自身の銃を構え灯城を狙いますが、心の準備ができず撃つことができませんでした。

炎に包まれ真っ赤に燃え上がる灯城は、なくなりかけている自我をふり絞って「火縄、撃て!撃ってくれ!意識があるうちに!」と叫びながら火縄に鎮魂を懇願します。

火縄は撃たなければと思いながらも撃てません。食堂で灯城が「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいい」と話していた笑顔が脳裏をかすめ、洗礼されていない自身の銃の引き金を引けなかったのです。

結局駆けつけた他の同僚たちが、洗礼されたかされてないかわからないライフルで灯城を蜂の巣にして、彼は鎮魂されたのでした。

 

この、灯城が亡くなる一連の出来事がとても心に残りました。

私もかつての火縄のように、信仰心もないし洗礼なんて意味がないと考えていましたが、灯城のいうように「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいい」というのもなぜか共感できてしまう自分を発見し、とても驚きました。

もし自分が火縄と同じ状況に立ったとしても、やはり撃つことができなかったと思います。「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいいだろ」と言ったあの灯城の気安い笑顔を思い出したら、洗礼されてない自分の銃ではどうしても撃てない。

かと言って、「この銃は洗礼しといたからこれで撃て」と銃を渡されても、自分の中にカケラも信仰する心がなかったら、やっぱりうまく撃てないのではないかとも思うのです。

 

銃にしろ剣にしろ薬物にしろ、人の命を奪うという行為はどこか儀式めいた側面があるのだと思い至りました。

この作品の特殊消防隊のように、どうしようもなくなった焔ビトを鎮魂するという、いわば安楽死のような行為でも、悪意に満ちた猟奇的殺人でも。命のやり取りには、どこか信仰に近い香りがするのだと。

 

***

 

12話は、第8特殊消防隊が浅草にある第7特殊消防隊にガサ入れに行く話で、そこで浅草の人々が第7の大隊長・新門紅丸を厚く信仰している様子が描かれます。

 

この作品世界では、東京皇国という国で人々は「聖陽教」という宗教を信仰しています。どちらかというとキリスト教に近い感じで、十字架があったり教会があったり、何かと人々は神に祈りを捧げます。

しかし第7の納める浅草地区は「原国主義」という、聖陽教を信仰しない人たちの集まりで、皆江戸の服装で、家屋や街並みも古き良き日本のそれです。

そんな”神に祈りを捧げない”浅草の人々は、「どうせ鎮魂されるなら新門紅丸に」と願っています。

紅丸は、浅草の街に焔ビトが出現すると、誰が焔ビトになってしまったのか確認し、自身の力で街を盛大に破壊します。街をめちゃくちゃにしてお祭り騒ぎしたあと、焔ビトになってしまったかつての隣人を静かに鎮魂する。一見派手で突飛な紅丸の鎮魂は、街のみんなも巻き込んだ立派な弔いなのでした。

 

自分の力ではどうすることもできない大きな力によって、自分の命が終わるとき、私は誰に鎮魂されたいのだろうと真剣に考えました。

神でもない、愛する人もいない、家族も嫌だし知らないだれかでも嫌。

しかし一方で、別に誰でもどうでもいいとも思えて、なかなか自分の本当の本音が見えないのです。自分のことなのに。

なんだったら、自分を鎮魂するのは自分がいいです。論理的に無理なんですけどね。

結局最後の最後には、私は私だけを信じるってことなのかもしれません。

私はやっぱり神を信じることはできないです。神の実在をどうやって証明したらいいかわからないし、神が裏切る可能性を否定できない。神の存在の担保を探せない。

けれど、私の意識は今はっきりと信じることができる。証明する必要も担保する必要もないのです、だってまさに”ここに”あるのですから。この体も、叩いているキーボードも目の前のスクリーンも、この文章だって実在を否定できてしまいます。それでも、全て幻で夢で本当は存在しないのかもしれなくても、今これを観測している私は確かにここに存在しているのです。

私の独在性。

 

永井均みたいな話になってしまいました。

 

存在の哲学みたいな話は出口が見えないとしても、この『炎炎ノ消防隊』は自分や誰かの命について思考をする上でとても示唆に富んだ作品でした。おわり。

のんきなおじさんになりたい:『水は海に向かって流れる』

常々思っていることに、「のんきな大人になりたい」というのがあります。

見方によってはすでにじゅうぶんのんきな大人になってるのかもしれませんが、自分の理想とする”のんきな大人”の見本のような人を目にすると、私はまだまだ肩の力が抜けきれてないなぁと思います。

最近1番好きなのんきな大人は、田島列島『水は海に向かって流れる』に出てくる主人公の叔父・ニゲミチ先生です。

水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)

水は海に向かって流れる(1) (KCデラックス)

 

すごく好きな漫画になりました。早く2巻も読みたいです。

 

主人公は15歳の男子高校生・熊沢直達くん。通う高校が実家から遠いため、学校の近くに住む叔父の家に居候することになります。

雨の日、駅に直達を迎えにきたのは叔父ではなく榊さんという若い女性でした。

仕事で手が離せないという叔父に変わって直達を迎えにきたという榊さんに連れられ、広い一軒家にやってきた直達。榊さんが振舞ってくれた牛丼の暴力的なまでの旨さにちょっと惚れそうになりつつ、与えられた自室の隣が叔父の部屋だと聞いた直達は、叔父の部屋を訪ねます。

 

襖を開けた叔父は直達に「何も言わずに この×のとこを黒く塗ってほしい」と原稿を渡します。

話を聞くと、叔父は会社を辞め漫画家になっていました。

「会社は?」

「やめた!

おじちゃんは現代人に向いてないし

風邪でも休めない現代人が大嫌い!」

それでも漫画で生計を立てられているのだからいいではないかと直達は返しますが、叔父は両親の思うような人生を送れないことが後ろめたく、親戚一同には内緒にしてほしいと言います。

さらに話を進めるうちに、この家の全貌が少しずつ明らかになります。榊さんは叔父の彼女ではなく同居人で、この家には他にも住人がいる(つまりホームシェア)のでした。

 

お家の佇まい的には雲田はるこいとしの猫っ毛』とちょっと似てるなぁと思いました。こういう日本家屋にホームシェアする住人というのは、得てしてみんなのんきになるのでしょうか。というか、のんきだから一緒に暮らしていける?

この、他人同士が絶妙な距離感でゆったり暮らしているのって、ほんと憧れます。

 

しかし、話が進むと一つの重大な過去が、登場人物たちの心情をゆっくりかき乱していきます。

それは、直達の父と榊さんの母が10年前にW不倫をして駆け落ち失踪したという事件があったこと。

直達の父はその後家庭に戻りホームパパになりましたが、榊さんの母は戻らずにそれっきり行方知れず。

榊さんは直達が、消えた母親の元恋人だということを気づいていますが、直達は10年前の記憶があやふやで父親にそんな過去があったことを知らないのです。

 

榊さんはニゲミチ先生(直達の叔父のペンネームで、みんなこう呼んでいる)から直達を迎えに行くよう言われた時渡された、熊沢家の年賀状に写っていた家族の写真を見て、直達の父に眠りかけていた静かな怒りを覚えます。

まあ当然と言えば当然ですよね。ひとさまの母親に手を出し連れ去った挙句、一人のこのこ家庭に戻って優しそうなホームパパしてるんですから。自分の母親はそのまま帰ってこず、家庭を破壊されたという被害者意識が強まって当たり前だと思います。

しかし一方で榊さんは、息子の直達は気遣いのできるとてもいい子で、彼に自分の怒りや彼の父親のろくでもない過去のことを知らせるのは得策でないとも考えます。

 

ある日、同居人一同で開催された直達の歓迎会で庭でバーベキューをしていた日、直達は偶然、榊さんと同居人の一人である教授(初老の男性。榊さんの古い知人でW不倫のことも知っている)の会話を立ち聞きしてしまい、自分の父と榊さんの母の間の過去のことを知ってしまいます。

しかし直達はとてもいい子なので、自分が聞いてしまったことは一度胸の奥にしまい、榊さんや叔父たちの気持ちを慮って振る舞います。

このあいだの彼らの、知ってるか知らないか、疑うか疑わないかの微妙な心の読み合いとギクシャクしたり思いやったりする静かな駆け引きが実に面白いです。

 

1巻の中盤、GWで帰省した直達と入れ違いで、彼らの住まいに訪ねてきた直達の父と榊さんがばったり対峙してしまう場面があります。

榊さんの要らなくなった洋服をもらうために遊びにきていた直達の同級生の楓ちゃんは直達たちの複雑な事情をよく知る一人なのですが、状況を察した楓ちゃんが急いでニゲミチ先生を起こしに行くところが大好きです。

「ニ ゲ ミ チ 先 生ー(前転しながら華麗にニゲミチ先生の布団をひっぺがす楓)

エマーーーーージェンスィー」

「もっとラノベに出てくる妹みたいに起こしてくれーっ」 

「ちょっと何言ってるかわかんない

早く下に行って!!熊沢くんのお父さんが来てるの」

「・・・・・・・・・なんで?」

「こっちが聞きたい」

「ちょっと待て

オレ何に見える!?」

「のんきなおじさん」

「そーじゃなくて 会社員に見える!?」

「うーん・・・納期前のSEになら見えなくもない・・・

じゃねーわ早くーーー」

ここ何回読んでも笑ってしまうくらい好きです。楓ちゃんもまたいい子なんですよねぇ。寝起きのニゲミチ先生が本当にどこからどう見てものんきなおじさんにしか見えなくて、楓ちゃんの瞬発的早さで繰り出される的確な表現力に脱帽です。

 

作品全体に流れる人間らしくも穏やかな雰囲気とか、ゆるいけれど能天気ではない登場人物たちの心の機微とか、懐の広さと繊細さが同居した優れた作品世界が読むたびに心地いい良作だと思います。

 

はぁー、私も早くニゲミチ先生みたいに、大嫌いな現代人を辞めて、のんきに暮らしたいです。

 

余談ですが、この漫画を読んでから私も榊さんの牛丼(通称”ポトラッチ丼”)が食べたくて、昨日スーパーで半額になっていた国産牛と普通の玉ねぎと冷蔵庫に残っていた普通のめんつゆで作りました。数年ぶりに料理しましたが、美味しかったです。おわり。

人生リセットボタンを押すか押さないか:『カルテット』

2次元が大好きでアニメや漫画やゲームばかり目がいきがちですが、最近テレビドラマも面白いなぁと思ってよく観てます。

カラオケでいつも「おとなの掟」を歌うんですが、この曲が主題歌であるテレビドラマ『カルテット』は観よう観ようと思っているうちに時が過ぎ、今日やっと観終えました。

面白かったです。サスペンスと聞いていたのでもっと殺伐とした感じかと思ってましたが、笑いあり涙ありの、テンポのいい群像劇でした。

 

ざっくりいうと、いい歳した大人の男女4人が、音楽の夢を捨てきれないモラトリアムと個々人の事情を抱え隠しながら共同生活して、だんだんそれぞれの秘密が露呈し始め関係がもつれ合いながらも、互いに支え合うヒューマンドラマです。

 

4人とも弦楽をやっていて、音楽で身を立てられたら一番よかったものの、そこまでの実力がなく、かといって趣味と割り切れるほど冷めきれず、仕事も生活も音楽もどこか欠けていて不確かな人生を送っていました。

さらには過去に身内に担がされて詐欺をしていたり、戸籍を買っていたり、家庭の事情で追われていたりと面倒なさだめも背負っています。それぞれが脛に傷もつもの同士なので、距離感がちょうど良く、波長的に分かり合える仲間になれたのです。

 

物語の終盤で、高橋一生さん演じる家森が「人生リセットボタンがあったら押すか押さないか」みたいな話をする場面がとても心に残りました。

もうメンバーみんなの抱えるものが一通りわかった頃で、打ち解けあって夕飯を囲み酒を飲み交わしている中で出た話題だったのですが、このドラマで主人公たちがボタンを押さないという理由と、私個人がボタンを押さない理由に大きな乖離を感じて、それが興味深いなぁと感じました。

 

私には、決定的に人生の選択を間違えたなと感じる時点があります。

高校卒業の頃の進路選択です。

行く大学を間違えたというのもありますが、もっと大きな方向性を見誤ったなと、振り返ると明らかにそこが汚点というか、ハンドルを切り違えた瞬間だったといまでも思います。

多分死ぬまで「あれが間違いだった」と自負しながら死んでいくと思います。

では、そんな明らかな間違いの前まで時間を巻き戻せるとして、そんなミラクルなリセットボタンが目の前に立ち現れたとして、いまの私はそれを押すか?

押しません。

いまの生活に満足しているからではありません。

間違いの人生だった、そんな中でもかけがえのない出会いがあった、なんてことでもありません。

文字通り、あの時点から私の人生はゴミです。

楽しいこともありました、でもそんなのとるにならないことです。

あの時点の手前までの、手のひらに何でもあった幸福なあの頃に比べたら、20代の時間なんて全部なんの価値も見出だせないくらい、カスみたいな人生でした。

そしてきっとこの先も、もう残念会みたいな余生しか私には残ってません。

死ぬまで永遠に過去に囚われて後悔ばかりの生活でしょう。

それでも、リセットボタンなんて押しません。

 

なぜなら、何回リセットしたって、望む人生なんて手に入らないと諦めているからです。

 

だいたい、もうやり直すような気力が1ミリも残ってません。いくら肉体が一緒に若返ってくれても、こんな地獄みたいな記憶を抱えてもう一度注意深くやり直せるような集中力は私にはありません。

もし記憶も一緒にリセットされたとしても、きっといまと似たような選択をして、同じようなゴミカスな人生しか歩めないと思います。

こう考えると、結局人生って一通りしかないのかもなぁと、しみじみ思います。

自由意志なんて、どうやって証明できるのでしょう。かといって決定論を証明できる手立てもないですが、ただただ実感として、私の人生も、誰の人生も、こんな風にしかならなかったんだろうな、と、諦念が床下浸水みたいに足元からじわじわ湧き上がってくるのです。

 

胸を捻じ切るような陰惨な事件も、後味の悪い誰かの心ない一言も、

夢みたいな楽しいひと時も、偶然みたいなラッキーな出来事も、

よくよく振り返ると全部不可抗力なんじゃないかって、根拠はないけど感じます。

そうして学習性無力感みたいな、身体の力が入らない状態になるのです。

というか、よく考えたらそうなって当たり前ですね。だって、どんなに「あの時こうすれば」とか「ああだったら」とか考えたところで、過去って変えられないですもんね。

だから無力感しかないんですね。

失敗から学習して成長しようとするような気概もないですしね。

 

***

 

私のカラオケの十八番「おとなの掟」も、今まではただ素敵な曲だなぁとだけ思ってましたが、このドラマを観た後だとさらに世界観が深みを増してもっと好きな曲になりました。


カルテット主題歌 おとなの掟 / Doughnuts Hole (椎名林檎 )

ドラマではしばしば満島ひかりさんの美しさに釘付けになりました。とても引力のある女優さんだと思いました。かなり好きです。

 

それと!!!高橋一生さんの泣きの演技がものすごく好きです!!!

これは最近ドラマ化した『凪のお暇』で完全にハマりました。

こんなに心を掴む男泣きをするのは高橋一生さんだけだと思います。あーもっと観たい。

 

秋の夜長に、3次元ドラマもこれからもっと掘り起こしたいと思います。おわり。

冴えた子守唄:WONK「Blue Moon」

一昨年くらいからかなり好きな日本のバンドの一つが”WONK”です。

ライヴも行ったことがあって、生で観ても圧倒的な演奏力と音の良さがやみつきになるのですが、最近出た新しいアルバム『Moon Dance』の1曲めが好きで好きで夜寝る時や夕方の酔っ払った気だるい時などに好んで聴きます。

Moon Dance

Moon Dance

 

 

ラジオではよく2曲めの「Orange Mug」という曲がかかっていて、こちらもとても好きで、むしろOrange Mugにつられてアルバムを購入したのですが、頭の中に絶えず流れるのはやはり「Blue Moon」なのです。 


WONK - Blue Moon (Official Audio)

 

Blue Moon

Blue Moon

  • WONK
  • R&B/ソウル
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

自分が赤ん坊の頃の記憶なんて全くなく、もし記憶があったとしてもベッドメリー(赤ちゃんの枕元でくるくる回るメリーゴーラウンドみたいなオルゴールのやつ)なんてうちには絶対なかったと思うのですが、「Blue Moon」のイントロを聴くとベッドメリーが頭に浮かび、不思議な懐かしい気持ちになります。

それでいてその後セクシーな歌声と重厚感のある低音が入ってきて、深みのあるサウンドになっていきます。この構成が非常に美しいです。

 

聴けば聴くほど”黎明”とか”静寂”とかそういう言葉がしっくりくる、ピリッと冷たくて冴えた冬の早朝みたいな感触がするし、一方で星の綺麗な夜空が見えたり広大な宇宙が見えたり(そんな感じのアルバムジャケットなのもありますが)、しかし夜の丸の内みたいなうっとりするような都会の夜の景色も見える。とても心地が良くて、でもどこかヒリヒリする張り詰めたものも感じる、奥行きのある曲です。

 

古川日出男『アビシニアン』『沈黙』とか、金子千佳『遅刻者』とか、文学ではそういう感触を持つ作品がいくつかありますが、音楽は・・・近いところではRADIOHEADのアルバム『Kid A』ですかね。でも『Kid A』にはない安らぎがこの「Blue Moon」にはあります。

こういった言語化しにくい感覚を呼び起こす作品に巡りあうと、忘れかけていた大切なものを思い出せたような気持ちと喪失感でごちゃ混ぜになり、切なくなります。

 

WONKは多分1番有名だった代表曲「savior」があまりにも素晴らしくて、この曲を超えるのは大変だろうなと思ってましたが、全然そんなことなかったです。底知れないですね。もっともっと聴きたくなるバンドです。

savior

savior

  • WONK
  • R&B/ソウル
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

 

秋の夜長にぴったりな名曲にあえて、お酒も読書もすすみます。おわり。