れっつ hang out

ひまをつぶしましょう

ひとりで生きるのは怖い:『汝、星のごとく』

結構久しぶりの更新になりました。まだ生きてます。あけましておめでとうございます(もう3月…)。

凪良ゆう『汝、星のごとく』を読みました。

書店で平積みにされているのをよく見ていましたが、今頃読んだという。

面白かったです。山本文緒自転しながら公転する』と少し似たメッセージ性を感じましたが、心に残ったのは別の切り口でした。

 

井上暁海と青埜櫂という二人の主人公が思春期から大人になる過程での波乱万丈が描かれたラブストーリーで、二人ともヤングケアラーで、田舎の閉塞的な環境やワーキングプア、認められない同性婚など様々な社会的問題にも登場人物たちが翻弄される様子は、読んでいて辛い部分もあります。

 

高校を卒業した暁海たちは愛媛の離島と東京という遠距離恋愛を続けますが、次々と起きる生活上の問題やボタンの掛け違いの数々が何年も続いてとうとう破局に至ります。

別れた後も互いを忘れられないまま、それぞれの生活も困難ばかりが続く中、追い詰められた暁海に救いの手を差し伸べたのが、暁海たちの高校時代の恩師・北原先生。彼がこの物語のキーマンだなと思いました。

北原先生はかつて自分の教え子と結婚し、今では結ちゃんという一人娘を育てるシングルファザーです。島民たちの偏見や噂話もどこ吹く風で、飄々として我が道を行く人。そんな北原先生が、人生に絶望し暗がりの浜辺で一人佇んでいた暁海に「ぼくと結婚しませんか」ともちかけます。

 

あまりに突飛な提案に冗談かと思っていた暁海でしたが、北原先生の提案は現実的なものでした。

ーー足りない者同士、ぼくと助け合いませんか。

ーー結婚という形を取れば、ぼくはきみを経済的に助けられますよ。

確かに、わたしの不安や不満の多くは金銭的なものだった。けれど、じゃあわたしは北原先生のなにを助けられるのだろう。わたしとの結婚でどんな良いことを得るのだろう。

ーーこれから先の人生を、ずっとひとりで生きていくことがぼくは怖いです。

ーー先生には結ちゃんがいるじゃないですか。

ーー子は子、親は親です。付属物のように考えると悲劇が生まれます。

そのとおりだった。わたしもその悲劇に巻き込まれたひとりだ。

ーーきみは『ひとりで生きる』ことが怖くはありませんか?

ーー怖いです。

そこははっきりと答えた。会社と刺繍の二足の草鞋でやっと母親との暮らしを支え、けれどどうしたって親は先に逝ってしまう。そのときわたしはいくつだろう。女として衰え、人として確たる仕事も貯蓄もない。なんの保証もなく、ひとりで中年から老後の長い時間を過ごす人生がわたしを待っているかもしれない。健康なうちはまだいいけれど、大きな病気をしたらどうしよう。そんな孤独にわたしは耐えられるだろうか。

考えすぎと言われるだろうか。けれどそれが紛れもないわたしの現実だった。生きるとは、なんて恐ろしいことだろう。先が見えない深い闇の中に、あらゆるお化けがひそんでいる。仕事、結婚、出産、老い、金。闘う術のないわたしは目を塞いでしゃがみ込むしかない。

ーーそれなら、ぼくと共に生きていきませんか。

それは愛や恋とは別の、けれどもなによりもわたしを救ってくれる言葉だった。

 

(凪良ゆう『汝、星のごとく』講談社 2022.8.2)

「ひとりでなくすることができる」ということが価値を持つのだと、この一節を読んで気づくことができました。

私もひとりで生きるのが怖いです。この時の暁海と同じような不安を抱えて毎日生きています。だからこそ、「ひとりじゃない」ことの価値を認識できます。昔はそれができてなかったように思います。

 

もちろん、ひとりじゃなければ誰とでもいいわけではないでしょう。北原先生だって、暁海を愛しているわけではないけど、ほおって置けない一種の好ましさは持ち合わせていたのだと思います。だから結婚を提案したのでしょう。暁海も同じです。

私もひとりでいるのは嫌だけど、誰でもいいから一緒にいたいわけではありません。そしてその誰かを探し当てることができないので、結果としてひとりでいるしかない。

 

ただ、今までは「私には相手に提供できるメリットが何ひとつない」とばかり思っていました。家事はできるけど子供は産めないだろうし、面白い話ができるわけでもないし見た目が美しいわけでも若いわけでもない。

でもそうじゃなかったんですね。私と同じように、ただひとりで生きるのが怖いと思う人にとっては、共に生きてくれるというだけでそれはひとつのメリットなのでした。

 

***

 

久しぶりに物語に引き込まれる感覚を味わえてよかったです。さすが凪良ゆう、って感じでした。

続編が出ているみたいなんですよね。

読もうかなーと思いつつ、蛇足だったらちょっとやだなとも思ったり。同じ理由で三浦綾子『氷点』も続編は読んでないんですよね…。どうしよう。おわり。

怯えながら生きる:『群青の夜の羽毛布』

最近山本文緒大先生のエッセイや小説を立て続けに読んでいます。

その中で、なかなか読み応えがあったのが『群青の夜の羽毛布』。

登場人物が煙草をよく吸う、1995年に書かれた小説のようです。

 

主人公・家事手伝いの毬谷さとる24歳は、電車に乗るのもバスやタクシーに乗るのも怖くてできない神経症の女性です。

さとるがよく行くスーパーで出会った恋人の鉄男は大学4年生で、友達も多いし過去にガールフレンドを切らしたこともない社交的な好青年。そんな鉄男はこれまで付き合ったどの恋人とも違う線の細いさとるに不思議と惹かれていき、毬谷家の女たち(ヒステリックな母親、姉と対照的な活発さと要領の良さをもつさとるの妹・みつる)とも関わっていく中で、徐々に明らかになる毬谷家の闇に近づいていきます。

 

読後感があんまり良くなくて、どよーんとした印象でした。主人公のさとるがとにかく終始くよくよしていて暗くて、読んでいるとそれに引きずられる感じがあります。クライマックスでは大きな破綻もあるのですが、それでも結局浄化されない毬谷家の闇は澱んでいます。

 

私はさとると違って一人で電車にもバスにもタクシーにも乗れるし、外食も一人でできるけど、常に未来に怯えていて、そのくせ何の対策もせずただうだうだ悩むだけの性格はさとるとよく似ている気がしました。

季節だけがどんどん巡るのに、自分はどこにもいけないまま、いろんな悪い可能性を想像しては怯え、憂鬱な気持ちになり、何も対策できずに、気を逸らすために酒(さとるの場合は薬)に逃げて眠りに逃げる。こんなことをしても自分の首を絞めるだけだとわかっているのに。

 

さとるは、恋人である男性に抱かれているときだけ不安を忘れることができるといいます。なんだかそれもだいぶ病んでるなぁと思いながら読んでいましたが、そういう女性(または男性)って結構いるのかなぁとも少し思いました。別にビッチってわけではなくて、でももやもやとした大きな不安から避難するためにセックスする人。

私は残念ながら(?)ちょうどいい相手がいないので検証ができませんが、セックスってそんなに不安解消に役立つんですかね。人によっては筋トレとかヨガとかでもいいのかな。

 

私は最近怯えることに疲れ果てて死にたい気持ちが常に横たわっています。空気の綺麗な田舎に出かけても、花火大会に行って大きくて綺麗な花火を見ても、ずっと面倒くさくて死にたい気持ちが意識の底に寝そべっています。

階段やビルの窓から地面を見下ろす時、私はいつここから飛び降りる勇気を持つことができるのかなと考えることがあります。

踏切を渡る時、私はいつ走りぬける列車の前に飛び出す勇気を出すことができるのかなと思います。

今はまだどちらの勇気も出ませんが、毎日うじうじ何かに怯えて死にたい気持ちに静かに寄り添っていたら、いつかその勇気が持てるのでしょうか。

それとも、さとるみたいに、何か別の形で(父の布団に灯油を撒くとかそういう)感情の発露の仕方があるのでしょうか。

終わりの見えない怖いものだらけの世界で生きることと、そこでもがく人々に思いを馳せるような小説でした。おわり。

『日々是作文』

山本文緒大先生の昔のエッセイを読みました。

おもに90年代に書かれた文章が中心で、その頃山本先生は30代。今の私と同じくらいで、自分と比べるのはいろいろ烏滸がましいとは思いつつも、ついつい比較してしまうのでした。

 

専業作家にはなっていたけど31歳で離婚して横浜の実家でパラサイトシングルとして過ごしていた時期は、子供時代の回想を含め横浜に関する記述がよく出てきました。

山本先生は横浜は所詮はいち地方都市に過ぎないと書いていましたが、それでもやっぱり横浜はかなり都会な方だし、文章全体からそこはかとない横浜愛を感じました。

 

私は先週末、実に3年ぶりくらいに地元に帰省しました。限りなく東北地方といっても差し支えない北関東のその町は、つくづく田舎だな、というか私ってこんなにもド田舎な町で青春時代を過ごしていたのか、と改めて驚いてしまいました。

東京ほどではないにせよ、山下公園も赤レンガ倉庫もパシフィコもランドマークタワーもある横浜で多感な時期を過ごせていたら、さぞ文化的な青春時代を送れただろうと思います。いいなぁハマっ子。うらやましい。

 

***

 

山本先生は大学を出てOLになり、暇つぶしと副業を兼ねて公募ガイドを見て小説を書き始めたといいます。もともと文学少女でもなければ国語の成績が良かったわけでもないとの話でしたが、それであれだけ面白い物語を次々書けるのはまさに才能以外の何ものでもないと思いました。

文学はよくわからなかったけど、人間の心には昔から興味があったとのこと。

私も曲がりなりにも心理学専攻だったので、人間の心に興味がないわけではないと思うのですが、いかんせんあまりに非社交的で人間関係の実践経験が少なすぎることもあり、考えつくこと全てが机上の空論なんですよね。なんだかなぁ。

恋愛もせず、友人もおらず、家族とも交流がない上に特に趣味もない一人暮らしのOLというのはそれはそれは暇です。だけど私はそれで創作活動をしようとは全然思いつきませんでした。

こうして日記を書くのは昔から好きですが、それだって毎日欠かさず書くわけではないですし、ましてや物語なんてプロットのプの字も思い浮かびません。

やっぱり山本先生ってすごいなーと改めて思いました。

 

***

 

山本先生は40代に入ってすぐうつ病を発症して長い間小説を書くことができなくなり、それが全快したと思ったら50代の終わりに末期がんが見つかりそのまま亡くなってしまいました。でもこのエッセイを読むと、実際30代のうちから細かな不調が色々あったように見受けられました。

やっぱり30代から体と心のバランスを取る難易度って跳ね上がるなぁと改めて感じました。私も30を過ぎてから常に何かしらの不調が続いていて毎月どこかの病院にかかっているし、このままいったら私もいつかは大病にかかるのかもしれないと少し覚悟しました。

人生って本当に不条理で、理由なんてなくても病気にかかったり事故に巻き込まれたり「なんであたしがこんな目に」というような理不尽な仕打ちを次々受けたりするんですね。なんていうか、人生ってどうしようもない。

どうしようもない人生を描いた物語も世の中にはたくさんありますが、エッセイというのは誰かの実生活の描写なわけで、やはりリアリティと説得力がより強い気がしました。おわり。

恋愛の唯一性:『孤独な夜のココア』

電車やカフェでのちょっとした空白の時間に短編集を読みたいと思い、田辺聖子『孤独な夜のココア』を手に取りました。

初版が発行されたのは昭和58年とのことなので、少し古き良き時代というか、終始能天気な雰囲気なのがよかったです。

 

私がよく自分に対して「生まれた時代を間違えたなぁ」と思うのはこういう小説を読んだ時で、私も高校や短大を出たら適当な中小企業でちょっとしたOLをやって、適当に結婚して寿退職して家庭に入って子育てに追われたりしたかったなーとか妄想するのです。なんていうか、無思考に幸福になりたかったなと。

この本の中の短編の多くの主人公たちはそんな感じで、彼女たちなりに真剣に考え恋愛したり職場での振る舞いに気を遣ったりしながら暮らしているけれど、自分の人生を自分一人でなんとかしなければという殺伐とした切実さは全然感じられないんですよね。それがいいなぁと思いました。

 

時代背景が今とはだいぶ違うのんびりした恋愛模様が描かれているこちらの本ですが、文庫版の解説は綿矢りさ先生が担当しており、そこに時代を超えたひとつの真実が書いてありました。ほんまにそのとおりですなーと感心。

自分の恋人の男性を見るとき、“普通なら”とか“男なら”という世俗の、一般的な見方をしてはいけない。自分は十分幸せなのに世間のものさしで測って損をしているような気持ちになってはいけない。本作品の主人公たちはそんなこともよく分かっている。

 

田辺聖子「解説 綿矢りさ」『孤独な夜のココア』新潮文庫 S58.3.25)

恋愛に限らず、あらゆる幸福な状態に対して言えることですよね。自分が十分幸せだったら、世間の物差しなんて気にしたっていいことありません。

特に恋愛なんて一種の特殊な熱病みたいなものであり、一回一回が“唯一”と感じるからこそ光り輝いて見えるわけで、誰かといちいち比較なんてしたら台無し、興醒めというものです。

 

まあでも、もしかしたら別に幸福でなくたって、世間の物差しを気にしていいことなんて一つもないのかもしれないとすら思いました。おわり。

『ハッピークソライフ』

すっかり夏になりましたね。

暑いといろんなことがどうでもよくなって、夏のそういう気分が結構好きです。

こんな暑くてダラダラしていたい日にぴったりな漫画が『ハッピークソライフ』。

下ネタ満載のコメディBLなんですが、なんとなく夏にぴったりな雰囲気があります。

引くほど下世話な理由で出世街道から外され田舎町に左遷された粕谷と、粕谷の新居のお隣さんのニート・葛谷が紆余曲折あり一種の友情(ではないかも)を育んでいきます。

 

わたしは夏の寝巻きはこの漫画の葛谷に倣い黒のタンクトップです。粕谷曰く「無職の正装」笑。今は無職じゃないですけど。

 

最近4巻を読んで声出して笑いました。特に神の力で葛谷のムスコをメガトン級の巨根にした話は爆笑しました。ほんとくだらなすぎて最高です。

 

いまふと「もしかしてもうすでに感想書いてたっけ?」とデジャヴに襲われ過去ログ漁りましたが書いてませんでした。はらだ作品についていくつも書いてたので勘違いしたみたいです。はらだ作品にハズレなし。

 

蝉が鳴く蒸し暑い夏の日には、難しいことはなにも考えずに、アホな漫画でただすべてを笑い飛ばしたいものです。おわり。

フランス人に生まれたかったかもしれない

『午前4時にパリの夜は明ける』という映画を観まして。

bitters.co.jp

1981年、パリ。結婚生活が終わりを迎え、ひとりで子供たちを養うことになったエリザベートは、深夜放送のラジオ番組の仕事に就くことに。そこで出会った少女、タルラは家出をして外で寝泊まりしているという。彼女を自宅へ招き入れたエリザベートは、ともに暮らすなかで自身の境遇を悲観していたこれまでを見つめ直していく。同時に、ティーンエイジャーの息子マチアスもまた、タルラの登場に心が揺らいでいて…。

訪れる様々な変化を乗り越え、成長していく家族の過ごした月日が、希望と変革のムード溢れる80年代のパリとともに優しく描かれる。

 

公式サイトより)

フランス人って年齢とか社会的役割とかに縛られず各々が自分自身の人生を生きてるなーって印象を受けたんですよね。

主人公のエリザベートは思春期の娘と息子を持つ母親で、過去に乳がんの手術も経験していて片方の乳房も失ってるんですけど、所帯臭さやしみったれた感じが全然なくて、穏やかで色っぽい一人の女性なんです。彼女の娘や息子も、そんな母親の人間性を自然に受け入れ、尊重しています。

 

日本にもエリザベートたちのような家族がもしかしたらいるのかもしれないけど、少なくとも私は見たことがないです。多かれ少なかれどこの家も”家族然”としてて、そこに性のにおいを嫌う雰囲気がありました。

私と両親、その上の祖父母たちも多分同様だと思います。私のハハと父親は離婚しているし、そうでなくても彼らがそれぞれ恋愛するのは自由だとは頭ではわかっているんだけど、はっきり言ってその内情は全く知りたくないですね。親の恋バナとか聞きたくないです。

 

この映画と相乗効果でもって私のフランス人観を形成したのが、人気パリガイドYouTuber・Ryokoさんのエッセイ『フランス人は生きる喜びを知っている』です。

本の紹介文にあるように、

  • 何歳になっても愛するチャンスを逃さない
  • 10カ月働いて2カ月バカンスする
  • デモ&ストライキ好き。社会より個人優先

という、日本人とは全然違う生き方を体現しているフランス人の話を読むと、つくづく「人生楽しんでるなぁ」と感じずにはいられません。

少なくとも、フランス人に生まれていたら、今より働く時間が少なくて済んだのかなーと思うことが多々あります。別に今も実働ではたいして働いてないんですけど。マインド的に仕事に縛られてる感があります。

 

***

 

先月思いつきでホーチミンを旅行したんですけど、なんかすごく疲れたんですよね。ただのんびりしただけなんですが、上手く休暇を味わい尽くせなかったような気がして。楽しかったんですけど。

「ああ、私は休むことが下手くそになってしまったのかもしれない」と思いました。

20代の頃は、その日の朝に急に機械の故障とかで仕事が休みにになったら喜び勇んで帰宅して即行で準備して新潟に行ったり長瀞に行ったりとアクティブに休日をエンジョイしていたのですが、今では行きたいところもやりたいことも思い浮かばず途方に暮れてしまいます。

 

仕事もクソで、休日もクソなら、ほんと人生がクソですよねー。。

その点、フランス人というだけで人生が充実して見えるのでした。隣の芝が青く見えるだけですかね。おわり。

余命を知った後の生活2:『THE WHALE』

先日観た映画『THE WHALE』もいろいろ考えるきっかけをくれた作品でした。

whale-movie.jp

愛する人との死別などから過食と引きこもりになり重度の肥満症となったチャーリーは、唯一の友人で元恋人の妹であり看護師でもあるリズから、いよいよ自身の余命が近いことを知らされます。

一人でアパートから一歩も出られないチャーリーですが、死期を悟ってから自身のやり残したことに思い至り、疎遠だった17歳の娘・エリーとの絆を取り戻そうとします。

 

この娘のエリーがなかなか難儀な女の子でした。学校に馴染めず、ソーシャルメディアにはメンヘラ投稿ばかりして、一緒に暮らす母親からは「邪悪」と評されるほど性格が歪んでいるのです。

でもチャーリーはそんなエリーの良心を信じたいと願っていて、最期まで希望を捨てないんです。チャーリーはエリーが8歳の時に書いた小説『白鯨』の読書感想文を大事に保管していて、発作が起きた時もその文章を読むことで心の拠り所にしています。

 

エリーは幼い頃は父であるチャーリーを好きだったけれど、チャーリーが男の恋人を作って家族を捨てたことを心底恨んでいるんですね。エリーが今のように邪悪になった要因のひとつはチャーリーにあるとも言えます。生来の気質の可能性もありますが。

 

チャーリーが最期まで、エリーは本当は善良な子であり、彼女の将来は明るいものであると信じたい気持ちは、私の目には自分勝手なものに映りました。自分の余命を知って時間がなくなった人間はみんな自己中心的になるのかもしれないと思いました。それは悪いことではなく、当たり前のことで、むしろそうあるべきだとも思います(だってもうすぐ死んでしまうんですから)。

でもその幻想を押し付けられた、残される側はいい迷惑かもね、とも思います。

 

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この映画で一番怖かったシーンは、いつもチャーリーの家の前までピザを届けてくれる宅配員にある日姿を見られてしまったチャーリーが、苛立ちや羞恥や諦念やその他様々な感情にのみこまれ、吐くまで過食に身を投じる場面でした。本当に迫真で怖かったです。

なんというか…もう感情が暴れて身体を止められないんですよね。自分にも少し身に覚えがあるので、見ていて辛かったです。

 

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チャーリーと元妻・メアリーが久々に再会して、エリーが幼い頃3人で海に行ったときのことを懐かしく思い出すシーンも切なかったです。

過去の幸せな記憶と現在の絶望的な状況の対比が本当に残酷でした。

それでも、幸せだった過去があることはいいことなのでしょうか。もうそれが二度と手に入らず、すべてが崩れ落ちてしまってもはや再起不能になったあとだとしても、過去の幸福はただ今を苦しくするのではなく、何かの救いになりうるのでしょうか。

 

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ほぼ全てのシーンがチャーリーのアパート内の出来事で、登場人物も本当に少数で、それでこんなに感情を揺り動かす物語を撮れることにはかなり驚きました。

余命を知った後の人間のエゴについて再考させられる作品でした。おわり。