れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

人間の選択の余地について1 『ギヴァー』

この頃、人間が生きていく上でなす「選択」という行為について、考えさせる物語に2つ出会ったので、それらについて書いてみたいと思います。

1つめはアメリカの児童文学で、ロイス・ローリー『ギヴァー 記憶を注ぐもの』です。

ギヴァー 記憶を注ぐ者

ギヴァー 記憶を注ぐ者

 

時は今からはるか先の未来。主人公の少年ジョナスが12歳になる前から物語ははじまります。

彼は<司法局>につとめる知性豊かな母と、<養育係>として新生児を育てる仕事をする穏やかな父と、もうすぐ8歳になるおしゃべりでおてんばな妹と暮らしています。

彼らは<家族ユニット>を形成していますが、私たちが普段想定している"家族"とは違った関係です。

彼らの住むコミュニティでは、子供は<出産母>という任務につく女性からしか産まれません。1人の<出産母>が産むことができるのは3人までで、1年間にセンターで育てられる新生児は50人と数が決まっています。産まれた新生児は<養育センター>で<養育係>が面倒を見ます。

そして毎年12月になると、コミュニティ全員が集まって大講堂で儀式が開かれ、新生児は1人1人名前を授かります。ここではじめて、新生児は"人間"として扱われ、生活し始めます。名前をもらった彼らは、子供を持ちたいと申請し許可された<家族ユニット>にもらわれていきます。1つの家族ユニットがもてる子供の数は2人で、必ず1男1女でなければなりません。

12月の儀式は、新生児の命名にはじまり、1歳の儀式から12歳の儀式まで1歳ずつステージがあります。この世界では"誕生日"というものはなく、12月の儀式で皆1歳ずつ年をとります。

12歳の儀式では、子供たちは委員会が下した<任命>によって、その後の仕事を命じられます。仕事をもった彼らはもう大人の仲間になり、訓練を受けながら任命された仕事をまっとうします。

仕事の任命はコミュニティにとって非常に重要なタスクであり、長老たち<委員会>が、子供が幼いころから注意深く観察し続け、それぞれの子供に1番適しているとされる仕事を任命することになっています。

 

つまり、このコミュニティ、この物語の世界では、仕事は自分で選べません。そして、自分で選ぶという発想がそもそも浮かんでこないよう、人々は洗脳・管理、すなわち<同一化>されています。

仕事だけでなく、自分の子供すら自分で作らないし、産みません。子供は申請して"与えられる"ものです。

食べ物もすべてコミュニティで用意されたメニューを食べますので、各家庭で料理することもありません。

個人の移動手段の乗り物は、9歳の儀式で与えられるネームプレート付きの自転車のみ。夜の外出も禁じられています。新生児と<老人>以外の他人の裸を見ることも禁止。他人に触れることもよしとされていません。とにかくこの世界では、あらゆるものが制限され禁止されているのですが、人々は薬物その他で抑制されている(<同一化>されている)ので、そもそもそんな"へんな気"は起こさないのです。

もし何かの間違いで規則に違反してしまったら、コミュニティ中にある監視の目がすぐさま捉え、<告知者>が警告のアナウンスをスピーカー越しに発します。重大な規則違反を3回すると、コミュニティから<解放>されます。

この世界は、綿密に<同一化>されているのです。

 

現代の私たちから見ると、非常に抑圧された環境に思えますが、物語の世界で人々は特に不満がなさそうに、楽しそうに暮らしています。とても穏やかな世界です。

 

そしてジョナスは12歳の儀式を迎えます。産まれた順番に番号を持つ子供たちは、1番から順に名前を呼ばれ、ステージに上がり、<主席長老>から任命されます。

ところが彼は順番を飛ばされてしまいます。

ジョナスの心は恥ずかしさと恐怖で大混乱。いったい自分は何を間違ってしまったのか?と焦ります。しかし<主席長老>は、50番目まで任命し終えると、やっとジョナスの名前を呼びます。

おそるおそるステージに上がったジョナスは、非常に名誉な仕事とされる<記憶の器(レシーヴァー)>に任命されました。

 

ジョナスの住むコミュニティでは、<レシーヴァー>とよばれるただ1人の人物が、記憶を管理しています。ここでの記憶とは、文字通りの記憶のほかに"歴史"という意味合いもあります。

つまりコミュニティの人々は、世界の成り立ちを何一つ知らず、ただ自分が意識を持ち始めてからの、自分の生活の記憶しか持っていないのです。"過去"を何も知りません。歴史という概念すら知らず、また知りたいと願うこともないように<同一化>されています。

<レシーヴァー>はコミュニティの中で1人、あらゆる過去の記憶を持ちます。しかし、それを他人に話すことはしません。ただ、コミュニティの運営において新たな事態が起きた時、<委員会>が<レシーヴァー>に助言を請います。それに<レシーヴァー>は記憶を使って応えます。

<レシーヴァー>が何らかの限界を迎えると、後継者が選抜され、新たな<レシーヴァー>に自分の持つすべての記憶を特殊な方法で与えます。このとき、記憶を与える側は<記憶を注ぐ物(ギヴァー)>にもなります。

 

ジョナスは<レシーヴァー>に任命されてから、これまでの<レシーヴァー>であった老人<ギヴァー>に訓練を施され始めます。

訓練でジョナスは、あらゆる記憶を与えられます。記憶の伝授は魔法のような特殊な方法でおこなわれるのですが、そこでジョナスは記憶を五感(あるいは六感)でリアルに追体験します。

楽しい記憶、素晴らしい記憶がたくさんありますが、非常につらい記憶、悲しい記憶、痛い記憶も同じくらいたくさんあります。

橇から転倒して脚を骨折した記憶を体験した後も、ジョナスの脚は(現実にはなんの外傷も負っていませんが)痛みで疼き続けます。

それまで感じたことのなかった数々の痛みに、ジョナスは打ちのめされ、そして憤慨します。どうして自分だけがこんなに痛い思いをしなければならないのか?何故選ばれた1人の<レシーヴァー>だけがこのような苦しみを一手に引き受けなければならないのか?

いつしかジョナスは、記憶はみんなで分かち合うべきものだと考え始めるようになります。<同一化>された世界に、反感と違和感を覚えます。

 

特に印象的なシーン。

 「おかしいですよ、世界に色がないなんて!」

<ギヴァー>はまじまじとジョナスを見つめていった。「おかしい?どういうことか説明してごらん」

「それは……」ジョナスは言葉に詰まった。自分が何を言いたいのかよく考えてみた。

「すべてが同じなのであれば、選択のしようがないですよ!ぼくは朝起きて、どうするか決めたいんです!たとえば、今日は青い上着を着るか、それとも赤い上着にするか」

それから自分の服装を見下ろし、色のない服の布地を見つめてつぶやいた。

「なのに、ぜんぶ同じなんだ。いつだって」

そこまで言って、ジョナスはふっと笑った。

「わかってます、何を着るかなんて重要じゃないって。そんなのたいしたことじゃない。でも―――」

「選ぶということが重要なのだ、と。そういうことかね?」

(中略)

「だけど今、色が見えるように、少なくとも時々は見えるようになって、僕は考えたんです。もしぼくたちが、あざやかな赤や黄の色のものをさしだしてやり、ゲイブリエルが選ぶことができるようになったらどうだろう、って。<同一化>のかわりにです」

「ゲイブリエルがまちがった選択をする可能性もあるよ」

「ああ」ジョナスは口をつぐんで考えこんだ。

「そうですね、わかります。ニュー・チャイルドのおもちゃならたいしたことではない。でも成長したらそうはいかない、そういうことでしょう?人々に自分で選ばせるなんて、とてもじゃないけどできませんよね」

「ぶっそうで?」<ギヴァー>が言葉を足した。

「とんでもなくぶっそうです」ジョナスはきっぱりと言った。

「仲間を自由に選べるなんてことになったら、どうなります?しかも選びまちがったら?あるいは、もし自分の仕事を選べるなんてことになったら?」

言いながら、あまりのばからしさに吹きだしそうになった。

「ぞっとする事態だ、ちがうかね?」<ギヴァー>が言った。

ジョナスはクスッと笑って、言った。

「ものすごく恐ろしいです。想像すらできません。ぼくたちは何としても、まちがった選択から人々を護らなければならない」

「そのほうが安全だ」

「はい。ずっと安全です」

しかし、会話が別の話題に移ってからも、ジョナスの心には何か満たされない思いが残った。けれども、それが何なのかはわからなかった。

太字は傍点の代わりに使いました。

 

物語の世界に対し、現在の私たちは"選択肢の洪水"の中にいるような気さえします(平成の日本に生まれたからそう感じるのかもしれませんが)。

論理的には、私たちは好きな食べ物を好きな時間に食べられて、好きな服を着られて、好きな場所に出かけたり、好きな本を読んだり、好きなアニメを観られたり、好きな音楽を聴けたりします。好きな学問を学べて、好きな仕事に就けます。論理的には。制度的には。

もちろん現実には様々な足枷・制約・障害が存在します。選択肢があるように見えて、まったく選択の余地なしということも、実際いくらでもあります。

それでも、論理的には選択が可能な世界で、私たちは暮らしています。

私個人の人生を振り返ると、確かに、幾つもの選択肢をその都度選んで今に至っています。習い事、つるんだ仲間、クラブ活動、部活動、選択科目、進学先、就職先。それぞれさらに、辞めるか続けるか、縁を切るか切らないか、変えるか変えないか、どこまでも枝分かれする場合の数。そしてその中から実際に選んできた1本の選択の連なりが、今の私です。

ここまで選択してきた日々は、決して楽ではありませんでした。死ぬほどつらくて泣き続けた日々もあったし、激しい憤怒や絶望、言い表せない悲しみもありました。もちろん嬉しくてとろけそうな日々もあったし、ドキドキしておかしくなりそうなこともありました。そして、正しい選択と、間違った選択の、どちらが多かったかというと、自分でもわかりません。大方正しかった気もするし、間違いだらけだった気もします。

ただ、とにかく楽ではなかったです。もう一度、初めから選びなおせと言われたら、どんなに素晴らしいルートを教えてもらっても「勘弁してくれ」って感じです。なにしろ、選択肢が多すぎます。ギャルゲーや乙女ゲーで、攻略サイトを見て(模範解答を見て)機械的に選択したって疲れるのに、人生の選択なんて、数がその比じゃありません。たった24年でさえそう思います。

もしこの物語の世界のように、生まれた時から何もかも決められている世界に生まれて生きていたら、さぞや楽だったろうなぁと思いました。実際、ジョナスと<ギヴァー>以外の登場人物は、みんな何の苦労もしていません。何の痛みも知りません。それどころか、"愛"も"怒り"も"悲しみ"も、何にも知らないのです。「悲しかった」と言っても、それは実際は"悲しみ"ではない。彼らは感情を持たないのです。

初めから1本しかない道を、何の疑問も抱くことなく歩く。道の終わりも見えている。どこにも危険は無い。

なんて楽なんだろう。

少し憧れないこともありません。ただ、こうして想像すると、どうしても疑問が浮かんできます。

 

そんな人生って、生きる価値あるのか?

 

この疑問は私にとって驚くべきものです。

なぜなら、私は常々「人生に価値なんてない。生まれてきたことに意味も価値もない」と考えているからです。

そんな私が、こんな疑問を抱くなんて。自分で自分にびっくりです。

つまり私は心のどこかで「自分で選ぶことに価値がある。自分で考えて結論を出すことに意味がある」と考えている節があるということでしょうか。

不可思議です。

 

選択はしんどい。選ぶことはそんないいものじゃない。

悩まなくて済むよう、合理的な何か(<委員会>とかなんとかシステムとか)がすべて決めて用意してくれるなら、そっちの方が楽でいい。

そう思う反面、どうしても拭えない違和感。

<委員会>の決定に従い、何も考えずに素直に暮らす大衆への、なんともいえない恐怖と嫌悪。

選択を放棄するのと、自我を手放すのって、なにか似ているように感じます。

私は、選択する世界としない世界、どっちの方がよりよく生きられたのでしょう。

もう、選んでしまているのですが。おわり。