れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

しがらみに囚われないために:『叶恭子の知のジュエリー12ヵ月』

叶恭子さんの良著を読みました。 

叶恭子の知のジュエリー12ヶ月 (よりみちパン! セ)

叶恭子の知のジュエリー12ヶ月 (よりみちパン! セ)

 

ひと月ごとに「関係」や「お金」や「孤独」と言ったテーマを設け、恭子さんの考えを非常に簡素な言葉で綴った名言集のような本です。

誰が読んでも感銘を受ける内容ではありますが、特に思春期の女の子のために書かれたような記述が中心です。

 

毎月のテーマの最後に10代女子からのQ&Aコーナーがあるのですが、それぞれの質問に対する恭子さんの真摯な回答が特に印象的でした。

私がそれらを読んでいて「そういえば・・・」と思い出したことの一つが”女子の連れ立ってトイレに行く現象”でした。

トイレなんて人間として用をたしに行くだけの場所なのに、小学校高学年くらいから、なぜか数人でゾロゾロとトイレに行く現象が出現していました。

私はあまり連れションした記憶はありません。単純に休み時間にトイレに行くのでみんなタイミングが一緒だっただけなのでは?とも考えられます。

けれど中には、確かに用をたすでもないのにゾロゾロと団体でトイレに連れ立って、鏡の前でやたらと櫛で前髪をときまくったり、リップを塗りたくったりする女子も存在していた、ような記憶がぼんやりとあります。

 

また、昼食のグループに関しては、中学までは給食だったので席順でグループを強制的に作らされ男女混合で一緒に昼食をとりましたが、高校生の頃はそれぞれ好きなようにグループを作り机を動かしてお弁当を一緒に食べていました。

正直そういうグループ作りに苦労した経験がないので、Q&Aコーナーに出てきた「好きでもない奴らと一緒にトイレに行ったりお弁当食べたりするのはしんどいけど仲間はずれにされていじめられるのは怖い」みたいな悩みは自分にも自分の周りにも確認できませんでした。

ただ、高校2年生の時、いつも教室でただ1人誰とも机をくっつけず静かにお弁当を食べていた女の子がいたことは、とてもよく覚えています。彼女はクラスの中でも存在感の薄い子で、持ち物や見た目も地味で成績も運動神経もそんなに良くない、普通の女の子でした。

彼女をいじめたり陰口を言う人は存在しなかった(と思う)けれど、彼女はどんな場面でも大抵1人で、授業やイベントごとでグループを作らなければいけない時は、誰かが気を利かせて混ぜていた感じだったと思います。

 

私は高校時代ずっと7人組の女の子グループでお昼ご飯を食べていました。たまたま入学してすぐ打ち解けた女の子たちと自然に集まって過ごしていただけでしたが、自分の斜め左数メートル先で、静かに1人でお弁当を食べていたその女の子にどこか憧れを抱いていました。俯くでもなく、悲壮な感じでもなく、ただ淡々と1人でお弁当を食べる彼女がとても大人に見えて、無理して自分もすぐに真似することはなくても、例えば大学生になったらああいう風に過ごしてみたいと考えるようになりました。

 

そしてその願望の通り、大学生になった私は授業やイベント事以外でクラスメイトとはあまり深く付き合わないようにし、お昼ご飯や休み時間は自分のためだけの時間として自分の食べたいものを食べ、自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをするようにしました。

高校生の頃憧れていた彼女のように、食堂で周囲が賑やかに食事をとっていても、気にせず1人で自分の食事をした時「こんなに簡単で清々しいものなのか」ととても腑に落ちました。

きっと無意識のうちに、高校時代までの私も、心の奥底では一人になりたくない恐怖を抱えていたのだと思います。だから憧れつつも結局1人になりきれなかったんです。

 

冷静に分析するとこれはとても不思議なことだと思います。

私は一人っ子で、生まれた時から基本的に1人で過ごすことが多かったのです。家でお留守番するのも大好きだったし、自分一人を楽しませる術は幼い頃から無数に持っていました。

それが、保育園に入って小学校に入って中学校に進んで行くうちに、いつの間にか少しずつしがらみに足を絡ませていたのです。

 

一体どこで、いつの間に?

 

社会人になってから、私には友人が一人もいません。学生時代の友達とは、誰一人として連絡をとっていません。たまに自虐ネタのように言うこともありますが、実際のところそれで不自由がほとんどありません。

小学生〜高校生くらいまで、夏休みのお祭りや週末のお買い物など、どの友達(あるいは男の子たち)と行くか、毎回計算していた気がします。

友達と撮ったプリクラをノートや筆箱に貼って、別の友達とそれらを交換し、”プリ帳”(死語?)に貼り連ねていたあの頃。私は一体何を目指して、どうしたかったのだろうと、なんだかおかしな懐かしさを感じます。

 

私はたまたま周囲の人々に恵まれていたので、激しいいじめに遭ったことも、それを傍観したこともないですが、環境が違えばそう言う場面に巻き込まれていたかもしれません。

技術がこんなに発達して、いろんな手立てがあるにもかかわらず、未だにいじめによる10代の自殺のニュースはなくならないのは、知らず識らずのうちにしがらみが育っていて、それらに皆足を掬われて囚われてしまうのも一因だと思います。

 

謎の同調圧力、足の引っ張り合いや出る杭を打つ監視体制は、遅くとも小学校高学年から大人の社会にまで蔓延っているんだと思います。

そういうしがらみに囚われないためには、常に自分と対話し、自分の声に誠実に耳を傾けることが不可欠なのだと、恭子さんの言葉を読んで再認識しました。おわり。