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ひまをつぶしましょう

人間の選択の余地について2 『PSYCHO-PASS サイコパス』

人間が、人生の中で何度も下す「選択」。

それについて考えさせる2つ目の物語は、最近新編集版が放映されたアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』です。

#1 犯罪係数

#1 犯罪係数

  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: Prime Video
 

 舞台は、人間のあらゆる心理状態性格傾向の計測を可能とした「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測されており、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた [7] [8] [9] [10][11]

そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行なっていた。

この物語は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。 (PSYCHO-PASS - Wikipediaより)

初めてこのアニメが放映された2012年のとき、第一話を観た私は、常森朱のクセのある目元と、最初の事件の犯罪の描写がキツくて視聴の継続を断念してしまいました。

しかしなかなか評判がよく、今年新編集版としてもう一度放映され、改めて観てみると、これは凄いアニメでした。

 

ヒロインの常森朱は、知能も精神力も非常に優れた、この物語世界での優等生です。

世の中を支配するシビュラシステムからも非常に高い評価を受け、就職先もよりどりみどり、何を選んでも輝かしい未来が待っている、そんな女の子。

彼女の友人たちはそうではありません。この世のほとんどの凡人は、システムに勧められた極わずかな選択肢しか持ち合わせていないのです。そして、それに従うことが一番幸せな人生なんだと、誰もが信じています。シビュラシステムは、人々にとって"完全無欠"な決定機関なのです。

常森は、そんな豊富な選択肢の中から公安局の仕事を選び、そこで監視官として働き始めます。

監視官の下には、犯罪係数が規定値を超えているが、捜査に有用なため生かされている執行官という部下たちがいます。そして、彼らとともに数々の事件を捜査していく中で、「槙島聖護」という、極めて非道で残忍な凶悪犯を追っていくことになります。

 

私はこのアニメの登場人物の中で、槙島聖護が一番好きです。

彼は確かに犯罪者で、他人の犯罪を幇助するし、自分の手で人も殺します。

ところが、彼の犯罪係数はものすごく低く、システムの監視の目にひっかかりません。

彼のように、明らかに犯罪者(それも凶悪犯)なのに犯罪係数が上がらない人間を「免罪体質」といいます。 

槙島は、シビュラシステムに支配されている日本を嘆き、システムの支配を解こうとします。

 

槙島は、システムに従う世の中の人々は人間ではなく家畜であると言います。

何故人々が、退屈な世の中でおとなしく家畜として生きていられるのか、何故自分が支配されていることに気づかず、何の反旗も翻さないのか不思議でたまらないといった感じです。

にこにこしながら平気で人の首を切り裂くような彼に、どうして惹かれるのでしょう。

槙島は救いようのない凶悪犯ですが、彼の思想には、思わず共感してしまう何かがあります。

槙島の思想。それは一貫して「人間は自らの意思で選択・行動するからこそ価値がある」というものです。

システムに従う者が人間ではなく家畜に見えるのは、彼らは自らの意思で選択しないし行動しないから。

その通りだ、と心のどこかで思ってしまう。自分の強い信念に従い、自分で考え自分で行動を起こしている槙島は、その他大勢のおとなしい家畜とは、違うレベルで人間らしいと感じてしまう。彼は最悪の犯罪者なのに。

 

別にシビュラシステムは、人々を家畜にするために作られたのではないでしょう。

実際、シビュラの支配のおかげで、世の中は非常に上手く回っています。犯罪者になりそうな輩は予め規定値を超えた係数で弾かれているし、精神の健康状態は常にチェックできるので、危なくなったら適切なケアを受けられます。何十社もエントリーして履歴書書いて面接するような就職活動をしなくても、システムが自分に一番適した仕事を用意してくれるのです。ストレスのない幸せな社会。

え?自分には世の中の底辺みたいな仕事しか与えられない?それは底辺なんかじゃありません。あなたのその仕事も、社会に必要な立派な仕事です。そんなふうに、他人と比べて自分を卑下していては、ほら、サイコパスが濁ってしまいますよ・・・。

 

このアニメを観ていて思ったのは、"価値がある"と"幸せである"は、全然近い概念じゃないんだなってことです。

自分の意思で選択すること。それは確かに価値がある。私はどうもそう考えているようです。最近気づきました。

自分で考えないで、自分で決めないで、自分で選ばない、そんな人生、生きててどうするんだって思いました。何でも用意されて、先が見えてる人生に"価値がある"とは思えません。

しかし、自分の意思で選べるということは、必ずしも"幸せである"とは言えません。むしろ、多くの場合不幸であるような気さえします。

こっちを選んだほうが美味しい、こっちの友達と一緒にいた方が得だ、こっちの学校に進んだ方が面白い、この仕事が一番あなたにとってストレスが少ない。全部用意してもらえたら、どんなに幸福だろうと思います。何の痛みも苦しみもない、こんなにいいことないなって思います。

私の人生は、私の選択でここまでやってきました。シビュラシステムなんてものはまだありませんので、論理的には私は何にでもなれるはず。でも、私の選んだこの道は、数あるパターンのうちで最良のものだったかと訊かれると、多分違うような気がしています。実際、私はここまで結構な痛み・苦しみ・悲しみを経験しました。

人間は、まったく見当違いな選択をいくらでもしでかします。それは不幸なことでしょう。それを選ぶと痛い目をみる、やめておけとどんなに他人に忠告されても、選択肢があると人間は選んでしまう。選べるから、選んでしまうのです。

 

"幸せ"のために生きるなら、選択の必要がない世界で暮らす方がいいでしょう。

だから、こういった物語がいくつも作られ、語られるのです。憧れるんでしょうね、きっと。選択って疲れますから。

"価値"のために生きるなら、なにものにも支配されず、自分の意思でいくらでも選べる、そういう世界で生きるべきでしょう。

でも、"価値"って、一体何なのでしょうか。

どうして私は、私の人生を"価値あるもの"にしたいのでしょう。

 

そしてここにきて、"価値がある"、"幸せである"という言葉自体が形骸化してきます。

"価値がある"から"幸せである"のか?

"幸せである"から"価値がある"のか?

いたちごっこ、だんだんその言葉自体に、意味があるのかないのかわからなくなってきます。

 

ただ、私はやっぱり槙島聖護が好きです。

彼の人生・生き方には"価値がある"と思いますし、彼が"幸せ"であったかどうかはわかりませんが、彼の存在は限りなく"かけがえのないもの"のように見えます。

そして、自分も願わくばそうありたいと、心のどこかで思っています。おわり。