れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

人との関係性と食事:『セッちゃん』

日比谷シャンテの3階にある本屋「日比谷コテージ」が好きです。

今年の冬の終わりくらいに、日比谷で映画を観ようとチケットを買って、開場前の暇つぶしに日比谷コテージをふらついていた時手に取った漫画がずーっと意識の底からはがれ落ちずにひっそりと佇んでいました。それが大島智子『セッちゃん』。

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 

ほんわかとゆるいタッチのイラストで、ストーリーは明るくも暗くもなく、ドラマティックな展開といえば主人公の女子大生・セッちゃんがヘルシンキの空港で撃たれて死んでしまうくらいなのですが、なぜかずっと心に残る不思議な作品です。

小学館のサイトで試し読みができるようです。

 

誰とでも寝てしまう女子大生・セッちゃん(セッちゃんのセはセックスの「セ」なのだそう)と、ひょんなきっかけで仲良くなる少し冷めた常識人の同級生・あっくん。

セッちゃんは誰とでも寝るけどあっくんとだけはセックスすることはないです。二人は友人であり、恋人同士にはならないけれど不思議な仲の良さを育みます。

作品の舞台は現代日本と同じようなSNSスマートフォンが発達した世界ですが、物語の中では学生運動や世界的な社会運動が活発になってきていて、まるで1960~70年代と平成をミックスしたような世界観です。

 

平成のお気楽でお手軽な平和な日常と、それらをじわじわ脅かそうとする社会的な闘争の動きがあり、アンバランスで危うい日常生活の中でセッちゃんもあっくんも精神的に均衡を保ちにくくなり、それでもお互いが絶妙な距離感で補い合ってなんとか健全に生きていこうとします。

そして最後、日本の生活に疲れてフィンランドに留学することにしたあっくんと、あっくんに会いに行くことにしたセッちゃんは、ヘルシンキの空港で久々の再会・・・したところでテロリストが銃を乱射してセッちゃんは呆気なく撃たれて死んでしまいます。

その後も特に悲愴的な感じはなく、淡々と時間が進んで物語は終わります。

 

この作品がどうしてずっと心に残るのか、もう一度よーく考えてみましたが、はっきり指摘したり言い表すことができなくて、でもとても好きな作品となりました。

まず、セッちゃんが自分にとってとても魅力的なのだと思います。

セッちゃんはそこそこお金持ちの家庭の長女で、年の離れた妹・うたちゃんのことは大好きですが、それ以外の家族はそこまで愛着を持っていないように見えます。父親に至ってはセッちゃんが死ぬまでずっとセッちゃんを軽蔑している態度でかなり実家は居心地が悪かったようです。

セッちゃんが誰とでも寝るのは、淋しがり屋ではあるけれど会話による微細なコミュニケーションが苦手で、本音と建前を使い分けて度々精神的に摩耗したり、誰かと結託したり深い仲になるのが好きではないからだと思います。

若くて可愛いセッちゃんが相手であれば、男子や男性のほとんどはセックスができればそれ以上あまり深入りしてこなくて、たまに本気でセッちゃんにのめり込みそうになる男とはセッちゃんは距離を起きスッと逃げます。

 

セッちゃんの、他人との距離感がとても好感が持てます。

セッちゃんは相手に過度に求めないし、セックス以外は取り立てて何か与えたりもしないし、自分の考えはあるけれどそれを押し付けたりはしないし、かといってなんでも素直に口に出すかというとそうではなくて、不用意な言葉は発しない奥ゆかしさがあります。そして受け取った側が卑屈にならない程度に優しさもあります。

職場の同僚がみんなセッちゃんみたいな性格だったらいいのに・・・(遠い目)。

 

セッちゃんとあっくんの仲も素敵です。

私は男女問わず友達がいないので、男女の友情が成立するか否かという議論になんの主張も自己体験も持ち合わせていないのですが、セッちゃんとあっくんみたいな関係性が友情の一種なのだとしたら、そういう友人がほしいなと思います。

軽口叩いたりからかったりもする、一緒に映画を見たり部屋で漫画読んだりダラダラできる、そして一緒にカレーを食べると美味しくて、でもセックスはしない、そんな関係。別に男女じゃなくて同性同士でもいいのかもしれませんが。

 

セッちゃんが親から大量に送られてきた野菜に困ってあっくんとカレーを作って食べる場面が、なんだかはっとさせられました。

自炊なんて滅多にしない二人が作ったカレーは、ご飯もべちゃべちゃで野菜も火が通りきっていなかったりして、お世辞にもいい出来とはいえないんですが、

セッちゃんは「だれかとするよりおいしい」と口にして、セックスと食事を混同したセリフに自分自身うろたえながらも、「おいしいよ、ふつうに」と食べ続けながら向かいに座るあっくんを盗み見ます。

あっくんもなんともいえない嬉しい気持ちになりながら、二人は黙々とカレーを食べ続けるのでした。

 

接待やら忘年会やら、仕事で必要に迫られた時以外、誰かと食事をするというのがもう何年もないので、一緒に食べる相手によってそんなに味が変わる(というか美味しくなる)ことがあるのかといまだに懐疑的な私ですが、逆に食事が不味くなることは確実にあって、それはいまだに度々体験することです。

料理の味が一番よくわかるのは一人で食べる時だと私は思っていて、基本的に食事はずっと一人でとっています。普段の食事は単なる栄養補給なので特段味わうこともないですが、グルメを求めて行く旅行先の有名店や話題の新店などは必ず一人で行きます。まあ単純に一緒に行く人もいませんが。

 

この習慣の起源は中学2年生くらいまで遡ります。

当時まだ実家に住んでいた私は、核家族の父、母と3人で暮らしていて、両親は働いていたので毎日一緒のテーブルにつくことはなかったですが、月に何日かは3人が食卓に揃うことがありました。

その日は地元の美味しいお肉屋さんでユッケや牛肉のたたきなどを買ってきて夕飯に並べていました(昔から生肉大好きなのです)。

美味しいお肉に機嫌よく箸を進めていたのですが、途中で今となってはよく覚えてない些細なことで斜向かいに座る父と口論になり、我慢ならなくなった私は肉を食べきって自室に引き上げムカついて泣きました。

父の言い分や言い方にもきっと腹を立てていたのだと思うのですが、私が何より許せなかったのは、自分の好物である美味しいものを、つまらない人間のせいでじっくり味わい堪能することができなかったことです。

この出来事はある種の”食べ物の恨み”となって私の記憶に深く刻まれ、それ以来今に至るまで父とはほぼ会話していません。同じ食卓につくこともなくなりました。

もっとも、父はその後まもなく単身赴任して別々の住まいになったこともあるのですが、私はそれ以来誰かのせいで美味しいものの味が損なわれることが許せなくなり、本当に味わって食べたいものは一人で食べることにしたのでした。

 

そんなことがあり、私は「誰かと食べるほうが美味しい説」には確固としてNOと言うのですが、でも失敗したカレーでさえ美味しくしてしまうような相手に出会えたら、それはとても幸せなことだろうなとも思いました。

だからセッちゃんが若くて可愛くてしかもまだ空港に着いたばかりだったのにも関わらずいきなり撃たれて死んでしまっても、セッちゃんの人生は全然悔しくないし何も勿体無くないし、むしろそれでよかったのかも、とも思えるようなスッとした最期なのでした。

あっくんが、誰とでも寝てしまうセッちゃんの人生を、辛気臭くないさっぱりものにしたんですね。よかった。

恋とか愛とかだけが人生を救うのではないんですね。おわり。