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れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

もう二度と会えない事実:『塩狩峠』

私は祖父母を含む親戚一同皆生きており、身近な家族を亡くしたことがありません。

小中高校、大学の同級生や社会人の同期も、今は誰とも会うことはないけれど、亡くなった知らせを聞いたことはありません。

仕事で出会った様々な人も、病気したりすることはあっても訃報を聞いたことはなく、おぼろげな記憶の曽祖母のお葬式以外、葬儀に出た記憶はないです。

 

そんな私が「死んだ人間にはもう二度と会えない」という事実を突きつけられたのは、中学時代に三浦綾子塩狩峠』を読んだ時でした。

塩狩峠 (新潮文庫)

塩狩峠 (新潮文庫)

 

この物語は長編で、あまり好んで読み返す作品ではないのですが

初めて読み終えた時の衝撃があまりにも強く、10年以上たった今でも意識に深く刻まれていて、何かのきっかけで思い出すことがあります。

この作品はまるで何かの美談のように語り継がれたりすることも多くて、作者の三浦綾子キリスト教信者なせいもあって、後半はややキリスト賞賛っぽい雰囲気も出てきてしらける場面もあります。

それでも私がこの作品をどうしてこんなに忘れられないかというと、一番最後の、恋人を失った女性・ふじ子の絶望が全く救いようがなかったからです。

 

結納の日、もう結婚するという日の、幸せの絶頂にいたふじ子。彼女は幼い頃から片足に障害があって、いろいろと不憫な人生を歩んできた女性です。

そんな彼女が、大人になってようやく掴みかけた幸せが、一瞬にして消え去ります。

物語の主人公であり、ふじ子の恋人である信夫は、結納に向かう列車で事故に遭い、多くの乗客の命を救うために自らが犠牲となり、帰らぬ人となります。

信夫は死んでしまいますが、その勇敢なおこないに周囲は彼を褒め称えます。

 

しかし、私は信夫が賞賛されればされるほど、やりきれない虚しい気持ちでいっぱいになるのでした。

どんなに信夫が素晴らしい人間だと称えられたところで、信夫は二度と帰ってこない。

もう二度と会えない。

この事実にどうすることもできないふじ子の、最後、信夫が亡くなった場所に花を手向けに行く場面は、思い出すだけでもやり場のない悲しみで胸がいっぱいになります。

 

 

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私はこの場所(このブログ)で、自分が直近で観て・聴いて・読んで、心に残った作品を通して私自身をかえりみるということをしています。

しかし、上記の『塩狩峠』は、最近読み返したわけではありません。

 

自分のよく知る場所で、自分のよく知る場所の人々が、突然に命を落とした悲しい事故がありました。

自分がすごく親しかった人でなくても、ある程度距離の近い人が、全国ニュースになるくらいの大きな事故に巻き込まれて亡くなりました。

職場でニュースを観た時、思考がすっと静かになり、報道を見ながら言いようのない・それまで体験したことのないような気持ちになりました。

そんな時、脳裏にふっと現れたのが、『塩狩峠』を読んだ時にひたすら訴えられた、死んだ人間にはもう二度と会えないという事実でした。

 

冒頭に書いたように、私は家族も同級生も同期も同僚も、身近な人間をなくした経験がありません。

自分にとって大切な誰かを失った経験がありません。そして、大切な人というものを持っていません。

どんなにイメージしても想像の域を出ませんが、もし自分にとってかけがえのない人(恋人か、配偶者か、愛する人との間に生まれた子供か・・・)が、事故や事件や病気や災害で命を落とし、もう二度と会えなくなったとしたら、

私はきっと立ち上がれないのではないかと思うのです。

想像するだけで、怖くて動けなくなります。

前に別の何かでも書きましたが、私はとにかく人一倍「失うこと」が怖いです。

だからあらかじめ、失いたくないものは持たない。そういう人生を送ってきました。

それでも、今回のニュースで、心がこんなに抉られるなんて、思ってもみませんでした。

 

ぼやぼやと不真面目に生活していて、いきなり闇から殴られたような、そういう出来事でした。

20代や30代くらいで、何も考えずに生きていると、”死”というものが知らぬ間に遠くへ隠れてしまいます。

本当はいつも自分とともにあるのに。

 

 

 

亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。