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ひまをつぶしましょう

どんな銃で鎮魂されたいか:『炎炎ノ消防隊』

今週ずーっと頭から離れないアニメが『炎炎ノ消防隊』でした。最新話がとても印象的で、鎮魂とか信仰とか弔いとか、そういうことをただただ思い巡らせていたのです。

炎炎ノ消防隊 Blu-ray 第7巻

炎炎ノ消防隊 Blu-ray 第7巻

 

原作はマガジンで連載中の漫画らしく、そちらも読まなければなぁと思っています。

アニメはOPがアニメーションと曲がぴったりあっていてとてもかっこよくて、本編はちょっと独特のテンポで癖がありますが、音楽が非常によくてドラマティックです。サウンドトラック12月に出るみたいですね。欲しいです。 

炎炎ノ音楽隊〜TVアニメ『炎炎ノ消防隊』オリジナルサウンドトラック〜

炎炎ノ音楽隊〜TVアニメ『炎炎ノ消防隊』オリジナルサウンドトラック〜

 

 

先週末放送された第11話と12話がとてもいい話で、泣けるし、自分の信仰心や魂というものの捉え方などについてかなり考えさせられる回でした。わかりやすくいうと”神回”というやつです。

 

***

 

作品のあらすじは以下。

太陽暦佰九拾八年、東京皇国。この世界は、とある大災害を境に始まった人体発火現象「焔(ほむら)ビト」による脅威に苛まれていた。突然、自身の体から発火した者は瞬く間に全身が炎に包まれ、自我を失い命が尽きるまで周囲を焼きつくすのである。この脅威に対応して、一般市民を炎の恐怖から守り、人体発火現象の原因と解決策を究明するために「特殊消防隊」が組織された。

幼い頃からヒーローに憧れを抱く少年・シンラは、12年前に突然の火事によって母親と生まれたばかりの弟を亡くしてしまう。足から炎を出す事ができる「第三世代」の能力者であったシンラは、自らの体から発した炎が火事を引き起こした出火原因だとされ周囲から迫害を受ける。しかし、シンラは母親と弟と自分以外の第三者が室内にいたことを目撃しており、その人物が犯人ではないかと考えていた。

訓練校を卒業し「第8特殊消防隊」に配属されたシンラは、母親と弟のような被害者を増やさないため、また母親と弟を殺した犯人を捕まえ自らに被せられた濡れ衣を晴らすために、仲間たちと共に訓練と消防活動に奮闘する。その中で、暗躍する謎の男「ジョーカー」や焔ビトの秘密を握る組織「伝導者一派」、時に他の消防隊との戦いを繰り広げていくことになる。

Wikipediaより)

私的神回の第11話は、主人公・シンラが属する第8特殊消防隊がどのように結成されたのかというお話です。

 

第8特殊消防隊の中隊長・武久火縄は昔は軍人でした。火縄は自分のことを冷徹なリアリストのように思っていて、信仰心も優しさもかけらもない人間だと自身をみなしていました。

ある日火縄と仲の良いルームメイトで同僚の灯城が、自分の銃を特殊消防隊に倣って教会で洗礼してもらったという話をします。

火縄は銃が洗礼されてようがそうでなかろうが、撃たれた事実は変わらないのだから無駄だと言いますが、灯城は「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいいだろ」と冗談めかして言います。

灯城の話を聞いて火縄はしみじみと「なんでお前みたいな優しいやつが俺と一緒にいるのだろう」と不思議がりますが、灯城は火縄は自分が思っているよりずっと優しい人間だと、灯城の分のお盆まで一緒に片付けている火縄の行動を指摘したのでした。

 

そのあと、火縄が先に眠っている寮の部屋の窓辺で、灯城は小さくあかりをつけながら読書をしていました。夜風が外からゆっくり吹いてきたその時、灯城は指先から発火し、突然焔ビト化してしまいます。

事態に気づき飛び起きた火縄は自身の銃を構え灯城を狙いますが、心の準備ができず撃つことができませんでした。

炎に包まれ真っ赤に燃え上がる灯城は、なくなりかけている自我をふり絞って「火縄、撃て!撃ってくれ!意識があるうちに!」と叫びながら火縄に鎮魂を懇願します。

火縄は撃たなければと思いながらも撃てません。食堂で灯城が「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいい」と話していた笑顔が脳裏をかすめ、洗礼されていない自身の銃の引き金を引けなかったのです。

結局駆けつけた他の同僚たちが、洗礼されたかされてないかわからないライフルで灯城を蜂の巣にして、彼は鎮魂されたのでした。

 

この、灯城が亡くなる一連の出来事がとても心に残りました。

私もかつての火縄のように、信仰心もないし洗礼なんて意味がないと考えていましたが、灯城のいうように「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいい」というのもなぜか共感できてしまう自分を発見し、とても驚きました。

もし自分が火縄と同じ状況に立ったとしても、やはり撃つことができなかったと思います。「どうせ撃たれるなら洗礼された銃の方がいいだろ」と言ったあの灯城の気安い笑顔を思い出したら、洗礼されてない自分の銃ではどうしても撃てない。

かと言って、「この銃は洗礼しといたからこれで撃て」と銃を渡されても、自分の中にカケラも信仰する心がなかったら、やっぱりうまく撃てないのではないかとも思うのです。

 

銃にしろ剣にしろ薬物にしろ、人の命を奪うという行為はどこか儀式めいた側面があるのだと思い至りました。

この作品の特殊消防隊のように、どうしようもなくなった焔ビトを鎮魂するという、いわば安楽死のような行為でも、悪意に満ちた猟奇的殺人でも。命のやり取りには、どこか信仰に近い香りがするのだと。

 

***

 

12話は、第8特殊消防隊が浅草にある第7特殊消防隊にガサ入れに行く話で、そこで浅草の人々が第7の大隊長・新門紅丸を厚く信仰している様子が描かれます。

 

この作品世界では、東京皇国という国で人々は「聖陽教」という宗教を信仰しています。どちらかというとキリスト教に近い感じで、十字架があったり教会があったり、何かと人々は神に祈りを捧げます。

しかし第7の納める浅草地区は「原国主義」という、聖陽教を信仰しない人たちの集まりで、皆江戸の服装で、家屋や街並みも古き良き日本のそれです。

そんな”神に祈りを捧げない”浅草の人々は、「どうせ鎮魂されるなら新門紅丸に」と願っています。

紅丸は、浅草の街に焔ビトが出現すると、誰が焔ビトになってしまったのか確認し、自身の力で街を盛大に破壊します。街をめちゃくちゃにしてお祭り騒ぎしたあと、焔ビトになってしまったかつての隣人を静かに鎮魂する。一見派手で突飛な紅丸の鎮魂は、街のみんなも巻き込んだ立派な弔いなのでした。

 

自分の力ではどうすることもできない大きな力によって、自分の命が終わるとき、私は誰に鎮魂されたいのだろうと真剣に考えました。

神でもない、愛する人もいない、家族も嫌だし知らないだれかでも嫌。

しかし一方で、別に誰でもどうでもいいとも思えて、なかなか自分の本当の本音が見えないのです。自分のことなのに。

なんだったら、自分を鎮魂するのは自分がいいです。論理的に無理なんですけどね。

結局最後の最後には、私は私だけを信じるってことなのかもしれません。

私はやっぱり神を信じることはできないです。神の実在をどうやって証明したらいいかわからないし、神が裏切る可能性を否定できない。神の存在の担保を探せない。

けれど、私の意識は今はっきりと信じることができる。証明する必要も担保する必要もないのです、だってまさに”ここに”あるのですから。この体も、叩いているキーボードも目の前のスクリーンも、この文章だって実在を否定できてしまいます。それでも、全て幻で夢で本当は存在しないのかもしれなくても、今これを観測している私は確かにここに存在しているのです。

私の独在性。

 

永井均みたいな話になってしまいました。

 

存在の哲学みたいな話は出口が見えないとしても、この『炎炎ノ消防隊』は自分や誰かの命について思考をする上でとても示唆に富んだ作品でした。おわり。