先週、職場の上司に「おすすめの本何かある?」と訊かれました。
その女性主任は普段はそんなに本を読まないらしいのですが、秋だし、最近涼しくなってきたし、何か読んでみたい気分になっていたのかもしれません。
ジャンルは小説とのことだったので、いくつかおすすめをリストアップしたのですが、そのほとんどが学生時代に読んだものでした。
そういえば今の仕事を始めてからアニメと漫画ばかりで本を読むペースがだいぶ落ちていたと思い、この連休に何か読もうと久々に近所の図書館に行きました。
あまり難解な文章を読む気力がなかったので、さらっと読める文体のものがいいと、江國香織の割と新しい作品を手に取りました。
文体は美しくも平易で非常に読みやすかったですが
内容は胸をゆっくり絞りねじるような、切なく哀しいお話でした。
主人公の雛子は50代半ばの元主婦で、現在は高齢者向けの手厚いサポートが受けられるマンションに一人暮らしをしています。
隣室の丹野夫妻の旦那さんがたまになぜか訪ねてくる以外、あまり他人との交流がない雛子。他の住人はもっと高齢な中、異例の若さでこのマンションにやってきたこともあり、雛子は変わり者として距離を置かれているようです。
雛子はしかし、架空の妹・飴子と常に会話しており、あまり淋しい様子は表面上はありません。
飴子は実在する雛子の実の妹で、とても仲の良かった2人ですが、雛子が30代の頃に飴子は失踪してしまい、それっきり会っていません。
雛子の最初の夫との間に生まれた息子の正直は、モデルをするほどの美人妻・絵里子との間に愛娘・萌音が生まれたばかりで幸せの絶頂にいました。
雛子の最初の夫は病死してしまい、再婚した次の夫との間に生まれた次男の誠は大学生で、なかなかハンサムに育ち、これまたなかなか可愛い彼女・亜美と仲良く付き合っています。
父親は違えど仲の良い兄弟の正直と誠ですが、雛子に対する態度は全然違っています。
雛子は誠がまだ義務教育の時に、夫でない男性と駆け落ちして蒸発しています。そのことを正直は心底恨んでおり、今でも許していません。
一方の誠は正直ほど頑なではなく、どこかドライで他人事のようです。
しかし駆け落ちした雛子は、相手の男が自殺したことと妹の飴子にもずっと会えていないことで精神の均衡を崩し、アルコール中毒になり病院に運ばれました。
両親ももう死んでおり天涯孤独の雛子の身元は正直たちの家族へ戻り、病院を退院するタイミングで今のマンションに入居する流れとなったのです。
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こんな壮絶な人生を歩んできて、頭の中にいる架空の妹とずっと話をしているなんて、完全に精神病みたいですが、雛子は自分の幻覚と現実をきちんと分けることができており、発狂もしないし薬も飲んでいないし、お酒も今では少したしなむ程度にとどめているし、そういう意味ではとても強い女性だなと思います。
しかし、雛子はもうどこにも進まないのです。架空の妹と楽しかった昔話ばかりして、これといった楽しみはもうないように見えました。
たまに様子を見に来る丹野氏は、最初は雛子に気でもあるのかと思っていましたが、全然違いました。
穏健な丹野氏は、若かりし頃に車で人を轢き殺してしまい、それを嵐で増水した川に放り込み、翌日もその翌日もニュースにそれらしい死体の報道がなく、殺した人は失踪扱いとなったという過去を持っており、”失踪”というものに人一倍敏感なのです。
だから妹が失踪している雛子を気にかけていたのでした。
誠実で穏やかな丹野氏がこんな過去を持っていることは、この世で丹野氏本人以外誰も知りません。妻の丹野夫人でさえ。
丹野夫人は自分の夫をとても誇りに思い、また愛しています。そして世の中の「妻に暴力をふるったり、子供を虐待したり、お酒やギャンブルに溺れたり、犯罪に手を染めたり」する恐ろしい男性たちを誰よりも嫌悪している潔癖な人です。
自分の夫が人殺しとも知らずに、よその旦那を心の底で蔑んだりけなしたりしている様は、見ているとなんだか意地悪な気分になって少し笑ってしまいました。
この本は雛子の生活を軸に、正直の生活、誠の生活、亜美の生活、丹野氏の生活、丹野夫妻の生活、丹野夫人の仲良しな岸田夫妻の生活が変わりばんこに描写されて少しずつ進むのですが、そこに唐突に異国の小学生・なつきの生活も描かれます。
なつきは東京都杉並区から、親の仕事の都合でカナダに転校しました。現地で友達もでき、勉強も順調な彼女ですが、自分の本当に話したいことを話せる大人がたった一人だけいます。
それは日本人学校の小島先生です。
非常に華奢な体で、トマトもきゅうりも食べられない小島先生こそ、雛子の実の妹・飴子なのでした。
飴子は友達とルームシェアしながら日本人学校で先生をしていたのです。なつきのどんな話もバカにしたりせず真剣に聞くし、秘密を決して親に告げ口しない、なつきから見ればとても粋な先生です。
飴子は異国で元気にやっているのです。
でもその事実を日本にいる誰一人として知らないのです。
今の雛子には、最初の夫も2番目の夫も、駆け落ちして自殺してしまった男も、自分が産んだ息子の正直と誠も、また正直のところに生まれた孫の萌音も、すべてが特に気にかけるほどでもないことなのです。
雛子の今唯一の気がかりは、もうずっと会えていない、生きているのか死んでいるのかもわからない妹の飴子だけです。
カナダにいる飴子は、ミルク紅茶に浸したビスケットをこぼしてしまったなつきを見て笑い出し、こう言うのです。
「知ってる?なつきちゃん」
笑ったまま、笑いのすきまから先生は言った。
「あなたは私に姉を思い出させるわ。ほんとよ、そっくり」
飴子は雛子に会いたいと思わないのか、少し不思議です。
丹野氏が思い切って雛子の妹を探す手伝いを申し出る場面があるのですが、ここがとても心を打ち砕かれるシーンなのです。
「妹は見つからなかったんです」
それで、ただそう言った。
「ええ」
穏やかに、男は相槌を打った。
「でも、その後、たとえばいま、探してみようとは思わないんですか?昔とは違って、いまはいろいろ方法がありますよね、ツイッターだとか、フェイスブックだとか」
雛子は首を振った。
「考えたこともありません。妹は、私がどこにいるか知っています。ええと、つまり、知っていました。そこに私はもういませんけれど、夫と息子はいまもいて、もし妹が連絡をくれれば、必ず私に知らせてくれます。それは確かです。夫は、ごめんなさい、元の夫は、とても善い人ですから」
雛子はいったん言葉を切って、ワインを喉に滑り込ませた。自分が次に口にする言葉から、すこしでも身を守りたかった。
「妹は、私と連絡をとりたがっていないんです」
そう考えることは苦痛だったが、もう一つの可能性を考えるより、ずっと良かった。現実の飴子が、もうどこにも存在していないという可能性を考えるよりは。
この本の中で、唯一雛子の心が怒りで震えるシーンでした。無論、雛子は怒りを露見させませんが、心の底から怒り、そしてそれは疲労に変わり、雛子はつとめて穏やかに、しかし切実に、丹野氏に部屋から早く出ていってほしいと願うのでした。
***
私には少し失踪願望があります。
10代の頃から、誰も自分を知らない場所に身を置いて、一から生活してみたいなぁと、ぼんやりした憧れがあります。
でも冷静に考えて、ただでさえ人見知りで思慮に欠ける私が、異国の地で人脈を築けるはずもなく、またそこまでして逃げ出したい何かがあるわけでもないので、しませんが。
ただ、もし、どこかに逃げたとして、そこで何とか楽しくやっていけるとして、
故郷の誰かと連絡を取るだろうか?
実の親は・・・もう一生会いたくないくらい好きじゃないですし、連絡しないでしょう。
祖父母は・・・彼らが死んでしまったら、葬儀に参列したい気持ちはあります。でも、わざわざこちらから連絡を取るかというと、やはり取らないでしょう。
友人も恋人もいないし、世話になった先輩や職場の人々もそこまでずっと繋がっていたい人はいません。
・・・こうやって考えると、私も飴子のように消えたまま、残された人の苦しみをそこまで考慮せずに、現地で楽しく暮らしていくでしょう。
いや、飴子は能天気に見えて実は考え抜いた結果なのかもしれませんが。
私は今、雛子にとっての飴子のように、幻覚を見るほど会いたい人・大切な人がいないので、なかなか自分に置き換えて考えることができないのですが
それでも雛子が老人ばかりの管理されたマンションで一人、架空の妹とひたすら過去を生きる様を思うと、とても胸が苦しくなり、涙が静かにこみ上げてくるのです。
「たのしみだなー、あした」
と、姉妹の母親そっくりの口調で呟く。そしてピアノを弾き始める。ジグだ。賑やかで速い、素朴で陽気な架空の音がピアノからこぼれ、部屋を満たし、雛子は立ったまま目をとじて、全身でそれを聴きとる。現実には存在しない音の一つ一つが、現実に存在する自分の上に、周囲に、次々降りてきては消えるのを感じる。雪のように、記憶のように。
雛子と架空の妹が、楽しかった思い出を話せば話すほど、読んでて辛くなる最後の描写は、絶望的なまでに美しく軽やかなのでした。
久々に読んだ小説でしたが、最近の涼しくてしっとりした秋雨の夜長にぴったりの、心に残る秀作です。おわり。